四月三日(二)
「あの……あの、声をかけてくれてありがとう」
誠司は、初めてさくらの声を聞いた気がした。高校ともなれば、進級時の自己紹介などは省かれるため、結局同じクラスでも年度末まで会話しない人間も少なくはない。
その高いながらも、どこか落ち着いた声が、誠司の頭の中で反響した。
「……は?」
「学校では何故だか他の人から話しかけられなくて、私ね、自分から話すことも苦手だから……」
少し緊張した様子のさくらの手にはいつもの手帳の代わりに、幕の内弁当が乗せられていた。誠司がそれを凝視していると、さくらはハッとしてそれを背中に隠した。
「もも、もしかして、見えちゃった?」
「幕の内弁当二割引き、までは見えた」
「丸々見えちゃってる……。昼ごはんを食べ損ねてね、お腹空いちゃったから。く、食いしん坊なわけじゃないんだよ?」
恥じらいながら頬を朱色に染めたさくらは、上目遣いをしながら困ったように眉をハの字にした。そのクリクリとした大きな瞳は、何故だか心の奥まで見透かされているような、不思議な感覚を誠司に覚えさせる。
「知ってる。購買で空くのを待っていたら、仕舞いには休み時間が終わるぞ」
「うん。終わるまで待ってたけど、ダメだったよ」
「なっ……!? 本当に終わるまで待ってたのか!」
誠司はしばらく使っていない表情筋を動かし、心ともなく頬を綻ばせる。それを見たさくらもまた笑顔になった。ふと我に返った誠司は、軽く咳払いをして振り返る。
「あ、もうお話はおしまい?」
そんな、残念そうに言うなよ。どう反応したら良いんだ。俺は、嫌われ者のはずだ。
「……今日のところはおしまいだ」
「今日のところ……。じゃあ、学校でも話しかけてくれる?」
背後から聞こえるその嬉しそうな高い声が、誠司をどことなくむず痒くした。期待。その一言が、身体中を駆け巡る。
赤の他人と久々に面と向かって話せた。そんな当然とも思える行為を、この時、誠司は新鮮に感じていた。
「……気が向いたらな」
誠司がその場を後にしようとすると、背後から肩を掴まれた。突然のことにやや顔をしかめながら振り向くと、さくらが清々しいまでの笑顔をこちらに向けている。それから会釈をしたと同時に、栗色の長い髪の毛が上下に揺れた。
「私は大月さくら。さくらで良いよ、よろしくね」
「あ、ああ。俺は秋元誠司だ」
「じゃあ誠司君って呼ぼうかな。良い?」
「……勝手にしてくれ」
「やったっ。誠司君はなんだか話しやすいから、嬉しいよ!」
強引なさくらはすっかり呆れている誠司を余所に、幕の内弁当を片手に持ったまま諸手を挙げてはしゃいでいる。中身は当然の如くごちゃ混ぜになり、見るも無残な弁当もどきと化していた。
「あ、ご飯としゃけと梅干しとマカロニが混ざっちゃった」
軽くため息をついている誠司が、近くの棚にあった中身の整った幕の内弁当を取り、弁当の混ざり具合を確かめているさくらへと差し出した。
「ほら」
「あ、ダメだよ。これは私がやっちゃったことなんだから、責任を取らなきゃ」
「誰も俺達のことなんか見ちゃいないぞ」
周辺の客と店員は、誰一人として二人に注視していなかった。しかしここまで言ってもさくらは、そのぐちゃぐちゃに混ぜられた二割引きの幕の内弁当と取り換えることはなかった。相変わらずの笑顔で、弁当を持っていない左の掌を控えめに突き出している。
「だって、このお弁当を買っちゃった人が可哀想だよ。誰も買わなかったとしても、お店の人が悲しくなっちゃう」
「……心底呆れた。勝手にしろ、お人好しめ」
「うん、ごめん。勝手にするね」
誠司が再び振り返り、今度こそと一階へと続くエスカレータに向かって歩いていく。ふと後ろを一瞥すると、さくらが控えめに手を振っていた。目を瞑りながら、深々とため息をつき、誠司は片手で返事をして、帰途についた。