正法眼蔵随聞記 第四
正法眼蔵随聞記 第四
侍者 懐奘 編
七十六
一日、参学の次でに、示して云く、
学道の人は、自解を執することなかれ。
設〈たと〉い、会する所、ありとも、若しも、また、決定、よからざる事もや、あらん、また、是れよりも、よき義も、あらん、と思いて、広く知識をも訪〈とぶら〉い、先人の言をも尋ぬべきなり。
また、先人の言なりとも、かたく執する事なかれ。
若し、是れも、あしくもや、あるらん、信ずるにつけても、と思いて、次第に、すぐれたる事あらば、其れに、つくべきなり。
七十七
また、云く、
「南陽、忠、国師、問、紫璘、供奉、『甚〈いずれの〉、所、来?』。
奉、云、『城南、来』。
師、云、『城南、艸〈くさ〉、作〈なす〉、何色?』。
奉、云、『作〈なす〉、黄色』。
師、乃、問、童子、『城南、艸、作、何色?』。
子、云、『作〈なす〉、黄色』。
師、云、『祗〈ただ〉、這、童子、亦、可、簾、前、賜、紫、対、御談、玄』」。
しかあれば、童子も、国皇の師として真色を答うべし。
汝が見所、常途に超えずとなり。
後来、有〈ある〉人の云く、
供奉が常途に超えざる過、甚〈いず〉れの所にか、ある?
童子も、同じく、真色を説く。
是れこそ、真の知識たらめ、と云いて、国師の義を用いず。
故に、知んぬ、必しも、古人の言ばを用いず、ただ、実の道理を存ずべきなり。
疑心は、あしき事なれども、また、信ずまじきことをかたく執して、尋ぬべき義をも問わざるは、あしきなり。
七十八
また、示して云く、
学人の第一の用心は、先ず、我見を離るべし。
我見を離るる、と云うは、此の身を執すべからず。
設〈たと〉い、古人の語話を究め、常坐、鉄、石の如くなりとも、此の身に著〈ちゃく〉して離れずんば、万劫、千生にも、仏祖の道を得べからず。
いかに、況や、権実の教法、顕密の正教を悟り得たり、と云うとも、身を執する、こころを離れずんば、徒らに、他の宝を数えて、自ら、半銭の分、なし。
只、請うらくは、学人、静坐して、道理を以て、此の身の始終を尋ぬべし。
身体髪膚は、父母の二滴、一息、とどまりぬれば、山野に離散して、終に、泥土となる。
何を持ちてか身と執せん。
況や、法を以て見れば、十八界の聚散、いずれの法を、決定して、我が身とせん?!
教内、教外、別なりとも、我が身の始終、不可得なることを行道の用心とすること、是れ、同じし。
先ず、此の道理に達すれば、実の、仏道、顕然なるものなり。
七十九
一日、示して云く、
古人、云く、「親近、善者、如、霧露中、行。雖、不、湿、衣、時々、有、潤」。
謂う心は、善人に、なるれば、覚えざるに、善人となるなり。
昔、倶胝和尚に仕えし一人の童子のごときは、いつ、学し、いつ、修したりとも見えず、覚えざれども、久参に近づいたる故に、悟道す。
坐禅も、自然に、久しくせば、忽然として、大事を発明して、坐禅の正門なることを知るべきなり。
八十
嘉禎二年、臘月、除夜、始めて、懐奘を興聖寺の首座に請す。
即ち、小参の次で、初て、秉払を首座に請う。
是れ、興聖寺、最初の首座なり。
小参の趣は、宗門の仏法伝来の事を挙揚するなり。
初祖、西来して、少林に居して、機をまち、時を期して、面壁して坐せしに、某の歳の窮臘に、神光、来参しき。
初祖、最上乗の器なり、と知りて、接得して、衣、法、共に、相承伝来して、児孫、天下に流布し、正法、今日に、弘通す。
当時、始めて、首座を請し、今日、初て、秉払を行わしむ。
衆の少きを憂うること莫れ。
身の初心なるを顧みることなかれ。
汾陽は、僅〈わずか〉に、六、七人、
薬山は、十衆に満たざるなり。
然あれども、皆、仏祖の道を行じき。
是れを叢林の、さかんなる、と云いき。
見ずや?
竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らむ。
竹、豈に、利鈍あり、迷悟あらんや?!
花、何ぞ、浅深あり、賢愚あらん?!
花は年々に開くれども、人、みな、得悟するに非ず。
竹は時々に響けども、聞く者、尽〈ことごと〉く、証道するにあらず。
ただ、久参、修持の功により、弁道、勤労の縁を得て、悟道、明心するなり。
是れ、竹の声の、独り利なるに、あらず。
また、花の色の、殊に深きに、あらず。
竹の響、妙なり、といえども、自ら、鳴らず、瓦〈かわら〉の縁をまちて声を起す。
花の色、美なり、といえども、独り開くるに、あらず、春風を得て開くるなり。
学道の縁も、また、かくの如し。
此の道は、人々、具足なれども、道を得る事は、衆縁による。
人々、利なれども、道を行ずることは衆力を以てす。
ゆえに、今、心をひとつにし、志をもっぱらにして、参究、尋覓すべし。
玉は琢磨によりて器となる。
人は練磨によりて仁となる。
いずれの玉か、初めより、光、ある?!
誰人か、初心より、利なる?!
必ず、すべからく、これ、琢磨し、練磨すべし。
自ら卑下して、学道をゆるくすることなかれ。
古人の云く、「光陰、空しく、わたることなかれ」と。
今、問う、
時光は、惜むによりて、とどまるか?
惜めども、とどまらざるか?
すべからく、しるべし。
時光は、空しく、わたらず、人は、空しく、わたることを。
「人も、時光と、おなじく、いたずらに、過すこと、なく、切に、学道せよ」と云うなり。
かくのごとく、参究を同心にすべし。
我れ独り挙揚するも、容易にするにあらざれども、仏祖、行道の儀、大概、みな、かくの如くなり。
如来の開示に随いて、得道するもの、多けれども、また、阿難によりて悟道する人も、ありき。
新 首座、非器なり、と卑下することなかれ。
洞山の麻、三斤を挙揚して同衆に示すべし、と云いて、座を下りてのち、再び、鼓を鳴らして、首座、秉払す。
是れ、興聖、最初の秉払なり。
懐奘、三十九の歳なり。
八十一
一日、示して云く、
俗人の云く、
何人か、好衣を望まざらん?
誰か重味を貪らざらん?
然あれども、道を存せん、と思う人は、山に入り、雲に眠り、寒きをも忍び、飢えをも忍ぶ。
先人、苦しみ、なきに非ず、是れを忍びて道を守ればなり。
後人、是れを聴いて、道を慕い、徳を仰ぐなり。
俗すら、賢なるは、猶お、かくの如し。
仏道、豈に、然らざらんや?!
古人も、皆、金骨には、あらず。
在世も、ことごとく、上器には、あらず。
大小の律蔵によりて、諸の比丘をかんがうるに、不可思議の不当の心を起すも、ありき。
然あれども、後には、皆、得道し、羅漢となれり、と見えたり。
しかあれば、我れらも、賎〈いやし〉く拙し、と云うとも、発心、修行せば、決定、得道すべし、と知りて、即ち、発心するなり。
古えも、皆、苦を忍び、寒にたえて、愁いながら、修行せしなり。
今の学者、苦しく、愁うるとも、只、しいて、学道すべきなり。
八十二
示して云く、
学道の人、悟を得ざることは、即ち、ただ、旧見を存するゆえなり。
本より、誰が、おしえたり、とも知らざれども、心と云うは、念慮知覚なり、と思い、心は草木なり、といえば、信ぜず。
仏と云えば、相好、光明、あらんずる、と思いて、仏は瓦礫、と説けば、耳を驚かす。
かくのごときの執見、父も相伝せず、母も教授せず、只、無理、自然に、久しく、人のことばにつきて、信じ来れることなり。
然あれば、今も、仏祖、決定の説なれば、あらためて、心は艸木、と云わば、便ち、艸木を心、と知り、仏は瓦礫、といわば、瓦礫を、便ち、仏なり、と信じて、本執をあらため、去らば、道を得べきなり。
古人の云く、「日、月、あきらかなれども、浮雲、是れをおおう。叢、蘭、茂せん、とすれども、秋風、吹いて、是をやぶる」と。
貞観政要に、これを引いて、賢王と悪臣とに喩う。
今、云く、
浮雲、おおうとも、久しからず。
秋風、破るとも、また、開くべし。
臣、わるくとも、王の賢、強くんば、転ぜらるべからず。
今、仏道を存せんことも、また、かくの如くなるべし。
いかに、悪心、おこるとも、かたく守り、久しく保たば、浮雲も、きえ、秋風も止まるべきの道理なり。
八十三
一日、示して云く、
学人、初心のときは、道心、ありても、無くても、経論、聖教、等をよくよく見るべし、まなぶべし。
我れ、始めて、まさに、無常によりて、聊〈いささ〉か、道心を発し、終に、山門を辞して、遍く諸方を訪〈とぶら〉い、道を修せしに、建仁寺に寓せし中間、正師にあわず、善友なき故に、迷いて、邪念を起しき。
教道の師も、先ず、学問、先達にひとしくして、よき人と成り、国家にしられ、天下に名誉せん事を教訓する故に、教法、等を学するにも、先ず、此の国の上古の賢者にひとしからんことを思い、大師、等にも同じからん、と思いき。
因に、高僧伝、続高僧伝、等を披見して、大唐の高僧、仏法者の様子を見しに、今の師のおしえの如くには、あらず。
また、我が起せるようなる心は、皆、経論、伝記、等には、いとい、にくみけり、と思いしより、ようやく道理をかんがうれば、名聞を思うとも、当代、下劣の人に「よし」と思われん、よりも、ただ、上古の賢者、向後の善人をはずべし。
ひとしからんことを思うとも、此国の人よりも、唐土、天竺の先達、高僧をはじて、彼にひとしからん、と思うべし。
乃至、諸、天、冥衆、諸、仏、菩薩、等にひとしからん、とこそ思うべけれ、と。
この道理を得て、後には、此の国の大師、等は、土、瓦の如く、おぼえて、従来の身心、皆、あらためき。
仏の一期の行儀を見れば、王位をすてて、山林に入り、成道の後も、一期、乞食す、と見えたり。
律に云く、「知、家、非、家、捨、家、出家」と云々。
古人、云く、「奢りて、上賢にひとしからん、と思うことなかれ。賎うして、下賎にひとしからん、と思うことなかれ」と。
云う、こころは、共に、慢心なり。
高うしても下らんことを忘るることなかれ。
安うしても危からん事を忘るることなかれ。
今日、存するとも、明日と思うことなかれ。
死の、至りて、ちかく、あやうきこと、脚下にあり。
八十四
示して云く、
愚痴なる人は、其の詮なきことを思い、云うなり。
ここにつかわるる老尼公ありけるが、当時、いやしげにして在るをはずる顔にて、ともすれば、人に向いては、昔は、上﨟にて、ありし、よしを語る。
たとい、而今の人に、「さも、あり」と思われたりとも、なんの用とも覚えぬ。
甚だ無用なり、とおぼゆるなり。
皆人の、思わくは、「此の心、あるか?」と覚ゆるなり。
道心の、なきほども知られたり。
是れらの心を改めて、少し、人には似るべきなり。
また、有る入道の、究めて、無道心なる、あり。
去り難き知音にてある故に、道心、おこらんこと、仏、神に祈誓せよ、と云わん、と思う。
定めて、彼れ、腹立して、中をたがうこと、あらん。
然あれども、道心を発さざらんには、得意にても、たがいに、詮、なかるべし。
八十五
示して云く、
古に、三たび、復〈かえ〉そうして、後に、云え、と。
云う心は、凡そ、ものを云わん、とする時も、事を行ぜん、とする時も、必ず、みたび、復そうして、後に、言行すべし、となり。
先儒の、おもわくは、三たび、思い、かえりみるに、三たびながら、善ならば、云い、行なえ、と云うなり。
宋土の賢人、等の心は、三たび、復そうす、と云うは、幾度も、復せ、と謂う心なり。
言より、さきに、思い、行より、さきに、思い、思うたびごとに、かならず、善ならば、言行すべき、となり。
衲子も、亦、必ず、然か、あるべし。
我が思うことも、言うことも、あしきこと、あるべき故に、まず、「仏道に合うや? 否や?」と、かえりみ、「自他の為に、益、ありや? いなや?」と、よくよく、思い、かえりみて、後に、善なるべくんば、行いもし、言いもすべきなり。
行者、若し、かくのごとく、心を守らば、一期、仏意に背かざるべし。
予、昔年、初て、建仁寺に入りし時は、僧衆、随分に、三業を守りて、仏道の為め、利他のために、悪きことをば、云わじ、せじ、と各々志せしなり。
僧正の徳の余残、ありしほどは、かくの如くなりき。
今時は、其の儀、なし。
今の学者、しるべし。
決定して、自他の為め、仏道の為に、詮、あるべきことならば、身をわすれても、言い、若しは、行いもすべきなり。
其の詮、なきことは、言行すべからず。
宿老耆年の、言行する時は、末臘の人は、言をまじゆべからず。
是れ、仏制なり。
よくよく、是れを思うべし。
身をわすれて、道を思うことは、俗、なお、此の心、あり。
八十六
むかし、趙の藺相如と云いし者は、下賎の人なりしかども、賢なるによりて、趙王にめしつかわれて、天下の事をおこないき。
趙王の使として、趙璧と云う玉を秦の国へつかわさしめたまう。
彼の璧を十五城にかえん、と秦王の云いし故に、相如にもたせて、つかわすに、余の臣下、議して云く、
是れほどの宝を相如ごときの賎人に持せて、つかわすこと、国に、人、なきに似たり。
余臣の、はじ、なり。
後代の、そしり、なるべし。
みちにて、此の相如を殺して、璧を奪い取らん、と議しけるを、ときの人、ひそかに、相如にかたりて、此のたびの使を辞して、命を保つべし、と云いければ、相如、云く、
某、敢て、辞すべからず。
相如、王の使として、璧を持ちて、秦にむかうに、佞臣の為に、殺されたる、と後代に聞えんは、我がために、よろこびなり。
我が身は死すとも、賢の名は残るべし、と云いて、終に、むかいぬ。
余臣も、此の言ばを聴きて、我れら、此の人をうちうること、あるべからず、とて、とどまりぬ。
相如、ついに、秦王に見〈まみ〉えて、璧を秦王にあたうるに、秦王、十五城をあたうまじき気色、見えたり。
時に、相如、はかりごとを以て、秦王にかたりて云く、
その璧に、きず、あり、我、是れを示さん、と云いて、璧をこい取りて、後に、相如が云く、
王の気色を見るに、十五城を惜める気色、あり。
然あらば、我が頭を以て、此の璧を銅柱にあてて、うちわりてん、と云いて、嗔れる眼を以て、王を見て、銅柱のもとに、よる気色、まことに、王をも犯しつべかりし。
時に、秦王の云く、
汝、璧をわることなかれ。
十五城を与うべし。
あい、はからわんほど、汝、璧を持つベし、と云いしかば、相如、ひそかに、人をして璧を本国へ、かえしぬ。
後に、また、澠池と云う所にて、趙王と秦王と、あそびしに、趙王は琵琶の上手なり。
秦王、命じて、弾ぜしむ。
趙王、相如にも云い合せずして、即ち、琵琶を弾じき。
時に、相如、趙王の、秦王の命に随えることを嗔りて、我、行て、秦王に簫を吹かしめん、と云いて、秦王につげて云く、
王は簫の上手なり。
趙王、聞かんことをねがう。
王、吹きたもうべし、と云いしかば、秦王、是れを辞す。
相如が云く、
王、若し、辞せば、王をうつべし、と云う。
時に、秦の将軍、剣を以て近づき、よる。
相如、これをにらむに、両眼、ほころび、さけてけり。
将軍、恐れて、剣をぬかずして、帰りしかば、秦王、ついに、簫を吹く、と云えり。
また、後に、相如、大臣となりて、天下の事を行いし時に、かたわらの大臣、我にまかさぬ事をそねみて、相如をうたん、と擬する時に、相如は、所々に、にげかくれ、わざと、参内の時も、参会せず、おじ、おそれたる気色なり。
時に、相如が家人、いわく、「かの大臣をうたんこと、易きことなり。なんが故に、おじ、かくれさせたもう?」と云う。
相如が云く、
我れ、彼をおそるるにあらず。
我が眼を以て秦の将軍をも退け、秦の璧をも奪いき。
彼の大臣、うつべきこと、云うにも足らず。
然あれども、いくさを起し、つわものを集むることは、敵国を防ぐためなり。
今、左右の大臣として国を守るもの、若し、二人、なかをたがいて、いくさを起して、一人、死せば、一方、欠くべし。
然あらば、隣国、喜びて、いくさを起すべし。
かるがゆえに、二人、ともに、全うして、国を守らん、と思う故に、彼と、いくさを起さず、と云う。
かの大臣、此のことばを聞きて、はじて、還って、来り、拝して、二人、共に、和して、国をおさめしなり。
相如、身をわすれて、道を存すること、かくの如し。
今、仏道を存することも、彼の相如が心の如くなるべし。
寧ろ、道、ありては、死すとも、道、無くして、いくることなかれ、と云々。
八十七
示して云く、
善悪と云うこと、定め難し。
世間の人は、綾羅錦繍をきたるを「よし」と云う。
麁布、糞掃衣を「わるし」と云う。
仏法には、此れを「よし」とし「清し」とし、金銀、錦綾を「わるし」とし「けがれたり」とす。
かくの如く、一切のことにわたりて、皆、然り。
予が如きも、聊〈いささ〉か、韻声をととのえ、文字をかき、すぐるるを俗人、等は、尋常ならぬことに云うも、あり。
また、或人は、「出家、学道の身として、かくの如きのこと知れる」と、そしる人も、あり。
いずれをか、定めて、善として取り、悪として、すつべきぞ?
文に云く、「ほめて、白品の中にあるを善と云う。そしりて、黒品の中におくを悪と云う」と。
また、云く、「苦を受くべきを悪と云う。楽をまねくべきを善と云う」と。
かくの如く、子細に分別して、真実の善を見て、行じ、真実の悪を見て、すつべきなり。
僧は清浄の中より来れるものなれば、人の欲を起すまじきものを以て「よし」としき「よき」とするなり。
八十八
示して云く、
世界の人、多分、云く、
学道のこころざし、あれども、世は末世なり。
人は下劣なり。
如法の修行には、たうべからず。
只、随分に、やすきにつきて、結縁を思い、他生に開悟を期すべし、と。
今、云う、此の言は、全く、非なり。
仏教に、正、像、末を立つること、暫く、一途の方便なり。
在世の比丘、必ずしも、皆、すぐれたるに、あらず。
不可思議に、希有に、あさましく、下根なるも、ありき。
故に、仏、種々の戒法、等をもうけ玉うこと、皆、わるき衆生、下根、の為なり。
人々、皆、仏法の器なり。
かならず、非器なり、と思うことなかれ。
依行せば、必ず、証を得べきなり。
既に、心、あれば、善悪を分別しつべし。
手あり、足あり、合掌、歩行に、かけたる事あるべからず。
しかあれば、仏法を行ずるには、器をえらぶべきに、あらず。
人界の生は、皆、是れ、器量なり。
余の畜生、等の生にては、かなうべからず。
学道の人、ただ、明日を期することなかれ。
今日、今時ばかり、仏法に随いて、行じゆくべきなり。
八十九
示して云く、
俗の云く、「城を傾むくることは、中に、ささやき言、出来るに依るなり」と。
また、云く、「家に、両言ある時は、針をも買うこと、なし。家に両言なき時は、金をも買う、あたい、あり」と。
俗、猶お、家をたもち、城を守るに、同心ならざれば、終に、ほろぶ、と云えり。
況や、出家人は、一師に学して、水、乳の和合せるが如く、すべし。
また、六和敬の法あり。
各々の寮々をかまえて、身をへだてて、心々に学道の用心することなかれ。
一船にのりて海をわたるが如し。
同心に威儀を同うし、たがいに非を改め、是れに随いて同じく学道すべきなり。
是れ、仏、在世より、行じ来れる儀式なり。
九十
示して云く、
楊岐山の会禅師、はじめ、住持の時、寺院、旧損して、僧のわずらい、ありし時、知事、申して云く、「修理、あるべし」と。
会の云く、
堂閣、破れたりとも、露地、樹下には、まさるべし。
一方、破れて、もらば、一方の、もらぬ所に居して、坐禅すべし。
堂宇、造作によりて、僧衆、悟りを得べくんば、金、玉を以ても、つくるべし。
悟は、居所の善悪には、よらず、只、坐禅の功の多少に、あるべし、と。
翌日、上堂に云く、「楊岐、乍〈たちまち〉、住、屋壁、疎、満床、尽〈ことごとく〉、布、雪、真珠。縮却、項、暗、嗟吁。良久〈ややしばらくして〉、云、『翻〈ひるがえって〉、憶〈おもう〉、古人、樹下、居』」と。
ただ、仏道のみに、あらず。
政道も、亦、かくの如し。
唐の太宗は、いやをつくらず。
龍牙、云く、
「学道、先〈まず〉、須〈すべからく〉、且〈かつ〉、学、貧。学、貧、貧後、道、方〈まさに〉、親」と云う。
昔、釈尊より、今に至るまで、真実、学道の人、「たからに、ゆたかなり」とは聞かず、見ざるなり。
九十一
一日、ある客僧、問うて云く、
近代、遁世の法は、各々、斎料、等のことをかまえ、用意して、後のわずらいの、なきように、支度す。
是れ、小事なり、といえども、学道の資縁なり。
かけぬれば、ことの違乱、出来る。
今、師の御様を承り及ぶには、一切、其の支度、なく、ただ、天運にまかす、と。
若し、実に、かくのごとくならば、後時の違乱、あらんか?
いかん?
答えて云く、
事、皆、先証、あり。
敢て、私曲を存するに、あらず。
西天、東地の仏祖、皆、かくの如し。
白毫、一分の福の尽くる期、あるべからず。
何ぞ、私〈わたくし〉に、活計をいたさん。
また、明日の事は、いかに、すべし、とも定め図り難し。
此の様は、仏祖の、みな、行じ来れる所にて、私〈わたくし〉、なし。
若し、事を闕如して絶食せば、其の時にのぞんで、方便をも、めぐらさめ。
兼て、是れを思うべきことには、あらざるなり。
九十二
示して云く、
伝え聞く、
実、否は、知らざれども、
故 持明院の中納言 入道、あるとき、秘蔵の太刀を盗まれたりけるに、士の中に犯人ありけるを、余の士、沙汰し出して、まいらせたりしに、入道の、云えらく、
此れは、我が太刀に、あらず、ひがごとなり、とて、かえされたり。
決定、その太刀なれども、士の恥辱を思いて、かえされたり、と人、皆、是れを知りけれども、其の時は、無為にして、すぎけり。
故に、子孫も、繁昌せり。
俗、なお、心ある人は、かくの如し。
いわんや、出家人、必ず、此の心、あるべし。
出家人は、もとより、身に財宝、なければ、智慧、功徳を以て、たからとす。
他の無道心なる、ひがごとなんどを直に、面に、あらわして、非に、おとすべからず、方便を以て、彼の、はらたつまじき様に云うべきなり。
暴悪なるは、其の法、久しからず、と云う。
設〈たと〉い、法を以て呵嘖するとも、あらき言葉なるは、法も久しからざるなり。
小人、下器は、いささかも、人の、あらき言ばに、必ず、即ち、はらだち、恥辱を思うなり。
大人、上器には、似るべからず。
大人は、しか、あらず。
設〈たと〉い、打たるれども、報を思わず。
今、我国には、小人、多し。
つつしまずんば、あるべからざるなり。




