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フードを外した人物は躊躇う様子も見せずビルの屋上から宙に身を躍らせた。

「トキワ!」

「構わなくていい!」

 思わずトキワを呼び戻そうとした美代は文冶に叱責され首をすくめる。落ちていく人物から目を離すことができない。そして文冶も、子供や女性にするように目を逸らさせようとはしなかった。

 落ちていく人物を見ている間、美代の周囲から音が消えた。

 パーカーを風にはためかせ、足を下に落下した若い男の速度が落ちた。重力に逆らい、風に弄ばれることもなく、フードがゆらりと揺れる。そのまま彼はふんわりと道路に着地した。

 特筆すべきは、その目の前にいる一体の乱丁本の動きだろう。彼女――それは若い女性の姿をしていた――は男がビルから飛び降りる姿を見た瞬間、それを受け止めようとするかのように両腕を差し延べたのだ。

 彼の落下速度にブレーキがかかるとゆっくりと腕を下ろしていく。そして壊れ物を置くように、柔らかな動きで男を地面に下ろす。

 怪我一つなくビルの屋上から飛び降りた男は、その乱丁本に親しげに笑いかけた。文冶と同じ声で一言紡ぐ。

「ありがとう」

 すると、感情も意思も持たないと考えられている乱丁本が、それに答えて微笑んだ。美代はその表情に違和感を覚えたが、違和感の原因はそれだけではない。

 襲うだけ、戦うだけであるはずの乱丁本も、絶好の勝機を目の前にしている登場人物も、言葉から生み出されたもの全員が動きを止め、若い男の一挙手一投足を見つめていた。

 あたかも身を投げ出した彼を心配するかのように。

どの本から呼んだどの登場人物にも好かれる性質。そして本来人間を襲うだけの存在であるはずの乱丁本に命令を下せる能力を有す、あらゆる物語に愛される者。

もしかすると、彼もまた――

そう考える前に、美代は男の容姿から目が離せなくなっていた。

「……Librarian……?」

 呆然とした栗沢の呟きは美代の困惑を代弁するかのようだった。

 年の頃は二十代半ば。それにしては白髪が多く、全体に灰がかった髪色に見える。その知的な面差しは、今美代の隣に冷ややかな表情で立っている人物と瓜二つだった。どこか無邪気な笑みと、伸ばしっぱなしなのか長めの髪を束ねていることだけが差異と言えるだろうか。

 無言で文冶を見上げると、言いたいことに気がついているのか一度はかちあった視線をついと外される。

「弟だ。双子の。奴もまた、私と同じ書司頭の一人」

「よろしくね、お嬢さん」

 文冶と同じ、けれどもっと軽やかな声が割り込む。

「加賀 言冶と申します。――『切り裂きジャック』と呼んでくれてもいいよ」

 表情を強張らせる美代に、『切り裂きジャック』は人懐こく瞳を煌めかせる。

 この、子供のような瞳の男が、『切り裂きジャック』?

 これまで次々と、無力な多くの一般人を乱丁本に屠らせた犯人が目の前のこの男?

 無差別大量殺人にも等しい所業とあまりにも不釣り合いな純粋さに戸惑い固まる美代を背に庇うようにして、彼の胸倉を純が掴んだ。

「警察に突き出すまでもない、この手で殺してやる!」

 噛み付かんばかりに顔を寄せ、ともすれば暴れそうになる声を無理矢理押さえ付けて絞り出す。普段は穏やかな純の双眸が吊り上がり言冶を睨み据えた。

 締め上げられた言冶はわずかに表情を歪めて呻く。途端、純の体が見えないものに弾き飛ばされた。栗沢が短い悲鳴を上げる。

 言冶がビルから飛び降りた時に手助けした乱丁本がこちらに掌を突き出していた。

 激しくアスファルトに叩き付けられた純が動かなくなる。同時に、紅炎の姿にノイズが走った。愕然としたように純を振り返った紅炎の輪郭が崩れていく。彼の体を構成することを放棄した活字は雪崩をうって、純の手から投げ出された本に還っていった。

 書司が意識を失うと、エネルギーの供給を断たれた登場人物は強制的に本に還される。

「佐々木さん!」

 悲鳴を上げて純に駆け寄ろうとした美代の襟首を文冶は掴む。阻止された美代は逃れようと足掻いたがあえなく後方に突き飛ばされた。抗議しようと開きかけた口は文冶の視線に塞がれる。

 純が薙ぎ倒された際巻き込まれた言冶はアスファルトに転がった。そこに、純と言冶が引き離されるのを待っていたのか文冶がすかさず新しく本を開いた。

「レファレンス――統羅」

 ――東洋系の中性的な容姿と低く柔らかな声が性別の判断を迷わせる――

 黒いマントを着た人物は、地面に爪先が着くと同時に腰にぶら下げた袋に片手を突っ込む。ざらりと掴み出したのは大きさが一様でない宝石十数個。それを地面に撒き散らす。

 その一つ一つから人型のものが現れた。それぞれの瞳は元の宝石と同じ色だ。

「使役系――」

 半ば呆然と美代は呟く。

 式神や使い魔、精霊などを従えている登場人物は「使役系」と呼ばれる。主たる一人を呼び出せばその登場人物に多くの手駒を操らせることができる。

 しかし呼んだ人数分体力を消耗する仕組みは変わらないため、「主人」が手駒を喚べば喚ぶほど書司にかかる負担は大きくなる。その上使役系の登場人物は攻撃や防御を手駒に依存している場合が多く、戦闘時に手駒を二つ三つ喚んだだけで書司が体力を根こそぎ奪われて昏倒しかねない。

 だからこそ使役系は危険なタイプであり、書司頭にうってつけともいえる。

「奴らを牽制しろ」

 マントの人物がハスキィな声で指示を飛ばす。

 打ったらしい腰を押さえて呻いていた言冶が顔に焦りを浮かべて、立ち上がりかけながら一言叫んだ。

「来い!」

 その声に乱丁本たちが反応する。だがそれを炎の壁が阻んだ。その前には全身に炎を纏わり付かせたガーネットの瞳の青年が仁王立ちしている。炎が壁を構成し切る前に、宝石から生まれた者数人が向こう側にすり抜けトキワと凪浜に加勢する。

「女の乱丁本は攻撃するな、返り討ちに遭うぞ。後は斬っても燃やしても構わない」

 朗々と声を上げつつ文冶はアメジストの瞳の女性に目配せする。

 途端、一度は立ち上がっていた言冶は何かにのしかかられたかのように再びアスファルトに押し倒された。

 苦しげに表情を歪める彼に指先を向け、アメジストから現れた女性はひょいと手を持ち上げる。すると言冶の体が直立の姿勢で宙に浮いた。

「そのまま車まで連れていけ。ガーネットは火を切らすな」

 奴らに見られると厄介だ、とガーネットを本体とした青年に注意を喚起する。

「放……」

「締め上げろ」

 喘ぎ喘ぎ言いかけた言冶の言葉を叩き潰す。更に圧迫される形になった言冶は不意に小さく笑った。

「そんなに、僕の声が怖い? 文冶」

 車へ先導していた文冶が足を止めた。振り返らない彼の背中に向かって言冶は言い募る。

「締め上げて、声を奪うくらい、怖い?」

「怖いんじゃない。話されると不都合なだけだ」

 ぴしゃりと答える文冶は、しかしそれ以上圧迫させようとしない。容疑者を圧死させるわけにはいかないのだろう。

 言冶が吐息だけで笑うと喘鳴が漏れた。辛うじてできる呼吸を最大限利用して、彼は話をやめない。

「昔からそうだったね。呼び出すのは文冶が上、けれど従わせるのは僕が上。文冶の声は遠くまで届くけど、言霊は僕の方が強い」

 でもね、と言冶は笑う。

「僕の声だってそれなりに届くんだよ」

 本から登場人物を呼び出すには、呼び出したい登場人物が描写されているページを開く必要がある。だが言冶の手には本がない。よって文冶は油断した。

「何が言いたい」

 低く問うた文冶への答えに代えて、言冶は声を振り絞った。

 これまでの口上は、口慣らしだ。

「レファレンス――濤牙!」

 彼の呼び声に応えたのは、純の傍に開きっぱなしになっていた文庫本だった。

 ――その男の精悍な顔は乱闘の予感に強張りながらも薄く笑っていた――

「しまった……!」

 痛烈に舌打ちした文冶は、凪浜や統羅を呼んだ本とはまた異なった三冊目を取り出した。

「レファレンス……っ」

 しかし名前を呼ぶことができずにその場に膝をついた。蒼白な顔に脂汗を滲ませ、肩で息をしている。

 書司頭といえど体力は無尽蔵ではない。今の彼の場合呼び出しているのは既に十人以上、とうの昔に動けなくなっているはずなのだ。

 それでもまだできると自分を騙し、体力がなくなりかければ命すら削る。重ねた無茶は若白髪に表れている。

「紫のを砕け!」

 呼ぶだけで息を使い果たしたのか言冶の声に先程までの音量はない。だが狼の聴覚を持つ濤牙はそれを聞き取り、統羅の足元を一瞥して標的を見つけるや唇を吊り上げて獰猛に笑う。

 彼もまた、生更や紅炎と同じ生き物だ。身体能力は人間よりも獣に近い。

「あれか」

「レファレンス――『死神』!」

 彼の声に被さるようにして悲鳴じみた栗沢の呼び声が響いた。

 ――濃紫の口紅を引いた青年は無表情ながらに生者を魅了する――

 舞い上がる活字の輝きは、その最中から現れた人影の黒いローブに吸い込まれるように物質化した。

 タロット大アルカナⅩⅢ、『死神』。

 ⅩⅥの『塔』、ⅩⅩⅠの『世界』と同じ、タロットの大アルカナの名前を付けられカードと化された凶悪な妖魔の一匹である。

 本来ならば彼らも使役系登場人物の使い魔だが、その主を呼び出さずとも事足りる。中里と栗沢はいつも使い魔を一匹ずつ呼んでいるのだ。

 『死神』はローブを翻し、自らの身長よりも長い大鎌を振るった。濤牙の首を刈り取ったかのように美代には見えたが、その切っ先は空を薙ぐ。

 妖魔すら嘲笑い濤牙は統羅に肉薄した。それを『死神』が猛攻する。異変に気づいた統羅の周りに更に人ならぬものが現れる。と同時に、

 一声苦悶の呻きを漏らした文冶が倒れ伏した。

 そこからはなし崩しだ。

 統羅が霧と掻き消える。従って宝石から生まれたものたちも霧散する。炎の壁も消え向こうの様子が見通せるようになった。凪浜が姿を崩したのが遠目に映る。

 次いで援護を失ったトキワが瞬く間に屠られた。

「トキワ!」

 叫んだ美代の手の内から彼と繋がっているあえかな感覚の一切が抜け落ちる。その代わり、手元に開いていた本の空白部分に活字がじわりと浮かんだ。彼が還って来たのだ。

 同時に今までアドレナリンがごまかしていた疲労がどっと押し寄せ、美代は思わずへたり込んだ。

「――やれやれ。濤牙、還っていいよ」

 拘束から逃れた言冶が促すと肩をすくめた濤牙が霧散した。なお追いすがっていた『死神』は大鎌を空振りし乱暴にフードをめくり上げて、寸前まで濤牙であった活字の塊が流れ行く先を睨み据える。

 咳込みながら体を起こした言冶は不満げに目を眇めた。

「誰だよ『切り裂きジャック』なんて名乗って馬鹿をした輩は」

 数体残った乱丁本と、完全に竦み上がって動けない自称『切り裂きジャック』たちを振り返りもせず淡々と指示を出す。

「一応けじめつけとかないとね。――やっていいよ」

 この期に及んでも殺人鬼はあくまで無邪気だった。

 文冶が倒れトキワが還された今、乱丁本から『切り裂きジャック』らを守る者はいない。

 『死神』が地を蹴った。だがそれを見送った言冶は大した興味もなさそうに呟く。

「遅い」

 実際間に合わなかった。

 本屋を襲撃した犯人たちは逃げる間もなく黒い霧に押し包まれた。その中で刹那鈍い金の光が閃く。

 急速に霧が晴れた。

 そこに人はおらず、代わりに五冊の本が音を立てて落ちた。見た目はたいして厚くもない、ただの新書だ。

 乱丁本に捕まった人間は、意味を成さない活字の並びに埋め尽くされた一冊の本になる。

 意識はある。死んではいない。けれど彼らはもう、生き物ですらないただのインクと紙の塊に過ぎない。

 そして二度と人間に戻りはしない。

 人が単なる本になったのを見ても、美代は不思議と怖いとは思わなかった。

 ただ、妙に脱力した。

 蒼白な顔で立ち尽くしている栗沢を振り返り、言冶は目を瞬かせる。

「『世界』はまだ帰ってこない?」

「……あなた、彼女にいったい何をしたの? 強制送還されたとは言え、普通ならすぐにまた呼び出せるはずなのにどうして、」

「言っておくけどねお姉さん、僕だけじゃなくて文冶も同罪だから」

「Librarianがそんなことするわけないわ」

「意図的にしたんじゃないよ。結果的にそうなった、それだけの話」

 彼は楽しげに目を細め、いまだ起き上がらない文冶を見遣った。

「言霊は僕の方が強いにしても文冶も相当なものだから」

 男たちを閉じ込めた結界を解こうとした『世界』にかけられた二つの声。

一つは文冶のもの。今解くのは危険だ、張り直せ。

もう一つは言冶のもの。そのまま解いちゃって。

相反する意味を含め、しかも強い力を持った言葉の衝突に『世界』は堪えられず、弾け飛んだ。そしてその衝撃の余波で未だに姿を現わせずにいる。

「レファレンス――雀蜂」

 そして彼は上着のポケットから取り出した文庫本を悠々と開き、呼んだ。

 ――磨き上げられた巨大な複眼は、覗き込む者を黒々と無機質に見つめ返す――

 そこに立ち現れた生物に、美代と栗沢は悲鳴を上げた。

黄色と黒の攻撃的な縞模様も鮮やかな、馬ほどもある巨大なスズメバチが二人の声に反応してがちがちと大アゴを鳴らす。威嚇する音もまた、けた外れに大きい。

 いきりたつスズメバチを宥めるように、透明な羽を撫でた言冶はその胸部に飛び乗った。見ると鞍が乗せられている。ただ単に大きいだけではなく、人間を乗せるという設定もあるようだ。

 その鞍に括りつけられていた白いマフラーを外し、顔の下半分を覆うように巻きつける。同じくぶら下がっていたゴーグルを着けたその姿は飛行機乗りのように見えた。

 その背中から美代たちを見下ろし、一度マフラーを口元から引き下げた言冶は真顔で言う。

「離れた方がいいよ。彼女の羽に当たったら首なんか簡単に飛ぶから」

 言い終わってすぐ、彼は手綱を引いた。スズメバチの羽が高速で羽ばたき始める。エンジン音にも似たその唸りで周囲のビルの窓ガラスが高い音を立てて振動する。

 そして巨体が宙に浮いた。飛行機というよりも、ヘリコプターの離陸に似ていた。機械めいた大きさと固さを持ちながらどこか艶めかしい曲線を有するスズメバチがビル群の上空を飛び去る様は、目眩を誘うような違和感があった。

 倒れたままだった文冶が身じろいだ。無言で立ち上がると、慌てた栗沢が差し出した手を遮り歩き出す。そしてコンクリート上に散らばった新書数冊を取り上げた。

 ぱらぱらとめくる。中に書かれているのは、段落も章も何もない活字の寄せ集めでしかない。それを事務的な手つきで確認した文冶の表情はうつむきがちで、灰色がかった髪に隠されていて美代からは見えなかった。

「……薄いな」

 嗄れた呟きを挟み込むように、新書を軽い音を立てて閉じる。

「テロを試みたというのに、彼らの人生は憐れなほど薄いただの新書でしかない」

 彼の乾いた言葉からは、感情の欠片も聞き取ることができなかった。

 ようやくビルからばらばらと出てきた書司たちはその場の様子を見て呆然と立ち尽くす。

 激しい戦闘を繰り広げていた登場人物たちは誰ひとりとして残ってはおらず、亀裂の入った道路や焦げた歩道の縁石、爆風で枝を折られた街路樹から辛うじて状況が推察できるだろうかといったところである。

 引き裂かれた本の切れ端が、風に舞っていた。

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