プロローグ 夢の中で
風が吹き抜けた。夕暮れ時の夏の風は、午後のようなうっとうしい熱気をはらんだ風とは違い、微かな柔らかさを感じさせる。
『ねえ、しゅうすけ君。しゅうすけ君は、好きなひとっているの……?』
ふいに目の前の女の子が呟いた。その幼い体躯によく似合った。まだ、あどけなさの残る舌足らずの声で。
長い黒髪を風に弄ばれながら、女の子は何処か必死な表情をしている。夕日の色の加減のせいか、頬が赤く見える。いや、夕日のせいではないのだろう。彼女は明らかに、頬を赤く染めていた。
僕の言葉を待つ間、彼女は落ち着きが無い様子で視線を彷徨わせている。もう、言い分け出来ない。そう思い、僕はしっかりと、彼女の言葉に対して、頷き返した。
『う、ん……。いるよ』
その言葉を聞いた瞬間、彼女の双眸が微かに揺れた。表情を曇らせ、顔をうつむける。やってしまった――と、僕は思った。俯いた彼女の足元に黒い染みが点々と刻まれる。傾きかけた夕日の光が、女の子の涙を、きらりと輝かせた。
(違うんだ。そうじゃない……。僕は君のことが好きなんだ。だから、それを言おうとして……)
頭の中に、そんな言い訳めいた言葉が浮かぶが、泣きじゃくる彼女の姿を見てしまっては、何も言えなくなる。僕は黙ったまま、ただ、時間が過ぎるのを待った。
『――じゃないよね……?』
ふいに、耳朶を打つ声。風にかき消されてしまいそうなか細い声が聞こえた。顔を上げると、彼女は眸の端に涙を溜めながらも、しっかりと双眸を開いて、僕の事を見つめていた。
『わ、わたしじゃ、無いよね……? しゅうすけ君の、すきな、人……』
僕を見つめる、涙にぬれた黒い双眸に期待の色が宿る。僕はしっかり、強く頷いた。
『うん、ぼくは……その、キミの事が……好きなんだ。だから――!』
だから、僕は明確な形でそれを表現した。子どもだった僕には、好きな人間に言うべき言葉は、これしかないと思っていたから。
『だから、ぼくと結婚しよう』
『けっ、こん……?』
プロポーズだった。何のひねりも無い、ただ、直接的なプロポーズだった。
『そうだよ。結婚。好きな人同士が結婚すれば、いつまでも一緒にいられるんだよ』
『でも……』
言い淀んだ彼女は、少し困った顔をした。
『結婚は、大人にならなくちゃ、出来ないんだよ?』
その事実を僕は知らなかったわけじゃない。だから、僕はこう返した。たとえ、子どもでも。結婚することが出来る方法を。
『じゃあ、結婚の約束をしよう。これなら、ぼくたちでも出来るよ……』
『結婚の、約束……?』
『そうだよ。えっと……。そう、“こんやく”って言うんだよ!』
『なら、“こんやく”しよう……』
『うん!』
女の子がすっと、小指を差し出す。その意図を理解した僕は、彼女の小指と自分の小指をからませて、リズムを取るように上下に腕を振った。
『ゆ~びき~り、げんまん~♪ う~そついたら、はりせんぼんの~ます♪ ゆびきった!』
たった数秒で済む約束の儀式。でも、子どもにとって、それは重大な意味を持つことだった。なにせ、約束をやぶったら、針を千本も飲まなくてはならないのだから。そして、この儀式は、子どもにとって、名状しがたい拘束力を生む。絶対に破ってはいけないのだ。
からませていた小指が離れると、少女はとびきりの笑顔を見せた。そこには、さっきまでの悲しみはなく、ただただ嬉しいという感情だけが、表情一杯に広がっていた。
『約束だよ? しゅうすけ君、嘘だったら、許さないよ?』
女の子がそういい、珍しく怒った風に頬を膨らませる。普段、見せることの無い彼女の表情に、不思議と笑いがこみあげてきた。
『あっ、笑った! ひどいよぉ~。しゅうすけ君は、いじわるだ』
今度は拗ねた表情。しかし、彼女がそういった瞬間、急速に何かが“覚めていく”のを感じた。
茜色の光と暖かい風に包まれていた世界は一転し、周囲の景色が急速に白んでいく。風の音は無くなり、ただ、無音だけがそこに残った。
一面の白に包まれていく世界の中で、女の子の笑顔だけは、最後までそこにあった。
――絶対、約束だよ?――
女の子は笑顔でそういうと、その笑顔さえも白にかき消されてしまう。全てが白に飲み込まれ、薄れていく意識の中で、僕はふと、あることに思い当った。
あの娘は、いったい誰なんだろうか――ということに。