カフカの法則その三
おそらく最もカフカについて肉薄した作家がモーリス・ブランショであろうが、彼の評論集に『焔の書』というものがある。これは、カフカが友人に
「私が死んだらこのノートを火にくべてくれ」
といったエピソードに因んでいる。友人のマックス・ブロートはそんな友人の話を聞き入れなかったのである。
これも友情と取っていいのか、悪意と取っていいのか、わからない。色んな解釈の仕方があるだろう。映画「アマデウス」のモーツァルトとサリエリの関係だったかもしれない。
サリエリは晩年、精神病院に入ってしまうが、マックス・ブロートは平気だった。おそらく、小説への熱意などはなかったのだろう。カフカへの友情もなかったかも知れない。
ただ、金儲けしたかった。その念で、あれを発作的に作り上げたのかもしれない。あるいは、彼の人生を知り、その理不尽さを最大化したのであろうか。
あるいは、彼は文学の才能がとてつもなく低かったのかもしれない。私のこのサイトの知り合いで、『お前、どうやったらそんなつまんない小説書くんだよ!』と家の前で集会抗議デモをしたくなるほど、つまらない小説を書いて作家面している奴がいるのだが、そういう奴の仲間なのか。
ここにおいて、マイナスとマイナスが引き合って、超プラスになってしまったのである。その可能性はありそうだ。ただ、カフカというマイナスはとっても深いマイナスなのだ。それは、過程にではなく、結果に直にコミットしてくるのである。
呪いのビデオみたいなものである。最後、ナレーションでおどろおどろしい声で『この後、この家族は全員死んだ』って、言われちゃう感じ。卒塔婆とか映っちゃう感じ。で、スタジオに変わって、バーコード禿の『日本心霊協会会長 新倉イワオ』が出てきちゃう雰囲気なのである。
カフカの小説には確かにこの手の読者を地獄に引き摺り落とす、暗転して幕下げしてのような一種の飛躍がある。
【火の中に入れてもらえない】
これが法則の三つ目であろう。カフカの友人に比べたら、まだ、焚書坑儒の刑を執行した秦の始皇帝の方が優しかったのではないか。少なくとも後世に伝わったら「アホか」と言われるような本はみんな焼き尽くされたのだ。
とにかく、一つだけ言えることは、世の中のためにも、私のこの鋭意執筆中の小説が焼かれないことを神様に乞い願いたい。




