第1話 ナツの始まり
「修輔くん、どうしたの?」
よく通るハスキーヴォイスが、僕のことを呼んだ。視線を上げると、そこには心配そうな表情をした女性の姿がある。天川香華、僕の義姉さんだ。
テーブルの上には少しコショウの利いたスクランブルエッグとコンソメスープ。そして、おむすび――海苔でランチョンミートを巻いたものだ――が並んでいる。つい、三日前までは考えられなかったほどに、豪勢な朝食の風景だ。
「何か考え事でもしてたのかしら?」
クスっと、何処か子どもっぽい笑みを義姉さんが浮かべながら聞く。僕は手にしたおむすびを齧り、咀嚼してから答えた。
「今朝、変な夢を見てね……」
そう、今朝、僕は変な夢を見た。妙なまでに現実感のある夢を、だ。
その夢の中では、僕は子どもだった。目の前には子どもの僕と同じぐらいの年頃の女の子がいて、それで――僕らは結婚の約束をしていた。
子どもという年齢を考えれば、別に珍しいことではない。子どもの好きと大人の好きは違う。未だに子どもの自覚のある僕でも、それは理解しているつもりだ。
でも、僕にはそんなことを、同世代の女の子と交わした記憶は無かった。そもそも、僕には幼馴染と呼べる女の子が、ひとりいるだけで、子どもの頃でも、同世代の女の子と仲が良かったという記憶も無い。
それに、夢の中に出てきたあの女の子。僕は彼女に見覚えが無かった。
「変な夢、ね……。でも、寝顔は嬉しそうだったわよ?」
僕の言葉を聞いた義姉さんが、そういう。そういえば、今日、僕を起こしたのは義姉さんだった。その時に、寝顔を見られたのかもしれない。そんなに変な顔してたのか?
義姉さんの言葉に、何も言わず。ごまかすためにおむすびを一口齧る。コンソメスープで、それを嚥下する。言葉を飲み込んだ気まずさから、特に言葉を口にするわけでもなく、もくもくと朝食を平らげた。
よくよく考えると、こうして誰かがいる食卓というのは久しぶりのことだ。
両親は、僕が幼い頃から東京で働いているし、義姉さんも、僕が中等部に上がる頃には上京している。つい、三日前に、義姉さんが戻ってくるまで、僕は三年間ほどひとり暮らしを満喫していた。
だから、会話の無い食卓など、もうとうの昔に慣れてしまっている。それに、義姉さんと会うのも会話を交わすのも、ほとんど三年ぶりだ。僕が成長してしまったからか、それとも、義姉さんが、相変わらずお節介焼きでブラコン気味な所があるから。ともかく、気恥しさが先にだって、まともな会話が出来ないでいた。
「あっ、そうそう、修輔くん」
朝食を平らげ、コップに牛乳をついでいると、義姉さんが思いだしたように手を打った。
「今日のこと、忘れていないわね?」
「えっと……親戚の人が来るんだっけ?」
義姉さんが、夕霧島に戻ってきたのは理由がある。どうも、夏休みいっぱい、この天川家で従姉を預かることになったらしい。どういう経緯でそうなったのかは、聞いていないが、義姉さんが言うに、その従姉は、僕が小さい頃に、何度かこの島に来たことがあるらしい。
「それで、なんて名前だっけ?」
「白瀬、葉月ちゃん。歳も修輔くんとそう変わらないわ」
「ふ~ん……」
興味なさげに呟き、コップに注いだ牛乳を一口飲み干す。でも、内心では少し、焦っていた。たとえ、夏休みの間とはいえ、家に自分の義姉以外の異性がいるなんていうのは、心中穏やかではいられない。年頃の男子というのは、気難しいものなのだ。
コップの中身を空にして、立ち上がる。
「あら? もう行くの?」
「ああ、うん。もう迎えが来るんだ。義姉さん、文乃って覚えてる? ほら、僕の幼馴染の」
「小さい頃、よく、修輔くんの背中を追っかけてた娘よね?」
「そうだったっけ?」
「そうよ。今でもそうなのかしら?」
そんな会話をしながら、リビングを出て玄関のドアを開ける。開いたドアの向こう側には、呼び鈴に手を伸ばしたままの姿で固まっている白い制服姿の少女の姿があった。
肩辺りで切り揃えられたショートカットに、やや、つり目気味で挑発的な双眸が特徴的な僕の幼馴染、伊月文乃だ。
「おはよう。文乃ちゃん。久しぶりね」
僕の背後から義姉さんが声をかけた。呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばしていたポーズを解いた文乃は、完結的な言葉を、義姉さんに投げかけた。
「誰……?」
「天川香華、僕の義姉さんだよ。覚えてない?」
文乃は、「そう……」とだけ答えると、頭を下げた。
「お久しぶりです」
「何年ぶりかしらねぇ……。今も、仲良しなのね」
その義姉さんの言葉に、文乃が少し顔を赤くした。それを隠すように、顔をそむけ、僕の手を引っ掴む。
「とにかく、もう行きます。――早く」
その言葉と共に、踵を返し、そのまま僕をずるずると引きずっていく。
「いってらっしゃい」
義姉さんは呑気そうな表情で、呑気そうな口調で、引っ張られる僕と引っ張る文乃を送り出した。
∽
踏み締めると、しっかりとした感触を返してくれる石畳。目に着く建物は、和風でありながら、洋風な雰囲気を持った赤煉瓦造り、石造り。過去には、日本中に存在していたという木造建築の住宅。
夕霧島の全体の雰囲気を一言で表すのに、もっとも相応しい言葉はずばりレトロだろう。前時代的な建築物。それに見合うように舗装された道路――それらが夕霧島を観光地たらしめている要因だ。
しかし、住んでいる地元民からすれば、以外に住みにくい島でもある。理由は、夕霧島自体の立地のせいだ。夕霧島はともかく坂が多い。山の斜面に沿って街が作られているからだ。
僕らが今、歩いている場所は山の麓に当たる場所だから、平坦な道が続いているが、山沿いを歩けばその困難さが身にしみる。坂道自体はどうということはないのだが、一番厄介なのは、『狭くて急』な坂道だ。
僕の知る限り、こうした場所は島の至る場所にある。あまりに急過ぎる場所は階段になっているぐらいだ。そうした立地から、必然的に島での移動手段は限定される。山側の住宅街は徒歩。もしくは自転車。平坦な場所に造られた市街地では、大概の乗り物が使えるが、車の所有数は少なく、かなり昔に廃れたはずの路面電車が未だに市民の足として現役で稼働している。
来るには良いが、住みにくい。夕霧島はそんな島だ。もっとも、島を出ていく人間の数は相対的に少ないらしいのだが。
ふいに、僕の前を歩いていた文乃が歩みを止めた。
「お義姉さん、帰ってきてたんだ」
「うん……。なんだか、親戚の人が来るからって、帰ってきたんだ」
「そう、なんだ」
「それがどうかしたの?」
「ううん、なんでも無い」
そんな、少しの会話の後、文乃は踵を返して歩いていく。僕の少し先を文乃がある気、その文乃の背中を追って、僕が歩く。何故だか、僕と文乃の距離はそんな感じだった。
僕と文乃は幼馴染ではあったけど、その実、長い間、疎遠になっていた。少なくとも、僕は初等部の四、五年辺りから、文乃と一切、会話をしていなかったはずだ。
時を重ねるにつれて、異性の幼友達とまったく会話をしなくなるなんてことはよくあることだし、現に僕も、その時期には、文乃と話をするのが少し気恥ずかしくなっていた。だから、別段、離れていく文乃を呼びとめようとは思わなかった。そういうものだと思っていたから。
でも、つい最近――中等部の三年に上がってからだ。久しぶりに、僕は文乃と会話をした。と言っても、同じクラスになったのだから、話しかけるぐらいは当然だろう。
しかし、僕が文乃に話しかけてきた理由は、普通ではなかった。文乃は、最初、僕に話しかけた後、去り際にこう言い残したのだ。『監視するから』――と。
僕自身、監視される理由はいくらでも思いつく。学校では優等生を気取っているつもりだが、二年の頃、僕はある問題を起こしていた。多分、そのことが原因なのだろう。とは、思う。
しかし、何故、文乃だが僕の監視をするのかは分からない。担任に頼まれたから、クラス委員長だから。という理由があるわけではないらしい。文乃が僕を『監視』するのは、もっと個人的な理由のようだ。
とにかく、そんなことがあって、僕と文乃の関係は再開された。朝は僕の家に迎えに来て、夕方は僕と一緒に帰路に着く。ただ、それだけの関係ではあるけれど。
(昔は一緒に遊んだりしたのにな……)
そう思うと、一抹の寂しさを覚える。あの頃の僕らは男女関係なく、よく遊ぶ友達だった。でも、今は、その性差が見えない壁となって、僕達の前には立ちふさがっている。そんな気がした。
長い長い、学園へと続く坂道。僕らの周りには、僕らと同じように学園に向かう生徒達が何人かいた。その中には、僕らと同じように、男女で通学している生徒達がいた。
しかし、彼らは僕らとは違い、ちゃんと肩を並べて歩いている。
(僕は、文乃とあんな風に歩きたい……のか?)
考えても見なかった感情が湧きあがり、ふと、妙な気分になる。馬鹿馬鹿しい。だいたい、どう見ても、彼らは友人以上の甘い関係に見える。僕と文乃はそんな関係ではないのだ。
(何、考えてんだよ。僕は……)
軽い自己嫌悪に陥りながらも、学園へと続く坂道を歩き続ける。今日の坂道は、いつもよりも、少しだけ長く感じられた。
∽
僕と文乃のクラス――A組には、既に何人かの生徒が来ていた。そんな中、教室の一番端、窓際の最後列の少年が、僕らの姿を見つけると、すたすたとこちらに向かってきた。
「やあ、おふたりさん。また、同伴出勤かい?」
開口一番、口許に微かな笑みを浮かべ、近づいてきた男子生徒はそういった。きちんと纏められた髪は、整髪料でも使っているのか、妙に瑞々しい黒色を放っている。さわやかな印象というよりも、脂ぎった印象を受ける。
この男子生徒は、文乃と同じで、僕の幼馴染の玉城圭人だ。勉強、運動どちらとも得意で、文武両道を地で行くようなヤツだが、唯一の欠点がある。それはオカルトマニアという欠点だ。
同じくオカルトマニア――にわかだけど――の僕が言うのもなんだが、はっきりいって、コイツの思考回路はおかしい。道端に落ちている空き缶を見つけては、宇宙からの飛来物と疑ったり、浜辺に転がった外国の言語が記されたゴミを海底人からの廃棄物と疑ったり。その思考回路のおかしさを実証するエピソードに事欠かない。
「馬鹿なこと、言わないで」
圭人の言葉を文乃が一蹴し、その横を通り過ぎて、自分の席に着く。僕も同じように脇を通り過ぎて、自分の席に向かおうとすると、ガシッと強い力で腕を掴まれると、強引に手近な椅子に、座らせられた。
「で、本当の所、どうなんだ?」
まるで、刑事ドラマに出てくる尋問のシーンのように、圭人の手が動く。ライトを犯人の顔に当てる動作だ。
「どうって……何がさ?」
「伊月との関係をさ。気になるだろう。それに、オレはキミの一番の親友だという自負がある。だから、教えてくれないかい。親友だろう? 幼馴染だろう?」
爛々と目が輝く圭人。これが女子だったら、恋愛の興味のあるお年頃とか言えるが、圭人の場合は怖い。彼に話したら最後、数分後には学園中に広まり、尾ひれがついて、ついには文乃と二人で、島を追われそうな気がする。
「別に、なんともないよ。僕と文乃は幼馴染で、家が近いから一緒に来る通学してくるってぐらいだ」
「ふん、つまらないな。もっとこう、艶のある話はないのかい? 実は昨晩からずっと、伊月と一緒にいて、朝、一緒にコーヒーを飲んでから登校してきた。とか、伊月は顔に似合わず、はげし――」
圭人の言葉が途切れ、僕の顔の少し前を拳が通り過ぎる。全力で振り切った拳だったのだろう。風が僕の前髪を揺らした。
「何、言ってんの? アタシと天川がそんな風になるはず、ないじゃん」
ドスの利いた低い声。僕の鼻先をかすめたのは、文乃の全力の拳だった。一方、拳を向けられた圭人は、素早く身を屈め、拳を回避していたようだ。
「いきなり殴るとは、穏やかじゃないな……。オレじゃなかったら、死んでいたよ?」
「多分、アンタなら死なないわ。だから、何度殴っても良いの」
「オレだって、れっきとした人間だ。だから、その振りかざした拳は下せ!」
芝居がかった調子で、圭人がバッと両手を広げる。何事かと周りの生徒達が、圭人のほうに視線を向けた。さすがに文乃も、これにはどうしようもなくため息をつくと去って行った。
去っていく文乃を見送りながら、圭人は外国人のように両手を上げて、“やれやれ”のジェスチャーをした。
「ふぅ……。乱暴だね? キミのカノジョは」
「だから、違うって」
「ふふっ……まあ、そういうことにしておいてやろう」
意地の悪い笑みを浮かべた後、急に目つきを変え、圭人が聞いてきた。
「そういえば、修輔。キミに貸したアレは、もう観たのかい?」
突然、変わった話題に少し混乱しつつも、先日、圭人から借りたあるディスクのことを思い出した。恐らく、その事だろう。
「ああ、うん……。観たよ」
圭人は僕に顔を寄せると、耳元で囁いた。
「どうだった?」
「なんだか、良く分からなかった」
「まあ、そうだろうな。オレにも良くわからんし」
僕と圭人は、しばし無言のまま思案を巡らせた。圭人から渡されたディスクの中に入っていた映像というのは、恐ろしいほど端的に言えば、何処か地上の映像だった。
飛行機か何かで空撮されたもので、荒野の映像が淡々と映し出されたものだ。ただ、それだけで、分かることと言えば、撮影者が酷く興奮した様子だということぐらいだ。それも、早口の英語なので、何を言っているかは分からない。
だが、その音声の中でいくつか聞き取れた単語がある。そして、その中には信じがたい言葉が含まれていた。『Mars』――つまり、火星だ。
人類が、宇宙に進出する術を得て、既に三十余年の月日が流れたが、公式発表上、人類は未だに地球以外の別天体への、有人飛行による到達は無い。とされている。
だが、圭人が言うには、人類は既に、地球以外への天体の有人到達を成功させ、されには別星系への入植さえも行っているというのだ。そんなサイエンスフィクションのような理論の証拠として持ち出されたのが、件の映像ディスクだった、というわけだ。因みに出自は不明。一体、何処から入手したのやら。
「確かにつまらん映像かもしれない。だが、あれでも一応、地球以外の大地の映像だぞ? 面白いとは思わないのか?」
「本物なら、だろう」
僕の言葉に、圭人は少しおかしな表情をしてから、「本物さ」と意味深に呟いた。それと同時に担任の八百井教諭が入ってくる。
八百井教諭が教壇に立つと、それまで雑談に興じていた生徒達が、蜘蛛の子を散らすように自分の席へと戻っていく。圭人も、同じように自分の席へと戻っていった。
教壇の上から教室を見渡し、生徒達が全員、席に着いたか。あるいは欠席がいないかを確認し、ていねいに咳払いをしてから、八百井教諭は口を開く。
「それでは、号令を」
「きりーつ!」
日直の号令と共に、椅子を引きずる音が教室中に響き渡り、全員が立つ。続く「れいっ!」の号令で、頭を下げ、「ちゃくせーき」の号令で椅子に戻る。もう何年間も繰り返してきた動作だが、今日を最後にしばしの別れとなる。
「では、出席を取りますよ。相川さん」
「はい」
「天川くん」
「はい」
淡々と、無感情に八百井教諭が名前を読み上げていき、クラス全員の出席が確認される。出席確認が終わると、八百井教諭は自分の仕事は終わったとばかりに、教壇から降り、黒板の前に用意されていた椅子に座る。
しばしの静寂が教室を包んだ後、スピーカーからノイズが漏れ、ひび割れた放送委員の声が聞こえてくる。
<これより、夕霧学園一学期終業式を開始します>
夕霧学園の終業式は、教室の中で行われる。他の島の学園では、講堂や体育館など、一ヶ所に集まって行うことが多いらしいが、夕霧学園では、何故か一学期限定で、生徒達が移動することなく、こうした方法で終業式が行われる。
なぜ、このような形で行われているかは不明だが、少なくとも、「伝統」の一言で片づけられてしまうほどには、長い歴史があるらしい。
<それでは、学園長の御言葉です。学園長、どうぞ>
スピーカーの中で、放送委員がそういうと、マイクに何かが当たったような音がして、ノイズが漏れる。そのノイズが収まってから、静かな妙齢の女性の声が聞こえてくる。
夕霧学園の中等部に上がって、この学園長の声を聞く機会が増えたが、どうにも、この声は人の眠気を誘うのに適した音らしい。ゆっくりとした話し方も相まって、その破壊力は絶大だ。
こうして、教室にいて話を聞いているだけの終業式だが、存外キツイ。退屈に負けて、居眠りをしようものならば、担任がすぐにやってきて叩き起こされる。そして、終業式が終わった後、漢字の書き取りやらなんやらのプリントを渡され、それが終わるまで帰れないという懲罰が待っているのだ。
だから、真面目に聞く――少なくとも、真面目に聞くふりをする。といっても、この学園長の言葉はたいてい同じことの繰り返しだ。それどころか、一字一句同じことが言われるので、実は、この言葉は全て録音で、流そうと思えばいつでも流せるのだ。という噂が学園内にはあったりする。
(まあ、別に。適当に聞き流しているふりをすればいいんだし――うん?)
ふと、背後から視線を感じた。黒板の前に陣取っている八百井教諭の様子をうかがいながら、そっと後ろを振り向く。すると、斜め後ろの席に座った文乃と視線があった。
それに気が付いたのか、文乃は慌てて視線をそらした。
(なんだ……?)
文乃の行動に疑問を覚えながらも、視線を前に戻し、学園長の放送を聞いている振りを続行する。……本当に、なんだったんだ?
∽
学園長の言葉が終わると後は全て流れ作業だ。何かしらの表彰を受けたクラスメイトが教壇の前で、八百井教諭から賞状を受け取ったり、夏休み前恒例の通知表の受け渡しが行われたり、その成績に一喜一憂したりする。そうして、何事も無く、終業式は終了した。
終業式が終わり、半ドンであることを良いことに、クラスメイト達が我先にと、帰り支度を済ませ、教室から出ていく。僕はそんな中で、取り残されるように、ゆったりと帰り支度をしていた。すると――
「おい、修輔」
名前を呼ばれると同時に、肩を掴まれる。振り返るまでも無く、僕の肩を掴んでいる人物の正体が分かった。
「何のようだ?」
肩に乗った手を振り払いながら、振り返って、圭人に聞く。圭人はまるで、愚問だな。とでも言わんばかりに、顔の前で人差し指を立て、チッチッチッと左右に揺する。
「今日から一ヶ月弱の長期休暇になるんだ。使える時間は有効に使わないと。」
とどのつまり、夏休みの予定を決めよう。という話らしい。お互い浮いた話の無い者同士。この長期休暇中は、学園生活から解放される時間であるが、同時にある種の退屈さを感じる時間でもある。その時間を潰してくれる――そして、僕に宿題の答えを提供してくれる――相手がいるならば、それに越したことは無い。
「で、具体的には何をするつもりだ?」
「愚問だなぁ。人類の――ひいては、世界の謎を解き明かす。それがオレ達の役目だろう?」
何かに陶酔したような表情で、両手を広げる圭人。周囲のクラスメイト――特に女子が――また始まったよ。という表情で、ひそひそ話をしている。
圭人はこうした、長期休暇があると、必ずと言っていいほど。「世界の謎を探求する」などと言って、僕を誘ってはおかしなことをする。たとえば、去年の夏休み。僕は圭人のおかげで大変な目に遭わされた。
圭人も、僕の表情からそれを察したのだろう。少し苦い表情になって、
「ああ、分かっている。さすがにあれはやり過ぎたと思っている。反省しているさ」
などと、のたまってみせる。誰のせいだ、誰の。
「まあ、ともかくだ。今回のテーマはこれだ」
そういうと、圭人は持っていた一冊の本を机に叩きつけるように置く。そうして、にやりと笑みを浮かべた。
「修輔。キミも聞いたことあるだろう。夕霧島に伝わる伝説を」
「お前に掛かれば、今日の僕ん家の昼食でさえ、伝説に早変わりするよ」
圭人の言葉に突っ込みつつ、ある昔話に思い当った。まあ、実際には圭人が言うような大層な物ではなく、島の老人達が子どもに語って聞かせるような、昔話の類だ。
曰く『遥か太古に沈んだ大地の話』だ。確か、その大地の名前は――“ニライカナイ”とかいう。
いまだに、にやにやとした表情を保っている圭人が手にしている本のタイトルはしっかりと『夕霧島郷土史』と書かれているのだから、圭人の言う“伝説”とやらは、その“ニライカナイ”の話で間違い無いだろう。
「それで、まさかとは思うが……」
「そういうことだ。オレはこの夏、“ニライカナイ”の伝説に関して調べてみようと思う」
圭人はさらに、口角を上げて笑みを深める。だが、ニライカナイは“沈んだ大地”なのだという。つまり、それを探すということは――
「なぁ、やっぱり、また潜るのか?」
「いや、潜らん。それ以前に、ダイバーの資格が無いことが露呈したせいで、僕らは潜水用具を借りられない」
どうやら、昨年の事件のせいで、僕らは学校側から厳重注意されただけではなく、島中の大人たちから要注意指定を受けているらしい。
「それに、だ。確か宿題として、自由課題が出ていただろう?」
確かに圭人の言う通り、今年の夏休みは自由課題として、この夕霧島に関することのレポートの提出を要求されていた。もっとも、初等部で言うところの『自分の住んでいる町のことを調べましょう』レベルのものだが。
「僕らは世界の謎に迫れる。そして、夏休みの宿題もこなせる。一石二鳥の作戦だと思わないか?」
「まあ……去年みたく、危険なことが無ければいいよ。今年は義姉さんも帰ってきているし」
「ほぅ、香華さんが帰ってきていると?」
「ああ、三年ぶりにね。なんでも、親戚が僕の家に来るとかで、戻ってきてるんだ」
「ふむ、そうか……?」
今の今までいやらしい笑みを保っていた圭人だったが、急に表情を変え、思案顔になる。そして、教室の中を見渡すと、何かに気づき、教室から出ていこうとする。
「あっ、おい!」
「少し待っていてくれ。今から、他のメンバーを呼んでくる」
「他のって……誰を巻き込んだんだ?」
「人聞きの悪いことを言うな。利害の一致だ。では、ちゃんと待っていろよ」
圭人が教室から出ていくと、途端に周囲が静かになったような気がした。見渡してみると、既に教室の中には誰もいない。
「早く帰ってこいよ……」
僕はひとりごちて、椅子に座り、出て行った圭人の帰りを待つことにした。
∽
「さぁ~て、さっさと白状しちゃいなさい。文乃」
夏の午後の暖かい風が駆け抜ける。太陽の光を防いでいる木々の葉っぱが、ざーざーと音を立ててこすれ合う。私、伊月文乃は、何故か、中庭に設けられた木陰のベンチに連れ込まれていた。
私の隣で、人懐っこい笑顔を振りまいているのは、クラスメイトの萩野瑞穂だ。ふわふわとしたクセっ毛とくりくりと愛らしい大きな双眸が特徴的な少女で、私の一番の親友でもある。
「一体、何のこと?」
平坦な口調で答えつつも、内心では動揺していた。瑞穂はそれを見透かすように、クスクスと鈴を転がすような笑い声を上げた。
「何のことって……天川くんのことだよ?」
その言葉に、私はもう無駄だと思い、観念してため息をついた。
「いつから、気づいてたの……?」
「いつからも何もさ、なんとも思ってない異性を、家まで迎えにいったりはしないでしょう?」
「うっ……」
私が修輔を家に迎えに行くようになったのは、3年に上がってから――つまり、最近になってからのことだ。その事で、クラスメイトにからかわれるようなことも無かったし、何よりも、修輔はともかく、私のことなんて、クラスの連中は眼中にないはず。だから、バレていないと思っていた。
自分のうかつさを呪いながら、頭を抱えていると、ふいに声がかかる。
「まあ、そんなことよりもさ。文乃はどうするの?」
「どうするのって……?」
顔を上げると、そこには真剣なまなざしの瑞穂の顔があった。瑞穂は、真剣な表情で、私の肩に手を置き、言い募る。
「天川くんと距離を縮めたくはないの?」
瑞穂の言葉に、私の心が揺れた。
確かに、瑞穂の言う通りだ。私は修輔との距離を縮めたい。今年、同じクラスになれたのも、何かの運命だと思った。でも――結局、私は何も出来ないままだ。
他のクラスメイトみたいに休み時間中に、楽しく話せるわけでもない。ただ、遠巻きに見ているだけ。そんな自分が、この夏休み中に距離を縮められるのだろうか。
でも、どんな怖くても、私の想い――修輔のことが好きだと言うことは事実だ。
子どもの頃から、ずっと。今の今までこの感情を持ち続けてきた。そして、それを言い出せずに苦しい思いもしてきた。
言ってしまえば、楽になれる。でも、修輔は私の事をどう思っているのだろう。それが分からない。もしも告白して――失敗してしまったら?
そう考えると、たまらなく不安になる。今までずっと、大事に抱えてきたこの想いを、ひとたび晒して、それを否定されてしまったら。私はたぶん、立ち直れない。それどころか、修輔への想いを断ち切れなくなるかもしれない。そうして、ずっと、この感情を引きずって行ってしまうかもしれない。
思考のスパイラルにハマりかけていた私を救いだしたのは、瑞穂だった。
「文乃。あなたは、天川くんが、自分のことをどう思っているのかって、不安なんじゃない?」
そのものずばり、言い当てられた。半ば、反射的に頷き返すと、瑞穂が言葉を続ける。
「だったらさ、この夏休みを、天川くんの気持ちを確かめる期間にすればいいんじゃない? ちょっと、卑怯な気もするけど、文乃は傷つきたくないんでしょう?」
「うん……」
「なら、それでもいいじゃない。そうやって、天川くんの気持ちがはっきりと分かったら、告白しよう。でもね――」
瑞穂は言葉を切って、私に視線を合わせる。その表情は真剣そのものだった。
「苦しくない、辛くない恋愛なんて、何処にもないよ。だから、文乃。乗り越えなきゃ、どんな風な恋愛をしてもいいけど、それだけは忘れないで」
その言葉に、私は気圧された。だから、冗談めかしの言葉を、瑞穂に返した。
「なによ。その、“経験者は語る”みたいな言い草は」
「ふふふっ、まあ、経験者じゃなきゃ、分からないこともあるわね」
そんな話を終えて、教室に戻ろうというと、ベンチから立ち上がった時、渡り廊下の手すりに腰かけていた人物が手を上げた。
「お取り込み中みたいだったから、待たせて貰ったよ。もう、終わったのかい?」
その人物、玉城圭人は手すりから飛び降りると、ゆっくりと近づいてくる。
「悪いとは思うけど、さっきの話は聞かせて貰ったよ。なるほど、やはり、そういうことだったのか。水臭いな、伊月も」
ベンチの余ったスペースに、無理やり割り込むようにして圭人が座った。それも、私の隣に、だ。
まるで、頭の中が火にかけたヤカンのように沸騰したような気分になった。今の話を聞かれた。それも、一番、知られたくない人物に。コイツ、玉城圭人に秘密を知られたということは、もう――
「消すしかないな……」
ぼそっと、心の中の呟きが漏れる。暑いはずの夏の午後なのに、周囲の気温が少し、下がったような気がした。
私の呟きを耳聡く聞き取ったのか、圭人が、距離を取った。両手を目の前に出して、自分の身を守ろうとしている。
「まあまあ、抜いた刀は治めたまえ。それよりも、キミにとっておきの話を持ってきたんだが、興味は無いかな?」
無い。という言葉が口から出かかった瞬間、つんつんと私の肩を瑞穂が叩いた。振り向くと、何やらアイコンタクトで指示を出してくる。
(コイツの話を聞けってこと?)
こくり。瑞穂が頷いた。
なら、瑞穂の言う通りにしよう。私は端的に「話して」とだけ言うと、圭人がしたり顔で頷きながら、話し始めた。
「伊月、キミも知っているよな、夏休みの宿題として出題されているレポートの件を」
「ええ」
「で、だ。このレポートは個人からグループ単位での提出も認められている。後は――言わなくても分かるな?」
圭人の言いたいことはさっぱりだ。ただ――なんとなく、コイツがロクでもないことを考えているんだろうということは理解できた。正直、こんなヤツと一緒に、レポート作成をするなんて、嫌だ。
拒否の意味を込めて、私はベンチから立ち上がり、そのまま校舎の中に戻ろうとしたとき、ふいに腕を掴まれた。
「ねぇ、文乃。チャンスだと思わないの?」
振り返ると、瑞穂が真剣な表情をして、私の腕を掴んでいた。
「どういうこと?」
「文乃、ニブイね……玉城くんがレポートをグループでレポートを作成するって言ってるんだよ? ということは、間違いなく、天川くんも一緒についてくる」
確かに、瑞穂の言うことももっともだ。圭人は、事あるごとに、修輔のことを巻き込みたがる。だが、今回も、修輔が一緒にいるとは――。
「ねぇ、玉城くん。今回も、天川くんと一緒?」
「ああ、そうだとも。萩野も参加するかい? 参加すれば、キミにもこの島の、ひいては世界の謎を解き明かすという栄誉が与えられるぞ?」
「そうねぇ……私は、文乃が参加するなら、参加してもいいわ。文乃はどうするの?」
勝手に話が進んでしまった。だが、まあ、それはいい。結果的に、今回も圭人は修輔と一緒だということが分かったのだから。
しかし、問題はコイツだ。玉城圭人は、学園でも――それどころか、島でも名の知れた変人だ。コイツと一緒に行動すると、どんな評が、自分に下されるのか。考えるだけでも怖い。
だが、結果的に今年の夏休み中に、修輔との距離を縮めるということは、必然的にコイツと一緒にいなければならなくなる。どう考えても、コイツは夏休み中、修輔を引っ張り回すことだろう。そうなれば、修輔に会える時間は少なくなる。修輔の想いを探る時間なんて、無いも同然だ。
自分の評判を取るか、それとも、自分の想いを取るか――そんなもの、秤にかけるまでもない。私は迷わず、
「分かった。一緒に、レポート作成をするわ」
自分の想いを取った。
「ふっ、それでこそ、オレの幼馴染、伊月文乃だ」
「アンタのことはどうでもいいけど、大勢でやった方が、効率も良いし、発表の手間が省ける」
「まあ、なんとでも言えばいいさ。ああ、そうだ」
ポンと、圭人が手を叩く。すると、瑞穂の方へと歩いていき、なにやり二、三言言葉を交わす。
「伊月、オレは萩野と少しばかり相談がある。キミは教室で待っている修輔と一緒に帰っていてくれ。詳しいことは、萩野を介して、メールする。それでは」
それだけ言い残すと、二人は木陰のベンチを出て、校舎とは反対の方向へと歩いていく。残された私は一人その場に立ち尽くし、二人の影が見えなくなると、仕方がなしに、そのまま校舎の中へと戻った。
(修輔と、レポート作成か……)
そう考えると、心が沸き立つようにうきうきしてきた。そんな、妙なテンションのまま、私は校舎の中に入り、修輔の待つ教室へと向かった。
∽
低く唸るようなエンジン音と船の船体が波をかき分けて進む音が混じり合う。ふいに、それよりも大きな音が船内に響き渡った。何事かと、近くにいた初老の男性に聞いてみる。すると、それは船が島に接近する際の合図のようなもので、“汽笛”と言うらしい。
「ということは、もうじき島に着くんですね?」
訪ねた初老の男性が頷くと、私はいてもたってもいられずに、狭い廊下を駆けだした。
すれ違う船員や乗客の方々に迷惑そうな表情をされながらも、階段を上り、上に急ぐ。出口が近くなると同時に、磯の香りが強くなる。その香りに急かされるようにして、階段を駆け上った。
階段を上り終わると、開けた場所に出た。船首に設けられた甲板だ。甲板には、私と同じように徐々に近づいてくる島を見ようと、出ている人が何人かいる。
私は、駆けてきた興奮のままに、船首甲板の一番先の部分に駆け寄ると、手すりを掴んで身を乗り出し、近づいてくる島影を見た。その島はとても大きく、山に沿って建物が作られ、海岸線などの平地の部分には、より大きな建物が密集している。
「此処が、夕霧島……」
“島”という言葉から、私は、もう少しこぢんまりとした物を想像していた。しかし、この夕霧島は一大都市と言ってもいいぐらいの規模がある。もしかすると、私の故郷の街よりも大きいかもしれない。
「はぁ……」
どんどんと迫ってくる島影に、思わずため息が漏れてしまう。なんというか、この島には郷愁を感じるのだ。全く知らないはずなのに。
「なんだか、とても暖かい感じ……。自分の家に戻ってきたみたいな感じがします」
ふいに、そんな言葉が口を突いて出た。もしかすると、此処には人の暖かさが満ち溢れていて、やってくる人たちにその暖かさを分けてくれる。そんな場所なのかもしれない。
ボォー――もう一度、“汽笛”が鳴った。さっきまで遠くにあった島影は既に近くにあり、近くのスピーカーから、船長の声が聞こえてきた。
「本船は、夕霧島に到着いたします。皆さま、短い船旅でしたが、お楽しみいただけたでしょうか? それでは、皆さま。夕霧島での観光をお楽しみください」
スピーカーはまだ、何かを言っていた。でも、私には聞こえなかった。ただ、魅入られたように、迫ってくる島影をじっと眺め、これからの時間に想いを馳せていた。
∽
暑い午後の日差しが、じりじりと照りつける。学園を出た僕は、既に家路についていた。
あの後、結局、圭人は戻ってこなかった。代わりに、教室に戻ってきたのは、文乃で、何処かで圭にあったらしく、戻ってこないと告げられた。
そして、いつも通りに、僕らは家路についているのだが――どうにも、文乃の様子がおかしい。口数が少ないのはいつもことだが、今日は輪に掛けて、口数が少ない。それなのに、何故か、嬉しそうな雰囲気を、文乃から感じる。
(そういえば……)
ふと、文乃が先ほど、ぽろっと漏らした言葉を思い出した。どうにも、圭人は文乃のことを、僕らのレポート作成に誘ったらしい。他にも、萩野さんがいるとかなんとか。まあ、それが、そんなに嬉しいことなのだろうか。
(考えても、埒が明かないよな……)
ゆっくりとした歩調を保っている文乃に、僕は足早に近寄り、背後から声をかけた。
「なあ、文乃――」
背後から声をかけた瞬間、文乃の肩がびくっと揺れた。
「なっ、何……?」
「どうかしたの?」
「なんでも、ない……。ただ、夏休みのレポートのことを考えていただけ」
「ふ~ん。そういえば、僕らと一緒にやるんだっけ、レポート」
「そう、何か文句ある?」
微かに、文乃の表情が変わる。先ほどの、恥ずかしがっているような表情から、怒ったような表情に。どうにも、この話題は地雷だったらしい。
それっきり、僕は何も言い出せなくなり、無言のまま、道を歩いていく。やがて、僕の家に前に、もうすぐ辿りつく。というところで、文乃は突然、歩みを止めた。バツの悪い気分だった僕は、下を向いていたので、突然止まった文乃の背中にぶつかった。
「どうしたの、文乃――」
立ち止った文乃は、僕に何かを示すように、前を指差した。文乃の指先にあったのは、人待ち顔で、僕の家の玄関前に佇む、少女の姿だった。
歳は、多分、僕らとそれほど変わらないのだろう。軒先の蔭に入って、暑い日差しを防ごうとしている。
ふいに、少女が、僕らの方に振り返った。その瞬間、僕は、彼女から目が離せなくなっていた。
ぱっちりとした黒目が印象的な双眸。暑い夏の日差しに暖められた風に揺られる長い黒髪。彼女の姿と夢の少女の姿が、重なって、消えた。
少女は、ジッと自分のことを見つめている僕に何も言わずに、恭しく頭を下げた。
「あの、すいません。此処は天川さんのお宅でよろしいのでしょうか?」
こくりと、僕は頷く。すると、少女は、ほほ笑んで言葉を続ける。
「ああ、でしたら、アナタが天川修輔さんですね? 私は白瀬葉月と申します。どうぞ、よろしくお願いします」
白瀬葉月と名乗った少女が、もう一度、恭しく頭を下げた。僕は、彼女の姿に、夢の中の少女の姿を幻視したまま、何も言うことが出来ずに、ただ、立ち尽くすばかりだった。