5
美代は延々緊張を強いられている。
相棒の生更が槍を一閃させる度に人の姿をしたものたちが心臓――題名を貫かれ、おびただしい量の黒い活字となって崩れる。彼の邪魔をしないように、また彼がひたすら退治ている乱丁本に襲われないように、必死で彼の背中に隠れるように動き続けているのだ。
あまりに敵は多い。だがもう一人味方を呼ぼうにも、生更も美代も激しい運動をしている。この上にまた登場人物を呼び出せば彼女の体力は尽きてしまうだろう。それでは元も子もない。
「大丈夫ですか」
「うん」
不意に呼びかけられ、その声音の芯の強さに美代はどきりとして答えた。油断なく周囲を牽制する瞳は普段は黒に近い深緑だが、獣じみた警戒心を剥き出しにした今は新緑の色に見える。いつも自信なさげで、優しい表情をしている青年とは別人のような表情だ。
彼は今は人の姿だが動物の姿もとる。能力もまた、動物に近い。そういう種族という設定なのだ。そしてもちろんこの世界の住人ではない。
物語の中に生きる者だ。
紙に印刷された物語は、活字を損なうと《乱丁本》になり、紙から剥がれて人を襲う。完全な物語から登場人物を呼び出し戦わせるのが剥がれ落ちた物語を消滅させる唯一の手段だ。
故に物語に愛された者、登場人物に声が届く者は日々退治に追われている。
彼らのことを《書司》と呼ぶ。
「きりがありませんね」
立ち止まって通りを見回しぼそりと呟いた生更に、息を切らした美代は首肯して答えた。
乱丁本同時多発発生の連絡を受け、駆け付けるまでに二十分。
古書の街は戦場と化していた。
その街の性質上、ライトノベルやファンタジーが乱丁本になっているものは比較的少ないようだ。しかし書司らの心労は並大抵のものではない。
希少本が、和本が、洋書が、長年人々に愛され世間を渡ってきた本が傷つけられ、そして彼らを狩らなければならないのだ。
それは本を愛する者にとって何より辛い。
「美代さん、久しぶり」
呼びかけられて振り返ると、見覚えのある狩衣姿の青年が笑っていた。彼に隠れるようにして、これもまた知り合いの書司がいる。表情は恐ろしく固い。
「清榮さん、と、滝本さん」
「……ああ」
呻くように答えた書司、滝本義彦は虚ろな目で言う。
「やりたくない……」
「義彦」
「清榮だって討伐は嫌だって言ってたじゃないか」
咎める清榮に言い返した滝本は、清榮が影を帯びた微笑を浮かべたのを見て口をつぐむ。
「……割り切るよ。俺もあいつは許せない」
その「あいつ」はあまりにも有名だ。
『切り裂きジャック』と呼ばれる彼は、これまでに大勢の一般人を乱丁本に屠らせた大量「殺人」鬼である。今回もきっと、彼の仕業だ。
美代も滝本も、ウエストポーチに入っている今相棒を呼び出している本、また予備の本とは別に、この界隈で拾った題名のない本を数冊手持ちの鞄に入れていた。その中身はきっと意味を成さない活字の羅列で埋まっている。
それらはかつては人だった。
今日、乱丁本に取り込まれて書籍化した人間だ。
「行きましょうか」
槍を構えたまま一瞬視線を寄越し、歩き出した生更の後を美代は慌てて追った。置いていかれるのは危険だ。書司も人間である。相棒に守ってもらわなければ彼らも書籍化してしまう。
背後から風が唸る音が聞こえる。清榮も戦っているようだ。
「……もしかして少し休んでくれたの?」
美代の問いに、生更は僅かに笑った。美代もまた微笑を返す。
「ありがとう」
「いえ」
柔らかな受け答えの後、表情を引き締めた生更は美代を抱きかかえるようにして足を速めた。丁度店から出てきた、ノイズ混じりの人影を一刀両断する。店内へ入ると数体の乱丁本が振り返った。一様に表情がない。ノイズに加えそれも特徴の一つだ。
美代を狙って黒い霧と化するものを貫き、穂先を返して二体を消し去る。一連の動きは滑らかでどこか優雅だ。
ここが戦場だということを美代は一瞬忘れそうになった。まるで彼にエスコートされているようで、一つ一つの動作――殺すための挙動が美しいためにダンスのようにも思える。
その足元に散乱する一般書籍の中に、題名のない本が数冊混じっている。店員か、客か。それらを拾い上げるために手を伸ばした美代は、生更の腕の中から抜けた。
床からさらい、鞄に入れた美代は顔を上げて凍りついた。
視界いっぱいに黒い霧が広がっていた。中央に鈍く光る金の球体が浮いている。乱丁本の題名がそこにあるのだ。
取り込まれる。
生更の声が聞こえた気がした。けれどきっと間にあわないだろう。逃げなければと思うがかがみ込んだ姿勢のまま足が動かない。
と、視界が横倒しになった。目元が何かに覆われ蠢く活字が見えなくなる。
押し倒されたのだと気付くのに少し時間がかかった。次いで前が見えるようになる。見知った人が覗き込んでいた。その背後にはもう黒い霧は見えない。
「大丈夫ですか?」
「……佐々木さん?」
やっと美代が答えると、泣きそうな表情で笑った佐々木純は彼女を抱きしめた。随分と年の離れた男性に抱きしめられた美代は目を白黒させる。
「よかった……」
「え、あの、どうしたんですか?」
「純」
先程の乱丁本を討伐したのは純の相棒である紅炎という青年のようだ。槍を携えた彼は冷静な口調で純に声をかけた。
「心配なのはわかるが離れた方がいい。……犯罪に見える」
「……あ、すみません広野さん、つい」
「庇ってくれてありがとうございます」
慌てて身を離した純に言うと、彼は小さく頷いてすぐに立ち上がった。そしてそそくさと外に出ていく。
代わりに近寄ってきた紅炎が差し出す手に縋るが、完全に足から力が抜けていて立ち上がれなかった。
「すみません、ありがとうございます」
「目を離すな」
「はいっ」
狭い店内の乱丁本を一掃して駆け寄り、生更は身を縮めて紅炎に頭を下げた。彼の警告に身を縮め、そして美代の前に膝をつく。
「美代さん、本当にすみませんでした。……お怪我はありませんか?」
「……生更」
彼の名を口にすると同時に、知らず涙がこぼれた。生更は先程までの凛々しい表情をかなぐり捨て情けない顔をする。
「あの、これでも僕薬師を志す身ですからどこか痛いところがあれば、」
「……違うよ」
嗚咽混じりの美代の声に、生更はじっと彼女を見つめる。視線を合わせられないまま、美代は呟くように言った。
「怖かった」
弱々しい声に、言葉に迷った生更は結局何も言えないまま美代を抱き寄せた。ごめんなさい、と絞り出した彼に、美代は首を横に振る。
美代が立ち上がれるようになるまで、純と紅炎は戸口で立っていた。
「……すみません、ありがとうございます」
「いえ」
視線は外に向けたまま、純は生更と同じ答え方をした。そんな彼に目を向け、紅炎は低い声で言う。
「あいつも悪気があったわけじゃない、許してやってくれ」
「え? ……あ、いえそんな助けてもらったんですし」
一瞬戸惑った美代は、純に抱きしめられたことを紅炎が指しているのだと気付き慌てて手を振って否定した。むしろ少々の照れが残る。
そんな美代の様子に微笑ましげに目を細め、彼は続ける。
「もう目の前で仲間を失いたくないと彼は言っていた。……無事で何よりだ」
「紅炎、余計なことは言わなくていいから」
どうやら会話を聞いていたらしい純が割り込んだ。
「広野さんが大丈夫なら早く行こう。彼を討たないと」
止めるでも捕らえるでもなく、討つという表現を使った彼に違和感を覚えた美代は純の表情に目を奪われた。かつて『切り裂きジャック』と相見えたとき、そして取り逃がしたと知ったときの激昂した様子が脳裏をよぎる。
「佐々木さん、」
「広野さん、僕は彼を殺したいんですよ」
苦しげな微笑から出た言葉は内容に不釣り合いに静かだ。
「彼に大事な人を奪われた人は大勢いるんです」
彼もまた、その一人なのだ。
そう感じた美代は純と紅炎を見送った後、別の道を行くことにした。
「一緒に行かないんですか」
「気まずいから」
「紅炎さんもいた方が安全ですよ」
「でも生更は私を守ってくれるんでしょ?」
すぐ傍に寄り添う生更を見上げて言うと、彼は迷うような素振りを見せた。先程のことが尾を引いているらしい。
「信じてるから」
ここで駄目押しである。
ぱっと顔を上げた生更は従順に頷いた。
乱丁本の数はさすがに減ってきたようだ。阿鼻叫喚といった様相は終息に向かい、この街を中心に広範囲から動員された大勢の書司たちは戦闘態勢のままだが喧騒は収まりつつある。
「無事?」
「あ、はい」
背後から女性に呼びかけられ、美代は振り向いた。大型のワゴンを押した「結界屋」、栗沢幸がいた。傍らには彼女の相棒『世界』が控えている。ワゴンを覆う薄緑の結界は彼女のものだ。
「回収できた方がいらっしゃったらここに載せて」
栗沢の言葉と同時に結界が掻き消える。
ワゴンの上には数十冊の題名のない本が既に載せられていた。そこに手持ちの数冊を加え、美代は溜息をつく。
「こんなに……」
これほどの数の人間が、強制的に人間を捨てさせられたのである。
「香澄と私が来たときは本当に酷かったのよ。乱丁本が通りいっぱいに溢れてたから、同士討ち覚悟で香澄の『塔』が一気に吹き飛ばして」
「……もしかして、ここにいた人はみんな」
栗沢は答えの代わりに目を伏せた。
「早く『ジャック』を止めないと」
栗沢の苦い言葉に重なるように、二人の左手首にはめられた白い腕輪全体が緑に光った。そして青年の声が届く。
全員集まるようにと告げられたのはここで最も大きな書店。
いつにもまして固い書司頭の声は、そこに標的がいると言外に告げていた。
近くに着弾した火の玉の火の粉を避けながら美代は悲鳴を呑みこんだ。
古典文学などという生易しいものではない。異形、人外、戦士、超能力者の混戦である。新刊を扱う書店も例外なく餌食にされていたようだ。それが今になって噴出している。
視界は奇妙な衣服を着た人間や人外、本を抱えて駆ける書司、そして幾塊もの黒い霧で混沌を極める。どこの言葉とも知れない怒号が、呪文が、悲鳴が彼らの間を飛び交い掻き乱す。
生更は人間相手には絶対的な優位にあるが、人外にまで範囲を広げるとその限りではない。戦闘能力は良くて中の上だろうか。
加えて書司に呼び出された登場人物らは、乱丁本から書司を守らなければならないというハンデを負っている。
自然、動きは鈍くなる。書司もまた絶えず危険にさらされる。
ダンスどころの騒ぎではない。機敏な生更に手を引かれ、美代の足はすぐにもつれ始めた。生更も気遣う余裕はない。鬼気迫る顔で得物を振るい続ける。
すぐ近くで渦巻く霧に身を縮め、乱丁本の残骸でしかないことに気付き、生更の手を握り直す。
いつ巻き込まれるかわからない。
ここが、一般人には知り得ない死線だ。
神経がぎりぎりまで研ぎ澄まされる。そこにふと先程の光景が現実と重なり、美代は一瞬足を止めてしまった。
脳裏をよぎる恐怖は環境に増幅され咄嗟の判断を鈍らせる。
二人の手が離れた。
勢いを殺しきれず、美代はアスファルトの路面に投げ出された。転がったその傍らを一陣の風が通り抜ける。制服の脇腹が切り裂かれているのを見て青くなった。何の余波かはわからないがとにかく危険だ。
顔を上げて周囲を見回すが、人ごみに呑まれて生更の姿が見つからない。予備の本からもう一人呼び出そうにも、そんなことをすれば体力が尽き果ててここから動けなくなりそうだ。
喧騒に押しつぶされそうになる。
あれは味方、あれは敵、あれも敵、まだ誰も自分には気付いていない。彼を探すべきか、彼に見つけられるのを待つべきか。
しかし待っている暇などない。
誰かが自分を見ているのを感じて立ち上がり、よろめく足を叱咤してその場から離れる。戦っているモノから少しでも遠ざかろうと惑う。視線の主に襲われるのではないかとやみくもに走る。見覚えのある顔はどこかにないか。それが知人だとは限らない、先程ちらりと見かけた生更も紅炎も、見知った彼らではない。
所詮どこにも逃げ場など用意されていない。
怪光線を掻い潜り、剣に前髪を削がれ、こちらを見ていない者に突き飛ばされ優しいモノに押しやられ、彼の姿を探し求める。
書司とて人だ。盾であり武器である彼らを呼べなければ単なる獲物にすぎない。
きっとそれはそれほど長い時間ではなかったのだろう。
制服と一緒に切り裂かれていたウエストポーチから文庫本が零れ落ちるまでの時間。
必死で庇護者を探し求めていた美代の視界に彼が映り込んだ。
「生更、」
上手く声が出ない。しかし彼は人間離れした聴力でそのかすれ声を乱戦の中から拾い上げた。相手取っていた武者を一撃で消し去り、美代に向かって手を伸ばす。
その姿がノイズに切り裂かれた。
動きが止まる。目を見開いた彼が顔を歪め、その場に膝をつく。ノイズは消えない。輪郭の揺れはひどくなり、身体の末端から黒い活字に還元されていく。
変容の末路を容易に想像してしまった美代はウエストポーチに手をやり、裂け目に気づいた。振り返り、小さな引きつれた悲鳴を上げる。
彼の元になっていた文庫本が、乱戦に巻き込まれて踏まれぼろぼろに千切れていた。
「……嘘、そんな、生更!」
「寄らないで」
既に涙混じりの声を上げて目の前に膝をついた美代を、生更は囁き声で制した。苦痛を堪えるように地面に手をついて、それでも美代に微笑もうとする。
「危ないですよ」
「……危なく、なんか……」
「僕はもう、……退治される、側です」
優しい声がひび割れていく。取り込まれる恐怖も忘れて、思わず美代は生更の頬に手を伸ばした。人肌の温もりが、感触が急速に失せていくのがわかる。
彼は活字に還り、言葉のエネルギーを暴走させ、人に仇なすモノに変わろうとしている。
「いやだよ、そんなのいや、お願い」
「……美代さん」
「守ってくれるって言ったじゃない、なのに、こんな、」
「……守ります、最期まで」
美代は顔を上げた。
生更は穏やかな表情を崩さなかった。
「僕から、美代さんを、守ります」
「それを私にやれと」
背後の声に振り向くと、いつの間にか紅炎と純が立っていた。波立つのを押さえこんで平坦な紅炎の朱い瞳を生更は見つめ返す。
「お願い、します」
彼の呼びかけに答えずに紅炎はしばらく生更を見つめていたが、やがて槍を構えた。
何をする気なのか悟り、美代は涙声を振り絞った。
「やめて生更を殺さないでお願いやめて!」
「広野さん、」
肩に置かれた純の手を振り払い、美代は彼女を見ようとしない長身の青年を見上げる。
「私生更になら本にされてもいいから、だから、」
「美代さん」
深緑の瞳と目が合った。その瞳が笑う。
「信じてるって言ってくれて、嬉しかった」
生更はその瞳の色のために、作中で同種族の仲間に疎まれ憎まれ排斥されその存在を徹底的に否定され続けた登場人物である。
そんな彼は、必要とされることを何よりも喜んだ。
「ありがとう」
「…………生更、」
「美代さんに、会えて、よかった」
消される瞬間だというのに、生更は心底幸福そうに笑った。
彼の左胸にあった題名が紅炎の槍に貫かれ、一塊の黒い活字が霧散した瞬間、美代は両手を路面に叩きつけた。
彼と繋がっていたあえかな感覚が手から喪われる微かな衝撃は、それでも消すことができなかった。