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正法眼蔵随聞記 第二

正法眼蔵随聞記 第二


侍者 懐奘 編





三十


示して云く、

行者、先ず、心をだにも調伏しつれば、身をも、世をも捨つることは、易きなり。

只、言語につけ、行儀につけて、人目を思いて、此の事は悪事なれば、人、あしく思うべし、とて、なさず、我れ、此の事をせんこそ仏法者と人は見ん、とて、事に触れて、善きことをせん、とするも、猶お、世情なり。

然あればとて、また、恣〈ほしい〉ままに、我が心に任せて悪事をするは、一向の悪人なり。

所詮、悪心を忘れ、我が身を忘れて、只、一向に、仏法の為に、すべきなり。

向い来らん、ごとに、随いて、用心すべきなり。

初心の行者は、先ず、世情なりとも、人情なりとも、悪事をば心に制し、善事をば身に行ずるが、便ち、身心を捨つるにて有るなり。





三十一


示して云く、故 僧正、建仁寺におわせし時、ひとりの貧人、来りて云く、

「我が家、貧うして、絶煙、数日に、およぶ。

夫婦、子息、両、三人、餓死しなんとす。

慈悲を以て、是れを救い給え」と云う。

其の時、房中に、都〈すべ〉て、衣食、財物、等、なし。

思慮をめぐらすに、計略、つきぬ。

時に、薬師の像を造らん、とて、光の料に打ちのべたる銅、少分、ありき。

是れを取りて、自ら、打、おり、束ね、まるめて、彼の貧客にあたえて云く、

「是れを以て、食物にかえて、餓をふさぐべし」と。

彼の俗、よろこんで、退出しぬ。

時に、門弟子、等、難じて、云く、

正〈まさ〉しく、是れ、仏像の光なり。

これを以て俗人に与う。

仏物己用の罪、如何?

僧正の云く、

誠に、然り。

但し、仏意を思うに、仏は身肉、手足を割きて衆生に施せり。

現に、餓死すべき衆生には、設〈たと〉い、仏の全体を以て与うるとも、仏意に合〈かな〉うべし。

また、云く、

「我れは、此の罪に依りて悪趣に堕すべくとも、只、衆生の飢えを救うべし」と云々。

先達の心中のたけ、今の学人も、思うべし。

忘るること莫れ。





三十二


また、ある時、僧正の門弟の僧、等の云く、

「今の建仁寺の寺屋敷、川原に近し。

後代に、水難、ありぬべし」と。

僧正の云く、

「我れ、寺の後代の亡失、是れを思うべからず。

西天の祇園精舎も、いしずえ、ばかり、とどまれり。

然あれども、寺院、建立の功徳、失すべからず。

また、当時、一年、半年の行道、其の功徳、莫大なるべし」と。

今、是れを思うに、寺院の建立、実に、一期の大事なれば、未来際をも兼ねて、難、無きようにと、こそ、思うべけれども、さる心中にも亦、此の如きの道理、存せられたる心のたけ、実に、是れを思うべし。





三十三


夜話に云く、

唐の太宗の時、魏徴、奏して云く、

「土民、等、帝を謗すること、あり」と。

帝、云く、

「寡人、仁、ありて、人に謗せられば、愁と、すべからず、仁、無うして、人に讃せられば、是れを愁うべし」と。

俗、猶お、かくの如し。

僧は、最も、此の心、あるべし。

慈悲あり、道心ありて、愚痴人に誹謗せられんは、苦しかるべからず、無道心にて、人に有道と思われん、是れをよくよく、つつしむべし。





三十四


また、示して云く、

隋の文帝の云く、

密々に、徳を修して、飽けるをまつ。

言う心は、よき道徳を修して、あけるをまちて、民をいつくしうすると、なり。

僧、猶お、是れに及ばずんば、もっとも用心すべきなり。

只、内に道業を修すれば、自然に、道徳、外に、あらわれて、人に知られんことを期せず、のぞまずして、只、もっぱら、仏教に、したがい、祖道に随いゆけば、人、自ずから、道徳に帰するなり。

ここに、学人の錯り出で来るようは、人に、たっとばれ、財宝、いで来るを以て、道徳の、あらわれたると、自からも思い、人も、知り思うなり。

是れ、即ち、天魔波旬のつきたると、心に、しりて、最も思量すべし。

教の中に、是れは、魔の所為、と云うなり。

いまだ聞かず、三国の例、財宝に、とみ、愚人の帰敬をもって道徳とすべきことを。

道心者と云うは、昔より、三国みな、貧にして、身をくるしくし、一切を省約して、慈あり、道あるを、まことの行者と云うなり。

徳の、あらわるる、と云うも、財宝に、ゆたかに、供養に、ほこるを云うに、あらず。

徳の顕わるるに、三重、あるべし。

先ずは、其の人、其の道を修むるなり、と知らるるなり。

次には、其の道を慕う者、いで来る。

後には、其の道をおなじく学し、同じく行ずる。

是れを道徳の、あらわるる、と云うなり。





三十五


夜話に云く、

学道の人は、人情を棄つべきなり。

人情をすつる、と云うは、仏法に随い行くなり。

世人、おおく、小乗 根性にて、善悪をわきまえ、是非を分ちて、是をとり、非をすつるは、みな、是れ、小乗 根性なり。

只、先ず、世情をすてて、仏道に入るべし。

仏道に入るには、我がこころに、善悪を分けて、よしと思い、あししと思うことをすてて、我が身よからん、我が意なにとあらんと思う心をわすれて、善くもあれ、悪くもあれ、仏祖の言語、行履に随いゆくなり。

吾が心に善しと思い、また、世人の、よしと思うこと、必ずしも善からず。

然あれば、人めも、わすれ、吾が意をも、すてて、仏教に随いゆくなり。

身も、くるしく、心も愁うるとも、我が身心をば、一向に、すてたるものなれば、と思うて、苦しく、うれえつべきこと、なりとも、仏祖、先徳の行履ならば、なすべきなり。

此の事は、よきこと、仏道に、かないたらめ、と思うて、なしたく、行じたくとも、もし、仏祖の行履に無からん事は、なすべからず。

是れ、必ず、法門をも、よく、こころえたるにて、あるなり。

吾が心にも、また、本より、習い来る法門の思量をば棄てて、只今、見る所の祖師の言語、行履に、次第に、心を移しもてゆくなり。

かくのごとくすれば、智慧も、すすみ、悟りも開くるなり。

本より、学せし所の教家、文字の功も、すつべき道理あらば、棄てて、今の義につきて見るべきなり。

法門を学する事は、本より、出離、得道のためなり。

「我が所学、多年の功つめり、なんぞ、たやすく捨てん?」と、猶お、心深く思う、即、此の心を「生死繋縛の心」と云うなり。

能々〈よくよく〉、思量すべし。





三十六


夜話に云く、

故 建仁寺 僧正の伝をば、顕兼 中納言 入道の、書かれたるなり。

其の時、辞する、ことばに云く、

儒者に書かせらるべきなり。

そのゆえは、儒者は、もとより、身をわすれて、幼き時より、長となるまで、学問を本とす。

故に、かき出したるものに誤まり無きなり。

直〈ただ〉の人は、身の出仕、交衆を本として、かたわらごとに、学問をする、あいだ、自ら、好人、あれども、文筆のみちにも誤り出で来るなり、と。

是れを思うに、昔の人は、外典の学問も、身をわすれて、学するなり。





三十七


また、云く、

故 公胤 僧正の云く、

道心と云うは、一念三千の法門なんどを、胸の中に学し入れて、もちたるを道心と云うなり。

なにと無く、笠を頸に懸けて、迷い、ありくをば、天狗、魔縁の行と云うなり。





三十八


夜話に云く、

故 僧正の云く、

衆僧、各、所用の衣、糧、等の事、予が、あたうると思うこと、なかれ。

皆、是れ、諸天の供する所なり。

吾は、取り次ぎ、人にあたえたるばかりなり。

また、各、一期の命分、具足す。

奔走すること莫れ。

吾が恩と思うこと莫れ、と常に、すすめられける。

是れ、第一の美言と、おぼゆるなり。





三十九


また、大宋、宏智禅師の会下、天童は、常住物、千人の用途なり。

然あれば、堂中、七百人、堂外、三百人にて、千人につもる、常住物なるに、好き長老の住したる故に、諸方の僧、雲集して、堂中、千人なり。

其の外に、五、六百人あるなり。

知事の人、宏智に訴えて云く、

常住物は、千人の分なり。

衆僧、多く集まりて、用途、不足なり、枉〈ま〉げて、はなたれん、と申ししかば、

宏智、云く、

人々、みな、口あり。

汝が、事に、あずからず。

歎くこと莫れ、と云々。

今、是れを思うに、人々、皆、生得の衣食あり。

思念によりても出で来らず、求めざれば来らざるにもあらず。

在家人すら、なお、運に任かせて、忠を思い、孝を学す。

いかに、況や、出家人は、すべて、他事を管せんや?!

釈尊、遺付の福分あり、諸天、応供の衣食あり、また、天然、生得の命分あり。

求めず、思わずとも、任運に命分あるべきなり。

直饒〈たと〉い、走り求めて、宝をもちたりとも、無常、忽ちに来らん時、如何?

故に、学人は、只、須からく、余事を心に、とどめず、一向に、学道すべきなり。





四十


また、ある人の云く、

末世、辺土の仏法興隆は、閑居、静所をかまえ、衣食、等の外護に、わずらい、なく、衣食、具足して、仏法修行せば、利益も広かるべし、と。

今、これを思うに、然らず。

それに附ては、有相著我の諸人あつまり学せんほどに、その中には、一人も、発心の人は出来るまじ。

利養につき、財欲にふけりて、縦〈たと〉い、千万人、集りたらんも、一人、無からんに、猶、おとるべし。

悪道の業因のみ、自ら、積みて、仏法の気分なきゆえなり。

もし、清貧、艱難にして、或は、乞食し、あるいは、果蓏、等を食して、常に飢饉にして学道せんに、是れを聞いて、若し、一人も、来り学せんと思う人、あらんこそ、誠の道心者、仏法興隆ならめと、おぼゆれ。

艱難、清貧によりて、もし、一人も、なからんと、衣食、ゆたかにして、諸人、あつまりて、仏法の無からんとは、只、八両と半斤となり。





四十一


亦、云く、

当世の人、多く、造像、起塔、等の事を仏法興隆と思えり。

是れ、また、非なり。

直饒〈たと〉い、高堂、大観玉をみがき、金をのべたりとも、是れに依りて、得道の者、あるべからず。

只、在家人の財宝を仏界に入れて、善事をなす、福分なり。

また、小因大果を感ずることあれども、僧徒の、此の事をいとなむは、仏法興隆には、あらざるなり。

たとい、草菴、樹下にてもあれ、法門の一句をも思量し、一〈ひ〉と時の坐禅をも行ぜんこそ、誠の仏法興隆にてあらめ。

今、僧堂を立てんとて、勧進をもし、随分に、いとなむ事は、必ずしも仏法興隆と思わず。

ただ、当時、学道する人もなく、いたずらに、日月を送る、あいだ、ただ、あらん、よりは、と思うて、迷徒の結縁とも、なれかし、また、当時、学道の徒〈とも〉がらの坐禅の道場のためなり、また、思い始めたる事のならぬとても恨み、あるべからず。

ただ、柱、一本なりとも、立てて置きたらば、後来も、かく思い、くわだてたれども、成らざりけり、と見んも、苦しかるべからず、と思うなり。





四十二


また、ある人、勧めて云く、

仏法興隆のために、関東に下向すべし、と。

答えて云く、

然らず。

若し、仏法に志あらば、山川、江海を渡りても、来りて学すべし。

其の志、無からん人に、往き向うて勧むるとも、聞き入れんこと、不定なり。

ただ、我が資縁のために、人を誑惑せんか?

また、財宝を貪らんがためか?

其れは、身の苦しみなれば、いかでもありなんと覚ゆるなり。





四十三


また、云く、

学道の人、教家の書籍をよみ、外典、等を学すべからず。

見るべくんば、語録、等を見るべし。

其の余は、しばらく、是れを置くべし。

近代の禅僧、頌を作り、法語を書かんがために、文筆、等をこのむ。

是れ、便ち、非なり。

頌に、つくらずとも、心に思わんことを書出し、文筆、ととのわずとも、法門をかくべきなり。

是れをわるしとて見ざらんほどの無道心の人は、よく文筆を調〈ととの〉えて、いみじき秀句、ありとも、ただ、言語ばかりを玩〈もて〉あそんで、理を得べからず。

我れ、もと、幼少の時より、好み学せしことなれば、今も、ややもすれば、外典、等の美言、案ぜられ、文選、等も見らるるを、詮なき事と存ずれば、一向に、すつべき由を思うなり。





四十四


一日、示して云く、

吾れ在宋の時、禅院にして古人の語録を見し時、ある西川の僧、道者にて、ありしが、我に問うて云く、

語録を見て、なにの用ぞ?

答えて云く、

古人の行李を知らん。

僧の云く、

何の用ぞ?

云く、

郷里にかえりて、人を化せん。

僧の云く、

なにの用ぞ?

云く、

利、生のためなり。

僧の云く、

「畢竟じて、何の用ぞ?」と。

予、後に、此の理を案ずるに、語録、公案、等を見て、古人の行履をも知り、あるいは、迷者のために説き聴かしめん、皆な、是れ、自行、化他のために畢竟じて無用なり。

只管打坐して大事をあきらめなば、後には、一字を知らずとも、他に開示せんに、用い、つくすべからず。

故に、彼の僧、「畢竟じて、なにの用ぞ?」とは云いける。

是れ、「真実の道理なり」と思いて、其の後、語録、等を見ることをやめて、一向に、打坐して、大事を明らめ得たり。





四十五


夜話に云く、

真実、内徳、のうして、人に貴びらるべからず。

此の国の人は、真実の内徳をば知らずして、外相を以て、人を貴とぶほどに、無道心の学人は、即ち、悪道にひきおとされて、魔の眷属と、なるなり。

人に貴とびられんは、安き事なり。

中々、身を捨て、世をそむく由を以てなすは、外相ばかりの仮令〈けりょう〉なり。

只、なにともなく世間の人の様にて内心を調えもてゆくが、是れ、実の道心者なり。

然あれば、古人の云く、「内、空しうして、外、したがう」と。

云う心は、内心は我心、のうして、外相は他に随いもてゆくなり。

我が身、我が心と云う事を一向に忘れて仏法に入りて、仏法のおきてに任せて行じもてゆけば、内外、ともに、よく、今も後も、よきなり。

仏法の中にも、そぞろに身をすて、世をすつればとて、棄つべからざる事をすつるは、非なり。

此の土の仏法者、道心者を立つる人の中にも、身をすつるとて、人は、いかにも見よ、と思いて、ゆえ無く、身をわるく、ふるまい、或は、また、世を執せぬ、とて、雨にも、ぬれながら行き、なんど、するは、内外、ともに、無益なるを、世間の人は、すなわち、此らを、「貴き人かな。世を執せぬ」なんどと思えるなり。

中に仏制を守りて、戒律の儀をも存じ、自行、化他、仏制にまかせて行ずるをば、かえりて、名聞、利養げなるとて、人も管せざるなり。

夫れが、却て、吾がためには、仏教にも随い、内外の徳も成ずるなり。





四十六


夜話に云く、

学道の人、世間の人に、智者、もの知りと、しられては、無用なり。

真実、求道の人の、一人もあらん時は、我が知る所の仏祖の法を説かざること、あるべからず。

直饒〈たと〉い、我を殺さんとしたる人なりとも、真実の道を聴かんとて、誠の心を以て問わば、怨心をわすれて、是れが為に説くべきなり。

其の外、教家の顕密、及び、内外の典籍、等の事、知りたる気色しては、全く無用なり。

人、来りて、此の如きの事を問わば、「知らず」と答えたらんに、一切に、苦しかるべからざるなり。

其れを、「もの知らぬは、わるし」と、人も思い、「愚人」と自らも覚ゆる事を傷〈いた〉んで、ものを知らんとて、博く内外典を学し、剰〈あま〉つさえ、「世間、世俗の事をも知らん」と思いて、諸事を好み学し、あるいは、人にも知りたる由をもて、なすは、究めて僻事なり。

学道のために真実に無用なり。

知りたるを知らざる気色するも、むずかしく、ようがましければ、却て、あたる気色にて、あしきなり。

もとより、知らざらんは、苦しからざることなり。

我れ、幼少の時、外典、等を好み学しき。

夫が、のち、入宋、伝法するまでも、内外の書籍を開き、方語を通ずるまでも、大切の用事、また、世間のためにも、尋常ならざる事なり。

俗、なんども、尋常ならざる事に思いたる、かたがたの用事にて、ありけれども、今、熟〈つらつ〉ら、思うに、学道の、さわりにて、あるなり。

只、聖教を見るとも、文に見ゆる所の理を、次第に、心得てゆかば、其の道理を得つべきなり。

然るに、先ず、文章を見、対句、韻声、なんどを見、「よきぞ」、「あしきぞ」と心に思うて、後に、理をば心得るなり。

然あれば、中々、知らずして、初めより、道理を心得て行かば、よかるべきなり。

法語、等を書くにも、文章に、おおせて、書かんとし、韻声、差〈たが〉えば、礙〈さ〉えられなんどするは、知りたる咎なり。

語言、文章は、いかにもあれ、思う儘〈まま〉の理を顆々と書きたらんは、後来も、「文は、わろし」と思うとも、理だにも聞えたらば、道のためには大切なり。

余の才学も、かくの如し。

伝え聞く、

故 高野の空阿弥陀仏は、本は、顕密の碩徳なりき。

遁世ののち、念仏の門に入りて後に、真言師ありて、来て、密宗の法門を問いけるに、彼の人、答えて云く、「皆、わすれ、おわりぬ。一字も、おぼえず」とて答えられざりけるなり。

これらこそ、道心の手本となるべけれ。

などかは、少々、覚えでは、あるべき。

然あれども、無用なる事をば云わざりけるなり。

一向、念仏の日は、さこそ、有るべけれ、と覚ゆるなり。

今の学者も、此の心、あるべし。

縦〈たと〉い、もと、教家の才学、等、ありとも、皆、忘れたらんは、好〈よき〉事なり。

況や、今、学すること、努々〈ゆめゆめ〉、あるべからず。

宗門の語録、等、なお、真実、参学の道者は、見るべからず。

其の余は、是れを以て、知るべし。





四十七


夜話に云く、

今、此の国の人は、多分、或は、行儀につけ、或は、言語につけ、善悪、是非、世人の見聞知識を思いて、其の事をなさば、人、悪しく思いてん、其の事は、人、善しと思いてんと、乃至、向後までをも執するなり。

是れ、全く、非なり。

世間の人、必ずしも、善とすること、あたわず。

人は、いかにも思わば思え、狂人とも云え、我が心に仏道に順じたらんことをば、なし、仏法に順ぜずんば行ぜずして、一期をも過さば、世間の人は、いかに思うとも、苦しかるべからず。

遁世と云うは、世人の情を心にかけざるなり。

ただ、仏祖の行履、菩薩の慈悲を学して、諸、天、善神の冥に照す所を慚愧して、仏制に任せて行じもてゆかば、一切、苦しかるまじきなり。

さればとて、また、人の悪ししと思い云わんも苦しかるべからずとて、放逸にして悪事を行じて人を愧じざるは、是れ、亦、非なり。

ただ、人目には、よらずして、一向に、仏法に依りて行ずべきなり。

仏法の中には、また、然〈か〉くのごときの放逸、無慚をば制するなり。





四十八


また、云く、

世俗の礼にも、人の見ざる所、或は、暗室の中なれども、衣服、等をきがうる時も、また、坐、臥する時にも、放逸に、隠所なんどをも蔵〈かく〉さず無礼なるをば、天に慚じず、鬼に慚じず、とて、そしるなり。

只、人の見る時と同じく、かくすべき所をも、かくし、はずべきことをも、はずるなり。

仏法の中も、また、戒律、かくのごとし。

然あれば、道者は、内外を論ぜず、明暗を択〈えら〉ばず、仏制を心に存して、人の見ず、知らざれば、とて、悪事を行ずべからざるなり。





四十九


一日、学人、問うて云く、

某甲、なお、学道を心にかけて、年月を経るといえども、いまだ、省悟の分、あらず。

古人、多く、道は聡明、霊利に依らず、有智、明敏を用いず、と云う。

然あれば、我が身、下根、劣器なれば、とて、卑下すべきにも、あらず、と、きこえたり。

若し、故実、用心を存すべき様ありや?

如何?

示して云く、

然、あり。

有智、高才を用いず、霊利、聡明によらぬは、まことの学道なり。

あやまりて盲、聾、痴人のごとくに、なれ、と、すすむるは、非なり。

学道は、是れ、全く、多聞、高才を用いぬ故に、下根、劣器、と嫌うべからず。

誠の学道は、やすかるべきなり。

然あれども、大宋国の叢林にも、一師の会下の数百、千人の中に、まことの得道、得法の人は、わずかに、一人、二人なり。

然あれば、故実、用心も、あるべきなり。

今、是れを案ずるに、志の至ると、至らざると、なり。

真実の志を発して、随分に参学する人、「得ず」と云うこと、なきなり。

その用心の様は、何事を専らにし、その行を急にすべし、と云うことは、次のこと、なり。

先ず、欣求の志の切なるべきなり。

譬〈たと〉えば、重き宝をぬすまん、と思い、強き敵をうたん、と思い、高き色に、あわん、と思う心、あらん人は、行住坐臥、ことにふれ、おりに随いて、種々の事は、かわり来るとも、其れに随いて、隙を求め、心に懸くるなり。

この心、あながちに切なるもの、「とげず」と云うこと、なきなり。

かくの如く、道を求むる志、切になりなば、或は、只管打坐の時、或は、古人の公案に向わん時、若しくは、知識に逢わん時、実の志を以て行ずる時、高くとも射つべく、深くとも釣りぬべし。

是れほどの心、発らずして、仏道の一念に、生死の輪廻をきる大事をば、如何が、成ぜん?!

若し、此の心、あらん人は、下智、劣根をも云わず、愚痴、悪人をも論ぜず、必ず、悟りを得べきなり。

また、此の志をおこす事は、切に、世間の無常を思うべきなり。

此の事は、また、只、仮令〈けりょう〉の観法なんどに、すべきことに、あらず。

また、無きことをつくりて、思うべきことにも、あらず。

真実に、眼前の道理なり。

人のおしえ、聖教の文、証道の理を待つべからず。

朝に、生じて、夕べに、死し、昨日、みし人、今日は、なきこと、眼に遮ぎり、耳に、ちかし。

是れは、他のうえにて、見聞することなり。

我が身にひきあてて道理を思うに、たとい、七旬、八旬に、命を期すべくとも、終に、死ぬべき道理に依りて、死す。

其の間の、憂い、楽しみ、恩愛、怨敵、等を思いとげば、いかにでも、すごしてん。

只、仏道を信じて、涅槃の真楽を求むべし。

況や、年長、大せる人、半ばに過ぬる人は、余年、幾〈いくば〉く、計りなれば、学道、ゆるくすべきや?!

此の道理も、なお、のびたる事なり。

真実には、今日、今時こそ、かくのごとく、世間の事をも、仏道の事をも、思え、今夜、明日より、いかなる重病をも受けて、東西をも弁えぬ重苦の身と、なり、また、いかなる鬼神の怨害をも、うけて、頓死をも、し、いかなる賊難にも、あい、怨敵も出来て、殺害、奪命せらるることもや、あらんずらん。

実に、不定なり。

然あれば、是れほどに、あだなる世に、極て不定なる死期をいつまで命ながらうべきとて、種々の活計を案じ、剰〈あまつ〉さえ、他人のために悪をたくみ思いて、いたずらに、時光を過すこと、極めて、おろかなる事なり。

此の道理、真実なればこそ、仏も、是れを、衆生の為に説きたまい、祖師の普説、法語にも、此の道理のみを説かる。

今の上堂、請益、等にも、「無常、迅速。生死、事大」と云うなり。

返す返すも、此の道理を心にわすれずして、只、今日、今時ばかり、と思うて、時光をうしなわず、学道に心をいるべきなり。

其の後は、真実に、やすきなり。

性の上下と、根の利鈍は、全く、論ずべからざるなり。





五十


夜話に云く、

人、多く、遁世せざることは、我が身をむさぼるに似て、我が身を思わざるなり。

是れ、便ち、遠慮、なきなり。

また、是れ、善知識に、あわざるに依りてなり。

たとい、利養を思うとも、常楽の益を得て、龍、天の供養を得んことを願い、名聞を思うとも、仏祖の名を得、古徳の名を得ば、後賢も、是れを聞いては、慕うべきなり。





五十一


夜話に云く、

「朝に、道を聞いて、夕べに、死すとも、可なり」と。

いま、学道の人も、此の心、あるべきなり。

曠劫、多生の間、いくたびか、徒らに、生じ、徒らに、死せしに、まれに、人身を受けて、たまたま、仏法にあえる時、此の身を度せずんば、何れの生にか、此の身を度せん?

縦〈たと〉い、身を惜み、たもちたりとも、かなうべからず。

ついに、捨てて行く、いのちを、一日、片時なりとも、仏法のために捨てたらんは、永劫の楽因なるべし。

後のこと、明日の活計を思うて、棄つべき世を捨てず、行ずべき道を行ぜずして、徒らに、日夜を過すは、口惜しきことなり。

只、思いきりて、明日の活計なくば、飢え死にもせよ、寒え死にもせよ、今日、一日、道を聞いて、仏意に随いて死せんと思う心を、まず、発すべきなり。

然るときんば、道を行じ得んこと、一定なり。

此の心、なければ、世をそむき、道を学する様なれども、猶お、しり足をふみて、夏冬の衣服、等のことをした心にかけて、明日、猶お、明年の活命を思うて、仏法を学せんは、万劫、千生、学すとも、かなうべしとも、おぼえず。

また、さる人もや、あらんずらん。

存知の意趣、仏祖の教えには、あるべしとも、おぼえざるなり。





五十二


夜話に云く、

学人は、必ず、しぬべきことを思うべき道理は、勿論なり。

たとい、其のことをば、思わずとも、暫く、先ず、「光陰を徒らに過さじ」と思いて、無用のことをなして、徒らに、時を過さず、詮あることをなして、時を過すべきなり。

其の、なすべきことの中にも、亦、一切のこと、いずれか、大切なる? と云うに、仏祖の行履の外は、みな、無用なり、と知るべし。





五十三


或る時、奘、問うて云く、

衲子の行履、旧損の衲衣、等を綴り補うて、すてざれば、ものを貪惜するに似たり。

また、旧きをすてて、新しき随いて用うれば、新しきを貪求する心あり。

両〈ふたつ〉ながら、咎、あり。

畢竟じて、いかんが、用心すべき?

答えて云く、

貪惜、貪求の二つをだにも離れなば、両頭、ともに、失なからん。

ただし、破れたるを綴りて、久しからしめて、新しきをむさぼらずんば、可ならんか。





五十四


夜話の次〈ついで〉に、奘、問うて云く、

父母の報恩、等の事は、作すべきや?

示して云く、

孝順は最用なる所なり。

然あれども、其の孝順に、在家、出家の別、あり。

在家は、孝経、等の説を守って、生につかえ、死につかうること、世人、みな、知れり。

出家は、恩をすてて、無為に入る故に、出家の作法は、恩を報ずるに、一人に、かぎらず、一切、衆生をひとしく父母のごとく、恩、深し、と思うて、なす所の善根を法界にめぐらす。

別して今生、一世の父母にかぎらば、無為の道にそむかん。

日々の行道、時々の参学、只、仏道に随順しもてゆかば、其れを真実の孝道とするなり。

忌日の追善、中陰の作善なんどは、皆、在家に用うる所なり。

衲子は、父母の恩の深きことをば、実の如く、しるべし。

余の一切も、亦、かくの如し、と知るべし。

別して一日を占めて、ことに善を修し、別して一人を分て廻向するは、仏意に、あらざるか。

戒経の父母、兄弟、死亡之日の文は、且く、在家に蒙むらしむるか。

大宋、叢林の衆僧、師匠の忌日には、其の儀式あれども、父母の忌日は、是れを修したり、とも見えざるなり。





五十五


一日、示して云く、

人の利鈍と云うは、志の到らざる時のこと、なり。

世間の人の、馬より落つる時、いまだ、地におち、つかざる間に、種々の思、起る。

身をも損じ、命をも失するほどの大事、出来る時は、誰人も、才学念慮を回すなり。

其の時は、利根も、鈍根も、同じく、ものを思い、義を案ずるなり。

然あれば、今夜、死に、明日、死ぬべし、と思い、あさましきことに逢いたる思いを作して、切に、はげまし、志をすすむるに、悟りをえず、と云うこと、なきなり。

中々、世智、弁聡なる、よりも、鈍根なるようにて切なる志を発する人、速かに、悟りを得るなり。

如来、在世の、周梨槃特のごときは、一偈を読誦することも難かりしかども、根性、切なるによりて、一夏に、証を取りき。

只、今ばかり、我が命は、存ずるなり。

死なざる先きに、悟を得ん、と切に思うて、仏法を学せんに、一人も、得ざるは、あるべからざるなり。





五十六


一夜、示して云く、

大宋の禅院に、麦、米、等をそろえて、悪しきをさけ、善きをとりて、飯、等にすること、あり。

是れを或る禅師の云く、

直饒〈たと〉い、我が頭をうち破ること、七分にすとも、米をそろうることなかれ、と頌につくり戒めたり。

此の、こころは、僧は、斎食、等をととのえて食することなかれ、只、有るに、したがいて、よければ、よくて食し、悪きをも、きらわずして食すべきなり。

只、檀那の信施、清浄なる常住食を以て、餓を除き、命をささえて、行道するばかりなり。

味いを以て善悪を択〈えら〉ぶことなかれ、と謂うなり。

今、我が会下の徒衆も、此の心、あるべし。





五十七


因〈ちなみ〉に、問うて云く、

学人、若し、自己、これ、仏法なり、外に向いて求むべからず、と、ききて、深く、此の言を信じて、向来の修行、参学を放下して、本性に任せて善悪の業をなして一期を過さん、此の見解、いかん?

示して云く、

学人、若し、自己、これ、仏法なり、外に向って求むべからず、と云いて、行を捨て、学を放下せば、此の放下の行を以て所求あり、と、きこえたり、これ、覓〈もと〉めざるには、あらず。

只、行、学、もとより、仏法なり、と証して、無所求にして、世事、悪業、等は、我が心に、なしたくとも、なさず、学道、修行の懶〈ものう〉きをも、いとい、かえりみず、此の行を以て打成一片に修して、道、成ずるも、果を得るも、我が心より、求ること、のうして、行ずるをこそ、外に向って覓〈もとめ〉ること、なかれ、と云う道理には、かなうべけれ。

南嶽の磚〈かわら〉を磨して鏡と、なせしも、馬祖の作仏を求めしを戒めたり。

坐禅を制するには、あらざるなり。

坐は、すなはち、仏行なり。

坐は、すなはち、不為なり。

是れ、便ち、自己の正体なり。

此の外、別に、仏法の求むべき、無きなり。





五十八


一日、請益の次でに云く、

近代の僧侶、多く、「世俗に随うべし」と云う。

今、思うに、然、あらず。

世間の賢すら、なお、民俗にしたがうことを「けがれたること」と云いて、屈原の如きんば、世は、挙〈こぞ〉って、皆、よえり、我は独り、醒〈さ〉めたり、とて、民俗に随わずして、終に、滄浪に没す。

況や、仏法は、事と事と、みな、世俗に違背せるなり。

俗は、髪を飾る、僧は、髪を剃る。

俗は、多く食す、僧は、一食す。

皆、そむけり。

然して、後に、還って、大安楽の人と、なるなり。

故に、僧は、一切、世俗に、そむけるなり。





五十九


一日、示して云く、

治世の法は、上、天子より、下、庶民に到るまで、各、皆な、其の官に居する者は、其の業を修す。

其の人に、あらずして、其の官に居するを乱天の事と云う。

政道が天意に合〈かな〉う時は、世、すみ、民、やすきなり。

故に、帝は、三更の三点に、起させ給いて、治世の時と、しましませり。

たやすからざることなり。

仏の法も、只、職のかわり、業の異なるばかりなり。

国王は、自ら、思量を以て、政道をはからい、先規をかんがえ、有道の臣を覓〈もと〉めて、政、天意に相、合〈かな〉う時、是れを治世と云うなり。

若し、是れを怠れば、天に背き、世、乱れ、民、苦しむなり。

其れより以下、諸の公卿、大夫、士、庶民、皆、各の司る所の業、あり。

其れに順うを人とは云うなり。

其れに背くは、天事を乱る故に、天の刑を蒙るなり。

然れば、仏法の学人も、世を離れ、家を出ればとて、徒らに、身を安んぜん、と思うこと、片時も、あるべからず。

初めは、利、あるに似たれども、後には、大いに害、あるなり。

出家の作法に順いて、全く、其の職を治め、其の業を修すべきなり。

世間の治世は、先規、有道をかんがえ、求むれども、先聖、先達の、たしかに相伝したる例、なければ、自ら、其の時の例に随うことも、あれども、仏子は、たしかなる先規、教文、顕然なり。

また、相承伝来の知識、現在、せり。

我に思量あり。

四威儀の中において、一々に、先規を思い、先達に随い、修行せんに、なじかは道を得ざるべき。

俗は、天意に合わんと思い、衲子は、仏意に合わんと思う。

修業、ひとしくして、得果、すぐれたれば、一得、永得ならん。

かくの如くの大安楽の為に、一世、幻化の此の身を苦しめて、仏意に随わんは、ただ、行者の心に、あるべし。

然ありと云えども、また、そぞろに、身を苦しめなすべからざることをなせ、と仏教には勧むること、なきなり。

戒行律儀に随い以てゆけば、自然に、身、やすく、行儀も尋常に、人めも、やすきなりほどに、只、今案の我見の身の安楽を捨てて、一向に、仏制に順ずべきなり。





六十


また、云く、

我れ、大宋、天童禅院に寓居せし時、浄老、宵には、二更の三点まで坐禅し、暁は、四更の二点、三点より、おきて、坐禅す。

長老と共に、僧堂裡に、坐す。

一夜も、懈怠なし。

其の間、衆僧、多く、眠る。

長老、巡り行きて、睡眠する僧をば、或いは、拳を以て打ち、或いは、履をぬいで打ち、恥かしめ進めて、眠りを醒す。

なお、眠る時は、照堂に行きて鐘を打ち、行者〈あんじゃ〉を召し、蝋燭をともし、なんどして、卒時に、普説して云く、

僧堂裡に集り居て、徒らに、眠りて、何の用ぞ?

然あらば、何ぞ、出家して入、叢林するや?

見ずや?

世間の帝王、官人、何人か、身をたやすくする?

君は王道を治め、臣は忠節を尽し、乃至、庶民は田を開き鍬を取るまでも、何人か、たやすくして世を過す?

是れをのがれて叢林に入て、空しく時光を過して、畢竟じて、何の用ぞ?

「生死、事大なり。無常、迅速なり」と、教家も、禅家も、同じく勧む。

今夕明旦、如何なる死をか受け、如何なる病をか、うけん?

且く、存するほど、仏法を行ぜず、睡り臥して空しく時を過すこと最も愚なり。

かくの如くなる故に、仏法は衰え行くなり。

諸方、仏法の盛なりし時は、叢林、皆、坐禅を専らにせしなり。

近代、諸方、坐禅を勧めざれば、仏法、澆薄しゆくなり、と。

かくの如くの道理を以て、衆僧をすすめて坐禅せしめられしこと、まのあたり、是れを見しなり。

今の学人も、彼の風を思うべし。

また、或時、近仕の侍者、等、云く、

僧堂裡の衆僧、眠り、つかれて、或は、病、起り、退心も起りつべし、これ、坐の久しき故か、坐禅の時刻を縮められばや、と申しければ、長老、大に嗔りて、云く、

然、あるべからず。

無道心の者の、仮令〈かり〉に、僧堂に居するは、半時、片時なりとも、猶お、眠るべし。

道心、ありて、修行の志、あらんは、長からんにつけて、いよいよ、喜び、修せんずるなり。

我れ、弱〈わか〉かりし時、諸方の長老を歴観せしに、ある長老、かくの如く、勧めて云く、

已前は、眠る僧をば、拳も欠けなん、とするほどに、打ちたるが、今は、老後になりて、ちから、よわくなりて、つよくも打ち得ざるほどに、よき僧も出来らざるなり。

諸方の長老も坐を緩く勧むる故に、仏法は衰微せるなり。

我は、弥〈いよい〉よ、打つべきなり、とのみ示されしなり。





六十一


また、云く、

道を得ることは、心を以て得るか? 身を以て得るか?

教家、等にも、「身心一如」と、いいて、身を以て得るとはいえども、猶お、一如の故に、と云う。

しかあれば、正しく、身の得ることは、たしかならず。

今、我が家は、身心、ともに、得るなり。

其の中に、心を以て仏法を計校する間は、万劫、千生、得べからず。

心を放下して、知見、解会を捨つる時、得るなり。

見色明心、聞声悟道の如きも、猶お、身の得るなり。

然あれば、道を得ることは、正しく、身を以て得るなり。

是れに依りて、坐を専らにすべし、と覚えて勧むるなり。

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