もしも宝くじが当たったら
その男は、この町で少し浮いていた。
同じ形の家が並ぶ、ごくありふれた住宅街。その一角に、場違いな色が差し込んでいる。
真っ赤な外国製のオープンカー。
晴れた日には必ず屋根が開いていて、陽の光が反射して妙に目立つ。通学途中の子供たちが足を止める程度には、異質な存在だった。
「ねえ、またあの車あるよ」
「すごいけど……なんかこわくない?」
小声のつもりなのだろうが静かな朝にはよく響く。
玄関の扉が開き、男が姿を現す。無精髭は整えられ、シャツには皺ひとつない。腕には光沢のある腕時計が巻かれていて、値段など知らなくても高価なものだとわかる。
男は子供たちの視線に気づいているが、何も言わない。
ただ一度だけ、オープンカーの助手席へ視線を落とす。それはほんの一瞬のことだった。すぐに運転席へ乗り込み、エンジンをかける。
低く響く音が、朝の空気を震わせた。
昼になると、別の声が増える。日陰に集まった主婦たちの会話は、最初は他愛のないものから始まり、やがて自然と一つの家の話題に落ち着く。
「あの人、最近また派手になってない?」
「ねえ。前はあんなじゃなかったわよね」
「奥さん亡くなってからよ」
ひとりが声を落とすと、残りもそれに倣う。
「やっぱり……保険金?」
「どうなのかしら。でも、あの生活は普通じゃないでしょ」
その声には、はっきりとした嫌悪が滲んでいる。何世帯も暮らす場所には、一人や二人変わった人間がいると言われるが、男は悪い意味でこの住宅地の“名物”になりつつあった。
そのとき、家の扉が開き、男が外に出てくる。主婦たちは一瞬だけ口をつぐむが、完全に沈黙することはない。聞こえているかもしれない距離を保ったまま、会話を続ける。
「毎日外食してるって聞いたわよ」
「週末は必ずどこか行ってるって」
「いいわよねぇ、お金があって」
男は何も言わない。視線すら向けない。ただポストを開け、中を確認する。
その直後、ほんの一瞬だけ、男の視線が家の中へ向いた。まるでそこに誰かがいるかのように。しかし次の瞬間には何事もなかったかのように目を逸らし、ドアを閉める。
夕方になると、今度は子供たちの視線が集まる。
「ねえ、あの人いつも一人だよね」
「家族いないのかな」
「奥さん、死んじゃったんだって」
声が少しだけ沈む。
「じゃあなんで、あんな楽しそうなことしてるの?」
「ママが言ってた。薄情な人ってやつだって」
男はそれにも反応しない。
夜になると、男は庭で火を起こす。小さなバーベキューコンロに炭を並べ、火をつける手つきは慣れていた。何度も繰り返してきた動作だった。肉を焼き、油が落ちて火が小さく弾ける。
皿は二枚用意されていた。
しばらくして、男は片方の皿を手に取る。
「焼けたぞ」
ぽつりと呟く。返事はない。それでも男はもう一枚の皿にも肉を乗せ、箸を二膳並べる。向かいの席には誰もいない。あるのは写真立てに収められた女性の笑顔だけだった。
「今日はな」
男はゆっくり口を開く。
「新しい店、見つけたんだ」
独り言にしては丁寧な話し方だった。
「明日、行ってみるか」
少し間を置いて、男は小さく頷く。まるで誰かの返事を聞いたかのように。
夜は静かだった。遠くで犬が鳴き、どこかの家のテレビの音がかすかに漏れる。その中で、男の声だけがぽつりぽつりと続く。
それを聞いている者はいない。それでも男は話し続ける。そこに確かに誰かがいるかのように。
この男がなぜこうなったのかを、この町の誰も知らない。
ただ一人を除いては───だが、“もう一人”は、もうこの世にはいない。
まだ、すべてが普通だった頃。
男は軽自動車に乗っていた。エンジンをかけると少し遅れて振動が返ってくる、年季の入った車だった。ドアも一度で閉まらないことが多く、勢いをつけないと半ドアになる。
「またちゃんと閉まってない」
助手席から呆れた声が飛ぶ。
「閉めたつもりなんだけどな」
「“つもり”で閉まるなら苦労しないの」
彼女はそう言って身を乗り出し、ドアを押し直す。カチリと音がして、今度はきちんと閉まった。
「ほら」
「……はいはい」
男は苦笑して車を発進させる。
それだけのやり取りで、二人は笑っていた。
帰り道、スーパーに寄るのが習慣だった。夕方の店内は人で溢れ、特売コーナーには自然と人だかりができる。
「ちょっと見て、これ」
彼女が袖を引く。
「コロッケ半額」
「マジか」
「買いでしょ」
「買いだな」
真剣な顔で頷き合う。
「今日の夕飯、豪華だな」
「半額で豪華って言えるの、才能だと思うよ」
「褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
そんな会話をしながら、ビニール袋を提げて帰る。
家に着くと、狭いキッチンで二人並んで準備をする。特別な料理ではない。味噌汁と、ご飯と、総菜を皿に移すだけの簡単なものだ。それでも彼女はきちんと盛り付けにこだわり、男は横で邪魔にならない程度に手伝う。
「はい、できた」
「おお」
小さなテーブルに並べる。
「いただきます」
「いただきます」
湯気の立つ味噌汁をすすりながら、彼女が小さく息をつく。
「……落ち着く」
「家だからな」
「そういうことじゃなくて」
少し笑う。
「なんかさ、こういうのがいいなって思う」
「こういうのって?」
「別に豪華じゃなくてもいいから、普通にご飯食べて、普通に話して、普通に一日終わるやつ」
「それ、今まさにやってるな」
「だからいいんだよ」
彼女はそう言って笑った。
食後、テレビをつける。特に見たい番組があるわけでもなく、適当に流しているだけだった。
「ねえ」
「ん?」
彼女がソファに寝転がりながら言う。
「もしも宝くじが当たったらさ」
また始まった、と男は苦笑する。
「好きだな、それ」
「いいじゃん、夢くらい見させてよ」
彼女は天井を見上げたまま続ける。
「世界一周とかしてみたいね」
「いきなりスケールでかいな」
「じゃあもうちょい現実的にいく。海の見える家」
「それもだいぶでかい」
「じゃあ毎日外食」
「それはただの浪費だろ」
「三億あればいけるって」
適当なことを言いながら笑う。
「あとさ、赤いオープンカーとかどう?」
「目立つだろ」
「いいじゃん、一回くらい」
「絶対似合わないって」
「似合うって。なんかそういうの着てほしい」
彼女は楽しそうに話し続ける。
「時計も欲しいな。すっごい高いやつ」
「急に俗っぽいな」
「夢だからいいの」
男は呆れたように笑いながらも、その話をちゃんと聞いていた。
特別な約束をするわけでもない。実現する予定もない。ただの“もしも”の話。それでも彼女は、何度もその話をした。
そのたびに、二人は笑っていた。
その時間が、当たり前に続くと思っていた。
疑う理由がなかった。
何もかもが、そこにあったからだ。
それが、どれほど簡単に崩れるものなのかを、このときの二人はまだ知らなかった。
異変は、些細な違和感から始まった。
「最近さ、ちょっと疲れやすいかも」
夕食のあと、彼女が何気なく言った。
「仕事忙しいんじゃないか」
「うーん、どうだろ。前からこんなもんだった気もするけど」
そのときは深刻に受け止めなかった。ただの体調不良だと思っていたし、実際、彼女も大したことではないように話していた。
だが数日後、同じような言葉が増えた。
「ちょっとだるいかも」
「最近、食欲あんまりなくて」
さすがに気になり、病院へ行くことになった。
「一応、検査だけしてみましょうか」
医者は穏やかに言った。“念のため”という言葉が添えられていた。
結果が出るまでの一週間、二人の生活はほとんど変わらなかった。軽自動車に乗り、スーパーに寄り、夕飯を食べて、テレビを見て眠る。何も変わらないように見えた。
ただ、ほんのわずかに、空気が違っていた。
一週間後、診察室の空気はやけに重かった。
医者はしばらく書類に目を落としたまま、口を開かなかった。その沈黙だけで、十分だった。
「……詳しく説明します」
それからの言葉は、断片的にしか頭に残っていない。
難病。進行。手術。成功率。
「治療法はありますが、成功率は高くありません」
どれくらいですか、と聞いたのは男だった。
「……一割に届くかどうかです」
その数字は妙に現実的で、逆に残酷だった。
「費用も、かなりの額になります」
提示された金額を聞いた瞬間、男は理解した。
───足りない。
どう計算しても、どう働いても、現実的に埋められる差ではなかった。
診察室を出たあとも、二人はしばらく何も話さなかった。長い廊下を並んで歩く。足音だけがやけに響いた。
「……帰るか」
「うん」
それだけだった。
それから男は働いた。朝も夜も関係なく働いた。睡眠を削り、食事を適当に済ませ、ただひたすら金を稼ごうとした。
妻は何度か一緒にいて欲しいと願った。
しかし、男は働くことを選んだ。
バイトも増やして毎日必死に働いた。
だが現実は変わらない。いくら計算しても、必要な額には届かない。
ある日の帰り道、男は足を止めた。
目の前には宝くじ売り場がある。
明るい看板。楽しげな文字。今まで一度も頼ろうと思ったことのないものだった。
だが、その日だけは違った。
男はしばらくその場に立ち尽くし、それから静かに列に並んだ。
——どうか。
それは祈りに近かった。
数日後、結果が出た。
数字を確認したとき、最初は理解できなかった。見間違いだと思い、何度も見直す。
すべて一致していた。
一等、三億円。
その瞬間、頭に浮かんだのは喜びではなく『間に合った』という確信だった。
男はその足で病院へ向かった。
病室の扉を開ける。
「当たった」
それが最初の言葉だった。
「宝くじ。三億」
彼女は一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「ほんとに?」
「本当だよ」
震える手で券を見せる。
「これで手術できる」
迷いなく言い切る。
だが彼女は、ゆっくりと首を横に振った。
「やめとく」
あまりにもあっさりした答えだった。
「なんでだよ」
「成功率、聞いたでしょ」
「それでもゼロじゃない」
声が少しだけ強くなる。
「一パーセントでもあるなら、やるべきだろ」
「でも、ほとんどゼロだよ」
彼女の声は静かだった。
「もし失敗したら、苦しいだけで終わるかもしれない」
「それでも——」
「それなら」
言葉を遮る。
「まだ普通に話せる時間があるほうがいい」
男は言葉を失った。
「最後まで、ちゃんと笑っていたい」
その目はまっすぐで、揺れていなかった。
何も言えなかった。何か言えば、壊れてしまう気がした。
しばらく沈黙が続いたあと、彼女がふっと表情を緩める。
「ねえ」
「……なんだよ」
「もしも宝くじが当たったら、って話。覚えてる?」
男は小さく頷く。
「毎日あれしよ」
彼女は笑った。
「いっぱい話して、いっぱい笑って、それでいい」
それを否定することはできなかった。
それから二人は毎日同じ話をした。
「もしも宝くじが当たったらさ」
それが合図だった。
「あの時計、似合うと思うんだよね」
「似合うかよ」
「絶対似合うって」
「赤いオープンカーで海沿い走りたい」
「目立つだろ」
「いいじゃん、一回くらい」
「毎日外食とかしてみたいな」
「破産するわ」
「三億あるんだから大丈夫でしょ」
くだらない話ばかりだった。
それでも、その時間は確かに満ちていた。
終わりが近づいていると知りながら、それでも二人は笑っていた。
三ヶ月後、彼女は静かに息を引き取った。
その瞬間のことを、男ははっきりと思い出せない。医者が何かを説明していた気もするし、看護師が肩に手を置いた気もする。ただ、それらはどこか遠くの出来事のようで、現実感がなかった。
ただ一つ、はっきり覚えていることがある。
「私の分も長生きしてね」
彼女の最後の言葉だった。
気づけば、家に戻っていた。
靴を脱いだ記憶も、鍵を閉めた記憶も曖昧なまま、ただ部屋の中に立っている。空気が違った。音が消えている。これまで当たり前にあった気配が、跡形もなく消えていた。
何かが欠けたというより、世界そのものが一つ削り取られたような感覚。
男はその場に座り込み、それから何日もほとんど動かなかった。食事をした記憶も薄く、眠ったかどうかもわからない。ただ時間だけが過ぎ、涙だけが静かに落ち続けた。
このまま死ねば会える——そんな考えが浮かんでも、不思議と怖さはなかった。それが一番自然な流れのように思えた。
意識がゆっくり沈みかけたとき、ふと声が蘇る。
「叶えてよ」
病室での、あの言葉。
笑いながら、当たり前のように言っていた声。
男は息を吸い、ゆっくりと目を開けた。
「……そうだな」
かすれた声が漏れる。
「全部やるって、言ったもんな」
それが、再び立ち上がる理由になった。
最初に買ったのは、真っ赤なオープンカーだった。彼女が言っていた通りの色で、言っていた通りに屋根が開く。
納車の日、男はしばらく運転席に座ったまま動かなかった。やがて視線を横に向け、助手席に写真立てを置く。
「どうだ」
返事はない。それでも小さく頷き、エンジンをかけた。
海沿いの道を走る。風が強く吹き込み、髪が乱れる。潮の匂いがわずかに混じる。
「ここ、来たかったんだろ」
前を見たまま言う。
「ほら、海だ」
少しの間を置いて、男は一人で頷いた。まるで隣で誰かが笑ったかのように。
それから男は、彼女の言葉を一つずつなぞるように生き始めた。
高級時計を買い、ブランドの服を揃え、毎日のように外食をした。レストランでは決まって二人分の席に案内される。
「お連れ様は」
そう尋ねられるたびに、男はわずかに言葉を止めてから答えた。
「……来ます」
向かいの席は、最後まで埋まらなかった。
料理が運ばれるたびに、彼女に話しかける。
「こういうの、緊張するって言ってたな」
返事はない。それでも言葉は止まらない。
旅行にも行った。山へ、海へ、見知らぬ街へ。どこへ行くにも写真を持ち歩いた。
「ここ、来たかったって言ってたろ」
同じ言葉を、何度も繰り返した。
季節が巡る。景色が変わる。それでも隣だけは変わらないままだった。
周囲の視線は、少しずつ形を変えていった。
「あの人、また一人で出かけてる」
「写真に話しかけてたよ」
「ちょっと……ね」
最初は嫌悪だったものが、やがて理解できないものを見る目に変わり、最後には距離を置くための視線になった。
それでも男はやめなかった。
やめる理由がなかった。
すべては約束だった。
何ヶ月も、何年もかけて、一つずつ叶えていく。確認するように、埋めるように、繰り返していく。
そして最後の一つを終えた日、男は家に帰った。
靴を脱ぎ、部屋に上がる。
静かだった。
以前と同じはずの空間が、まるで別の場所のように感じられる。
やるべきことは、もう何も残っていない。
男は椅子に座り、テーブルの上の写真を見つめた。
「全部、やったぞ」
そう呟くと男は静かにロープを見上げた。
結び目の位置も長さも、何度も確かめてある。いつ用意したのかは、もうはっきりしない。
ただ、こうなることだけは、どこかで決まっていた気がした。
最初からわかっていたはずだった。どれだけ形をなぞっても、あの時間は戻らない。
それでもやったのは、あの言葉があったからだ。
——「叶えてよ」
男は目を閉じる。
あのとき、確かに「間に合う」と思った。
宝くじが当たったあの日。あの瞬間だけは、すべてを取り戻せる気がしていた。
だが、間に合わなかった。
何一つ。
男はゆっくりとロープに手をかけた。
踏み台に足を乗せる。
一度だけ、部屋を見渡す。
どこにも彼女はいない。
写真が目に入る。
ほんの一瞬、足が止まる。
それでも、戻る理由にはならなかった。
男は静かに息を吐き、足の力を抜いた。
視界が揺れる。
呼吸が詰まる。
音が遠のいていく。
意識が沈んでいく中で、記憶だけが浮かび上がる。
スーパーでのやり取り。
くだらない会話。
病室で笑った日々。
彼女の声が、確かに聞こえた気がした───。
次に目を開けたとき、そこは見知らぬ場所だった。
ただ一つ、見覚えのあるものがあった。
目の前に立つ、彼女の姿。
腕を組み、明らかに怒っている。
「……なにしてんの」
その声は、あの頃と変わらない。
男はしばらく何も言えず、ただ見つめる。
「なんで死んでんの?」
呆れたように言われて、男は小さく笑った。
「……会いに来た」
「バカじゃないの」
即座に返される。
その言い方に、男は思わず笑った。
「約束したでしょ」
「……何を」
「生きてって」
男は少しだけ黙る。
「そっちこそ破っただろ」
「え?」
「手術、受けろって言った」
彼女は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「ああ、それ」
肩をすくめる。
「お互い様だね」
「ほんとにな」
二人は顔を見合わせる。
少しの間のあと、同時に笑った。
どちらも、一番の願いは叶えていない。
彼女は生きることを選ばなかった。
男は生き続けることを選ばなかった。
それでも今、こうして隣にいる。
「ねえ」
彼女が言う。
「もしも宝くじが当たったらさ」
男は少しだけ笑う。
「なんだよ」
「今度はちゃんと、生きる?」
すぐには答えなかった。
答えられなかった、の方が近い。
しばらく黙ったあと、男は小さく息を吐く。
「……わかんねえよ」
正直な言葉だった。
彼女は一瞬だけ目を細め、それから小さく笑う。
「そっか」
責めるでもなく、ただ受け止めるように。
「じゃあさ」
少しだけ身を乗り出して、
「もう一回、考えよっか」
あの頃と同じ調子で言った。
男は、ほんの少しだけ驚いた顔をしてから――
苦く、そしてどこか救われたように笑う。
「……お前、ほんとそれ好きだな」
「夢くらい見させてよ」
あのときと同じやり取りだった。
——もしも宝くじが当たったら。
その続きを、二人はまた、始める。
ただし今度は――
終わりのないまま。
終わり
この物語をここまで読んでいただき、ありがとうございます。
「もしも宝くじが当たったら」
そんな何気ない会話が、誰かにとっては人生そのものになることがあります。
叶わなかった願い。
間に合わなかった想い。
それでも、人は誰かの言葉に縛られ、救われながら生きていくのだと思います。
彼らの選択が正しかったのかは、きっと誰にもわかりません。
ただ一つ言えるのは——
あの時間は、確かに“本物”だったということです。
そしてもし、あなたにも「もしも」の話をする相手がいるなら。
その時間を、どうか大切にしてください。




