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「……やっぱり、成長しちゃってるかな」
学校のフェンスに開いた穴につっかえた胸を見て黒羽聖は嘆息を吐く。
「一年前まではすんなりと通れたのに」
このフェンスの穴。かつて遅刻しそうになったこの学校のOBが当時の教師の目を盗んで開けたものらしい……穴が真四角なのは気のせいだろう。
そんな経緯もあってか、今では遅刻者の秘密ルートとなっている。
突然に呼び出されて、当然に遅刻してしまい、必然に閉まっていた校門を前にした聖は、先人に習ってこのルートを選んだのだが、結果はこの通りだった。
「みんな羨ましがってるけど……この胸で得した例が無いんだよね--んしょ、んしょ」
Yシャツをまさぐってフロントホックのブラを外し、制服のブレザーを大胆に膨らます豊満な胸を大きく押しつぶす。
弾力に富んだ柔らかさの球体が平たく広がり、地面と大きく密着する。
前屈した体が前に進むとともに胸の双丘の形が崩れる。
下に向いた頂点を、腕で体をそっと持ち上げて双丘がぶら下がる。
「ん―-―-」
地面と聖の胸の頂がこすれて背筋を走るモノで白磁の頬が高揚し、再度胸を地面に押しつぶす。
さらに前進して、胸部を通過する。
「フゥ……」
赤面した顔を冷まし、匍匐前進で腰の部分を通過する。
(ここまで来れば後は楽――――う)
鼻歌交じりに進んでいると、油断していた聖の臀部に固い感触――――フェンスの先が触れる。
しかも胸の時よりも――――
(イヤ、イヤイヤイヤ……)
イコールの意味を深く考えず、そのまま穴を抜け出して学校に向かう。
*
「お分かり頂けましたか?」
「……」
話せる範囲内で一部始終を葵は話し、和洞田は拍子抜けしたように、気怠げな眼を見せていた。
「話して頂けませんか?」
「……アレとは、先週の土曜の夜に、清水峠で出くわしたんだ」
「清水峠?」
「アイツがよく現れる峠の一つだよ。結構郊外で、今はあまり使われてない旧公道。金曜と土曜の夜によく現れるらしくってな。カーブが多くて、本当ならオレ等のホームグラウンドだったんだが……」
「……負けてしまったと?」
「……」
「失礼。聞き流してください」
葵のばつの悪そうな表情を見て、和洞田は眉根を寄せながら鼻白み、話を進める。
「……確かにかなりの腕前だったよ。本来はオンロードには向かねぇソードフィッシュ、しかも直立形態で難なくカーブコースを制覇しやがった」
「そうなのですか?私はあまりA・ホイールには詳しくは無いのですが」
「ああ。あんな車高の高い機体で、何であんなコースを走ってんのか、理解出来ねぇ。足元を確認しずらいし、ロールも激しくて悪酔いしちまう」
「つまり……ペイルライダーは自分に不利なコースをあえて選んでいると?」
「そうなるな。それでも軽く走っちまうあたり、化け物だよ」
「そのペイルライダーが乗るA・ホイールの特徴は?」
「……ちょっと待ってろ」
和洞田はベッドの脇の棚からメモ帳とシャープペンを取り出した。
メモ帳にシャープペンを走らせる。
「ほらよ」
メモ帳から紙を破り、葵に絵を見せる。ソコには、かなり正確に描写されたソードフィッシュのスケッチが書かれていた。
「ありがとうございます。では、他のお仲間の方々にも……」
「いねぇよ」
「え?」
「他の連中はもう退院しちまったよ。派手にやられはしたが、言うほど酷いケガ負わされたわけじゃ無いんだよ。俺の足も自分のA・ホイールを落とされたときにやっちまったヤツで、直接のケガじゃない。ケッ、手加減したつもりかっての。胸糞わりぃ」
和洞田は悪態をつきながら、苦虫を噛み潰したように渋面を深めた。
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コレ以上は収穫は無いと踏んで、葵は病院を後にする事にした。
病院を出て、駐車場に入った時、事は起きた。
葵のV8の周りに数人が囲んでいるのを、葵は確認した。
「オイ、何を――」
葵が歩み寄った瞬間、口を噤んだ。
V8を囲む数人の内の一人が、男の腕に首を回されて身動きを取れずにいた麻紀であったからだ。
「スンマセンッス……天ヶ瀬さん」
太い腕で首を絞められ、苦しそうに麻紀が呻く。
「……何のつもりだ」
「イヤなぁ」
詰め寄って来た白人が吐き出した言葉は全くの英語だった。
よく見れば、他の男達も白人ばかりで東洋人は一人もいない。
男は集団の中で一番大柄で、二メートル近い逆三角形の体。並ぶと葵が子供のように見える。
「お前達、ペイルライダーに付いて調べているだろ」
「それがどうした」
葵も英語で相対した。
「困るんだよ、そんな事されちゃ。ペイルライダーについて、うろちょろされちゃこっちが迷惑だ」
「何の――」
いきなりだった。
真横から白人の男の拳が、葵の頭に真横から直撃した。
鈍い音と共に繰り出された、金槌で殴られたような大きな拳の一撃に、葵は大きく身を揺らした。
葵は真横からの衝撃を踏ん張って、立ち尽くす。
「ごちゃごちゃ言われるのも面倒だから言われる前に言うけど、さっさと消えな」
「……お前等に何の権限があってそんな事が言えるんだ」
「うるせぇ」
今度は下から衝撃。
大きく蹴り上げた右足が脇腹に叩き込まれる。
棍棒のような太い足の衝突に葵は勢いを防ぎきれず、真横に軽く吹っ飛んだ。
「天ヶ瀬さんっ!」
麻紀が叫び、男が首に回す腕を更にきつく締め上げる。
大柄の男は倒れた葵の下まで歩み寄り、前髪を無造作に掴んで、葵の頭を持ち上げる。
「死ぬ前にさっさと帰って消えろって言ってんだよ。一々突っかかるんじゃねぇ」
葵は歯を食い縛り、鋭い眼光で男を睨み付ける。
「……何だその目は。大体、日系人の非力な体格で、オレ等にかなうワケがねぇんだ。そんな事もわかんねぇ程、日本人の頭はお粗末なのか?」
男の放つ言葉の一つ一つが、葵の神経に触れる。
非力な体格?
かなうワケがない?
そんな事で強さが決まったりしない。
何より、こんな体格だけでデカい態度を取る輩が死ぬほど嫌いだ。
葵は苛立ちで、頭に血が登りつつあった。
だが、捕まった麻紀の姿が、手を上げる事を躊躇させる。
「それに、そんな細い体で偉そうな事ぬかすんじゃねぇ。なんなら、もう生意気な事言えねぇような体にしてやろうか?」
そのまま男は立ち上がり、髪で頭を持ち上げ、無理やり立たされる。
葵の懐には一丁の自動拳銃がホルスターに収まっている。
ランス武装社員の個人所有の為に支給されたH&K USP。SATでも使われている、葵にとっては馴染みの自動拳銃だ。
だが、許可が下りてないから発砲は出来ない上に、本格的に人質を盾にされる恐れがある。この場で銃を出しても状況を悪くするだけだ。
何より、それを使えば“素手では適わない事”を認めた事になる。
葵のプライドは、それを許さない。
――こんなヤツに……。
血液が沸騰しそうな程に苛立ちは募りつつあった。
爪が食い込む程に拳を握り締めながら、葵は男をキッと睨む目を一層強くした。
「テメェ……」
葵の鋭い目に、男は一瞬怖じ気だつが、すぐに顔を引き締め、拳を振り上げる。
「――!?」
男が葵に拳を振り下ろそうとした瞬間、男の後ろで声にならない悲鳴が響く。
麻紀の首に巻き付いてた男の腕に、麻紀が小さな口で思い切り噛み付かれていた。
腕の肉を噛み千切る勢いで、男の腕に麻紀の白い歯が食い込んでいく。
男が怯み、腕の力を緩めた瞬間、腕から頭を引き抜いて、手早く男から離れる。
「いつまでも、天ヶ瀬さんの足手まといでいるつもりは無いッス!!」
「テメェ――」
――激しい音が鳴った。
男達が麻紀に振り向いた瞬間、車が猛スピードで正面衝突したような鈍く激しい音が一瞬、場を満たした。
駐車場だから、車が事故を起こしたのかと思ったが、違った。
男達が振り向いた瞬間、目に映ったのは錐揉み状態で吹っ飛ぶ大柄な男の姿と――。
「あ、天ヶ瀬さん……?」
――足を振り終えた天ヶ瀬葵だった。
唯一前を向いていた麻紀は、事の一部始終を目撃していた。
男達が、麻紀の方を振り向いた時、男の腕から葵の髪が離された。
その瞬間、飛びかかるようにノーモーションで葵の足が振り上げられ、蹴りが男の体を“持ち上げた”。
葵は、言うほど体格に恵まれたワケでは無い。
中肉中背で、鍛え上げられてはいるがスマートな体躯だ。
そんな華奢で細い足が、三回りも大きい男の体を一瞬浮かせたのだ。
だが、それだけの威力はあったと麻紀は感じた。
振り回された連接棍のような一撃は、大柄の男の頭に当たった瞬間、空気を揺るがして男の顔を完全に歪めた。
物理現象をねじ曲げたかと想わせる冗談のような出来事の一部始終がこれだ。
だが、有り得ない話ではなかった。
特殊工作部は、ずば抜けた実力を持つ専門家の集まり。
チームでは十分発揮しきれない実力を持ち、よりシビアな単独行動の任務を任された者。
そう言った者は大抵、かなり特殊な技能の持ち主か、その分野に置いて“とんでもない異才”だったりするのだ。
「ナイスだ。駿河」
振り終えたを下ろす。
大柄な男がアスファルトに倒れ込み、サンドバックを落としたような轟音が響く。
倒れた瞬間、男の口からポロリと白い物がこぼれ落ちる。確認したら、それは血がまとわりついた奥歯だった。
「これでやっと、憂さが晴らせる」
凍てつかせるような鋭い眼光で、葵は男達を見据えた。
「ふざけんなっ!!」
男達が一斉に襲いかかる。
最初に襲いかかった男は、懐からコンバットナイフを振り抜き一直線に突きつける。
「私は昔、警視庁SATに在籍していた。そこまでの道のりは遠かった」
葵は使い慣れた日本語で話し始める。
向かって来たナイフの弾道を手の平でそらし、そのまま男の懐に進む。
そして、足を振り上げ男のこめかみにエンジニアブーツの爪先を正確に打ち込み、男を吹き飛ばす。
「機動隊の訓練でのイビリは凄まじかったよ。私がキャリア持ちで機動隊に入隊したのが気に食わなかったらしい」
もう一人がナイフで斬りつけて来る。
迫るナイフをたん、と軽くたたらを踏んで回避する。
避けて足を地に踏んだ瞬間、そこにまた一人がナイフを突きつけて来た。
「体格にも恵まれてなかったからな。訓練は地獄の責め苦のようだった。体の痛みで眠れない日もあった」
「freeze(動くな)!!」
その声に振り向き、最後に一人残った男を見る。
男は隠し持っていた拳銃の銃口を、葵に向けていた。
息を荒げ、勝ち誇った目で葵を見る。
葵は、物怖じをせずに、変わらぬ涼しい顔で、ただ見ていた。
ただ、男の目を見据えていた。
じっと。
男の目を。
鋭い眼光で。
「……」
黙り尽くす二人。男は動いた瞬間に撃つ意気込みで、銃のグリップを握り締め、銃口は葵を睨む。
「――あっ」
男の後ろを見て、驚いたように葵は声を漏らした。
「――っ!?」
仲間が来たか、それとも警察が駆け付けたか。
そんな予想が走り、男は素早く後ろを振り向く。
だが、振り向いてもソコには誰もいない。
遠くで歩く通行人ぐらいしかいなかった。
男は呆けたように疑問を浮かべたが、すぐに意識が途切れた。
男が振り向いた瞬間、葵の後ろ回し蹴りで放たれた踵が男を後ろから襲いかかる。
木槌で叩かれたような鈍い衝撃が男の頭を突き刺し、男は真横に倒れ込んだ。
「――今思えば、あの時の経験が、私を此処までにしたんだろう……にしても、あっさり引っかかったな」
何事も無かったように、着崩れたスーツを直す。
「天ヶ瀬さんっ!」
V8の影に隠れていた麻紀がネクタイを直す葵の下に駆ける。何故かそこら辺で拾ったような太い木の枝を手にしていた。
「お前、そんなので戦おうとしてたのか?」
「そんな事より、天ヶ瀬さんは大丈夫何ですかっ!?」
「対した傷じゃない。ちゃんと受け身は取ったさ。それより、さっさとこの場から離れるぞ」
「へ?」
「周りが騒がしくなって来た。病院の真ん前で、女性が人質に取られて、男が一方的に暴行を受けていたんだ。通報されて当然だろう」
遠巻きが騒がしくなって、パトカーのサイレンが近づいているのがわかった。最後は銃まで出て来たのだ。それが引き金になったのだろう。
「早く乗れ」
「ハ、ハイッス!!」
何故か敬礼して、麻紀はせかせかとV8の助手席に乗り込む。
葵が座席に座った瞬間、予想通り助手席に食べカスが散らばっていたのに葵は眉根を歪め、駐車場を後にした。