正法眼蔵随聞記 第一
正法眼蔵随聞記 第一
侍者 懐奘 編
一
一日、示して云く。
続高僧伝の中に、
或禅師の会下に一僧あり。
金像の仏と、また仏舎利とをあがめ用いて、
衆寮等にありても常に焼香、礼拝し、恭敬、供養しき。
有時、禅師の云く、
「汝が崇むる所の仏像、舎利は、後には汝がために不是あらん」と。
其の僧、うけがわず。
師、云く、
「是れ、天魔波旬の作す所なり、
早く是れを棄つべし」
其の僧、憤然として出ぬれば、師、すなわち、僧の後えに云ひ懸けて云く、
「汝、箱を開いて是れを見るべし」と。
其の僧、いかりながら是れを開いてみれば、毒蛇、わだかまりて臥せり、と。
是れを以て思うに、
仏像、舎利は如来の遺像、遺骨なれば、恭敬すべし、といえども、また、「偏に是れを仰いで得悟すべし」と思わば、還って邪見なり。
天魔、毒蛇の所領となる因縁なり。
仏説の功徳は定まれる事なれば、人天の福分となること生身と等しかるべし。
総じて三宝の境界を恭敬、供養すれば、罪、滅び、功徳を得、また、悪趣の業をも消し、人天の果をも感ずることは実なり。
「是れによりて法の悟りを得ん」と思うは僻見なり。
仏子と云うは、仏教に順じて直に仏位に到る為なれば、只、教に随いて工夫、弁道すべきなり。
其の教に順ずる実の行と云うは、即、今の叢林の宗とする只管打坐なり。
是れを思うべし。
二
また云く、
「戒行、持斎を守護すべければ」とて、強いて宗として是れを修行に立て、「是れによりて得道すべし」と思うも、また、これ、非なり。
只、是れ、衲僧の行履、仏子の家風なれば、随い行うなり。
是れを能き事と云えばとて、必ずしも宗とすることなかれ。
然あれば、とて、「破戒、放逸なれ」というには非ず。
若し、また、かくの如く執せば、邪見なり。
外道なり。
只、仏家の儀式、叢林の家風なれば、随順しゆくなり。
是れを宗とする事、宋土の寺院に寓せし時に、衆僧にも見え来らず。
実の得道のためには唯、坐禅、工夫、仏祖の相伝なり。
是れによりて一門の同学、五眼房、故 葉上 僧正の弟子が、唐土の禅院にて、持斎をかたく守りて戒経を終日、誦せしをば、教えて捨てしめたりしなり。
三
懐奘、問うて云く、
叢林、学道の儀式は百丈の清規を守るべきか?
然あれば、「彼れ、はじめに、受戒、護戒を以て先とす」と見えたり。
また、今の伝来、相承は「根本戒をさずく」とみえたり。
当家の口訣、面授にも、西来、相伝の戒を学人にさずく。
是れ、便ち、今の菩薩戒なり。
然あるに、今の戒経に、「日夜に是れを誦せよ」と云えり。
何ぞ、是れを誦するを捨てしむるや?
師、云く、
しか、なり。
学人、最も百丈の規縄を守るべし。
然あるに、其の儀式は受戒、護戒、坐禅、等なり。
「昼夜に戒経を誦し、専ら、戒を護持す」と云うは、古人の行履に随いて、祗管打坐すべきなり。
坐禅の時、何れの戒か持たざる?!
何れの功徳か来らざる?!
古人、行じおける所の行履、皆、深き心なり。
私の意楽を存せずして、衆に随い、古人の行履に任せて、行じゆくべきなり。
四
ある時、示して云く、
仏照禅師の会下に一僧ありて、病患のとき、肉食を思う。
照、是れを許して、食せしむ。
ある夜、自ら延寿堂に行きて見たまえば、灯火、幽にして、病僧、また、肉を食す。
時に、一鬼、病僧の頭の上にのり、いて、件の肉を食す。
僧は、「我が口に入る」と思えども、我は食せずして、頭上の鬼が食するなり。
然りし、より後は、病僧の肉食を好むをば、鬼に領せられたり、と知りて、是れを許しき、と。
是れについて思うに、
許すべきか? 許すべからざるか? 斟酌あるべし。
五祖演の会にも、肉食のこと、あり。
許すも、制するも、古人の心、皆、其の意趣あるべきなり。
五
一日、示して云く、
人、其の家に生れ、其の道に入らば、先ず、其の家業を修すべし、と知るべきなり。
我が道にあらず、己れが分にあらざらんことを知り、修するは、即ち、非なり。
今も出家人として、便ち、仏家に入り僧侶とならば、須らく、其の業を習うべし。
「其の業を習い、其の儀を守る」と云うは、我執をすてて、知識の教に随うなり。
其の大意は、貪欲、無きなり。
「貪欲、なからん」と思わば、先ず、須らく、吾我を離るべきなり。
吾我を離るるには、無常を観ずる、是れ、第一の用心なり。
世人、多く、「我は、もとより、人にも『よし』と云われ、思われん」と思うなり。
然あれども、よくも云われ、思われざるなり。
次第に、我執を捨て、知識の言に随いゆけば、精進するなり。
理をば、心得たる、ように云いて、「さは、さにあれども、我は、其の事を捨てえぬ」と云いて、執し、好み、修するは、弥よ、沈淪するなり。
禅僧の能くなる第一の用心は、只管打坐すべきなり。
利鈍、賢愚を論ぜず、坐禅すれば、自然に、よくなるなり。
六
示して云く、
広学、博覧は、かなうべからざることなり。
一向に、思い切りて、止むべし。
唯、一事について、用心、故実をも習い、先達の行履をも尋ねて、一行を専ら、はげみて、人師、先達の気色、すまじきなり。
七
或時、奘、問うて云く、
如何、是、不昧因果底、道理?
師の云く、
不動、因果なり。
云く、
なんとしてか脱落せん?
師の云く、
因果、歴然なり。
云く、
かくの如くならば、因、果を引起すや?
果、因を引起すや?
師の云く、
総て、かくの如くならば、かの、南泉の猫児を斬るがごとき、大衆、既に、道い得ず、便ち、猫児を斬郤しおわりぬ。
後に、趙州、頭に草鞋を戴きて出たりし、また、一段の儀式なり。
亦、云く、
我れ、若し、南泉なりせば、即ち、いうべし、「道い得たりとも、便ち、斬郤せん。
道い得ずとも、便ち、斬郤せん。
何人か猫児をあらそう? 何人か猫児を救う?」と。
大衆に代って、云わん、
「既に、道い得ず、和尚、猫児を斬郤せよ」と。
また、大衆に代って、云わん、
「和尚、只、一刀両段を知りて、一刀一段を知らず」と。
奘、云く、
「如何、是、一刀一段?」
師の云く、
猫児、是。
また、云く、
大衆、不対の時、我れ、南泉ならば、「大衆、既に道、不得」と云いて、便ち、猫児を放下してまじ。
古人の云く、
「大用、現前して軌則を存せず」と。
また、云く、
今の斬猫は、是れ、便ち、仏法の大用、現前なり。
或は、一転語なり。
若し、一転語にあらずば、「山河、大地、妙浄明心」と云うべからず。
また、「即心是仏」とも云うべからず。
便ち、此の一転語の言下にて「猫児、即、仏身」と見よ。
また、此の詞を聴いて、学人も、頓に、悟入すべし。
亦、云く、
此の「斬、猫児、即、是、仏、行」なり。
喚で何とか云うべき?
云く、
喚で「斬猫」と云うべし。
奘、云く、
是れ罪相なりや? 否や?
云く、
罪相なり。
奘、云く、
なにとしてか脱落せん?
云く、
別々無見なり。
云く、
別解脱戒とは、かくの如きを云うか?。
云く、
然り。
また、云く、
ただし、かくの如きの料簡、たとい、好事なりとも、無からんには、しかじ。
八
奘、問うて云く、
犯戒の語は受戒已後の所犯を云うか?
唯、また、未受以前の罪相をも犯戒と云うべきか?
如何?
師、答えて云く、
犯戒の名は受後の所犯を云うべし。
未受以前所作の罪相をば、只、罪相、罪業と云いて、犯戒と云うべからず。
問うて云く、
四十八軽戒の中に、「未受戒の所犯を『犯』と名く」と見ゆ。
如何?
答えて云く、
然らず。
彼は、未受戒の者、「今、受戒せん」とする時、所造のつみを懺悔するに、今の戒にのぞめて、前に十戒等を授かりて犯し、後ち、また、軽戒を犯ずるをも犯戒と云うなり。
以前所造の罪を犯戒と云うにはあらず。
九
問うて云く、
「今、受戒せん」とする時、「まえに造りし所の罪を懺悔せんが為に、未受戒の者に十重、四十八軽戒を教えて読誦せしむべし」と見えたり。
また、下の文に、「未受戒の前にして説戒すべからず」と。
此の二所の相違、如何?
答えて云く、
受戒と誦戒とは別なり。
懺悔のために戒経を誦するは、猶お、是れ、念経なり。
故に、「未受の者、戒経を誦せん」とす。
彼が為に戒経を説かんこと、咎あるべからず。
下の文に、利養の為のゆえに、未受戒の前にして、是れを説くことを制するなり。
今、受戒の者に懺悔せしめん為には、最も是れを教うべし。
十
問うて云く、
受戒の時は七逆の受戒を許さず。
先の戒の中には、「逆罪も懺悔すべし」と見ゆ。
如何?
答えて云く、
実に、懺悔すべし。
受戒の時、許さざることは、且く、抑止門とて抑ゆる義なり。
また、上の文は、破戒なりとも、還って、得受せば、清浄なるべし。
懺悔すれば、清浄なり、未受に同じからず。
問うて云く、
七逆、すでに、懺悔を許さば、また、受戒すべきか?
如何?
答えて云く、
然あり。
故、僧正、自ら所立の義なり。
既に、懺悔を許す、また、是れ、受戒すべし。
逆罪なりとも、くいて受戒せば、授くべし。
況や、菩薩は、たとい、自身は破戒の罪を受くとも、他の為には、受戒せしむべきなり。
十一
夜話に云く、
悪口を以て、僧を呵嘖し毀訾すること莫れ。
設〈たと〉い、悪人、不当なりとも、左右なく、悪〈にく〉み毀ること、なかれ。
先ず、いかに、「わるし」と云うとも、四人已上、集会しぬれば、これ、僧体にて、国の重宝なり。
最も帰敬すべきものなり。
若しは、住持、長老にてもあれ、若しは、師匠、知識にてもあれ、弟子、不当ならば、慈悲心、老婆心にて、教訓、誘引すべし。
其の時、設〈たと〉い、打つべきをば打ち、呵嘖すべきをば呵嘖すとも、毀訾、謗言の心を発すべからず。
先師、天童浄和尚、住持のとき、僧堂にて、衆僧、坐禅の時、眠りを誡しむるに、履を以て打ち謗言、呵嘖せしかども、衆僧、皆、打たるるを喜び讃歎しき。
有時、また、上堂の次でに云く、
我れ、既に、老後、今は、衆を辞し、菴に住して、老を扶けて居るべけれども、衆の知識として、各の迷を破り道を授けんがために住持人たり。
是に依りて、或は、呵嘖の詞を出し、竹箆、打擲、等のことを行ず。
是れ、頗る、怖れ、あり。
然あれども、仏に代って化儀を揚る式なり。
「諸の兄弟、慈悲を以て、是れを許し給え」と言えば、衆僧、皆、流涕しき。
此の如きの心を以てこそ、衆をも接し、化をも宣ぶべけれ。
住持、長老なればとて、乱〈みだり〉に、衆を領し、我が物に思いて、呵嘖するは、非なり。
況や、其の人にあらずして、人の短所を云い、他の非を謗るは、非なり。
よくよく用心すべきなり。
他の非を見て「悪しし」と思いて、「慈悲を以て化せん」と思わば、腹立つまじきように方便して、傍ら事を云うようにて、こしらうべきなり。
十二
また、物語に云く、
故鎌倉の右大将、初め、兵衛佐にて有りし時、内裡の辺に、一日、はれの会に出仕の時、一人の不当人ありき。
其の時の大納言、おおせて云く、
「是れを制すべし」と。
大将の云く、
「六波羅に仰せらるべし、平家の将軍なり」と。
大納言の云く、
「近か近かなればなり」と。
大将の云く、
「其の人に非ず」と。
是れ、美言なり。
此の心にて、後には、世をも治められしなり。
今の学人も、其の心、あるべし。
其人にあらずして、人を呵すること莫れ。
十三
夜話に云く、
昔、魯仲連と云う将軍ありき。
平原君が国に在て、よく朝敵をたいらぐ。
平原君、賞して、数多の金銀等を与えしかば、魯仲連、辞して、云く、
「只だ、将軍のみちなれば、敵を能く討つのみなり、賞を得て、物をとらん為に非ず」と云いて、「敢て、取らず」と云う。
魯仲連が廉直とて名誉のことなり。
俗、猶お、賢なるは、我れ、其の人として其の道の能をなすばかりなり。
「かわりを得ん」とは思はず。
学人の用心も、かくの如くなるべし。
仏道に入り、仏法の為に諸事を行じて、「代りに所得あらん」と思うべからず。
内外の諸教に、皆、「無所得なれ」とのみ勧むるなり。
十四
法談の次でに示して云く、
設使〈たとい〉、我は、道理を以て云うに、人は、ひがみて僻事を云うを、理を攻めて云い勝つは、あしきなり。
また、我は、「現に道理」と思えども、「吾が非にこそ」と云いて、はやく、まけて、のくも、あしばやなり。
只、人も云い折らず、我が僻ごとにも謂わず、無為にして、止みぬるが、好〈よ〉きなり。
耳に聴入れぬようにして忘るれば、人も忘れて嗔らざるなり。
第一の用心なり。
十五
示して云く、
無常、迅速なり。
生死、事大なり。
且く、存命の際、業を修し、学を好まば、只、仏道を行じ、仏法を学すべきなり。
文筆、詩歌、等、其の詮なき事なれば、捨つべき道理なり。
仏法を学し、仏道を修するにも、猶お、多般を兼学すべからず。
況や、教家の顕密の聖教、一向に、さしおくべきなり。
仏祖の言語すら、多般を好み、学すべからず。
一事を専らにせんすら、鈍根、劣器の者は、かなうべからず。
況や、多事を兼て、心操をととのえざらんは、不可なり。
十六
示して云く、
むかし、智覚禅師と云いし人の発心、出家のこと。
此の師は、初めは、官人なり。
才幹に富み、正直の賢人なり。
国司たりし時、官銭をぬすみて施行す。
傍人、是れを帝に奏す。
帝、聞いて、大に驚怪す。
諸臣も、皆、あやしむ。
罪過、すでに、軽からず、「死罪に、おこなわるべし」と定まりぬ。
爰〈ここ〉に、帝、議して云く、
「此の臣は、才人なり、賢者なり。
今、ことさらに、此の罪を犯す。
若し、深き心あるか?
頸を截らんとき、悲み愁えたる気色あらば、速かに、截るべし。
若し、其の気色なくんば、定めて、深き心あらん、截るべからず」と。
勅使、引去て、截らんとする時、少しも愁うる気色なし、還って、喜ぶ気色あり。
自ら云く、
「今生の命は、一切、衆生に施す」と。
勅使、驚き怪みて、帝に奏聞す。
帝、云く、
「『然り、定めて、深き心、有らん、此の事、あるべし』と兼て是れを知る」と。
依りて、其の志を問う。
師の云く、
「『官を辞して、命を捨て、施を行じて、衆生に縁を結び、生を仏家に受て、一向に、仏道を行ぜん』と思う」と。
帝、是れを感じて、許して、出家せしむ。
故に、「延寿」と名を賜う。
殺すべきをとどむる故なり。
今の衲子も、是れほどの心を一度、発すべきなり。
「命を軽じ、衆生を憐れむ心、深くして、身を仏制に任せん」と思う心を発すべし。
若し、先より、此の心、一念も有らば、「失わじ」と保つべし。
是れほどの心、一度、おこさずして、仏法を悟ることは、有るべからざるなり。
十七
夜話に云く、
祖席に、禅話をこころえる故実は、我が本より知り思う心、次第々々に、知識の詞に随いて、改めもて行うなり。
仮令〈たとえ〉、仏と云うは、我が本より知りたりつるようは、相好、光明、具足し、説法、利生の徳ありし釈迦、弥陀、等を仏と知りたりとも、知識、若し、「仏と云うは、蝦蟆、蚯蚓ぞ」と云わば、蝦蟆、蚯蚓を「是ぞ、仏」と信じて、日比〈ひごろ〉の知、解を捨つべきなり。
此の蚯蚓の上に、仏の相好、光明、種々の仏の所具の徳を求むるも、猶お、情、見、あらたまらざるなり。
只、当時の見ゆる所を仏と知るなり。
若し、此の如く、詞に随いて、情、見、本執をあらためもて行かば、自ら契う所、あるべきなり。
然あるに、近代の学者、自らの情、見を執し、己見を本として、「仏とは、こうこそ、あるべけれ」と思い、また、吾が存ずるように差〈たが〉えば、「さは、あるまじい」なんどと云いて、「自らが情、量に似たることやあらん」と迷い、ありくほどに、大方、仏道の精進、なきなり。
また、「身を惜まずして、百尺の竿頭に上りて手足を放ちて一歩を進めよ」と云う時は、「命、ありてこそ、仏道も、学すべけれ」と云いて、真実に、知識に随順せざるなり。
よくよく思量すべきなり。
十八
夜話に云く、
世間の人も、衆事を兼学して、いずれも能く、せざらん、よりは、只、一事を能くして、人前にしても、しつべきほどに、学すべきなり。
況や、出世の仏法は、無始より以来、修習せざる法なり。
故に、今も、うとし。
我が性も、拙なし。
高広なる仏法に、ことの多般を兼ぬれば、一事をも成すべからず。
一事を専にせんすら、本性、昧、劣の根器、今生に、窮め難し。
努力、学人、一事を専らに、すべし。
奘、問うて云く、
若し、然らば、何ごと、いかなる行か、仏法に専ら好み修すすべき?
師の云く、
「機に随い、根に順うべし」といえども、今、祖席に相伝して専らする所は、坐禅なり。
此の行、能く、衆機を兼ね、上中下根、ひとしく、修し得べき法なり。
我れ、大宋、天童、先師の会下にして、此の道理を聞きて後ち、昼夜に定坐して、「極熱、極寒には発病しつべし」とて、諸僧、しばらく、放下しき。
我れ、其の時、自ら思わく、
設〈たと〉い、発病して死すべくとも、猶お、只、是れを修すべし。
病、無うして、修せず、此の身をいたわり用いて、なんの用ぞ?!
病して死せば、本意なり。
大宋国の善知識の会下にて、修し、死に、死して、よき僧に、さばくられたらんは、先ず、勝縁なり。
日本にて死せば、是れほどの人に、如法、仏家の儀式にて沙汰すべからず。
修行して、いまだ契悟せざらん先に死せば、結縁として生を仏家に受くべし。
修行せずして、身を久く持ちても、詮、無きなり。
なんの用ぞ?!
況や、「身を全うし、病、起らじ」と思わんほどに、知らず、また、海にも入り横死にも、あわん時は、後悔いかん?!
此の如く、案じつづけて、思い切りて、昼夜、端坐せしに、一切に、病、発らず。
今、各も、一向に、思いきりて、修して見よ。
十人は、十人ながら、得道すべきなり。
先師、天童の勧め、かくの如し。
十九
示して云く、
人は、思い切りて、命をも棄て、身肉、手足をも截ることは、中々、せらるるなり。
然あれば、世間の事を思うに、名利、執心の為にも、多く、かくの如く、思い切るなり。
只、依り来る時に、事に触れ、物に随いて、心品を調うること、難きなり。
学者、「身命を捨る」と思いて、且く、おししずめて、云うべきことをも、修すべきことをも、「道理に順ずるか? 順ぜざるか?」と案じて、道理に順ぜば、云い、若しは、行じも、すべきなり。
二十
示して云く、
学道の人、衣、糧を煩うこと莫れ。
只、仏制を守りて、世事を営むこと莫れ。
仏の言く、
衣服に糞掃衣あり、食に常乞食あり。
いずれの世にか、此の二事の尽ること有らん?!
無常、迅速なるを忘れて、徒らに、世事に煩うこと莫れ。
露命の、且く、存せる、あいだ、仏道を思いて、余事を事とする莫れ。
二十一
或人、問うて云く、
「名利の二道は、捨離し難し」といえども、行道の大なる礙りなれば、捨てずんば、あるべからず。
故に、是れを捨つ。
「衣、糧の二事は、小縁なり」といえども、行者の大事なり。
糞掃衣、常乞食は、是れ、上根の所行、また、是れ、西天の風流なり。
神丹の叢林には、常住物、等あり。
故に、其の煩い、無し。
我が国の寺院には、常住物、なし。
乞食の儀も、即ち、絶えて、伝わらず。
下根、不堪の身、いかがせん?
然あれば、予が如きは、檀信の信施を貪らんとするも、虚受の罪、随い来る。
田商士工を営むは、是れ、邪命食なり。
只、天運に任せん、とすれば、果報、亦、貧道なり。
飢、寒、来らん時、是れを愁いとして、行道を礙えつべし。
或人、諌めて、云く、
儞〈なんじ〉が行儀、はなはだし、時を知らず、機をかえり見ざるに似たり、下根なり、末世なり。
かくの如く修行せば、また、退転の因縁となりぬべし。
或は、一檀那をも相、かたらい、若しは、一外護をも、ちぎりて、閑居、静所にして、一身をたすけて、衣、糧に煩うこと無く、静に、仏道を行ずべし。
是れ、便ち、財物、等を貪るに非ず。
暫時の活計を具して修行すべし、と。
此の詞を聞くと云えども、いまだ信用せず。
かくの如きの用心、いかん?
答えて云く、
但、夫れ、衲子の行履、仏祖の家風を学ぶべし。
「三国、ことなり」といえども、真実、学道の者、いまだ此の如きの事あらず。
只、心を世事に執着すること莫れ。
一向に、道を学すべきなり。
仏の言く、
衣、鉢の外は、寸分も、貯えざれ。
乞食の余分は、飢えたる衆生に施せ。
設〈たと〉い、受け来るとも、寸分も、貯うべからず。
況や、馳走、あらんや?!
外典に云く、
「朝に、道を聞いて、夕に、死すとも、可なり」と。
設〈たと〉い、飢え死に、寒え死すとも、一日、一時なりとも、仏教に随うべし。
万劫、千生、幾回か生じ、幾度か死せん。
皆な、是れ、世縁、妄執の故なり。
今生、一度、仏制に随いて、餓死せん、是れ、永劫の安楽なるべし。
いかに、況や、未だ一大蔵教の中にも、三国、伝来の仏祖、一人も、飢え死にし、寒え死にしたる人、「あり」と、きかず。
世間、衣、糧の資具は、生得の命分ありて、求めに依ても来らず、求めざれども来らざるにも非ず。
只、任、運にして、心に挟むこと莫れ。
「末法なり」と謂うて、今生に、道心、発さずば、何れの生にか、得道せん?!
設〈たと〉い、空生 迦葉の如くに、あらずとも、只、随分に、学道すべきなり。
外典に云く、
西施毛嬙にあらざれども、色を好む者は、色を好む。
飛兎緑耳にあらざれども、馬を好む者は、馬を好む。
龍肝鳳髄にあらざれども、味を好む者は、味を好む。
只、随分の賢を用いるのみなり。
俗、なお、此の儀、あり。
仏家、亦、かくの如く、なるべし。
況や、また、仏、二十年の福分を以て、末法の我らに施す。
是れに依て、天下の叢林、人天の供養、絶えず。
如来、神通の福徳、自在なるも、馬麦を食して、夏〈げ〉を過しましましき。
末法の弟子、豈に、是れを慕わざらんや?!
二十二
問うて云く、
破戒にして、虚しく人天の供養を受け、無道心にして、徒らに、如来の福分を費やさんより、在家人に随うて在家の事をなして、命ながらえて能く修道せんこと如何?
答えて云く、
誰が云いし、「破戒、無道心なれ」と?
只、強いて道心を発し、仏法を行ずべきなり。
いかに、況や、「持戒、破戒を論ぜず、初心、後心を分たず、斉しく、如来の福分を与う」とは、見えたれども、「破戒ならば、還俗すべし、無道心ならば修行せざれ」とは、見えず。
誰人か、初めより、道心ある?!
只、かくの如く、発し難きを発し、行じがたきを行ずれば、自然に、増進するなり。
人人、皆な、仏性あり。
徒らに、卑下すること莫れ。
また、文選に云く、
「一国、為、一人、興、
先賢、為、後愚、廃」と。
言う、こころは、国に、賢者、一人、出来れば、其の国、興る、
愚人、ひとり、出来れば、先賢のあと、廃るるなり。
是れを思うべし。
二十三
雑話の次でに云く、
世間の男女、老少、多く、交会、婬色、等の事を談ず。
是れを以て「心を慰むる」とし、興言とすること、あり。
一旦、意をも遊戯し、徒然も慰むるに似たり、と云うとも、僧は、もっとも禁断すべきことなり。
俗、猶お、よき人、まことしき人の、礼儀をも存じ、げにげにしき談の時、出来らざることなり。
只、乱酔、放逸なる時の談なり。
況や、僧は、専ら仏道を思うべし。
雑話は、希有、異体の乱僧の云うことなり。
宋土の寺院なんどには、都〈すべ〉て、雑談をせざれば、其のようなることをも云わざるなり。
吾が国も、近ごろ、建仁寺の僧正、存生の時は、一向、あからさまにも此の如きの言語、出来らず。
滅後にも、在世の時の門弟子、等、少々、残り、とどまりたりし時は、一切に、云わざりき。
近ごろ、此の七、八年より以来、今出の若き人たち、時々、談ずるなり。
存外の次第なり。
聖教の中にも、「麁、強、悪業、令、人、覚悟。
無、利、言説、能、障、正道」と、ありて、只、うち出して云う所の言ば、すら、「無、利」の言説は障道の因縁なり。
況や、かくの如きの言語は、ことばに引かれて、即ち、心も起りつべし。
最も用心すべきなり。
故〈ことさ〉らに、「かくなん云わじ」と、せずとも、悪しきことと知りなば、漸々に、対治すべきなり。
二十四
夜話に云く、
世人、多く、善事を作す時は、人に知られんと思い、悪事を作す時は、人に知れじと思うに依りて、此の心、冥衆の心に合わざるに依りて、所作の善事には感応なく、密に作す所の悪事には罰、あるなり。
是れによりて、還って、自ら謂く、「善事には、験〈しるし〉、なし。
仏法の利益、すくなし」と思えるなり。
是れ、即ち、邪見なり。
最も、改むべし。
人も知らざる時に密に善事をなし、悪事を錯りて後には発露して、とがを悔ゆ。
かくの如くすれば、便ち、密密に、なす所の善事には感応あり、露〈あらわ〉るる悪事は懺悔せられて罪、滅する故に、自然に、現益も、あるなり。
当果をも、亦、知るべし。
二十五
爰〈ここ〉に、ある在家人、来りて問うて云く、
「近代、在家人、衆僧を供養し、仏法を帰敬するに、多く、不吉のこと出来るに依りて、邪見、起り、『三宝に帰せじ』と思う、いかん?」と。
答えて云く、
是れは、衆僧、仏法の咎には、あらず、便ち、在家人、自らの錯なり。
其の故は、仮令〈たとえ〉、人目ばかりに、持戒、持斎の僧をば貴び供養し、破戒、無慚の飲酒、食肉、等するをば「不当なり」と思うて供養せず。
此の差別の心、実に、仏意に、そむけり。
故に、帰敬の功も、むなしく、感応も、なきなり。
戒の中にも、所々に、此の心を誡めたり。
僧ならば、徳の有無を択〈えら〉ばず、只、供養すべきなり。
殊に、其の外相を以て、内徳の有無を決定すべからず。
末世の比丘、いささか、外相、尋常ならぬ所、見ゆれども、また、是れに、まされる悪心も悪事も、あるなり。
然る間、よき僧、あしき僧を差別し思うこと無うして、仏弟子なれば貴びて平等の心にて供養、帰敬もせば、必ず、仏意に契うて、利益も、ひろかるべし。
また、冥機、冥応、顕機、顕応、等の四句あることを思うべし。
また、現生、後報、等の三時業のことも、あり。
是れらの道理、能く能く、学すべきなり。
二十六
夜話に云く、
若し、人、来りて、用事を云う中に、或は、人に、ものをこい、或は、訴訟、等のことをも云わんとて、一通の状をも所望すること出来ること有らんに、其の時、我は非人なり、遁世、籠居の身なれば、在家、等の人に非分のことを云わんは、非なり、とて、眼前の人の所望をかなえずば、実に、非人の法には、似たれども、其の心中をさぐるに、猶お、我れは遁世、非人なり、非分のことを人に云わば、人、定めて、わるく思いけんと云う道理を思うて、聴かずんば、なお、是れ、我執、名聞なり。
只、其の時に望んで、よくよく、思量して、眼前の人の為に一分の利益となるべき事をば、人の、あしく思わんことをも顧みず、なすべきなり。
此のこと、非分なり、わるし、とて、疎みもし、中をも、たがわんも、かくの如くの不覚の知音、中、たがわん事、何か、苦るしかるべき。
外には、非分の僻事をすると、人には、見ゆるとも、内にも、我執を破り、名聞を捨つる、第一の用心なり。
仏、菩薩は、人の来りて請うときは、身肉、手足をも截れり。
況や、人、来りて、一通の状をこわんに、名聞、計りを思うて、其の事を聞かぬは、是れ、我執、深きなり。
「人々、ひじり、ならず、非分の事を云う人かな」と所詮なく思うとも、我は名聞をすてて、一分の人の利益とならば、真実の道に相応すべきなり。
古人も、其の義、あるかと見ゆること多し。
我れも、其の義を思うて、少々、檀那、知音の思いかけざる事を人に申し伝えて給われと云う事をば、文、一通、遣りて、一分の利益を作るは、易きことなり。
奘、問うて云く、
此の事、実に、然り。
ただし、善事にて人の利益とならんことを人にも云い伝えんは最ともなるべし。
若し、僻事を以て人の所帯を取らんと思い、或は、人の為に、あしき事を云わんをば、云い伝うべきや?
如何?
師、曰く、
理、非、等のことは、我が知るべきに非ず。
只、一通の状を乞えば、与うれども、理、非に任せて沙汰あるべき由をこそ、人にも云い、状にも載すべけれ。
請け取りて沙汰せん人こそ理、非をば明らむべけれ。
吾が分上に、あらぬ、此の如きのことを、理を枉〈ま〉げて、その人に云わんことも、亦、非なり。
亦、現の僻事なれども、我を大事にも思う人にて、此の人の云わんことは、善悪、たがえじ、と思うほどの知音ありて、檀那の所へ、ひがことを以て不得心の所望をなさば、其れを只今その人より所望のことを一往、聞くとも、彼の状には、去り難く申せば、申すばかりなり。道理に任せて沙汰あるべし、と書くべきなり。
一切に、是、なれば、彼れも是れも、遺恨、あるべからざるなり。
此の如くのこと、人に対面をもし出来ることにつきて、よくよく、思量すべきなり。
所詮は、事に触れて、名聞、我執を捨つべきなり。
二十七
夜話に云く、
今、世、出世間の人、多分は、善事をなしては、かまえて、「人に知られん」と思い、悪事を作しては、「人に知られじ」と思う。
是に依りて、内外、不相応のこと、出来たる。
あい、かまえて、内外、相応し、錯りを悔い、実徳をかくして、外相をかざらず、好事をば他人にゆずり、悪事をば己れに、むかうる志気、あるべきなり。
問うて云く、
実徳を蔵し、外相を飾らざらんこと、実に、然るべし。
但し、仏、菩薩は、大悲、利生を以て、本とす。
無智の道俗等、外相の不善を見て、是れを謗り難ぜば、謗僧の罪を感ぜん。
実徳を知らずとも、外相を見て、貴び、供養せば、一分の福分たるべし。
是れらの斟酌、いかなるべきぞ?
答えて云く、
外相を飾らず、とて、即ち、放逸ならば、また、是れ、道理に差う。
「実徳を蔵す」と云いて、在家、等の前にて悪行を現ぜん、亦、是れ、破戒の甚だしきなり。
只、希有の道心者、「道心の由を人に知られん」と思い、「身にある失を人に知られじ」と思えども、諸、天、善神、及び、三宝の冥に知見する所なり。
夫をば、愧じずして、「世人に貴びられん」と思う意を誡むるなり。
只、時にのぞみ、事に触れて、興法の為め、利生の為に、諸事を斟酌すべきなり。
擬して後に云い、思いて後に行じて、卒暴なること莫れ、となり。
一切のことに、のぞんで、道理を案ずべきなり。
念々、止まらず、日々、遷流して、無常、迅速なること、眼前の道理なり。
知識、経巻の教を待つべからず。
只、念々に、明日を期することなく、当日、当時ばかりを思うて、後日は太〈はなは〉だ不定なり、知り難ければ、只、今日ばかり、存命のほど、仏道に随わん、と思うべきなり。
「仏道に随う」と云うは、興法、利生の為に、身命を捨てて、諸事を行じもてゆくなり。
二十八
問うて曰く、
仏教のすすめに随わば、乞食、等を行ずべきか?
如何?
答う、
然、あるべし。
ただし、是れは、土風に随いて斟酌あるべし。
なににても、利生も広く、我が行も、すすまん、かたに、つくべきなり。
是れらの作法、道路、不浄にして、仏衣を着して、経行せば、けがれつべし。
また、人民、貧窮にして、次第、乞食も、かなうべからず、行道も退きつべく、利益も広からざらんか。
只、土風をまもり、尋常に、仏道を行じ居たらば、上下の輩がら、自ら、供養を作し、自行、化他、成就せん。
此の如きの事も、時に望み、事に触れて、道理を思量して、人目を思わず、自らの益を忘れて、仏道、利生の為に、よきように計らうべし。
二十九
示して云く、
学道の人、世情を捨つべきについて、重々の用心あるべし。
世をすて、家をすて、身をすて、心を捨つるなり。
よくよく、思量すべきなり。
世を遁れて、山林に隠居すれども、吾が重代の家を絶やさず、家門、親族のことを思うも、あり。
また、世をも、のがれ、家をも、すてて、親族、境界をも遠離すれども、我が身を思いて、苦しからんことをば、せじ、病い起るべからん事は仏道なりとも行ぜじ、と思うも、いまだ身を捨てざるなり。
また、身をも惜まず、難行、苦行すれども、心、仏道に入らずして、我が心に差うことをば、仏道なれども、せじ、と思うは、心を捨てざるなり。




