第2話 王殺し
「っはぁ……これで、良いのですか」
「……へぇ?」
ぬるく硬質な金属が、舌に重みをのせる。
彼が引き寄せて誘導するままに鍵を受け取れば、その目はひどく興味深そうに細められた。こぼれた反応が言いたいことに答えてやる時間はない。存外あっさりと渡された夫の命綱を吐き出し、瓶を開ける。液体をすぐさま夫の口元へ注ぎ込んだ。
「アサヒさま……」
掴まれていた肩の、食い込んだ指の痛みとわずかな震えを思い出す。
浅く呼吸を繰り返していた夫はひどく咳き込み、次第にゆったりとした間隔で呼吸をするようになった。痛みを感じるようになったのか、苦しそうに声を漏らしている。
なんとか、一命を取り留め──
「あーあ……トドメ、刺してしまいましたね」
──ビクッ、と目を見開き、強く体を硬直させた夫。
そこからぐったりとして、先程の苦しみが嘘のように静かになって。波打つ血脈の音が、強く頭に響く。はやく、はやくなっていって、足元の地盤さえ揺らぎ曲がるような。
「う、そ……」
「嘘じゃありません。よく見てください」
「そ、んな、だってあれは解毒剤のはずでッ!!」
「だから言ったじゃないですか。相談相手から失敗してるって」
殺した。
殺した? わたしが、王を?
「……っは、」
ぐにゃりと、視界が強くブレる。
色が消えてゆく。黒にも近い緋色だけが、鮮烈に脳を刺す。忙しない鼓動とは対照的に、動かない夫。手から滑り落ちた小瓶に残っていた液体が、絨毯に染みを広げていく。
じわり、じわりと。自らしたことの罪の重さが、脳を侵食していく。解毒剤、だったはずのもの。飲ませたのは、
「わ、たしが」
「そう。あなたが、飲ませたんですよ」
目に映る義弟は、何か得体の知れないもののように思えた。後退りをした私を追い詰めるように、寄せられた体。無意識に触れていた胸元の翡翠のペンダント。
祈っていた。助けて、くれないかと。意味などないと分かっていても、偽りの国母としての力にすがってしまいたかった。
「……ぃ、や」
震える手を無理に温め直す、受け入れがたい他人の温度。ぬるりと滑ったものが血なのか汗なのか、わかるはずもなかった。
「わからないんですよね」
なにが、と問うために呼吸を整えることすら許されないような圧。殺しの手引きをした男は、淡々と問いかける。
「あなたが、このクズを庇う理由が。色狂いで、無責任で、怠惰で、無能。暴力まで振るう、典型的なろくでなしですけど。あ、それが好きだったのならすみません」
ちがう。昔は、そんな方じゃなかった。
でもそれが王たるものの振る舞いだと、あの方は言っていたから。従うしかなかった理由が、あったとはいえ。そういうものなのかと、こんなことを思っている自分はおかしいのかと、必死に違和感を無視し続けた一年。
ようやく、考えることを放棄できるようになったのに。
「でも、日々罵詈雑言を浴びせられ、無理に体を暴かれ、思い通りにいかなければ殴りつけられる。殺されそうになるとあなたを盾にするような奴だと、つい先程も実感したくせに。それでも、価値のある人間だと?」
夫の行動を明確な言葉にされると、心が一つずつ抉り取られていくような感覚。
仕方ないじゃないですか。それを受け入れること以外に私が生き残れる方法があったなら、教えてください。無価値な男でも、地位があった。初めは、優しさだって。そこに存在理由があった女に正しさを説いたところで。
「知ってますよ、ここに痣があるの」
服越しになぞられた右の腹は、押さえられたわけでもないのに、鈍い痛みを感じた。
二日前だ。これをアサヒ様に付けられた時は、特に気が立っていたなと別なことへ思考が飛ぶ。
でも人格なんてどうでもよかった。
かつて夫だったこの方は、私という存在のしるべだった。
「……アサヒ様は、初めて私を必要としてくれたんです」
「そんなの洗脳と変わりませんよ」
「だとしても。存在が認識されることも、何か役割を与えてもらえることも、初めてだったんです。この方が夫だったから私という存在を生かしてもらえた。アサヒ様が死ぬなら、どのみち私に生きるという選択肢はないんですよ」
「!! な、にを」
俺が死ねばお前も死ねと渡されていた薬。口に含むと、義弟はひどく焦ったように私の口から錠剤を取り出そうとする。彼の血塗れた指が滑って舌打ちが一つこぼれる間に、無理やり薬を飲み込んだ。
「生かしたところで、情報など何も知りはしません」
王族であることの有利すらも、彼には意味がない。知っているのは女の趣味と酒の好みくらい。あとは今夜、学生時代のご友人を招いて酒をのむと言っていたことくらいか。珍しくレイも来いと言われたが、こうなってしまってはかなわない。
「罪を着せられて死ぬくらいなら、アサヒ様を追った方がいい」
「ふざけるな、」
笑みがこぼれる。二度も思い通りになんてさせない。
即効性の毒なのか、回りが早い。意識が急速に遠のいていく。やっと、死ねる。死んでなお、あの方に会いたいとは言えないけれど、それでも。
この、地獄から私は、解放される。
「さような────ッ、」
刹那、ガッと歯のぶつかる音が頭に響いた。
切れた口内がじくじくと痛みをもつよりも先に、生ぬるい液体と粉末が口に流される。知っている苦さだ。
本当に、余計なことを。
これ、絶対解毒薬でしょう。本物の方の。自らの歯の奥にでも仕込んでいたのか。吐き出そうにも、上を向かせたまま手で押さえ付けられている後頭部と、押し込む舌が飲めと強制する。
数秒にも数分にも感じる曖昧な感覚の中。酸欠で頭が朦朧としてくる。ゆるく喉を撫でられたことに怯んで、思わず飲み込んでしまった。
「ッは、げっほげほ!!ぁ……どうして、」
「余計なことしないでください」
何もできない元王妃を生かして何になるのか。
「そう簡単に、死なせませんよ」
なにを、考えているのか。
見下ろす彼の目からはうまく読み取れない。眉を寄せた険しい表情は、深く吐いた息とともに仮面の底に消える。代わりにゆるく上げられた口元から、この場に不釣り合いな明るさとともに出された言葉は。
「まだ、あなたにはやってもらうことがあるんですから」
「……っ」
ここが、どん底だと思っていたのに。
また一つ。
新しい地獄の門へと、引きずり込まれるような心地がした。




