第8話 合言葉
「お久しぶりです、レイさま」
一筋のほつれもなく美しく結われた髪が、彼女の性格を表しているようだった。
革命から4日目の早朝。いつもとは違う控えめなノックが、無意識に警戒を高めていた。けれども、現れた人物を目にすると、吸いかけた空気さえ意識の外へ追いやられた。
「……チェルシー夫人。今まで、どこにいたのですか」
彼女の、何度見ても見惚れる所作を再び目にすることができるとは思っていなかった。この国に来たばかりで何も知らなかった私に、全てを教えてくれた方。
厳しくも、その根底には温かさがあると知っていた。
だからこそ、アサヒ様と婚礼の儀式を行ったその晩。彼女が姿を消したことに気付いた時に、心の拠り所を失った。
「探して、いたのですよ。ずっと、わたしは」
「……申し訳ありません、レイさま。少々事情がありまして」
「事情?」
それは私を一人置いていくほどのことだったんですか。なんて。言ってはならないことの区別はつくけれど。滲ませずにはいられない。あなたがいたなら、私はここまで壊れずに済んだんじゃないかと。情けなく、すがりそうになってしまう。
引き結んでいた彼女の口元。それが、重い溜め息を吐き出した。額に手を当てて、考えを整えるようにぐっと押す。懐かしい、彼女の癖。
「……だから、行きたくなかったのよ」
「え、と。そういう、事情でしたか」
「あ、いえ。レイさまに対してではなく」
今は言えませんが、あなたの心配するようなことはありませんよと。すぐに落ちそうになる思想に歯止めをかけるような微笑み。それだけで、鼻の奥が微かに痛んだ。それを隠すように、胸元の銀細工に触れる。
「ところでレイさま。グズ虫坊っちゃんに何かされませんでしたか?」
パンチの強い呼称に、一瞬思考が停止する。
……あ、あ。そういえば。夫人の武器は、超一流の所作に超一流の振る舞い、それから、超一流の毒舌だった。そんな彼女命名の呼称。“ポンくら坊っちゃん”がアサヒさまで、“グズ虫坊っちゃん”が──
「……ヨルさま。の、ことですか?」
「はい。あの悪趣味処刑映像を見て悦に浸るなど、言語道断。そんな育て方をした覚えはないとシメておきましたが、きっとまた懲りずにあなたを困らせているのでしょう?」
ちょっと待て。今この人シメたと言ったか。誰を。ヨルさまを? この国の、軍最高司令官殿を?
「あちらの坊っちゃんは、すぐに相手の気持ちを見失って暴走しますからね。そんなことを続けているとどうなるか、過去のトラウマを刺激しながら少々。最後は意気消沈してうなだれておりましたが、またいつ同じことをするやら」
「……そうですか」
夫人の少々は凡人が3日寝込むレベルなんですよ。それを過去のトラウマとセットでされた男に、ほんの少しだけ同情を抱く。というかトラウマなんかあるのか、あの人も。
長い付き合いなんだなと思いつつ、そんな彼らさえも残して行方をくらませた、目の前の夫人。
「ところで、どうしてこちらに?」
彼女はなぜ、今になって。
そもそも、世間では葬られた私の生存を知る人間が増えることはリスクでしかない。それを知っていながら、この方を私の部屋へ行くよう命じたのは、あの男しかいない。
私の疑問を受けると、そうでした、と額にあった手を直して一礼した彼女。
「本日より、レイさまの教育係に再任用となりました。改めまして、ナリサ・チェルシーでございます。どうぞ、よろしく」
無意識に表情に込めた力。それでも、追い越していくように溢れてくるものを止められなかった。
かつて信頼していた人でさえ、すぐに心を許すことができなくなってしまっていた。だからこそ、張り巡らせていた緊張を保っていた。けれど、それさえも今、切れて。
「おや、こんなところで私を誘惑してもハグしかあげられませんね」
「それが、いいんですよ……」
早くに亡くした母と重ねていたところは、正直ある。穏やかに背中を撫でる手が、崩れた心の欠片を集めてくれているようだった。
落ち着きましたか、とかけられた言葉で、ようやく上げられるようになった顔。頷いた夫人は、本来の立場を思い出させるように距離をとる。
「さて、レイさま。さっそくですが。4日後のスーベルク帝国の宮中茶会に向けて、準備をしなければなりません。移動に丸1日かかりますから、準備に当てられるのは実質今日と明日だけですね」
「無理です」
「やるのです」
泣き言さえ流された。あの。さっきまでの優しさって、どこにいったのですか。いや、だって。無理ですよ。なんですか、その強行スケジュール。
普段から交流が活発な方々ならできるんでしょうけど。この一年余りの中で社交界に顔を出したことなんて、二度しかない引きこもりですよ。しかも昨日なんか、世間的には首を飛ばされているのに。
背中を撫でてくれていた優しさとは違う、圧のある目元。それが何かを刷り込むように、こちらへ注がれている。
「レイさま。合言葉、覚えておりますか?」
あぁ、いま。
すごく苦そうな顔してます私。鏡なんか見なくたってわかる。
「……死なない程度に死ぬ気でやれ、です」
どうして私の周りには、脳筋か悪魔しかいないんでしょうか。もはや呪われているんじゃないのか、これは。力のこもっていた左手をゆるめると、中にあったペンダントが笑うように揺れた。
よろしい、と微笑んだ彼女の表情に、懐かしさを感じる余裕はなかった。




