異聞:石炭酸の海
夜、本編を書いていたら変な電波を受信してしまい、短編を一つ仕上げました。
本編「南山共和国建国史」からのスピンオフです。
本編の時系列的には1868年5月上旬ごろです。
いあいあ。
やれやれ、私の研究室の防音扉をノックする音がこれほど不吉に聞こえる日はそうそうない。
今回、私の不肖の弟子、名は伏せておこう、彼は松本登米子先生の直系、玄孫にあたる家系の生まれで、地頭だけは異様に良いのだが、いかんせん知的好奇心が「生存本能」を上回っている男だ。
彼が、震える手で持ち込んできたのは、一冊の古い、石炭酸の臭いが染み付いた日記帳だった。それは、かつて南山医学界の母と謳われたトメ先生が、幼少期に書き残したとされる「神農丸」での記録だ。
南山共和国の建国史において、松本良順とその養女、松本登米子が果たした予防医療と公衆衛生の確立は最高の賞賛すべき出来事であったが、その誕生の影でどれほどの出来事があったのか。この記録は、正史の編纂委員たちが「あまりにも常軌を逸している」として灰にしたはずの断章である。
不肖の弟子が、またしても「開けてはいけない箱」を開けてしまったようだ。彼がこれまで、ミスカトニック大学の交換留学生時代に「禁じられた生理学」の講義で引き起こした数々のボヤ騒ぎや、明望市の地下遺構での「やらかし」を、毎回私が火消しに走った事を考えれば、この資料が私の元に来たのも一種の運命なのだろう。
トメ先生の魂に敬意を払い、そして南山の平和な医師たちの名誉のために断っておくが、これは決して倫理の逸脱ではない。それは、絶望的な深淵を前にした際にのみ許される、極限的なまでの実利的人道主義の記録なのだ。
では、ウィスキーのグラスに氷を一つ追加しよう。話は、あの忌まわしき「赤道の凪」から始まる。
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【形而史学断章】神農丸、深淵の航跡にて - 石炭酸と人痘の結界
著: 櫻井 重隆 (南山文理大学歴史学部 教授 / 形而史学博士 Ph.D.)
慶応四年、太平洋上。
江戸から奪取した一切合切の医療資材を満載し、一路南山へ向かう輸送船「神農丸」の船内は、産業革命の希望を象徴する無煙炭の煤と、孤児たちの吐息が混じり合う、逃げ場のない鉄の牢獄の様だった。
松本良順は、船医室の微かなランプの灯りの下で、自らの正気という名の薄い氷の上を歩いていた。彼の前には二十人の子供たちが、牛痘ウイルスの「生きた培養器」として並べられている。
人痘リレー。
一人から一人へ、病を植え継ぎ、生きた肉体の中でウイルスの鮮度を保ちながら新天地へ運ぶ。それは百万の民を救うための「神の御業」か、あるいは「悪魔の計算」か。
良順は、昼夜を問わず子供たちの容態を観察し、その苦悶の声に耳を塞ぎながら、震える手で日記を綴っていた。
「……私は、修羅になるのだな」
ランプの煤けた光の下、良順のペン先が紙を削る音が、子供たちの啜り泣きと重なる。彼は、二十人の孤児の腕に、順番に二人ずつ自らの手で病の種を植え付けていった。
一人、また一人と熱に浮かされ、膿疱が膨らんでいく様を見守ることは、患者のための医師を自負する彼にとって、魂を薄く削り取るような苦行であった。彼が求めているのは公衆衛生という名の巨大な救済だが、その足元には、たった今、自分の手で傷つけた子供たちの小さな苦痛が転がっている。
その沈黙と後悔を切り裂いたのは、捨吉のうわ言であった。
「……暗い、よ。お水が、足のほうから……。お魚の顔をしたお坊さんが、いっぱい、笑ってる……」
捨吉の譫妄。それは、今となって考えてみれば、高熱による幻覚という言葉では片付けられない、子供特有の繊細な感覚が捉えた「世界の綻び」であった。船壁のすぐ向こう、太陽の光が届かない深淵の底から、何者かが自分たちを観測している。捨吉は、その冒涜的な視線を、熱に浮かされた肉体で敏感に感じ取っていたのだろう。
声を聴いた、トメが動いた。
彼女は人痘リレーの第一走者として種痘を受け、ようやく熱も下がってきたが、まだ消耗が回復したとは言えず寝台に横になっていたはずだった。彼女は自身の腕の痛みも忘れたかのように、捨吉の傍らに跪き、その熱い手を、自分の小さな両手で包み込んだ。
「捨吉さん、大丈夫よ。怖い夢を見ているだけ」
トメの声には、良順が持っていたような迷いも、形而上的な恐怖もなかった。彼女は、ただ目の前の友が震えていることを、何よりも悲しみ励まそうとしている一人の子供であった。
「あのね、良順先生がしてくれたことは、魔法なのよ。私たちの腕にあるこの傷は、悪い神様から私たちを守ってくれる印なの。……この印があるから、あのお外の怖いお坊さんたちも、私たちの船には入ってこれないのよ」
トメは、子供らしい、しかしどこか本質を射抜いた言葉で、怯える捨吉を宥めた。
彼女にとって、良順が説明した「人痘」や「免疫」といった難しい理屈は、まだ言葉としては理解できていなかったかもしれない。だが、良順が苦渋に満ちた表情で自分たちの腕を傷つけたのは、自分たちを見捨てたからではなく、何よりも自分たちを「生かそう」としたからだということを、彼女はその冷静な頭脳で理解していた。
「だからね、捨吉さん。この熱は、私たちが強くなっている証拠。……あいつらに、負けないために。私たちが、新しいお国で笑うために」
トメは、捨吉の額に浮いた汗を自分の袂で優しく拭った。その眼差しは慈愛に満ち、まるで壊れ物を扱うような慎重さがあった。彼女の優しさとは、絶望を知らない無知なものではなく、すぐ隣にある死の気配を認めながらも、それでもなお、隣人の手を離さないという、静かな、しかし鋼のような決意であった。
良順は、その光景を日記を綴る手を止めて見つめていた。
自分が救おうとしているのは国家という抽象的な概念だが、この少女が救おうとしているのは、今ここにいる友の心なのだ。
トメは、捨吉の耳元で小さな声で歌い始めた。それは江戸の路地裏で聞いたような、ありふれた子守唄だった。だが、その旋律は、石炭酸の匂いが立ち込める殺風景な船底を、不思議な安らぎで満たしていった。
それは、これから自分たちが直面する「医学的必然」、すなわち、生を勝ち取るために死の毒を飼い慣らすという過酷な運命を、子供の清らかさで包み込んだ、世界で最も勇敢な子守唄であった。
しかし、その「救済」の航路を、異界の影が遮ったのである。
突然、神農丸の蒸気機関が悲鳴を上げ、船足が止まった。海面はまるで溶けた鉛のように重く、不気味な燐光を放ち始めた。空を見上げれば、見慣れた星座はどこにもない。そこにあるのは、人類の視覚神経が拒絶反応を起こすような、狂った角度で並ぶ「古き神々」の配置図であった。
「……野郎ども! 敵襲だ! 伏兵の気配がするぞッ!」
甲板で、聞くに堪えない濁声が響いた。大垣内大尉である。
彼は巨躯を誇り、口を開けば「尊王攘夷」だの「南山の守護神」だのと吼え立てていたが、その本性は薄っぺらな臆病者であった。数日前には、子供たちの泣き声が煩いと良順に喚き散らし、今朝などは、自らの粗相で袴を茶で汚したのを「官軍の呪術による攻撃だ」と狼狽え、配下の兵士たちに八つ当たりしていたような男だ。
大垣内は、海面から這い上がってきた「それら」を見た瞬間、腰の軍刀を抜き放った。だが、その手は目に見えて震えていた。
「な、なんだ、その顔は……。化け物め、近寄るな! 斬るぞ、本当に斬るからなッ!」
海面から無数に這い上がってきたのは、暗緑色の皮膚を持ち、飛び出した金色の巨大な眼球をぎらつかせる、深きものども(Deep Ones)であった。
大垣内は、悲鳴のような咆哮と共に軍刀を振り回したが、その動きは恐怖に支配され、あまりにも無様であった。足をもつれさせて甲板のロープに引っかかり、転倒した拍子に自分の軍刀でフロックコートの裾を切り裂く始末。
「ひ、ひぃぃッ! 助けてくれ、良順先生! 医者だろう、なんとかしろッ!」
尊大な態度はどこへやら、大垣内は四つん這いになって、ぬらぬらと光る異形の足元に縋り付かんばかりの醜態を晒した。しかし、異形たちはこの「無価値な肉塊」を即座に殺すことさえしなかった。彼らにとって、この騒がしい巨漢は、彼らの海底神殿における「労働力」あるいは「より劣悪な実験体」としての価値しかないと判断されたらしい。
異形たちの水掻きがついた手が、大垣内の首根っこを掴んだ。彼は、泡を吹いて失禁しながら、ずるずると船縁まで引きずられていく。
「やめろ、離せ! 俺は大垣内だぞ! 将来の大将だぞぉぉぉッ!」
その虚しい絶叫と共に、大尉の巨体は暗い海の中へと、物理法則を無視した巨大な水音と共に呑み込まれていった。
「……騒がしい人がいなくなったわね」
船倉のハッチからその光景を見ていたトメが、ポツリと呟いた。その声には、冷酷さよりも、むしろ純粋な「環境の浄化」を喜ぶ子供のような無邪気さが混じっていた。
だが、危機は終わらない。大垣内という前菜を平らげた異形たちは、次なる獲物、船底で高熱にうなされる子供たちの、生命のエネルギーを求めて、ハッチへと殺到した。
「――させるかッ!」
良順が、船医室から飛び出した。
彼は手近にあった外科用の重いメスを握りしめ、ハッチをこじ開けようとしていた一体の異形の頸部に突き立てた。だが、手応えがない。異形の皮膚は分厚いゴムのようで、刃は緑色の粘液を撒き散らすだけで、致命傷には至らなかった。
異形が、耳まで裂けた口から、金属を擦り合わせるような音を漏らし、良順に飛びかかる。
良順は、異形の巨大な力に押し潰されそうになりながらも、必死に格闘した。殴り、蹴り、指を眼球に突っ込む。それは近代医学の権威とは思えぬ、泥臭く、必死な生存のための暴力であった。
だが、多勢に無勢である。十数体の異形が、冷たい風と共に船内に侵入し、子供たちの寝床へと迫る。良順の視界が、絶望に染まりかけたその時。
「先生! 匂いよ!」
背後で、トメが叫んだ。
彼女は怯える捨吉を庇いながら、ハッチの脇に置かれていた大きな木箱を指差していた。
「あいつら、海から来たのよね? お水が好きなのよね? だったら、先生がいつも言ってる、あの、きれいに掃除するものをあげればいいじゃない!」
良順の脳髄に、稲妻が走った。
そうだ。彼らが依存する粘液質の皮膚、湿潤な生理構造。それに対して、人類が生み出した究極の「拒絶」がある。
良順は異形を振り払い、木箱へと走った。中から取り出したのは、分厚いガラス瓶に入った【石炭酸】の原液である。
「そうだ、トメ。これは掃除だ。この世の汚れを、すべて洗い流す消毒なのだ!」
良順は、瓶の首を叩き割り、中身の劇薬をハッチの階段、そして迫り来る異形どもの顔面に向けて、躊躇なくぶちまけた。
刹那、神農丸の船内を、筆舌に尽くしがたい化学的な暴力が支配した。
石炭酸の、鼻腔を内部から焼き尽くし、眼球の粘膜を強制的に収縮させるような強烈な刺激臭。それは、いかなる古代の魔術や呪言よりも苛烈な、物質的な拒絶の宣言であった。
飛沫を浴びた異形たちが、狂ったような悲鳴を上げた。
彼らの湿った皮膚は、石炭酸の強力な腐食作用によって瞬時に白濁し、炭化し、剥がれ落ちていく。深海の影の世界から訪れた彼らにとって、この近代的な消毒薬は、肉体そのものを分解する、生きた地獄の炎に等しかった。
良順は、むせ返るような薬品の霧の中で、狂ったように次の瓶、その次の瓶と叩き割り続けた。
船内は、目も開けられぬほどの石炭酸の蒸気で満たされ、あらゆる魔的な気配を物理的に消し飛ばしていった。
異形たちは、未知の痛覚と、自らの肉体が消毒されていく恐怖に耐えきれず、次々と海へと逃げ帰ってい行く。そして黒い霧は晴れ、歪んだ星座は溶け去り、世界は再び、冷徹な物理法則の支配下へと戻っていった。
翌朝、太陽が水平線から昇った時。
甲板にいた兵士たちは、一様に首を傾げていた。
「大垣内大尉? ああ、あの方は夜中に嵐で海に落ちたはずだ。……いや、そうだったかな?」
「なんだか、ひどく薬臭いな。良順先生が掃除でもしたのか?」
彼らの記憶は、あまりにも強烈な非日常を拒絶し、もっともらしい日常へと書き換えられていた。それは、石炭酸の匂いと共に、世界の綻びが強制的に縫い合わされた結果であった。
ただ三人を 除いて。
松本良順と、トメ、そして捨吉だけが、互いの瞳の奥に、あの緑色の粘液と石炭酸の入り混じった地獄の記憶を共有していた。
良順は、呆然と海を見つめる二人を見下ろした。
二人を養子に迎えようと決意したのは、決して同情からではない。この恐るべき世界の真実を視てしまい、それでもなお正気を保ち、自らの足で立とうとするこの少年少女こそが、これから自分が築く「医学という名の要塞」の真の継承者になると確信したからだ。
「……トメ。お前が、私を導いてくれた」
良順の言葉に、トメはいつもの優しい、子供らしい笑顔で答えた。
「いいえ、先生。私はただ、石炭酸の匂いの方が、あのお魚の匂いより好きだっただけよ」
その無邪気な言葉の裏側に、良順は、後に夫の捨吉に南山の重化学工業を掌握させ、インスマウスの闇を科学で制圧し続ける「松本登米子」の、鋼鉄の意志の萌芽を見た。
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……さて、私の不肖の弟子が持ってきた日記の内容は、ここで終わっている。
彼はこの日記を読んだ後、「急に石炭酸の匂いが嗅ぎたくなった」と言って、大学の薬品庫へ走っていったよ。全く、トメ先生の血というのは、時として厄介な好奇心を遺伝させるらしい。
松本登米子先生。彼女がなぜ、生涯を通じて「完璧な消毒」と「細菌の根絶」に執着したのか。その答えは、この神農丸の、石炭酸の匂い染み付く夜にある。
私は彼女を、一人の偉大な医師として、そして深淵を御した形而史学的な勝者として、心から尊敬し、畏怖しているのだ。
おや、ウィスキーがなくなった。
今夜は、これくらいにしておこう。
イア、イア。
<おしまい>
最後までお付き合いいただき感謝します。
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本編です。
「南山共和国建国史―松平容保と勝海舟は日本から脱出するようです―」
https://ncode.syosetu.com/n1033lp/
本短編の同シリーズの短編です。
「異聞 五稜郭」
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櫻井教授の長編論文もあります!宜しければこちらもどうぞ
「南山共和国建国史シリーズ」
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「サレ夫が神様転移で異世界へ!〜マッドなサイエンティストな部下や可愛い未亡人と一緒に、チートな要塞でまったりスローライフ建国記〜」
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