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『切り裂きジャックが出た』
一斉連絡を聞いた瞬間屋上を飛び出した美代は、階段を駆け降りながら緑に発光する腕輪を耳元に近づけた。場所は最寄り駅に至るまでの大通りに面した、ビル一棟を占領している大手の書店だ。
脱いだ上履きを下駄箱に突っ込み、スニーカーに足を滑り込ませる。
場所だけを伝えて沈黙した腕輪の代わりに、美代のポケットの中で携帯電話が震えた。
「もしもしっ」
(広野さん、今どこにいる?)
「学校から出るところです」
(校門にいて。拾うから)
「お願いします!」
短く会話を交わし、接続を切る。
正門の前でじりじりしながら待つことしばし。サイレンの音に続き、見覚えのあるバイクが飛ばして来るのが見えた。
「佐々木さ――ん!」
叫びながら両手を振り回すとタイヤを軋ませながら目の前に停まった。渡されたヘルメットを受け取ると同時に後部にまたがる。すぐにバイクは発車した。
けたたましい音を出しているのは、例によって運転手の左腕にはまった腕輪だ。今度は赤い光がくるくる回っている。
「しっかりつかまって。飛ばすよ」
「はいっ」
相手の胴に腕を回すとバイクは法定速度以上に加速した。腕の下には、美代のものによく似たウエストポーチが着けられている。腕輪とウエストポーチ、これらが書司の特徴だと言ってもいいだろう。
もう交通規制が行われているのか、閑散とした大通りを駆け抜ける。
紙に印刷された物語は、活字を損なうと《乱丁本》になり、紙から剥がれて人を襲う。完全な物語から登場人物を呼び出し戦わせるのが剥がれ落ちた物語を消滅させる唯一の手段だ。
故に物語に愛された者、登場人物に声が届く者は日々退治に追われている。
彼らのことを《書司》と呼ぶ。
バイクが停まった。堂々と駐車違反してヘルメットを脱いだ男性は、まだ座席でもたついている美代に気負うことなく片手を差し延べる。
「佐々木さん、先に行っててください」
「女の子を放って行くわけにもいかないだろう?」
そう言いながら、男性――佐々木 純は微苦笑した。腕輪の一点を二度軽く叩きサイレンを止める。
純の勤め先は美代が通う学校に近く、この界隈の有事には必然的に一緒に働くようになる。自然彼に迎えに来てもらうことが増えた。
「おじさんにそんなこと言われてもときめかないです」
「ときめかなくていいよ僕も犯罪者に仕立て上げられたくないから。というか広野さん」
「なんですか?」
ヘルメットをハンドルに掛けて振り向くと、純は渋い表情をしていた。
「僕、まだぎりぎり「お兄さん」だと思うんだけど」
「三十代半ばならもうおじさんです」
「気持ちは若いのに。それにまだバリバリの現役だよ」
「それを言ったら還暦のおじいさんだってお兄さんですよ」
軽口を叩きながら二人は文庫本をウエストポーチから取り出した。
「レファレンス――生更」
――ともすれば暗く沈みがちな瞳が光を得て深緑に煌めく――
「レファレンス――紅炎」
――禍禍しいまでに朱い双眸はしかし穏やかに凪いでいた――
舞い上がる活字が描き出す二人の青年はともに槍を携えている。少し背の低い方が美代の相棒、生更である。
ふ、と息をついた生更は、目を開けると隣を見て微笑んだ。彼は仲間に会うといつも、とても優しい表情をする。
「紅炎さん」
名前を呼ばれた純の相棒、紅炎も鮮やかな朱の瞳を和ませる。
美代と純は奇しくも同じ本を使う。生更と紅炎は作中でも仲の良い登場人物同士で、現世に呼び出されても親しく付き合っている。
「生更、いちゃついてないで仕事行くよ」
「いちゃついてないです!」
和やかに話しているところを美代にからかわれ、生更は不意を衝かれたのか声をひっくり返して答えた。一方の紅炎はその生更の反応に無言で遠い目をする。
「だいたい紅炎さんはリア充だしそもそも僕なんかが恋人なんて許されないしいやそういう問題じゃなくて僕たち男同士なんですけど!」
「……どこでリア充なんて単語覚えてきたわけ」
生更の「故郷」は十九世紀の世界をモデルにしたファンタジー世界で、そんな単語など知るよしもない。はずだ。きっと現世で聞き齧ったのだろう。
「……私たちは来るのが遅かったのだろうか」
低い呟きに振り返る。紅炎が周囲を見回していた。
「後から誰も来ない」
「かもしれないね。ここいらの書司はすぐに集まったんだろう」
純が同意する。この辺りは駅も近く人が多く集まる。その中には書司も少なからずいるだろう。
書司はけして稀少ではない。だが警察や消防のように志願してなれるものでもない。個人の能力に依るものが大きい点ではスポーツ選手や歌手にも似ているが、登場人物を呼び出す能力は努力して身につくものではない。
安定した組織を作れないため、書司たちは普段はばらばらに生活を送っている。そして有事には、書司同士を辛うじて繋いでいる儚いほどに頼りない指揮系統が真価を発揮することになる。
ボランティアに近い書司の中で唯一、職業として能力を生かせるのは、指揮系統のトップに位置するLibrarian――書司頭だけだ。
ふと生更と紅炎がビルの入口に目を向けた。人よりも獣に近い彼らの聴覚は何が出てくるかも聞き分けているのだろう、槍を構えもしない。
果たして出てきたのは、全身黒一色で固めた五人ほどの男だった。
「人間だね」
「人間ですね。もしかして彼らが首謀者の切り裂きジャック……」
「まさか」
予想外に強い語調で否定され、驚いた美代は純を見上げた。半ば伏せた彼の目は炯々と男たちを睨んでいる。
「ジャックはあんな小物じゃない」
屋内から逃げ出すように出てきた彼らは、立ちはだかる二人の槍を見て舌打ちした。肩から提げた大きなボストンバッグから各々数冊本を取り出す。そのどれもが軽く柔らかい文庫本や新書だった。
彼らの意図を察した美代と純はほぼ同時に踏み出していた。それよりも早かったのは、本を手にした当人を凌いで人外の二人だ。
空を切り裂いて槍が唸る。
刃は向けずに石突きで当て身を食らわす紅炎とは違い、柄の両端に刃が付いた特殊な槍を扱う生更は相手を柄で殴り倒した。それでも一時に全身を倒すのは難しい。
本が引き裂かれる悲痛な音に、美代は思わず口元を覆って目を見開いた。
投げ出された物語の屍から黒い活字が立ち上る。その霧は自らの核となる鈍い金色をした題名部分を取り込んで人型に集まり始めた。おまけに一体だけではない。既に破かれた本があったのだろうか、失神している男たちのボストンバッグからも活字が流れ出している。
「紅炎」
霧から距離を取りながら純が相棒の名を呼ぶ。純を一瞥した紅炎は足元に転がっている男を二人引きずり起こして、霧から離し転がしておく。それを見た生更も慌てて右に倣った。
「犯罪者も守るんですか?」
「守った上で警察に引き渡すんだよ。本になるなんて許さない――絶対償わせる」
言葉が無意識につっけんどんになっていた美代に負けず劣らず、普段は柔和な純の言い方も冷ややかなのを聞いて美代は背筋がひやりとした。
霧相手に男たちを庇いながら苦戦している生更と紅炎を、人間である美代と純は手助けできない。近づくとむしろ邪魔だ。手をこまねいて見守ることしか人間には許されない。
固まりかけている霧を槍の風圧で崩して退け、また一歩離れた生更と紅炎の姿が何かに覆われた。
薄緑で半透明の立方体。結界だ。
それに気がつき周囲を見回す美代と純にもまた結界が張られる。男たちも同じ状態である。
傍目には透き通った壁にしか見えないが、きっとこれは生更や紅炎の槍と同じく完全な物語から呼ばれた活字――その中でも結界を描いた活字の集合なのだろう。
「彼女らがやっと来たみたいだね」
純は小さくため息をつく。首を傾げる美代に、純は一点を指し示した。振り仰いだ道路標識の上にふわりと降り立つ少女がいた。
体にゆったりと巻き付けたエキゾチックな布に、幾つもの金属の腕輪や首飾りが華やかだ。浅黒い肌の彼女はふいと足元に目を向けた。
「『世界』、しばらくそのまま維持ね」
柔らかな女性の声に無言の首肯を返す。
標識にもたれるようにして、新書を広げた女性がこちらを見て微笑んだ。
「すぐに殲滅するからちょっと待っててくださいね」
「一発屋参上!」
彼女が言い終わる前に新しく声が割り込む。
ようやく実体を取り始めた乱丁本の前に仁王立ちする小柄な女性もまた、少女を従えた女性が持つものと同じ新書を構えていた。
「レファレンス――『塔』!」
高らかに彼女が叫ぶ。新書から金色の活字が剥がれていく。
――赤く長い髪を振り乱し、彼は甲高い哄笑を響かせた――
それが人型になるのを待たず、その女性は爛々と輝く目で振り返った。
「幸!」
「はいはい」
好戦的な様子に対してか苦笑した「幸」――栗沢 幸は標識の上を見上げる。
「『世界』」
ただ一言。意思の疎通にそれ以上の言葉は不要。
漆黒の瞳をわずかに細め、つい、と「世界」と呼ばれた少女が片手を上げた。
金属の細い腕輪同士が触れ合う微かな音。
それが美代の耳に届いた時には、栗沢も『世界』ももう一人の女性も淡い緑の結界に囲われていた。
「彼女が通称結界屋の栗沢さんで、相棒は『世界』。で、」
栗沢を示して紹介した純は、今度は小柄な女性に目を移す。彼女が呼び出した登場人物がようやく姿を現していた。ざんばらのくすんだ赤い髪が目を引く。
「あちらは通称一発屋の中里さん。相棒は『塔』」
その『塔』の視線の先には、男たちを閉じ込めた結界の周囲に顕現した魔術師やプリースト、エルフの姿をしたものたちがいる。獲物を探してうろついていた彼らは、結界を破るのを諦めたのか『塔』に目を向けた。次いで恐ろしく静かに各々の手や弓を構える。
乱丁本は人間を襲うのを最優先事項とするが、その相手に手が届かなければ無言・無表情のままに、現世に呼び出されている登場人物たちを襲い始める。
しかし魔術師が火球を放つ前に、プリーストが神に祈る前に、エルフが弓矢の腕前を披露する前に、全てが一撃で終わってしまった。
美代のいる場所からは『塔』の赤い前髪から覗く金色の目が見えた。獣じみたその瞳孔が縮まり、薄い唇が歪んだ笑みを形作る。
そして痩身を寄り掛からせていた身長より長い棒をおもむろに振り上げ、大通りのアスファルトを砕く勢いで、突いた。
結界の中には何の影響もないが、乱丁本が衝撃波に吹き散らされるのが中から見えた。
「だから結界系の人とタッグ組んでるんですね……」
「タロット最悪の札の『塔』は最強の札の『世界』が一緒になることでやっと使えるといったところかな」
その威力に半ば呆れて美代が呟くと、純は苦笑した。ややあって結界が解けて消える。
「敵も味方も見境なく吹き飛ばすからね、『塔』は」
豪快に女性――中里 香澄が笑いながら近づいてきた。同時に本を開き、『塔』を還す。
「香澄、早く言うこと聞いてもらえるようになりなさいよ」
「無理だっての。そもそも狂ってるんだから」
「同朋が止めても聞こえない狂犬だからな、あれは」
栗沢の小言に中里は口を尖らせ『世界』も同意する。
「狂ってるやつを呼び出さないでくださいよ」
「でも効果的じゃないですか」
「周りの被害も考えなさいよ」
純も交えて「一発屋」について議論を始めた三人の脇に一台の乗用車が停まった。降りて来た人物はダークグレーのスーツで身を固めた、二十代半ばの男性である。その若さのわりに白髪が多いのが目立つ。その左手首には、四人と同じ白い腕輪。スーツの下にはきっとウエストポーチもあるはずだ。
「犯人は」
「結界に確保してあるよ、フミヤ」
端的に問うた青年に『世界』が表情を緩めて答える。生更は彼を見て微笑み、紅炎も柔らかく目を細めた。
書司の中でも、どんな本のどんな登場人物にも無条件に好かれ、普通の書司ならば一度に二人が限度のところを十数人呼び出せる者。それが書司頭――彼もその一人だ。
「中はどうなってる」
「あの人たちがめったやたらに本たちを切り刻んでくれたおかげで酷い惨状でしたが、幸い駆け付けた書司も多かったので犠牲者はいませんでした」
私と『世界』もいましたし、と栗沢は笑う。
「加賀さん、切り裂きジャックはただの騙りでしたよ」
肩をすくめて言う中里に書司頭の加賀 文冶は首を振った。長めの前髪をうるさげに払い目を眇める。
「必ず奴は来る」
躊躇うことなく言いきった彼に、中里と栗沢は戸惑ったように顔を見合わせている。美代も純を見上げたが、純の目は何故か据わっていた。
「ひとまずはあれを警察に連行するのが先決か」
文冶は結界に閉じ込められた今回の騒ぎの犯人を一瞥して呟く。それを受けて『世界』が右手を上げた。直方体の結界が上部から溶けて消えて行く。
その上空に目をやった文冶は急に叫んだ。
「『世界』!」
その声は一つだけであるように聞こえた。故に硬直した『世界』の姿が砕け散り本に還っても、そこに声質も響きも全く同じ声――内包する意味だけが正反対の声がかぶさっていることに誰も気づかなかった。
文冶を除いては。
『世界』が勝手に戻ってしまったことに栗沢が愕然とする。結界が完全に消えたため逃げ出そうとする男らに紅炎と生更が走る。『塔』を呼び出そうとする中里を純が慌てて止める。
そんな中、文冶が見たものを美代も見つけた。
ビルの上に人が立っている。その人物が小脇に抱えるものに気づくと同時に文冶と美代は本を取り出して唱える。
「レファレンス――凪浜!」
――男は寝癖のついた髪を引っ掻き回し欠伸しながら風をまとった――
「レファレンス――トキワ!」
――仄かな薔薇色の翼をはばたかせ小柄な少年は敏捷に宙を蹴る――
生更に続いて一度に二人目を呼び出したため、美代は急に体が重くなるのを感じていた。体力的にももう、二人にはあまり暴れてもらえないかもしれない。
人型になる間も惜しんで翔け上がる文冶の相棒、凪浜 疾風に対し、トキワは背に負った翼を器用に操って不安げに中空で留まった。
「ミヨ、僕二人目だけど大丈夫?」
「いいから早く、あれを止めて!」
悲鳴じみた美代の声に、菜の花色の瞳を心配そうに瞬かせながらもトキワは朱の扇を構えた。先に翔け出した凪浜の周囲にも不自然な突風が吹き荒れる。
ビルの上から何かが落とされた。
十冊余り降ってきたのは、既に傷つけられたハードカバー。落下地点には「切り裂きジャック」と名乗った犯人たちがいる。それを受け止めるため凪浜とトキワは風を放とうとした。
それを止めたのは、文冶と同じ声だった。
「凪浜、トキワ、邪魔しないで」
「凪浜、トキワ、行くんだ!」
どこか無邪気な声を遮る厳しい声。二つの声に挟まれて、二人は戸惑ったように空中で立ち止まる。
アスファルトにぶつかって無残に散らばったページから霧が立ち上がる。その前に生更と紅炎が立ち塞がった。人型になる前、無防備な今のうちに切り捨てようと突っ込んでいく。
紅炎は顔に傷のある灰色の髪の男、そして女性のような風貌で和風の青年二人を相手取っているが、生更は突然足を止めた。対するのは白髪の若いカウボーイである。銃口を向けられても槍を抱きしめるようにして硬直したままだ。
「生更、還れ!トキワは援護!」
それに気がついた美代は青ざめて凍りつく生更を本に還し、トキワを防衛に向かわせる。しかし戦闘に不慣れなトキワの動きはぎこちなく、紅炎とも息があっていない。
栗沢は今も必死に『世界』に呼びかけているが応答がない。したがって『塔』を呼べない中里はビル内に応援を呼びに走る。純は歯を食い縛りビルの屋上を見上げて
呻いた。
「『切り裂きジャック』――」
その言葉に、美代は弾かれたようにビルを見上げた。
グレーのパーカーにはフードが付いていて、それをかぶった人影の顔は見えない。しかしきっと若い男だ。そして声はよく通り、おそらく文冶と酷似している。
二言三言で美代たちの描いたシナリオを一変させる声。
何故か、彼がふっと笑った気がした。
ビルの上の人影がおもむろにフードに手をかける。と同時に、文冶はもう一冊本を開いていた。