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警報音が鳴り響いた。
「広野またお前か!」
あ、と思う間もなく、振り返った教師から叱声が飛んだ。
「ケータイ切っとけっつっただろうが!」
「ケータイじゃないです仕事です!」
その証拠に、音を立てているのは美代が左手首に嵌めた白く滑らかな――今は全体が赤く点滅しているが――腕輪である。
よっ正義の味方、とヤジが飛び、剣呑に溜息をついた美代はわざわざ音を立てて立ち上がった。
強化プラスチックの板で補強されたウエストポーチから一冊の文庫本を取り出し、栞を挟んでいるページを一挙動で開く。
文章や単語の中に淡い金に輝く活字がところどころある。それらは全て、美代の技量で呼び出せる登場人物の描写だ。
声に出すのは「魔法の呪文」。一人の名を呼び添えて。
「レファレンス――生更」
途端にざわめいた金の言葉はページから剥がれ、舞い上がって人の姿を成す。
――地味だが優しい面差しの青年は困ったように微笑んだ――
教室がどよめいた。
そして活字が寄り集まって現れた青年、生更は「困ったように微笑」むどころではなくうろたえた。
「美代さん、なんで僕を教室に呼び出したんです?」
「……別に」
ふて腐れたような美代の答えに、ますます困惑して眉尻を下げる。そして銃刀法違反がどうとかいうヤジに小首を傾げる。
「登場人物が持つのは合法!それに法令に基づき職務のため所持する場合に当て嵌まるから!」
銃刀法の一文をすらすらと暗唱して反論する美代にも目を丸くする。
「じゅうとうほうって何ですか?」
「刃物とか銃とか持っちゃいけない決まり」
刃が剥き出しの槍を携えた生更はそれでも首を捻っていたが、ふと美代の腕輪に目を落として声を上げた。
「美代さん、早く行かないと」
「……うん、行こう。きっとまた図書室だ」
足速に教室を出る生更に続いて廊下に出た美代は、教壇で呆然としている教師に公欠の旨を伝えるのを忘れなかった。
校内放送が入った。図書館より乱丁本発生、危険度が高いと思われますので速やかに校庭へ避難してください。繰り返します――
「あんな騒動にしなくてもよかったんじゃないですか?」
「だってイライラしたんだもん」
「それにしても、さっきの反論すごかったですね」
「……銃刀法持ち出されたらああやって理路整然と反論しろって先輩に仕込まれて」
「でも銃や剣なしにどうやって自分の身を守るんですか?」
「警察って組織が善良な一般市民を守ってくれるの」
剣や魔法や人ならぬモノの物語に書き込まれた登場人物である生更は素直に感嘆している。
ざわつき始めた校内を生更と並んで図書室に向かう美代の腕輪はますますけたたましく鳴り響いている。
本体に彫り込まれた「Booker」の単語は美代の職業を表す。
Booker――すなわち書司。
紙に印刷された物語は、活字の部分を損なうと《乱丁本》になり、紙から剥がれて人を襲うのは周知の事実である。
損なわれていない物語から登場人物を呼び出し戦わせるのが剥がれ落ちた物語を退治る唯一の手段。
そして人類全員にそれができるわけではなく、故に物語に愛された者は日々退治に追われている。
彼らのことを《書司》と呼ぶ。
十三歳の時に書司に任命された現在十六歳の美代は学校で――図書室の蔵書や学級文庫や国語・英語・道徳の教科書相手に働くことも多かった。
故に校内では割合勘が働くが、案の定図書室の外で立ちすくんでいる学校司書を見つけた。
「司書さん、どのジャンル?」
「ごめん、ライトノベルなの」
まだ学生に近い年齢の彼女は申し訳なさそうに答えた。思わず美代は顔をしかめる。
「ラノベか……司書さん、図書室から離れてて」
「ご安心ください、被害は出させません」
「はい……」
緊張した声の美代とは対照的に柔らかな声音で微笑みかけた生更に司書の女性は少しばかり頬を上気させている。
「司書さん、こいつヘタレですよ」
「……そうだったわね」
「え、ちょっと、ヘタレって」
「いいから早く行くよ」
「はいっ」
勝手にいじられた生更は美代に促され、図書館の扉を引き開けた。
女子生徒がこちらに背を向けて座っていた。ただし制服はこの高校のものではない。
「……小太刀か、短剣か」
普段は黒く見える生更の瞳が緑の炎を揺らめかせる。彼の目は本来は深緑なのだ。
生更は人間ではない。人と獣の狭間の種という設定である。その彼が流れるような動きで槍を構え、人には出せない速度で繰り出した。
しかしそれは避けられる。
空を切った穂先を旋回させ再び女子生徒を見据えた生更は、不意に目を見開き美代を横抱きにして横っ跳びに逃げた。
その背後で微かな金属音。
生更は足を止めない。廊下へ走り出て肩越しに振り返り、突然階段の踊り場に飛び降りる。
先程まで二人がいた場所を何かが切り裂き、壁にぶつかって炸裂した。
爆発音とともに黒い霧が飛び散る。壁に天井に床に張り付いたそれはややあってずるずると一方向にはいずり始めた。
その向かう先は少女の姿をした乱丁本。
彼らは傷ついた本から剥がれた活字でできている。本体――題名を核にした部分から切り離された欠片、例えば武器も自然に題名の下へと帰る。
先程の攻撃のような飛び道具や武器、魔術が建物や物品、動植物を損なうことはない。傷つくのは乱丁本、登場人物、人間、そして本――すなわち言霊に深く関わるものたちだ。
静かな足音がして、乱丁本が階段の上に姿を現した。
肩の辺りで切り揃えた黒髪、抜群のスタイルにどこか人間離れした美貌。モデルのような美少女は無表情に二人を見つめ、瞳を赤く輝かせた。その姿に一瞬ノイズが走る。
登場人物の姿を取る乱丁本と、完全な本から呼び出される登場人物は似通っているが、見た目で見分けられる。
時折走るノイズは、不安定な存在である乱丁本の証拠だ。
そして不安定であるが故に彼らは確たる存在になろうと人を求む。
彼らに取り込まれた人間は、意味を成さない活字の羅列を写す本になる。死にはしない。自らの意識以外全て奪われた限りなく死者に近い存在に変えられる。
そんな事故から市民を守るために書司は存在する。
がちゃこん、と弾を装填したであろう音に続きこちらに差し出した右手首が折れ曲がる。その断面は太い銃口に酷似している。
「わ――――!!」
美代と生更は同時に叫んだ。美代を抱え上げた生更はとにかく乱丁本から離れようと走る。
「そうだ思い出したあの乱丁本の姿は全身機械仕掛けの登場人物だ!」
「それを早く言ってくださいよ機械の相手は僕無理です!」
「なんでよりにもよって彼女なわけ!?もっとこう、弱い登場人物だっているのになんで最強クラス!?」
壊れた物語から生まれる乱丁本はその物語の登場人物のいずれかの姿を取るが、選択に法則はない。退治が楽であるか苦労するかはほぼ運次第だと言ってもいいだろう。
背後の爆発音に負けぬよう大声で会話を交わしながら運ばれる美代は、段々疲れが溜まってくるのを感じていた。
物語の登場人物たちは現世で活動する時に呼び出した書司の体力を削る。本来消費する体力と同じだけ書司を消耗させるわけではないが、未熟な者ほど早く疲れるといっていいだろう。
戦い始めてまだ大したこともしてもらってないのに、と美代は唇を噛んだ。これだから、自分が未熟だから生更は全力を出して動けないのだ。
優しい彼は、現に美代の様子を注意深く観察しセーブしている。本文中ではもっと鮮やかな動きをしていたのに。
「美代さん!」
いつの間にか考え事に没頭していた美代は、何度目かの砲撃を辛くもかわした生更の声に我に返った。
「生更、私を下ろして還って」
はい、と返事が微かに聞こえたように思ったが、きちんと耳に届く前に彼の姿は活字の群れと崩れていた。
ウエストポーチに金色の活字が吸い込まれる。それを待たずに美代はもう一冊文庫本を取り出した。
書司は基本的には嵩張るハードカバーよりも、軽い文庫本を専用のウエストポーチに数冊入れて持ち歩く。様々なパターンの登場人物を呼び出せるようにするためだ。
「レファレンス――ヤタカ!」
――猛禽と同じ橙色の瞳が訝しげに瞬き細められた――
舞い上がった活字から顕現したのは着物姿で異形の青年である。背中に持った翼の付け根は濃灰色で、翼端は白。
雲のようなグラデーションのそれを大きく広げ、狭い廊下に器用に舞い上がる。それを助けているのは彼が右手に持った濃紺の扇で起こした風。
廊下に不自然な流れが引き起こされる。
す、と右手を構えた乱丁本の手首が折れた。爆発音とともに美代には視認できない速度で弾丸がヤタカに迫る。
ヤタカが扇を振るった。
巻き起こった暴風は弾の軌道を歪め、目標を見失った弾丸が壁に突き刺さって弾けた。後方で文庫本を開き仁王立ちしている美代の下には届かない。
連射されるそれをことごとく風で退けヤタカは空を蹴った。翼をすぼめるようにして狭い通路を翔け抜ける姿は、その名の通り獲物に迫る鷹に似ている。
腰に差した小太刀を左手で抜き、乱丁本に頭上から肉薄する。もちろん乱丁本とて黙って斬られるわけではない。繰り出される切っ先を恐ろしい反射神経で避け続ける。
あの少女の専門は飛び道具だ。至近距離で打ち込まれればヤタカもたまったものではないだろうが、彼は相手に構える隙を与えない。
ヤタカが乱丁本を追い上げて行く後を追う美代は、彼が上階に向かっていることに気がついた。
それに気付いているのかいないのか、乱丁本は何も言わない。言うはずもない。彼らは人を襲うだけの存在であり、今のところ意思はなく言葉も発さないものだと見られている。
もう生徒は避難したのか、乱丁本が飛び道具を封印された今校内にはヤタカが起こす風の音しか聞こえない。
どうやら目指しているのは屋上のようだ。
階段の先の扉まで追い詰められた乱丁本は、鍵がかかっているはずの扉を背中から体当たりする勢いで蹴り開けた。屋上に逃げた乱丁本を追いヤタカも風をまとって飛び出す。
蝶番が壁から引きちぎられ、無残な姿をさらしている屋上の扉を美代は見なかったことにした。この程度、よくあることだ。確かに武器や魔術で物損はしないが、乱丁本やら登場人物やらの馬鹿力で物損することは実はかなりある。
出口付近の暴風の名残に目を細めながら屋上に出た美代は、しかし目を剥いた。
給水塔の上で上体を起こし、真っ青になっている男子生徒が一人。ここで授業をサボって寝ていたのか、放送を聞きそびれて逃げ遅れたらしい。
当然の如く、乱丁本は彼に目を付けた。
ふと給水塔を振り返った少女の輪郭が崩れ始める。その一粒一粒が活字である黒い霧が滑るように男子生徒に向かって行く。
その中央には鈍く光る球体――あれが乱丁本の核となっている題名だ。あれを砕かない限り、乱丁本はいくらでも再生する。
「させるか」
一言低く呟いたヤタカが扇を大きく振るった。途端に引き起こされた一迅の風が霧を掻き乱そうと翔ける。
乱丁本といえど一度吹き散らされれば集まるのに時間がかかる。飛ばされまいと再び少女の姿を取った乱丁本は、霧だった時に空中にいたためすぐに落下し始める。
その背中がぱかりと開き、黒い機械仕掛けの翼が姿を現した。それが炎を吹き少女は一気に上空まで上がっていく。
生徒が避難している校庭から悲鳴やら歓声やらが聞こえてくる。
今日はよく晴れている。日光を遮って片手を目の上にかざした美代はその翼を眺めた。確かあれは「ジェットエンジン搭載の個人用飛行ユニット」だっただろうか。
「ヤタカ、追ってくれる?」
「飛んでいいのか」
普段は無表情なヤタカが気遣うような色を目に浮かべているのは、速度を上げて飛ぶと美代が更に体力を消耗するからだ。もし、彼が空を飛んでいる最中に疲れ果てた美代が意識を失いでもすれば、エネルギーの供給源を断たれたヤタカは否応なく本に戻され追跡は諦めざるを得なくなる。
息が上がり始めていたが、美代はヤタカに頷いた。
「大丈夫。行って仕留めて」
登場人物たちは皆書司を好いて心配してくれる。ヤタカもまた例外ではないが、生更とは違い美代が一度大丈夫だと言うとそれを信じて飛んでくれる。
橙色の猛禽の瞳を気遣わしげにわずかに曇らせて、それでもヤタカは翼を広げて舞い上がった。なるべく負担を減らそうと風を駆使してくれているのが感覚として伝わってくる。
乱丁本もヤタカも、それほど遠くまでは行くまいと美代は踏んでいた。
記憶違いでなければ、あの少女の飛行ユニットはすぐに不調になって落ちる。それは高所恐怖症の主人公を抱えて飛ぶ時のお約束のような設定だが、そういったイベントが描かれている以上きっとあの乱丁本もそれを反映しているだろう。
果たして、青空の中の点となった乱丁本は急に高度を下げ始めた。
飛行ユニットの調子が狂ったか、ヤタカが起こした風に煽られたか、あるいはその相乗効果か。
いずれにせよ、体勢が崩れたことは好機には違いない。
行け。
声には出さず、美代は一人呟く。
ふらふらと揺れながら落下する点にまっすぐ近付くもう一つの点。二つの点が重なった瞬間、一方が消し飛ぶのが見えた。
校庭から再び叫び声が上がる。消されたのは乱丁本なのか、それとも登場人物だったのか、地上からでは窺い知ることはできない。
けれど美代の手元には、文庫本が無事な状態で残っている。
彼が消されたならば、この本は崩れて消える。
要するに彼は、勝ったのだ。
屋上にヤタカが舞い降りた。極力翼をはばたかせずに、風の上にふわりと着地する。
「ヤタカ、ありがとう」
「早く攻撃系も防御系も扱える魔術師を呼び出せるようになってくれ」
歩み寄りながらお礼を言うとヤタカは仏頂面で答えた。
「飛び道具満載で半分機械化した人間の相手を生身でさせるな」
「……だって私が呼び出せる人の中に、あんな銃火器相手に持ちこたえる結界張れる人まだいないんだもん」
なら呼び出せるように早く成長するんだな、とヤタカは皮肉っぽく口角を上げた。
「お疲れさまでした。ヤタカ、還っていいよ」
彼を本に呼び戻し、美代は屋上に座り込んだ。それだけでは足りずにコンクリートの上に寝転がる。
そろそろと忍び足で校舎内に戻っていく男子生徒を詰問するのも面倒だ。それにどうせ教師に見つかってたっぷり絞られるだろう。
「……疲れた」
今度は呟きを声に出し、目を閉じる。
春の日差しはまだ柔らかで、このまま寝てしまいそうだ。
どうせ公欠だし、とチャイムが鳴るまで帰らないことにして寝返りを打つ。校庭からは生徒に呼びかける拡声器のノイズとざわめきが遠い波音のように聞こえてくる。
うとうとしかけた頃、図書館に着いた時から沈黙していた白い腕輪が緑に光った。
『近隣の書司に緊急連絡』
腕輪からの声に美代は目を開けた。横たわったまま次の言葉を待つ。
『切り裂きジャックが出た』
瞬間、美代は跳ね起きて階下に駆け出した。