0.5
警報音が鳴り響いた。
美代は慌てて左腕の腕輪を押さえた。普段は白く滑らかな腕輪は全体が赤く点滅している。
「誰ですか、携帯のマナーモードをかけ忘れたのは」
板書の手を止める教師に恐る恐る申告する。
「先生違います仕事の召集かかって」
「仕事?」
「あの、書司の……」
財布から身分証明書を引っ張り出しながら教壇に向かう。受け取った教師はそれを一瞥し表情を曇らせた。
「そうですか……気をつけて行って来てください」
「はい」
答えて学生鞄を掴み、急ぎ足で教室を出る。急を要するが、それ以上に級友の視線が痛い。高校に入学してまだ一週間。そんな年度始めからこんな派手な真似をせざるを得ないのはなかなか辛いものがある。
ポケットで携帯電話が震える。
「もしもし」
(広野さん、今どこにいる?)
「まだ学校です。今から出るところなんですけど」
(じゃあ校門で待っていてくれるかな、拾いに行くから)
「わかりました」
そういえば前に、職場とこの学校が近いと言っていたっけと思い出しながら携帯電話を閉じ、正門から出て大通りを見渡す。目の前でバイクがタイヤを鳴らして停まった時には目を丸くしてしまった。「佐々木さん?」
「そうだけど?……じゃあメットかぶって乗って」
軽く驚いている美代に首を傾げた男性が差し出したヘルメットを受けとり、少々もたつきながらかぶる。
「バイクだったんですね」
「いつもバイクだけどそれがどうかした?」
「なんか意外な感じが」
「そう?」
後部席にまたがった美代に、相変わらず不思議そうに答えてエンジンをスタートさせる。彼自身の左腕にもある腕輪に赤い光が走り、けたたましいサイレンを鳴らす。バイクはすぐに法定速度を超えた。
紙に印刷された物語は、活字を一つでも損なわれると《乱丁本》になり、紙から剥がれて人を襲うのは周知の事実である。だが、剥がれ落ちた物語を退治する手段は目下一つしかない。
損なわれていない物語から登場人物を呼び出し、戦わせる方法だ。
そして人類全員にそれができるわけではなく、故に物語に好かれた者は年齢問わず駆り出されることになる。
彼らのことをBooker――《書司》と呼ぶ。
美代は、たまたま乱丁本討伐の現場に居合わせた際、ベテランの彼――佐々木 純にスカウトされ書司として活動することになった。 ボランティアに位置付けられる書司に年齢制限はなく、資質と意志があれば中高生も参加できる。美代はさすがにまだ小学生には会ったことがないが、実力次第では小学生すら参加が許されるのではないだろうか。
書司になるには特別な資質が必要なためいつも人手が足りないのだ。
緑色に光り始めた美代の腕輪から流れる声は、近辺の書司を取り纏める書司頭――あらゆる物語に愛される者、Librarianとも呼ばれる若い男性のものだ。
能力の高さや経験などに誰を呼べるかが左右される書司よりもはるかに柔軟に、どんな物語のどんな登場人物も呼び出せる彼らは、前線にはあまり出ずに司令塔の立場を務める。それだけではない。書籍化された人々を特定の図書館に収蔵し守っているのだ。
(そのまままっすぐ行ってください。ガード下に落ちています)
「わかりました」
応答する二人の声がバイクの騒音に紛れて重なる。既に書司頭が近辺に警報を発令したのか人影はまばらだ。それもすぐに手近な建物に入って行く。
佐々木はガードのかなり手前でバイクを止めた。
「うわ……なんか異様な光景」
ヘルメットを脱いだ美代は思わず呟く。都会の駅前に誰ひとりいない。こうして出動することでもなければそう見られない風景だ。
「そろそろ行こうか」
「あ、……はい」
純の普段通りな柔和な声に少しばかり戸惑いながら、美代は強化プラスチックで補強されたウエストポーチから文庫本を取り出し、栞を挟んだページを開いた。
美代がパートナーとして選んだ人物が一番力を発揮している場面だ。彼を描写した部分が淡い金色に輝いている。それを見つめ、緊張を抑えて「魔法の呪文」を口にする。
これが美代にとって初めての仕事だ。
「レっ、レファ、」
「広野さん、そんなに緊張しないで大丈夫だから。レファレンス――紅炎」
結局激しくかんだ美代に苦笑し、ベテランの純はさらりと言い切った。彼が無造作に構えた文庫本から煌めく活字が流れ出す。
――いっそ冷めていると言ってもいいほどにいつも冷静さは崩れない――
それらが人型を取りはじめるのを見て、深呼吸した美代ももう一度呼んだ。
「レファレンス――生更」
――優しげな微笑を消し真っ直ぐに前を見据えるのは守ると決めた証拠だ――
ページから溢れた金に輝く活字がそれぞれの色を帯び、あるべき場所に落ち着くとそこに彼がいた。
会うのはこれで二度目だ。一度目はパートナーになってほしいと説得したときで、二週間前のことだ。想像したのとは少し違っているけれど、物語の中で描かれた通りの姿を見ると感動を覚える。
生更は閉じていた緑の目を開き、美代を振り返った。
「お久しぶりです、美代さん」
「わああああ喋ったぁ」
「え?」
「ごめんちょっと感動が」
「はあ……あ、紅炎さんこんにちは」
困ったように首を傾げた生更は、純が呼び出した人物を見て表情を輝かせた。紅炎と呼ばれた青年も鮮やかな赤の瞳を和ませる。
二人は同じ物語の登場人物である。膨大な数の物語が出回る中、討伐に適し人間とも親和性の高い登場人物を有するものはある程度決まっているため、同じ現場に居合わせる偶然は時たま起きる。生更は初心者向けと指定されてすらいるからなおさらだ。
「今日は補助に回るからな、頼んだ」
「はい」
微かな緊張を瞳に乗せて、槍を握り締めた生更は紅炎に答えて頷いた。
「こんなとこに発生したってことは、やっぱり不法投棄ですか」
「中に小説が入ってることを知ってて捨てたか、知らずに捨てたかはわからないけどそういうことだろうね」
指定された場所へ紅炎と生更が向かうのを追いながら、純は僅かに顔をしかめた。
「捨てるのにお金がかかるのが嫌なのはわかるけどもっとちゃんと危険性を認識してほしいね」
そしてこのような問題に関しては手厳しい。
物語を記した本や雑誌を廃棄するにはやはり書司が処理をしなければならず手間も費用もかかる。不法投棄する者はどれだけ危険性を説明しようと必ず現れる。
「……あの、佐々木さん」
「うん?」
「パートナーを呼んだら、書司はもう何もしなくて大丈夫なんですか?」
すたすたと行ってしまう生更と紅炎から距離が開いていることに少し不安を感じて佐々木を見上げる。一瞬黙った純は、ややあって苦笑いした。
「まあ、基本的には」
「……なんだかなあ」
「後ろめたく思うことはないよ、彼らに手助けしてもらうために僕たち書司は体力を提供してるんだから」
ふと前方を見ると生更が和装の男と切り結んでいた。彼の緊張と高揚が本を通じて微かに伝わる。
時折男の姿にノイズが走る。乱丁本は人間や書司に呼ばれた登場人物と見かけはあまり変わらない。見分ける手がかりはそのノイズだ。活字が傷つき、言霊と呼ばれるエネルギーが暴走し始めた物語は非常に不安定になる。
故に彼らは人間を求める。
本の姿に還るために。
「それに、例えばテロなんかで泥沼になった現場に入れば、必死に相棒について行かなきゃいけないし」
「……どういうことですか?」
純が視線を飛ばす。
その先には、特に何をするでもなく槍を携えて立つ紅炎がいる。手を出すまでもなく生更は善戦しているようだ。
「守ってもらわないと僕たち書司も書籍化してしまうからね」
顔を歪めた純の表情は、苦笑を通り越してひどく苦々しい。
混戦状態になった現場は、人や人でないものが入り混じりまさに戦場だという。それも種々雑多なファンタジー世界がつぎはぎになった戦場だ。乱丁本はパートナーの攻撃を掻い潜り書司を襲おうとする上、乱闘中の仲間の攻撃に巻き込まれることもある。そこはこの世界でありながらこの世界のものでないものが暴れ回る場所だ。
命を落とす者もいる。書籍化される者もいる。それでも被害の拡大を防げるのは彼らだけなのだ。
そんな中を駆け抜けて、被害者も見てきたであろう純の言葉は、初心者の美代をすくませるに十分だった。教科書や講習ではわからない生々しい空気がそこにある。
資質を持たないクラスメートたちはこれを知らない。
戦うと決めた者が見る世界だ。
「……私やれる自信がなくなってきました」
「みんな最初はそんなものだよ。驕らずに、まずはこういう軽い案件を通して経験を積むところからだ」
「はい」
遠目に、乱丁本の首を生更が刎ねたのが見えた。血飛沫の代わりに黒い活字が切り口から舞い上がり現実味のない光景だ。紅炎に何事か言われたのか、彼の方を振り返った生更は慌てて乱丁本の胸に切っ先を突き刺す。一瞬鈍い金色の光が閃き、乱丁本は黒い霧と崩れて消えていった。核になっている題名をああして砕かないときちんと討伐できたことにならないらしい。
「上手くやる秘訣か何かないんですか?」
冗談めかして訊いてみると、純は一声唸って考え考え答えた。
「相棒との信頼関係を作っておくことかな」
「信頼関係、ですか」
「どんな考え方をする人物なのか、性格はどうなのか、そういうことを本から正確に読み取って相棒とのコミュニケーションに役立てる。これは大事なことだよ。もう学校は卒業したっていうのに国語の読解問題を解いている気分になることもあるけどね」
肩をすくめて笑った純は、戻ってきた紅炎にお疲れ様と声をかけた。別に何もやってない、と紅炎は淡々としている。
「お疲れ様。ありがとう」
「いえ、手間取ってしまって申し訳ありません」
同じように生更に話しかけると彼ははにかんだような笑顔を見せた。彼が喜ぶ言葉はなんだろう、と少し美代は考え、自分なりの答を口にする。読解問題、言い得て妙だ。
「生更のおかげで助かったよ。……次からも、生更を呼んでいい?」
自分が必要とされている、という伝えられることを彼は何よりも喜んでくれる。ぱあっと表情を明るくした生更は即座に頷いた。
後日。
彼らは、愉快犯「切り裂きジャック」と出会うことになる――