第1話 血塗れた英雄
「今、どんな気持ちですか?」
ゆっくりと引き抜かれた剣から、鮮烈な赤が滴っている。
それが目の詰まった絨毯の上で弾かれる前に、剣の持ち主である男へと視線を移した。目前に広がる惨状を作り上げておいて、気安く投げられた問いはあまりにも異質だった。
どんな、きもち。
そう聞かれても、わからない。何が起こったのかすら。
王に呼び出され、やけに上機嫌だった彼の捌け口にされていたことまでは、いつも通りだった。違うのは、軽いノックが鳴ったこと。それから、楽しい雑談でもするかのように入ってきた王弟が、一番近くにいた護衛を刺し殺したこと。
「お、まえ……ッ!!」
「逃げないでくださいよ、兄上」
混乱する、頭でもどうにか逃げなければと。
状況を把握するまでにもう一人の護衛、三人の使用人。事態に気付いて逃げようと体を動かす間に、二人の使用人と、三人の夫の愛人が刺し殺されて。肩を掴まれ、立たされて義弟の前に出された頃には、私と夫と彼だけが呼吸をしていた。
そして、今。
──フッ、と。肩にかかっていた重みが消える。ついで、どしゃりと崩れ落ちる音。私を盾にしていた夫が、倒れた音だった。
「どう、したら……」
重い重い空気。
乾いて、ままならない呼吸が。上がり、落ちきらない。興味深そうに言葉の続きを待つ彼は、うん、と相槌を打ちながら、うつむく私の顔を覗き込もうとする。
「……アサヒ、さまは。どうしたら、たすかりますか」
「え、俺に聞くんですか?」
さっきまで何見てたんです? と艶やかな濃紺の髪を揺らし、呆れを含んだ目を向けられたところで。同じものを見ていたはずだ。それでも受け止めるにはあまりにも大きな現実が、事実が、目の前で笑っている。
この国の王の元に嫁いで、一年と少し。二度目の冬を迎えた今、私に与えられた役目は、お飾りと夫の鬱憤の捌け口。それでも、そこが私という存在を求められた唯一だった。
だから、現状が何一つ受け付けない。目に映っているようで、それらは全て幾重にもガラスを挟んでいるような。
「……ヨルさま」
「なんですか?」
呼び掛けた名前に、当然のように返ってくる穏やかな声。なぜ、あなたが。深く吐いた呼吸一つでは、冷静さを取り戻すには足りない。
「私は……王殺しの謀反人ではなく。王弟陛下の、ヨル様に相談しているのです」
「どちらも俺ですけどね」
両立することなどあってはならないんですよ。その肩書き。
禁忌に禁忌を重ねた欲張りセット。それを笑って積み上げたのが、王弟であり、今代の軍最高司令官ヨル・ラントリア。
肩書きに違わぬ実力だと、噂には聞いていた。それを証明するように、部屋に待機していた護衛や使用人は正確に急所を狙われている。処置すら無意味に思える有り様。人生で絶対に体験したくなかったのに、最前列で大披露された私の気持ちは殺された彼らとしか分かりあえない。
そんな化け物に、私ごときが盾になると思った夫よ。
無謀ではないですか。
思い出してください、私の役目。お飾りには重荷でしたよ。それとも実力だとか戦略だとか、そういう話ではなくて。貴方にとって私は。私は、
わたしは、死んだほうがよかったですかって──
「!! ぁ、さひ、さま……」
じり、と足元を動いた温度。
弾けた思考の、答えを聞けると思った。
背後で倒れている夫へ意識を向けようとすると、んん、と顎に手を置いて右上に視線を向けていた義弟が、何かをひらめいたのか、人差し指をピンと立てる。
「俺なら、一突きでラクにして差し上げるかと」
やはりダメだ、この男は。頼れるわけがなかった。それなのになぜ、自分は生かされているのか。推測をする時間はあまりない。
殺人鬼から視線を剥がし、這いずろうとしていた夫を仰向けにして、ペンダント型ナイフの鞘を引き抜いた。不揃いになるドレスの裾。震えた手でどうにか患部に押し当てると、紺藤の布地が黒にも近い濃紫へと色を変えていく。
「参考にはなりませんでしたか?」
「全く、なりませんでしたね」
「まぁ、相談相手から失敗していますからね」
「交渉相手として間違っていたとは、思いませんでしたけど。……こうして、アサヒ様に猶予を与えているのだって、何か理由があるからではないですか?」
あったとして、ロクなものではないでしょうけど。
「この国の王を二度も襲うなど、うっかりでは済まされませんよ」
「一度目でもうっかりじゃ済まされないと思いますけどね」
「分かっているならどうして、」
「薄々気付いているのでは?」
黙り込む私を見て、彼は満足そうに微笑む。
やっぱり。無理が、ありますよね。派手な兄弟喧嘩、なんてふざけた希望線が完全に途絶えた。遠い目をして背けたくなる。
王殺し。
それは揺るぎない男の罪だ。血のつながった兄弟であろうと、企てた時点で極刑は免れない。
そんな大罪を犯した人間を取り押さえる護衛、どころか助けを求めたはずの付き人すら来ないなんて。望まれていたんだろうな、というのはすぐに行き着いた考え。
掌握されていた。この瞬間まで、気付きもしなかった。
「この、国には。……英雄が必要だったんでしょうね」
そしてその役目を全うできるのが、彼だった。
歴史は繰り返す。それでも、当事者になることは予想できていなかった。私の言葉を肯定するように、彼は長い睫毛を揺らす。
でもそれが、わかったところで。
革命が起こった。後にそんな一言で片付けられようが、私は今生きている。死にかけの王を救うために、もがいている。押し続ける心臓。少しずつ、自らの拍を打っていって。
虫の息だったアサヒ様が、少しずつ空気を取り込めるようになってきた。あぁ、よかったと。思いかけたその、一瞬の安心を刺すように。
「──……ッが、はっ……!」
「!!」
突然、体が痙攣を始め、口から泡を吹き出す夫。
「ど、どうして……」
「あー……刃に塗った毒でも回ってるんでしょうね」
「解毒剤は、」
「あるにはありますけど」
ここに、と懐から取り出されたのは、南京錠の付いた小瓶。すがるように目を向けた私を、緩やかな三日月を描く冷徹な瞳が受け止める。
「───……っ」
心臓の裏をざらりと、撫でられたようだった。
引っ掛かっていたことはいくつもある。ただ、情がわずかに残っているのかと、本当に愚かな期待をしていた。
カラン、と放り投げられた剣。戦力の放棄が、私の無力さを浮き彫りにする。私が受け取る、何もかも。
きっと、この瞬間のための余興だった。
わざわざしゃがみこみ、眼前で振られた希望の罠に、反射的に手を伸ばしてしまった。それを掴まれ、握り込まれた時のぬるりとした感触。付着する赤が、強く倫理と拍動を揺らす。
「そんなに欲しいですか? 」
答えの分かりきった問い。
王妃教育のなかで叩き込まれた交渉術が、有利な一手を探したところで。そんなものがこの男に通じるとも思えなかった。
……もう、どうでもいい。
餌を前にした犬だと思われようが、王妃としての矜持が死のうが。うまく出せない言葉の代わりに何度も頷くと、鍵はここにあるんですよねと彼の首から引き出されたもの。見せるためかと思いきや。
「な、んで、たべたんですか」
「一度考えてみてはどうかなって。あなたにとっての、兄上の価値を」
力ずくでも取れるものなら取ってみろ、と。
血塗れた手で引っ張られ、彼の首に回すよう誘導された。互いの呼吸がわかるような距離。絞め殺すには足りない。捕食者、という表現が何より当てはまる圧で。限られた選択肢を囁く声は、不気味なほどの甘さを残す。
「どうします?」
押し寄せる。
揺さぶられることすらあってはならないものが、いくつも天秤にかけられている。正気ではやっていられない。王か己の保身か。迫られる二択はまるで踏み絵だ。
ただ、この男でさえ信じていない。王妃に自分を捨てる覚悟などないだろうと、挑発するように鍵を見せつけられて。
「性格、悪すぎるでしょう」
「待ってあげてるだけ優しいと思いますけど」
「それ……」
反応楽しんでるだけですよねとか。言ったところで意味がない。かひゅ、かっひゅ、と繰り返されていた夫の不規則な呼吸さえ、弱まっているのがわかる。それはまるで、死へと進む秒針の音のようで。
どちらを選んでも地獄には変わりない。それなら、どちらがマシか。ズキンと、右腹が痛んだ。慣れた地獄の名残。
……わかってるんですよ。
私には、新しい地獄を歩く気力さえ残っていないことくらい。
「ま、できなきゃあきらめ──っ」




