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正法眼蔵随聞記 第五

正法眼蔵随聞記 第五


侍者 懐奘 編





九十三


一日、示して云く、

仏法の為には、身命を惜むことなかれ。

俗、猶お、道の為には、身命をすて、親族をかえりみず、忠を尽し、節を守る。

是れを、忠臣とも云い、賢者とも云うなり。

昔、漢の高祖、隣国と、いくさを起す時、ある臣下の母、敵国に、ありき。

官軍も、「二心、有らんか?」と疑いき。

高祖も、「かれ、若し、母を思いて、敵国へ、さることもや、あらんずらん、若し、さ、あらば、軍、やぶるべし」とて、あやぶむ。

爰〈ここ〉に、彼の母も、「我が子、もし、我によりて、我が国へ来ることもや、あらんか?」と、おもい、誡めて、いわく、「われによりて、いくさの忠をゆるくすることなかれ。我れ、もし、いきていたらば、汝、二心もや、あらん」と云いて、剣に身をなげて、うせてけり。

其の子、本より、ふた心、なかりしかば、其の、いくさに、忠節を致す志、深かりける、と云う。

況や、衲子の、仏道を存するも、必ずしも、二心、無き時、まことに、仏道に契うべし。

仏道には、慈悲、智慧、本より、そなわる人も、あり。

設〈たと〉い、無き、ひとも、学すれば、得るなり。

只、身心を倶に放下して、仏法の大海に廻向して、仏法の教に任せて、私曲を存ずることなかれ。





九十四


また、漢の高祖の時、ある賢臣の云く、「政道の理乱は、なわの結ぼれるを解くが如し。急に、すべからず。よくよく、むすびめを見て、とくべし」と。

仏道も、亦、かくの如し。

よくよく、道理を心得て、行ずべきなり。

法門を、よく、心得る人は、必ず、強き道心、ある人、よく、心得るなり。

いかに、利智、聡明なる人も、無道心にして吾我をも離れえず、名利をも棄てえぬ人は、道者とも、ならず、正理をも心得ぬなり。





九十五


示して云く、

学道の人は、吾我の為に仏法を学することなかれ。

ただ、仏法の為に仏法を学すべきなり。

其の故実は、我が身心を一物も、のこさず放下して、仏法の大海に廻向すべきなり。

其の後は、一切の是非、管すること、なく、我が心を存すること、なく、なし難く忍び難きことなりとも、仏法の為に、つかわれて、しいて、此れをなすべし。

我が心に、強いて、なしたきことなりとも、仏法の道理なるべからざる事は放捨すべきなり。

穴〈あな〉、賢。

仏道修行の功を以て、かわりに善果を得ん、と思うことなかれ。

ただ、一度、仏道に廻向しつる上は、再び自己をかえりみず、仏法のおきてに任せて、行じゆいて、私曲を存することなかれ。

先証、皆、かくの如し。

心にねがい求むること、なければ、即ち、大安楽なり。

世間の人も、他に、まじわらず、己れが家ばかりにて生長したる人は、心のままに、ふるまい、己れが心を先として、人目をしらず、人の心を兼ねざる人は、必ず、あしきなり。

学道の用心も、また、かくの如し。

衆に、まじわり、師に順じて、我見を立せず、心をあらためゆけば、たやすく、道者となるなり。

学道は、先ず、すべからく、貧を学すべし。

名をすて、利をすて、一切、諂〈へつら〉うこと、なく、万事、なげすつれば、必ず、よき道人となるなり。

大宋国に、よき僧と人にも知られたる人は、皆、貧窮人なり。

衣服も、やぶれ、諸縁も乏しきなり。

往日、天童山の書記、道如 上座と云いし人は、官人、宰相の子なり。

しかれども、親族をも遠離し、世利を貪らざりしかば、衣服の、やつれ、破壊したること、目も、あてられざりしかども、道徳、人に知られて、名巒大寺の書記とも成られしなり。

予、あるとき、如 上座に問うて云く、

和尚は、官人の子息にて、富貴の種族なり。

何ぞ、身に、ちかづくる物、皆、下品にして、貧窮なるや?

如 上座、答えて云く、「僧と、なれば、なり」。





九十六


一日、示して云く、

俗人の云く、「宝は、よく、身を害する怨なり。昔も、是れ、あり。今も、是れ、あり」と。

云う、こころは、昔、一人の俗人、あり。

一人の美女をもてり。

時に、威勢、ある人、是れを請う。

彼の夫、是れを惜む。

終に、兵を起して、其の家を囲めり。

既に、奪い取られん、とする時、夫が、云く、「我れ、汝が為に、命を失う」と。

女が云く、「我れも、夫の為に、命を失わん」と云いて、高楼より落ちて死す。

そののち、彼の夫、うちもらされて、後に、物語りにせし、となり。





九十七


また、云く、

昔、一人の賢人、州吏として国政を行う。

時に、息男、あり。

官事によりて、父を辞し、拝して、去る。

時に、父、一疋の縑〈きぬ〉を与う。

息の、云く、

君は、高亮なり。

此の縑〈きぬ〉、いずくよりか、得たるや?

父、云く、「俸禄の、あまりなり」と。

息、さりて、皇帝に奉りまいらせて、その由を奏す。

帝、太〈はなは〉だ、其の賢なることを感じたまう。

息男、申さく、

父は、名をかくす。

我れは、名を顕わす。

真に、父の賢、勝れたり、と。

此の心は、一疋の縑〈きぬ〉は、是れ、少分なれども、賢人は利用せざること聞えたり。

また、実の賢人は、名をかくす。

俸禄なれば、使用するよしを云うなり。

俗人、猶お、然り。

況や、学道の衲子、私を存することなかれ。

また、実の道を好まば、道者の名をかくすべきなり。





九十八


また、云く、

仙人、ありき。

或人、問うて云く、

如何がして、仙を得ん?

仙人の、云く、

仙を得ん、と思わば、仙道を好むべし、と。

然れば、学人も、仏祖の道を得ん、と思わば、須く、仏祖の道を好むべし。





九十九


示して云く、

昔、国王、あり。

国を治めて、後に、諸の臣下に問う。「我、好く国を治む。よく、賢なりや?」と。

諸臣、みな、云く、「帝、甚だ、よく治む。太だ、賢なり」と。

時に、一臣、ありて、云く、「帝は、賢ならず」と。

帝の、云く、「故は、如何?」。

臣が云く、「国を治めて、後、帝の弟に与えずして、息に与う」と。

帝の心にかなわずして、おい立てられて後、また、一臣に問う、「朕、よく仁なりや?」。

臣が云く、「甚だ、仁なり」。

帝の、云く、「其の故、いかん?」。

臣が云く、「仁君には、必ず、忠臣、あり。忠臣は、直言、あるなり。前の臣、太だ、直言なり。是れ、忠臣なり。仁君に、あらずんば、得じ」と。

帝、是れを感じて、即ち、前の臣をめしかえさるるなり。






また、云く、

秦の始皇のとき、太子の花園をひろめん、と、の玉う。

臣の、云く、「最も、よし。花園、ひろうして、鳥獣、多く集りたらば、鳥獣を以て隣国の軍を防ぐべしや」と。

是れに依て、其の事、止まりぬ。

また、宮殿を作り、柱を漆にぬらん、と言う。

臣の、云く、「最も、然るべし。柱をぬりたらんには、敵、とどまらんか」と。

然あれば、其の事も止りぬ。

儒教の心は、かくのごとく、たくみに言を以て、悪事をとどめ、善事、すすめしなり。

衲子の、人を化する意巧も、其の心、有るべきなり。





百一


一日、僧、問うて云く、

智者の無道心なると、無智の有道なると、始終、いかん?

答えて云く、

無智の有道心は、終に、退すること、多し。

智慧ある人は無道心なれども、終には、道心を起すなり。

当世も、現、証、是れ、多し。

然あれば、先ず、道心の有無を云わず、学道を勤むべきなり。

道を学せば、ただ、貧なるべし。

内外の書籍を見るに、貧うして、居所もなく、或は、滄浪の水に浮び、或は、首陽の山にかくれ、或は、樹下、露地に端坐し、或は、塚間、深山に卓菴する人も、あり。

また、富貴にして、財、多く、朱漆をぬり、金、玉をみがきて、宮殿、等を造るも、あり。

倶に、典籍に、のせたり。

然り、といえども、後代をすすむるには、皆、貧にして、財、なきを以て本とす。

訕りて罪業を誡むるには、富みて、財、多きを驕奢の者と云いて誹れるなり。





百二


示して云く、

出家人は、必ず、人の施を受けて、喜ぶことなかれ。

また、受けざることなかれ。

故 僧正の、云く、

人の供養を得て、喜ぶは、仏制に、たがう。

喜ばざるは、檀越の心に、たがう。

此の故実、用心は、我に供養するに非ず、三宝に供養するなり。

かるがゆえに、彼の返事には、「此の供養は、三宝、定めて、納受、有るべし」と言うべきなり。





百三


示して云く、

古に、謂ゆる、「君子の力は、牛に勝れり。然あれども、牛と、あらそわず」と。

今の学人、我が智慧、才学、人に勝れたり、と存ずるとも、人と諍論を好むことなかれ。

また、悪口を以て人を呵嘖し、怒目を以て人を見ることなかれ。

今時の人、多く、財をあたえ、恩を施せども、嗔恚を現じ、悪口を以て謗言する故に、必ず、逆心を起すなり。

昔、真浄文 和尚、衆に示して云く、

我、むかし、雲峰と、ちぎりをむすんで、学道せしとき、雲峰 同学と法門を論じ、衆寮にて、たがいに高声に論談し、ついには、互に、悪口に及び、諠譁しき。

諍論、已に、やんで、雲峰、我れに謂いて云く、

我と汝と、同心、同学なり。

契約、浅からず。

何が故ぞ、我れ、人と、あらそうに、口入をせざるや、と。

我れ、そのとき、揖して恐惶せるのみなり。

其の後、彼も一方の善知識たり、我れも今、住持たり。

往日、おもえらく、

雲峰の論談、畢竟、無用なり。

況や、諍論は、定まりて、僻事なり。

諍うて、何の用ぞ、と思いしかば、我は無言にして止りぬ、と云々。

今の学人も、最も、これを思うべし。

学道、勤労の志、あらば、時光を惜みて、学道すべし。

何の暇、ありてか、人と諍論すべき?!

畢竟して、自他共に、無益なり。

法門すら、しかなり。

いかに、況や、世間の事において、無益の論をなさんや?!

君子の力、牛にも勝れり、といえども、牛と諍わず。

我れ、法を知れり、彼に、勝れたり、と思うとも、論じて、人を掠め難ずべからず。

若し、真実、学道の人、ありて、法を問わば、法を惜むべからず。

為に、開示すべし。

然あれども、猶、それも、三度、問われて、一度、答うべし。

多言、閑語することなかれ。

我れも、此の真浄の語を見しより後、尤も、此の咎は、我身にも、あり、是れ、我をいさめらるる、と思いし故に、以後、終に、他と、法門の諍論せざるなり。





百四


示して云く、

古人、多くは、云う、「光陰、空しく度〈わた〉ること莫れ」。

また、云く、「時光、徒らに、過すことなかれ」と。

今、学道の人、須く、寸陰を惜むべし。

露命、消えやすし、時光、速かに、うつる、暫くも、存する間、余事を管することなかれ。

唯、須く、道を学すべし。

今時の人、

或は、「父母の恩を捨て難し」と云い、

或は、「主君の命に背き難し」と云い、

或は、「妻子、眷属に離れ難し」と云い、

或は、「眷属、等の活命、存じ難し」と云い、

或は、「世人、誹謗しつべし」と云い、

或は、「貧うして道具、調い難し」と云い、

或は、「非器にして学道に堪えがたし」と云う。

かくのごとく、識、情を廻らして、主君、父母をも離れえず、妻子、眷属をも、すてえず、世情に随い、財宝を貪ぼるほどに、一生、空しく過して、正〈まさ〉しく、命終の時に当りては、後悔すべし。

須く、静坐して道理を案じ、速かに道心を起さんことを決定すべし。

主君、父母も、我に悟りを与うべからず。

妻子、眷属も我が苦しみを救うべからず。

財宝も、我が生死、輪廻を截断すべからず。

世人も、我をたすくべきにあらず。

「非器なり」と云いて、修せずんば、何れの劫にか、得道せんや?!

只、須く、万事を放下して、一向に、学道すべし。

後時を存することなかれ。





百五


示して云く、

学道は、須く、吾我を離るべし。

設〈たと〉い、千経、万論を学し得たりとも、我執を離れずんば、終に、魔坑に落つべし。

古人の云く、「若し、仏法の身心、なくんば、いずくんぞ、仏となり、祖と成らん?!」と云々。

我を離るる、と云は、我が身心を仏法の大海に抛向して、苦しく、愁うるとも、仏法に随いて、修行するなり。

若し、乞食をせば、人、是れを、わるし、みにくし、と思わんずるなれど、かくのごとく思う間は、いかにしても、仏法に入り得ざるなり。

世の情、見をすべて忘れて、唯、道理に任せて学道すべし。

我身の器量を顧み、仏法に契うまじ、なんど、思うも、我執を持ちたる故なり。

人目を顧み、人情を憚〈はば〉かるは、即ち、我執の本なり。

ただ、仏法を学すべし。

世情に随うことなかれ。





百六


一日、奘、問うて云く、

叢林、勤学の行履と云うは、如何?

示して云く、

只管打坐なり。

或は、楼上、或は、閣下に、定を営み、人に交わりて雑談せず、聾者の如く、瘂者の如くにして、常に、独坐を好むべきなり。





百七


一日、参の次でに、示して云く、

泉大道の云く、「風に向いて坐し、日に向いて眠る。時の人の錦を被たるに勝りたり」と云々。

この言は、古人の語なりといえども、少し、疑い、あり。

時の人と云うは、世間、貪利の人を云うか?

若し、然らば、敵対、最も、下れり。

何ぞ、云うに足らん。

若しは、学道の人を云うか?

然らば、何ぞ、「錦を被たるに勝れり」と云うや?

此の心を察するに、猶お、錦を重んずる心、有るか、と聞えり。

聖人は、然、あらず。

金、玉と、瓦礫と、斉しく、執すること、なし。

故に、釈迦如来、牧牛女が乳粥を得て食し、馬麦を得て食す。

いずれも、等しくす。

法に、軽重なし。

人に、浅深あり。

当世、金、玉を人に与うれば、重し、として、取らず。

また、木、石などをば、軽し、として、是を受けて愛す。

金、玉、本より、土の中より得たり。

木、石も、大地より生ぜり。

何ぞ、一つをば、重し、とて、取らず、一つをば、軽し、とて、愛せん?

此の心を案ずるに、重きを得ては、執する心、あらんか。

軽きを得ても、愛する心、あらば、咎は、等しかるべし。

是れ、学人の用心すべき事なり。





百八


示して云く、

先師、全 和尚、入宋せん、とせし時、本師叡山の明融阿闍梨、重病、起り、病床に、しずみ、既に、死せんとす。

其の時、かの師、云く、

我、既に、老病、起り、死去せんこと、近きにあり。

今度、暫く、入宋をとどまりたまいて、我が老病を扶けて、冥路を弔いて、然して、死去の後、其の本意をとげらるべし、と。

時に、先師、弟子、法類、等を集めて議評して云く、

われ、幼少の時、双親の家を出て後より、此の師の養育を蒙りて、いま成長せり。

其の養育の恩、最も重し。

また、出世の法門、大小、権実の教文、因果をわきまえ、是非をしりて、同輩にも越え、名誉を得たること、また、仏法の道理を知りて、今、入宋、求法の志を起すまでも、偏に、此の師の恩に非ずと云うこと、なし。

然るに、今年、すでに、老極して、重病の床に臥したまえり。

余命、存しがたし。

再会、期すべきにあらず。

故に、あながちに、是れを留めたもう。

師の命も、そむき難し。

今、身命を顧みず、入宋、求法するも、菩薩の大悲、利生の為なり。

師の命を背きて、宋土に行かん道理、有りや? 否や?

各の思わるる所をのべらるべし、と。

時に、諸弟、人々、皆、云く、

今年の入宋は留まらるべし。

師の老病死、已に極れり。

死去、決定せり。

今年ばかり留りて、明年、入宋あらば、師の命を背かず、重恩をも、わすれず。

今、一年、半年、入宋、遅きとても、何の妨げか、あらん?

師弟の本意、相違せず。

入宋の本意も如意なるべし、と。

時に、我れ、末臘にて、云く、

仏法の悟り、今は、さて、こうこそ、ありなん、と思召さるる儀ならば、御留り、然、あるべし、と。

先師の、云く、然、あるなり、仏法、修行、これほどにて、ありなん。

始終、かくのごとくならば、即ち、出離、得道たらんか、と存ずと。

我が云く、

其の儀ならば、御留りたまいて、しか、あるべし、と。

時に、かくのごとく、各の総評し了りて、先師の、云く、

おのおのの評議、いずれも、みな、留まるべき道理ばかりなり。

我が所存は、然、あらず。

今度、留まりたりとも、決定、死ぬべき人ならば、其れに依りて、命を保つべきにも、あらず。

また、われ、留りて、看病、外護せしによりたりとて、苦痛も、やむべからず。

また、最後に、我、あつかい、すすめしによりて、生死を離れらるべき道理にもあらず。

ただ、一旦、命に随いて、師の心を慰むるばかりなり。

是れ、即ち、出離、得道の為には、一切、無用なり。

錯って、我が求法の志をさえしめられば、罪業の因縁とも成りぬべし。

然あるに、若し、入宋、求法の志をとげて、一分の悟をも開きたらば、一人、有漏の迷情に背くとも、多人、得道の因縁と成りぬべし。

此の功徳、もし、すぐれば、すなわち、これ、師の恩をも報じつべし。

設〈たと〉い、また、渡海の間に死して、本意をとげずとも、求法の志を以て死せば、生々の願、つきるべからず。

玄奘三蔵のあとを思うべし。

一人の為に、うしないやすき時を空しく過さんことを、仏意に合〈かな〉うべからず。

故に、今度の入宋、一向に、思い切り畢りぬ、と云いて、終に、入宋せられき。

先師にとりて真実の道心と存ぜしこと、是れらの道理なり。

然あれば、今の学人も、或は、父母のため、或は、師匠の為、とて、無益の事を行じて、徒に、時を失いて、諸道に、すぐれたる、仏道をさしおきて、空しく光陰を過すことなかれ。

時に、奘、問て云く、

真実、求法の為には、有為の父母、師匠、恩愛の障縁を、一向に、すつべき道理は、まことに、然か、あるべし。

ただし、父母、師匠の恩愛、等のかたは、一向に、捨離するも、また、菩薩の行を存ぜん時は、自利をさしおきて、利他を先とすべきか?

然あるに、老師、重病、切にして、また、他人のたすくべきもなく、幸に、保護の、われ一人、其の仁に当りたるを、自らの修行ばかりを思いて、渠〈かれ〉を扶けずんば、菩薩の行に背けるに似たるか?

ただ、大士の善行をきらうべかず。

縁に随い、事に触れて、仏法を存すべきか?

もし、これらの道理によらば、また、止りて、たすくべきか?

何ぞ、独り、求法を思いて、老病の師を扶けざるや?

いかん?

示して云く、

利他の行も、自利の行も、ただ、劣なる方を捨てて、勝なる方をとらば、大士の善行なるべし。

老病を扶けん、とて、水菽の孝をいたすは、只、今生、暫時の妄愛、迷情の喜びばかりなり。

迷情の有為に背いて、無為の道を学せんは、設〈たと〉い、遺恨は蒙ること、ありとも、出世の勝縁と成るべし。

是れを思え。

是れを思え。





百九


一日、示して云く、

世間の人、多く、云う、「某〈それがし〉、師の言ばを聞けども、我が心に叶わず」と。

此の言は、非なり。

知らず、其の、こころ、いかん?

若しは、聖教、等の道理の我が心に違背して非なり、と思うか?

これは、一向の凡愚なり。

又は、師の云える言が、我が心に契わざるか?

若し、然あらば、なんぞ、はじめより、師に問うや?

また、日来〈ひごろ〉の情見を以て云うか?

もし、しかあらば、是れは、無始より、このかたの妄念なり。

学道の用心と云うは、我が心に、たがえども、師の言は、聖教の言、理、ならば、全く、それに随いて、本の我見をすてて、あらためゆくべし。

此の心が、学道、第一の故実なり。

われ、昔日、我が朋輩の中に、我見を執して知識をとぶらいける者、ありき。

我が心に違するをば、心得ず、と云いて、我見に、あい、かなうをば執して、一生、空しく、すぎて、仏法を会せざりけり。

我れ、それを見て、智、発して、しりぬ、「学道は、然、あるべからず」と。

かく思いて、師の言に随いて、全く、道理を得て、其の後、看経の次でに、或る経に云く、「仏法を学せん、と思わば、三世の心を相続することなかれ」と。

誠に、知りぬ、「さきの諸、念、旧見を記持せずして、次第に、あらためゆくべきなり」と云うことを。

書に云く、「忠言、逆、耳」。

いう、こころは、我が為に、忠、有るべき、ことばは、必ず、耳に違するなり。

違するとも、強いて、随い、行ぜば、畢竟して、益、有るべきなり。





百十


一日、雑談の次でに、示して云く、

人の心、本より、善悪、なし。

善悪は、縁に随いて、起る。

喩えば、人、発心して、山林に入る時は、林下は「よし」、人間は「悪し」とおぼゆ。

また、退屈の心にて山林を出る時は、山林は「悪し」とおぼゆ。

是れ、即ち、決定して、心に定相、なし。

縁に随いて、兎も、角も、なるなり。

かるが故に、善縁にあえば、心、よくなり、悪縁に近づけば、心、悪くなるなり。

「我が心、本より、悪し」と思うことなかれ。

ただ、善縁に随うべきなり。





百十一


また、云く、

人の心は、決定、人の言ばに随う、と存ず。

大論に云く、

喩えば、愚人の手に摩尼珠をもてるが如し。

人、是れを見て、「汝、下劣なり。自ら、手に物をもてり」と云うを聞きて、おもわく、「珠は、おしし。名聞は、深し。我れは、下劣ならん」とおもう。

思い煩うて、猶お、ただ、名聞にひかれ、人の言ばについて、珠を捨て、他人にとらしめん、と思うほどに、終に、珠を失う、と云々。

人の心は、かくのごとし。

一定、此の言ば、我が為に、「よし」と思えども、名聞にさえられて、それに順わざるも、あり。

また、一定、我為に、あしき事、と思いながらも、名聞の為なれば、先ず、随う人も、あり。

悪にも、善にも、随うときは、心は、善悪につるるなり。

故に、いかに、もとより、悪しき心なりとも、善知識に随い、良人に馴るれば、自然に、心も、よくなるなり。

悪人に近づけば、我心にも、初めは、悪し、と思えども、終に、その人のこころに随い馴るるほどに、おぼえず、やがて、実に、悪しく成るなり。

また、人の心、決定して、他に物をとらせじ、と思えども、他人、強いて、こいぬれば、にくし、とおもい、いやながらも、与うるなり。

また、決定して、与えん、と思えども、便宜なく、時、すぎぬれば、また、やむ事も有るなり。

然あれば、学人、たとい、道心、なくとも、良人に近づき、善縁にあうて、同じ事をいくたびも聞き、見るべきなり。

この言、一度、聞きたらば、重ねて聞くべからず、と思うことなかれ。

道心、一度、起したる人も、同じ事なれども、聞くたびごとに、心、みがかれて、いよいよ、精進するなり。

また、無道心の人も、一度、二度こそ、つれなくとも、度々、聞きぬれば、霧露の中に行くが如く、いつ、ぬるるとも覚えざれども、自然に、衣の、うるおうが如くに、良人の言をいくたびも聞けば、自然に、はずる心も起り、実の道心も起るなり。

故に、知りたる上にも、聖教をば、いくたびも見るべし。

師の言も、聞きたる上にも、重ねて、聞くべし。

いよいよ、ふかき心、有るべきなり。

学道の為に、さわりと成るべき事をば、重ねて、是れに近づくべからず。

善友には、くるしく、わびしくとも、近づきて、行道すべきなり。





百十二


示して云く、

大慧 禅師、ある時、尻に腫物、出ぬれば、医師、此れを見て大事の物なり、と云う。

慧の云く、

大事の物ならば、死ぬべきや? 否や?

医師、云く、

ほとんど、あやうかるべし。

慧の云く、

若し、死ぬべくんば、いよいよ、坐禅すべし、と云いて、猶お、強て、坐しければ、其の腫物、うみ、つぶれて、別の事、なかりき。

古人の心、かくのごとし。

病をうけては、いよいよ、坐禅せしなり。

今の人、病、なくして、坐禅、ゆるくすべからず。

病は、心に随いて、転ずるか、と覚ゆ。

世間に、しゃくりする人に、虚言して、わびつべき事を云い、つげぬれば、それをわびしつべき事に思い、心に入れて陳ぜんとするほどに、忘れて、其の、しゃくり、留りぬ。

我も、そのかみ、入宋の時、船中にて、痢病せしに、悪風、出来て、船中、さわぎける時、やまう忘れて、止りぬ。

是れを以て思うに、学道、勤労して他事を忘るれば、病も起るまじきか、と覚ゆるなり。





百十三


示して云く、

俗の野諺に云く、「啞せず、聾せざれば、家公とならず」と。

云う、こころは、人の毀謗をきかず、人の不可をいわざれば、よく、我が事を成ずるなり。

かくのごとくなる人を、家の大人とするなり、と。

是れ野諺なりといえども、是れを取りて、衲僧の行履に用うべし。

他のそしりに、とりあわず、他の恨みに、とりあわず、他の是非をいわずして、如何んが、道を行ぜん。

徹骨徹髄の者は、是れを得べきなり。





百十四


示して云く、

大慧 禅師の云く、

学道は、須く、人の千、万貫の銭を債いけるが、一文をも持たざるに、乞、責めらるる時の心の如くすべし。

若し、この心、あれば、道を得ること、やすし、と、いえり。

信心銘に云く、

至道、かたきこと、なし。

唯だ、揀択を嫌う、と。

揀択の心だに放下しぬれば、直下に、承当するなり。

揀択の心を放下する、と云うは、我をはなるるなり。

仏道を行じて、代りに利益を得ん為に仏法を学す、と思うことなかれ。

只、仏法の為に仏法を修行すべきなり。

縦〈たと〉い、千経、万論を学し得て、坐禅の床を坐破するとも、此の心、なくんば、仏祖の道を得べからず。

只、すべからく、身心を放下して、仏法の中に置きて、他に随いて、旧見、なければ、即ち、直下に、承当するなり。





百十五


示して云く、

古人の云く、「所有の庫司の財穀をば、因を知り果を知る知事に分付し、司を分ち、局を列ねて、是を司どらしむ」と。

いう、こころは、主人は、寺院の大小の事、都〈すべ〉て、管せず、只管、工夫、打坐して大衆を勧むべきゆえなり。

また、云く、

「良田、万頃よりも、薄芸、身に随わんには、しかず。

施恩は報をのぞまず。

人に与えて、悔ゆる事なかれ。

口を守ること、鼻の如くすれば、万禍も及ばず」と云えり。

行、高ければ、人、自ら、重んじ、

才、多ければ、人、自ら、帰伏するなり。

深く耕して、浅く、ううる、猶お、天災、あり。

己れを利して、人を損する、豈に、果報ならんや?!

学道の人、話頭を見る時、目を近づけ、力を尽して、よくよく、見るべし。





百十六


示して云く、

古人の云く、「百尺、竿頭に、さらに一歩をすすむべし」と。

此の心は、十丈の竿のさきに、のぼりて、なお、手足をはなちて、すなわち、身心を放下するが如くすべし。

是れに付いて、重々の事あり。

今時の人は、世をのがれ、家を出でぬるに似たれども、其の行履をかんがうれば、なお、実に、出家の遁世にては、なきなり。

いわゆる、出家と云うは、第一、まず、吾我、名利を離るべきなり。

是れを離れずんば、行道は、頭燃を払い、精進は翹足をしるとも、只、無理の勤苦のみにて、出離には、あらざるなり。

大宋国にも、離れ難き恩愛を離れ、捨て難き世財を捨て、叢林にまじわり、祖席をうる人、あれども、審細に、此の故実を知らずして行ずる故に、道をも悟らず、心をも明めずして、徒らに、一期を空しく過すも、あり。

その故は、人の心も、初めは、道心を起して、僧にもなり、知識にも随えども、仏となり、祖とならん事をば思わずして、身の貴く、我が寺の貴きよしを施主、檀那にも知られ、親類、眷属にも、いいきかせて、人に、とうとびられ、供養せられん、と思い、剰〈あまつさ〉え、衆僧は、皆、無当不善なれども、我れ独り道心も、あり、善人なる由を方便して云いきかせ、思いしらせん、とする様も、あり。

是れ等は、云うに足らざるもの、五闡提、等の悪比丘のごとし。

決定、地獄に落つる心ばえ、なり。

これを、ものもしらぬ一向の在家人は、道心者、貴き人なり、と思えり。

此れを少し、たちいでて、施主、檀那をも貪らず、父母、妻子をも捨てはてて、叢林に交りて行道するも、あれども、本性、懶怠、懈怠なる者は、ありのままに懈怠する事も慙かしければ、長老、首座、等の見る時は、相かまえて、行道するよしをなして、見ざる時は、事に触れて、怠り、徒らに、おくるも、あり。

是は、在家にして、さ、のみ、無当ならんよりは、よけれども、猶お、吾我、名利を捨得ざるなり。

また、総じて、師の心もかねず、首座、兄弟の見るをも見ざるをも顧みず、常に思わく、仏道は、人の為ならず、身の為なり、とて、我身心こそ仏となり祖とはならん、と真実に勤め営む人も、あり。

是れは、以前の人々よりは、まことの道者か、と覚ゆれども、これも、猶お、我が身、よくならん、と思いて修する故に、なお、いまだ、吾我を離れず。

また、諸、仏、菩薩に随喜せられんことを思い、仏果、菩提を成ぜんことを思うも、我欲、名利の心、なお、すて得ざる故なり。

此等までは、いまだ、百尺の竿頭を離れず、とりつきたるが如し。

只、身心を仏法になげすてて、更に、悟道、得法までをも望む事なく、修行するを以て、是を不汚染の行人とは云うなり。

有仏の所にも、とどまることをえず、無仏の所をも急に走過す、と云うは、此の心なり。





百十七


示して云く、

衣食の事は、兼てより、思い、あてがうことなかれ。

若し、失食、絶煙せば、其の時に臨んで、乞食せん。

その人に用事いわんなど思い設けたるも、即ち、物を貯うる邪命食にてあるなり。

衲子は、雲の如く、定れる住所もなく、水の如くに、流れゆきて、よる所もなきをこそ、僧とは云うなり。

縦〈たと〉い、衣鉢の外に、一物を持たずとも、一人の檀那をも頼み、一類の親族をも頼むは、即ち、自他ともに、縛住せられて、不浄食にてあるなり。

かくのごとくの不浄食、等を以て、やしない、もちたる身心にて、諸仏、清浄の大法を悟らん、と思うとも、とても契うまじきなり。

たとえば、藍にそめたる物は青く、檗〈きはだ〉にそめたる物は黄なるが如く、邪命食なるべし此の身心を以て、仏法をのぞまば、沙を圧して油を求むるが如し。

只、時にのぞみて、兎も角も、道理に契うように、はからうべきなり。

かねて、とかく、思い、たくわうるは、皆、たがうことなり。

よくよく、思量すべきなり。





百十八


示して云く、

学人、各、知るべし、人々、大なる非、あり、憍奢、是れ、第一の非なり。

内外の典籍に、是れを、等しく、戒めたり。

外典に云く、「貧うして諂わざるは、あれども、富んで奢らざるは、なし」と、いいて、なお、富を制して、奢らざらん事を思うなり。

最も、これ、大事なり。

よくよく、これを思うべし。

我が身、下賎にして、高貴の人に、おとらじ、と思い、人に勝れん、と思うは、憍慢の、はなはだしきものなり。

しかあれど、是れは、戒め、やすし。

また、世間に自体、財宝に豊かに、福分もある人は、眷属も囲遶し、人も、ゆるす。

それを是〈ぜ〉とし、憍るゆえに、傍らの賎き人は、これを見て、うらやみ、いたむべし。

人のいたみを自体、富貴の人、いかようにか、つつしむべきや。

かくの如き人は戒めがたく、その身も慎むこと、ならざるなり。

また、心に憍心は、なけれども、ありのままに、ふるまえば、傍らの賎き人は、うらやみ、いたむべきなり。

是れをよく、つつしむを憍奢をつつしむ、とは、云うなり。

我身の富は果報にまかせて、貧賎の人、見て、うらやむをはばからざるを憍心と云うなり。

外典に云く、「貧家の前を車に乗りて過ぐることなかれ」と。

しかあれば、我が身、朱車に、のるべくとも、貧人のまえをば、はばかるべし、と云々。

内典も、亦、かくの如し。

然あるに、今の学人、僧侶は、智慧、法門を以て人に勝つべき、と思うなり。

必ずしも、此れを以て、憍ることなかれ。

我より劣れる人のうえの非義を云い、或は、先人、傍輩、等の非義をしりて、いい、誹謗するは、是れ、憍奢の、はなはだしきなり。

古人の云く、「智者の辺にしては、まくるとも、愚者の辺にして、勝つべからず」と云々。

我が、よく知りたる事を人の悪く心得たりとも、他の非を云うは、また、是れ、我が非なり。

法門をいうとも、先人、先輩を誹らず、また、愚痴矇昧なる人の、うらやみ、ねたみつべきところにては、よくよく、是れを思惟すべし。

予も、建仁寺に寓せし時、人、多く、法門、等を問いき。

その中には、非義も過患も有りしかども、此の儀をふかく存じて、只、ありのままに、法の徳を語りて、他の非をいわず、無為にして、やみき。

愚者の執見、ふかきは、我が先徳の非を云うとて、かならず、嗔恚を起すなり。

智慧ある人の真実なるは、仏法の道理をだにも、こころえぬれば、人は、いわざれども、我が非、及び、我が先徳の非をも思いしりて、あらたむるなり。

かくのごとき等の事、よくよく、思いしるべし。





百十九


示して云く、

学道の最要は、坐禅、これ、第一なり。

大宋の人、多く、得道すること、みな、坐禅のちからなり。

一問、不通にて無才、愚痴の人も、坐禅をもっぱらすれば、その禅定の功によりて多年の久学、聡明の人にも勝るるなり。

しかあれば、学人は、祗管打坐して、他を管することなかれ。

仏祖の道は、只、坐禅なり。

他事に順ずべからず。





百二十


ときに、奘、問うて云く、

打坐と、看読と、ならべて、これを学するに、語録、公案、等を見るには、百、千に一つも、聊〈いささ〉か、心得ることも出来るなり。

坐禅には、それほどのことの験も、なし。

然あれども、猶お、坐禅を好むべきか?

答えて云く、

公案、話頭を見て、聊〈いささ〉か知覚、有る様なりとも、それは、仏祖の道に、ときおかざる因縁なり。

無所得、無所悟にて、端坐して、時を移さば、即ち、祖道なるべし。

古人も、看語、祗管坐禅、ともに、勧めたれども、猶お、坐をもっぱらに、すすめしなり。

また、話頭に依りて、さとりをひらきたる人、あれども、其れも、坐の功に依りて、さとりの、ひらくる因縁なり。

まさしき功は、坐によるべし。

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