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6

「広野さん」

 呼びかけられた美代は小さく肩を震わせた。しかし顔を上げない。純は彼女の肩に手を置いて辛抱強く話しかける。

「誰か呼んで。ヤタカでもトキワでもいい、仲間を」

「……呼べない」

 呻くように言う美代の手にはやっと取り出した文庫本が開かれている。

「呼べないんです」

「呼べない?」

「光ってないんです、文字が。誰の文字も」

 書司が物語から登場人物を呼び出す際、呼び出せる相手は実力によって限られる。その相手を描写した部分や台詞が書司の目には金に光って見える。

 光らない、それは呼び出せないことを意味している。

 一瞬表情に焦りを滲ませた純はそれを押し隠し、自らのウエストポーチから文庫本を一冊取り出した。それを見て美代は硬直する。

「彼なら呼べる?」

「彼……って、」

 それはたった今目の前で消された相棒、生更が描かれていた物語だった。

 純の相棒、紅炎は生更と媒体が同じだ。紅炎を呼び出すための本を数冊持ち歩いていれば、当然そこから生更を呼び出すことも可能となる。

 しかし美代は青ざめた顔で首を振った。

「だって、……この生更は、彼とは違うのに」

 たとえ同じ登場人物を呼び出すとしても、元になる本が違えばそれは別人である。純の本から生更を呼んでも、その生更は美代のことを知らない。

「確かにそうだ」

「なら、」

「彼はもう帰ってこない」

 普段と違って容赦のない純の言葉に、美代は涙が滲んだ目を見開いた。その表情を見つめ、純は僅かに目を細める。

「僕もこれまでに何人も相方を失ってきた」

 二人の傍に佇立し戦況を睥睨している紅炎も話を聞いているのだろうが何も言わない。

 恐らく彼らは、自らは使い捨てられる運命だと知っている。代わりはいくらでもいるということも。

 だが彼らは協力する。

 書司は物語を愛する、また物語に愛される者である。

 その資格を有する者だけが戦える。

「それでも僕たちは戦わないといけない。――守れるのは僕たちしかいないんだ」

 そして純はまた別の本を開いた。使うことは少ない三冊目である。普段ならば紅炎だけで事足りるが今回はさすがに乱丁本が多すぎる。

 立ち上がり、美代に背を向けて本を開く。

「レファ、」

 しかし呼ぶことはできなかった。

 「魔法の呪文」を口にしようとした瞬間、視界が急激に暗くなり平衡感覚を失う。思わずしゃがみこんだ際、一瞬輪郭が崩れた紅炎が振り返るのが見えた。

「佐々木さん!」

「……僕ももう、おじさんだな。体が保たない」

 悲鳴をあげた美代は自嘲の響きを帯びた純の言葉に唇を噛んだ。

 今、どれだけの書司が命を削りながら戦っているのだろう。どれだけの本が我が身を差し出しているのだろう。どれだけの人数が、冊数が失われたのだろう。

 呼べないなどと言っている場合ではないのだ。

 美代は未だ光を失ったままの文庫本を見下ろした。

 力ずくでも、呼ばなければならない。

 もう誰も生更のような目には遭わせたくないのだ。

「……誰か」

 呪文はもう忘れていた。

「誰か助けて!」

 ――印刷技術が日本に伝わった頃、印刷物が破れて現れた文字の化け物に襲われた者がおとぎ話に助けを請うたのが書司のそもそもの始まりだと言われている。

 その時代にはまだ、彼らを呼び出すための手順は確立していなかったと考えられている。正式な手順など必要なかったのだ。

 文庫本の活字が一斉に光った。その中から一塊だけが舞い上がる。

 ――苛烈な力はあまりに純粋で主たる彼女すら焼き尽くそうとする――

 光を失いながら活字の一つ一つは色を変え質量を得て、人型を形作った。そうして物語の中の人物はこの世に現れる。

 彼女は目を開けた。穏やかに凪いだ茶の瞳が美代を捉える。

 誰が答えてくれるのか、そもそも誰かが答えてくれるのかどうかも予期していなかった美代は凍り付いていた。ようやく身を起こした純もまた、目を剥いている。

「……呼んだか?」

 訝しげな、柔らかなアルトの声に膝が砕けそうになるのを気力で防ぎ、美代は彼女と目を合わせた。

「はい」

「助けてほしい、と?」

「そうです」

「どうすればいい」

「……姿が安定していないモノと、黒い霧を、斬ってください」

「ん」

 周囲を見回した彼女は唇を舐め、おもむろに襟元から首飾りを引き出した。それを美代に示して問う。

「枷だ。幾つ外すか、選んでほしい」

 玉、管玉に混じって黒い勾玉が五つ並んでいる。

 彼女が生みの親に与えられた力はその性情に乗せるには大きすぎ、我を忘れた瞬間彼女は呑まれて、壊れた。勾玉は、彼女をかつて捕らえた男が施した枷だと作中では語られる。

「五つ全て外せば世界を消せる」

 彼女に慕われたその男は既に亡い。

 そして彼女は、信頼する者に枷を託す。

 その重圧に美代は唇を引き結んだ。誤れば彼女は破滅を呼ぶ。しかしここで彼女に一番信頼されているのは美代だ。多かれ少なかれ書司はいつもその責を負う。

 己の読解力を信じるしかない。

「一つで十分です」

「わかった」

 頷いた彼女は勾玉の一つに手をかけ、無造作に引いた。一瞬の抵抗の後紐から外れたそれを美代に手渡す。持ち主の手が離れた瞬間、勾玉は色を失った。

「預かっていてくれ」

 言うなり、彼女は数歩踏み出していた。鞘走りの音もさせずに抜いた太刀にまとわりつく白金の炎が薄墨色に変わる。そして一体を斬り捨てると同時に、伸び上がった炎が周囲の数体を巻き添えにした。流れるような動作の終盤、紅炎を認めて微笑する。

「紅炎も来ていたのか。行こう」

「いや、……この二人を置いては行けない」

「そうか。では彼女を頼む、私は少し遠出するから」

 言い置いて、彼女は人混みに踊り込んだ。押し包まれる直前、ふっと真顔になるのが見えた。その周囲で黒い炎がいっそう凶暴にのたうった。

「……今の」

 純の呟きに、美代は強張った頬を動かして笑顔を作った。

「……ビギナーズラック、ですかね」

「ビギナーズラックで春宵呼び出されたらたまったものじゃないよ!」

 悲鳴じみた声を上げた純だが、視線はまだ先程の少女――春宵が去った方向に向いている。

「こちら側の世界で彼女を見たのは初めてだ……」

 春宵は生更や紅炎が登場する物語に登場する。作中では同程度の戦闘力を持つもう一人と並んで最強と称される登場人物だ。ベテランの書司であっても呼び出せる代物ではないと言われている。

「しかも、広野さん」

「はい」

「呼んだ? 彼女の名前」

「呼んでませんね」

「何が起きたんだいったい……」

 額を押さえてぼやいた純は、ふと寂しげに笑った。

「……彼の口添えかな」

 聞いた途端表情を歪めて俯いた美代の頭に、そっと手を乗せる。

「生更は彼女のお気に入りだったからね」

「……ありえないです、だって、違う本だし、……私のせいで、消されたのに」

「手を貸してくれるはずないって?」

 純の手の重みに任せて、美代は頷いた。大きく温かな掌がゆっくりと頭を撫でていく。優しい感触に視界が涙でぼやけた。

「読解が足りないな」

「……え?」

「彼はそんな人だった?」

 思わず顔を上げると、見つめていた純と目が合った。

「読解は大事だよ」

 それだけ言って、純は立ち上がった。涙を乱暴に拭い、美代もまた立ち上がる。

「……さすが、と言うべきか」

 呆れたように紅炎が呟いた。

 群をなしていた乱丁本は明らかにその数を減らしていた。数に押され気味だった書司らは確実に巻き返している。霧が砕ける度に春宵の姿が垣間見えた。

「体調は?」

「平気です。全然疲れません」

 美代が答えると、純は心底不思議そうに首を傾げた。

 見通しの良くなった路上で周囲を見回し、刀を納めた春宵は美代のところへ駆け戻った。もう自分は必要ない、ということらしい。

「無事か」

「はい。あのこれ、」

「ありがとう」

 美代から勾玉を受け取り、春宵はそれを元通り紐に通した。瞬間勾玉は元の色を帯びる。透明感のある黒だ。

「紅炎のことだから怪我はさせないだろうが、見知らぬ紅炎だから少し心配だった」

 あっさりと言い放った春宵に、紅炎は諦めたような顔をした。

「わかってたのか」

「お前は私の知っている彼とは違う。そうだろう?」

「その通りだ」

「何の説明もなしに戦えなんて言ってすいませんでした」

 とんでもないものを呼び出してしまった、と体を縮めて頭を下げる美代に春宵は笑いかけた。

「謝らなくていい」

「でも」

「貴女のためならやってもいいと思ったんだ」

 これが物語に好かれるということか。

 その事実は生更のときにも体験していたが、警戒心も強く扱いが難しいであろう彼女のこの様子に美代は半ば呆気にとられた。

「ありがとう」

 しかし気を取り直して言うと春宵は柔らかく微笑んだ。

 「世界と同い年だというのに言動は娘の域を脱さない」と作中では描かれるが、控えめに浮かべたはにかむような笑みは確かに無邪気だ。思わず見惚れる。

 その笑みを消し、春宵はふと空を見上げた。

「……何か来る」

「え?」

「虫の羽音……にしては大きすぎる」

 春宵が呟いたときにはまだ美代の耳には届かなかったが、次第に大きくなる音が聞こえてきた。周囲の建物の窓ガラスがびりびりと震え始める。

 やがて耳をつんざく爆音が頭上を通過した。たまらず耳を押さえていた美代は、見上げてげっと呻いた。

「トンボ!?」

「大きいな」

 春宵は人に似た姿をしているが生更や紅炎と同じ生き物だ。人間よりよほど耳はいいはずだが塞ぎもせずに見上げている。

 そのトンボは機械じみた轟音を響かせ、ちょうど書司頭が集まるようにと書司らに指定した書店の前の路面に着地した。その背中から飛び降りる人がいる。それを見て純が声を上げた。

「加賀さん!」

 加賀文冶。書司頭その人だった。

 いつもと同じようにスーツを着、上着の下に着けていたウエストポーチから文庫本を取り出した彼はそれを開く。巨大なトンボは金に光る活字に還元され、ページに吸い込まれていった。一瞬無防備になった彼に滑り寄る二群の黒い活字に、文冶が振り返るより先に春宵が駆け出す。

 抜いて投げた太刀は一体の中心を貫き、中央で鈍く光っていた題名を砕いた。その勢いのままアスファルトに突き刺さる。

 投擲した太刀の行方を見届けずに春宵は姿を変えていた。発光も煙もグロテスクな途中経過もなく、時間にすれば走る動作の途中で地面を蹴り着地するまでの一瞬でしかない。いたって自然に、するりと人間の姿をやめる。

 彼らにとってそれは当たり前の能力、日常の一部分なのだ。

 成人男性ほどの大きさの黒い狼。それが彼女のもう一つの顔である。

 変化した次の一歩で、狼は跳躍した。恐れる気配も見せず黒い霧に頭から突っ込み、核をその口に捕らえて噛み砕く。ほぼ同時に活字の群は急激に薄れ、消えた。

 書司頭はどの書司よりもその物語にも愛される。

 金の瞳を爛々と光らせ、周囲を警戒して唸る狼の頭に文冶は手を置く。すると春宵はぱたぱたと尻尾を振った。

 その様子に、美代は消えてしまった相棒を思い出していた。

 彼は黒い狐の姿を持っていた。けれどそれをこの世界で直接目にすることは結局なかった。人型のまま、いつも助けてくれていたからだ。

 きっとその瞳は、人型のときと変わらず素直で雄弁なのだ。毛皮はどんな感触だっただろう。どんな仕草を見せてくれただろう。

 蔑まれ忌まれたその黒を愛でたら、どれほど喜んでくれただろうか。

「春宵は、加賀さんに呼ばれたのかな」

 純の呟きに、美代は自らの掌に目を落として答えた。

「私が呼んだことは確かです。……ちゃんと彼女と繋がってるから」

 あえかな感触は彼や他の仲間を呼んだときと似ている。

 それが失われる感触もまた覚えている。

 離すまいと、美代は両手を握った。

「でも、……加賀さんに惹かれたから、来てくれたのかもしれません」

 春宵は文冶を知らないはずだが、躊躇せず傍に駆けた。今も嬉しそうに目を細めて寄り添っている。

 美代と純の手首にはめられた白い腕輪が緑に点灯した。次いで文冶の声が聞こえる。彼が自らの腕輪を口元にかざしているのが見えた。

『終わらせる』

 それぞれの相棒を連れ、あるいは失い、書籍化された犠牲者と仲間を抱え、その場に集まった者たちの腕輪にその声は伝播する。

 幾多の視線が書店に集中した。文冶もまた書店を振り返る。空気が強ばっていく。

 自動ドアが開くモーター音がいやに大きく聞こえた。

 そしてパーカーのフードをかぶった人影が軽やかな足取りでそこから現れた。小脇にハードカバーを抱え、ひょいとフードを取って周囲を見回す。

 文冶と瓜二つの若い男。

 『切り裂きジャック』、加賀言冶である。

 古書の街を襲った唯一の犯人であり、本を傷つけては何十人もの人々を本に変えてきた犯罪者。

 一繋がりの振動が空気を揺らした。

 その言葉の意味を捉える前に、込められた感情に美代は竦みあがった。一声だけではない。堰を切ったように書司たちの間から言葉が投げつけられる。一際近くから聞こえた声に振り返れば、純も言冶を睨み形相を変えている。

 詫びろ謝れ土下座しろ殺す死ね地獄に堕ちろ犯罪者鬼畜人殺し貴様のお前のあんたのせいで

 一歩後ずさった美代の背に紅炎が寄り添った。色を失った顔で見上げれば彼もまたひどく苦い表情をしている。

 呪詛の集中砲火を浴びる中心で文冶に相対し、言冶は表情一つ変えていない。文冶もまた、何事か訴える春宵と言葉を交わしながらも言冶を見つめている。

 紅炎は知っている。春宵もまた。

 言冶に浴びせかけられる言葉は生更が浴びせられていたのと同じだ。

 故に美代は妙に混乱した。非があるのは言冶だとわかっているがいわれのない非難を受けていた相棒を思い出してしまう。

 正しいのはどっちだ。

「もうやめろ」

 文冶の平坦な声に、呪詛が止んだ。

「やめないと言ったら? ここで一戦交える? せっかく最強レベルの子がいるんだし……文冶が呼んだものじゃないにせよ」

 ますます剣呑さを増す春宵から簡単に視線を外し、言冶はちらりと美代を見た。美代は体を強ばらせたがろくにその反応も確かめず文冶に向き直る。

 文冶は一冊の本を取り出していた。題名はついていない。それを見て、あ、と言冶は声を漏らす。

「本にされたとはいえ彼らには意識がある」

 被害者の一冊であるそれを示し、文冶は努めて淡々と続ける。対して言冶は動揺をあからさまに面に出していた。顔色を失い、本を見つめている。

「彼女に会うか」

「……文冶、お前、彼女に」

「全部話した。お前のしていることも、理由も」

「そんな、」

 言冶の引きつれた声が全員を黙らせた。

「……なんで」

「お前がそれを彼女のためと言うなら彼女自身に判断してもらおうと思ったからだ」

「文冶お前それがどんだけ酷なことかわかって、」

 言冶が声を荒げる。文冶はそれを遮った。

「自分のやっていることがそういうことだとわかってやっていたんだな。彼女には知られたくなかった、それが証拠だ」

「……そういうことじゃ、」

 文冶は本を開いた。

 かつては人として存在していた、そして強制的に人をやめさせられた被害者を、呼び戻す。

「レファレンス――山河七恵」

 ページに並んでいた意味を成さない活字の羅列がすべて浮き上がり、他の登場人物の誰よりも濃い存在を構成する。彼らも所詮は架空の存在であり、いまだ意思を持ち姿を変えて実在している人間に敵うことはない。

 それは十歳ほどの少女だった。人外ではない、特殊能力を持つわけでもない、ごく普通の少女はその姿のまま時を止められていた。

 言冶はくしゃりと表情を歪めた。

「……山河さん」

「大きくなったんだね、加賀くん」

 あどけない声は歳不相応に大人びている。

 人間のままでいれば彼女も文冶や言冶と同じ歳になるのだ。

 いっそう苦しげな顔をした言冶は、その表情を強張った苦笑に変えた。

「山河さん」

「なに?」

「僕を許さないで」

 少女の視線が僅かに揺らいだ。

「……当たり前でしょ」

「そっか」

「そうだよ。そりゃ、寂しかったけど、だからって……お母さんやお友達や、他の人まで、連れてくることなかったのに」

 少女の声が震え始める。言冶は彼女に近寄ろうとする素振りを見せたが、半歩踏み出しただけで立ち止まった。棒立ちのまま少女を見つめる。

 少女が零した涙が頬を滑り落ち、中空で消えた。

 その涙も彼女を構成する活字が見せているものに過ぎない。

「私のせいで、みんな、」

「山河さんのせいじゃないよ」

 しゃくりあげ始めた少女を前に、言冶は突然それまでの表情を一変させた。

 これまで見せてきたのと同じ、底の見えない無邪気な笑顔。

「全部僕が勝手にやったことだ」

「……でも」

「山河さんのためだとは一言も言ってないよ?」

 少女が目を見開く。文冶が眉根を寄せる。言冶は楽しげに口端を吊り上げる。

「本にされても人の意識は消えない。仲間内で話ができる。本を開いてもらえれば生身の人間と意志の疎通もできる。そして本という体が朽ちるまで生き続けることができる。紙とインクは条件さえ揃えば人体よりも長持ちだ」

「……何が言いたい」

 文冶が低く呟いた。言冶は饒舌に続ける。

「人の意識を他の媒体に移し、人間の寿命の限界を超えて生き続ける――SFじゃない。現実に、不老不死は実現できる。人間は不老不死を手に入れ、人体を持つ人間は数を減らし、食糧問題も資源問題も環境問題も解決される。実現すれば素晴らしいと思わない?」

「それはもう人間とはいわない。強制的に人間をやめさせることが正しいとでも?」

「人間は増えすぎた。その上人間は不死を望む。それを解決するのが正しくないとでも?」

 文冶の声が冷ややかになるにつれ言冶の言葉は弾んでいく。

 双子の応酬を少女の声が遮った。

「……正しくても正しくなくても、私は許さない」

 そう言い切り、文冶の手から自らの本体である題名のない本を取った少女は言冶の目の前に立った。言冶も真顔になり少女を見下ろす。

 唇を引き結んだ少女は開いた本の両端を両手で握った。双子が目を剥き、止めようと手を伸ばす。それを待たずに少女は本を引き裂いた。

 大きく破損した本がばさりと音を立てて路面に落ちるのを待たずに彼女の輪郭が崩れる。色彩は黒一色に塗りつぶされ体は活字に還元され、暴走する言葉はあるべき形に戻ろうと器を探し、目の前の人間に襲いかかる。

 手を伸ばしていた言冶は、その黒い霧を抱き締めた。刹那文冶と目が合う。

 言冶は悲しげに顔を歪めて笑っていた。

 その姿が掻き消える。活字の霧が吸い込まれるように一点に集束し、一度霧に呑まれたものが現れる。

 破られた本の隣に、新しく生まれた題名のない本が転がる。

 辞書ほどの厚みがあるそれを拾い上げた文冶は呟いた。

「……バッドエンドか」


 衣擦れや葉擦れに似たささやかな音が館内に満ちている。元は人間であった蔵書たちが仲間内で交わす声だ。いつもより興奮気味に聞こえる、と美代は思う。

 『切り裂きジャック』が書籍化されここに収蔵されて数日が経つ。騒がしい世間から隔絶され、ここはいつにも増して静かだ。文冶がマスコミや野次馬を入れようとしないのである。

「広野さん」

 振り返るとカウンターに座っている文冶が美代を見ていた。手元には例の分厚い本――加賀言冶だった本を開いている。

「体は大丈夫なのか」

「はい、おかげさまで」

「それはよかった」

 あの後春宵は美代が帰れとも言わないうちに勝手に帰ってしまった。その瞬間、彼女がこの世界で活動するに従い体力を根こそぎ消費されていたらしく美代は卒倒したのだった。

 あれから春宵は呼べなくなった。今の相棒は以前も補助的に呼び出していた鳥人、ヤタカである。まだ生更ほど息は合わないが、共に働くうちに馴染んでくるだろう。

「でも、書司頭」

 呼びかけると一度本に戻していた目を文冶は再び上げた。

「なんで私をここに入れてくれたんですか?」

 たとえ書司であっても今この図書館に入れない者は大勢いる。純もその一人だ。言冶に報復できない、と漏らしていた。

「広野さんはこいつを破らないだろうと思ったからだ。広野さんは何故わざわざここへ?」

 問い返され、美代は一瞬言葉を探した。

「……何が正しいのか、わからなくなりました。あの子はジャックのせいで本になったんじゃないんですよね?」

「事故だ。あいつがやったんじゃない」

「やり方はひどかったけど、あの子が寂しくないようにって思うこと自体は間違ってないと思うんですよ。それからその後言ってたことも」

 言冶が語った理想が脳裏に甦る。人類の永遠の夢を叶え、諸問題を解決する方法。

「ジャックが言ってたことも、なんか正しいように思えちゃって」

 言葉を濁し、苦笑いしながら言う美代から一度視線を外し、文冶はまた言冶であった本を見下ろした。意味のない活字の羅列の中から浮かび上がっている文字列に顔をしかめる。

『凶行の本当の理由? 四択。彼女のためか、理想のためか、両方か、両方嘘か。どれだと思う?』

「書司頭?」

 美代の問いかけに、答えのない答えを返すために口を開く。

「動機としては正しいかもしれない。だがそのやり口は正しくない。動機が正しければ何をしてもいいのか、それは違う」

 美代はじっと文冶を見つめている。

「本になりたいという人がいるならそれは個人の自由だ。だが無差別に本を傷つけ選択肢も与えずに人々を本に変える、それを繰り返してもし全てが解決したとしてもその世界は理想郷ではない。……少なくとも俺はそう呼びたくない」

 俺、と乱れた一人称に滲んだ彼の私情に、美代は触れたように思った。そうしてもう一つ、気になっていたことを思い出す。

「あの、もう一つご相談したいことがあって、私、春宵を呼んだときに呪文も彼女の名前も言ってないんです。これって……何だったんですか?」

 その問いを受けて目を伏せ、少し考えていた文冶はおもむろに立ち上がりカウンターの奥の準備室に消えた。追うこともできずに美代が待っていると、しばらくして古びた本を片手に戻ってくる。そして美代を手招きした。

 再び文字列を崩した本を閉じて脇に寄せ、隣に美代を座らせて今持ち出してきた本をカウンターに置く。そして身を乗り出してその表紙を見つめる美代に微笑した。

「昔話をしよう」

 言葉と物語と人間を巡る、今日に繋がる昔話を。


 紙に印刷された物語は、活字を一つでも損なわれると《乱丁本》になり、紙から剥がれて人を襲うのは周知の事実である。だが、剥がれ落ちた物語を退治する手段は目下一つしかない。

 損なわれていない物語から登場人物を呼び出し、戦わせる方法だ。

 そして人類全員にそれができるわけではなく、故に物語に好かれた者は年齢問わず駆り出されることになる。

 彼らのことをBooker――《書司》と呼ぶ。

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