カフカの法則その五
ここで、少しある逸話を紹介しよう。中国の梁の武帝の頃の話である。彼は仏教振興にとても熱心な皇帝で、さまざまな寺院に寄進をしたのであった。そんなある日、達磨太子という禅師が彼の前に現れるのであった。皇帝は、彼に向かってこう呟いたのであった。
「あなたの名は海内に響いているので、質問があるのだが」
「はい。何でございましょう」
「私はさまざまな寺院に寄進をした。多くの仏教徒たちがその恩恵を受けている。そんな私に死後、功徳はあるのだろうか」
これはとても深刻な問いである。もし、ここで変な答えをしようものなら首が飛ぶ可能性だってある。達磨禅師はどう答えたであろうか。彼はただ一言、
「無功徳」
と答えたのであった。その場に、緊張が走ったのであるが、梁の武帝も心当たものである。呵呵大笑したのであった。
ふむ……。実に美しい話であるね。そして、とてもカフカ的である。カフカは人生というものはいかに報われないかということを体現したのだ。そして、当然、論理の網の目はこういう結論を導き出すのである。
【死後、文学王になる】
今や、現代作家でカフカを意識しない人は一人もいないだろう。誰もがカフカを仰ぎ見てしまう。そして、誰もが彼の作法を模倣してしまうのだ。そして、カフカ的なんですよ。フハハ。と嘯くのである。
そして、そんな奴の書く作品は大抵、黒歴史で没にされてしまうのだ。カフカを名乗った段階で、余程の修行を積んでないと失ってしまうからだ。それは、自分が涅槃にどれ程近づいているかの試金石である。
脱力の極みで近づかなくてはいけないのだ。後ろ向きで全力ダッシュするようなものである。ベケットの「モロイ」、ブランショの「アナミダブ」などを読んでほしい。全力でバック走行して無理矢理ゴールに納めてしまっている。
ブランショに至っては、執筆当時、カフカを知らないのにこんなに似ている小説を書いてしまっている。確かに、カフカの空間を知らないからこそ、書けるということは起こりそうである。
そして、こんなにハードルを上げてしまった私が、これから書く小説はどうなるのだろうか?いや、そこは心配しないでほしい。私がどれほど修行を続けてこのサイトを出たり入ったりしたものか。時は来たのである。今、私は涅槃の領域に肉薄するだろう。そして、それが永遠の虚無だとしても何の後悔もないだろう。もともとが無功徳なのだから。




