ぴちょん
ぴちょん……。
またあの音だ。
ぴ……ちょん。
やめて、やめてよ。
ぴちょん……ぴちょん……ぴちょん。
やめて、やめて、やめてッー!
「もうッ! ちゃんと蛇口締めてって何回言えばわかるのよッ!!」
「ママ、ごめんなさい」
「同じ事を何回も言わせて、なんでアンタはそんな事もできないの!」
目を剥いて鬼の形相のママ。まだ小学生にもなっていない私を容赦なく罵倒し、自分の放つ怒声に興奮して更に怒り狂う。
「ママ、落ち着いて。友梨、しっかり蛇口を締めておいで」
ママに怒られるのをいつも庇ってくれる優しいパパ。でも私を庇うと次に必ずパパが怒鳴られていた。
私は半べそをかきながら蛇口を力いっぱい捻る。そして首を傾げた。
なんでママはそんなに水の音が嫌いなんだろう?
ぴちょん。
締め切る直前の最後の一滴。
リビングからママの金切り声が響きわたった。
◇
「ママもね、昔は元気で明るくて、それこそ友梨みたいによく笑う子だったんだよ」
小学三年生の時だった。パパが学校の参観日に来てくれた帰り道、遠くを見ながら呟いた言葉。
舗装されていない砂利道を音を鳴らして歩き、左右に広がる大きな田んぼからは蛙が大合唱を奏でていた。
「子供の頃のママ?」
「うん。パパとママはね幼馴染みだったんだ」
「でも、今のママは怒ってばっかり」
「だけど、パパは絶対に昔みたいに元気で明るいママに戻すんだ。友梨もママが一緒に遊んでくれるようになったら嬉しいだろう?」
「うん! 嬉しい!」
「はははっ! よぉし、じゃあパパと友梨で『ママを元気にさせる大作戦』だ」
「おー!」
中学一年生の時、パパが亡くなった。『友梨、ごめん。ママを頼む』それが最期の言葉だった。
ママの治療を優先し、家にはお金がなかった。
だからパパは病院に罹ることもできず、日に日に弱っていったのだ。
パパが亡くなるときも、ママはいつも通りだった。高熱に苦しむ父の額に、私が冷たい水で冷やしたおしぼりを乗せる。その際、絞った水が桶に落ちる音。
「ああぁぁぁぁぁ!! やめろおぉぉ! その音を聞かせるなああぁぁぁ!!!」
まるで血を吐くような、濁った絶叫を響かせる。
その光景を見た死に際のパパは、ふっと微笑を浮かべ、そして静かに息を引き取った。
無念だったのだと思う。あの最期の笑みは己の無力を嘆くような、そんな儚さを感じずにはいられなかった。
そして、そこからママと二人きりでの生活が始まった。
パパがいなくなり、ママの症状は更に酷くなった。
「あの人、あの人は? あの人はどこ?」と怯えるようにパパを探し、障子に穴を空け、お皿を払い落とす。
「パパは死んじゃったよ。最後までママの事を思って、死んじゃったよ」
「死んだ…………。死んだ!? なんで、なんでこの音は鳴り止まないのおぉぉぉぉ!!!!」
伸びた爪で耳をガリガリと掻く。耳から血を流し、それでも掻き毟るのを止めない。
「もう止めて! 止めてよママ!」
髪が毟れるほど掻き乱し、家の中の物を手当り次第に壊す。
三十代半ばにも関わらずママの相貌は老婆、さながら山姥のようになっていた。
ママが憎かった。パパが献身的に尽くしてきたというのに、一言の感謝も述べないママが。
それでも憎いと思う度、私はパパとの約束を思い出した。そしてママの心を慮り抱きしめる。
「大丈夫だよ。私はどこにもいかない。ママとずっと一緒だよ。愛してる、ママ」
月日は流れ、私は高校三年生になっていた。
生活は、ずっと変わらない。
友達の誘いを断り、いつも真っ直ぐに家に帰る日々。いつしか誘われることもなくなった。
藪を抜けた先の古い木造家屋。ママの症状から近所付き合いは難しいと判断したパパが、このポツンと離れた一軒家を安価で購入したらしかった。
ママが散らかしたあとの片付けをし、ご飯の用意、掃除に洗濯、ママと一緒にいる時間を優先する為にバイトもしていない。
なんの楽しみもない生活。それでも、いつかママが、私の知らないママになることを夢見て。
ある夏の日、茹だるような暑さだった。
学校から帰ると珍しくママが家にいなかった。滅多に外出しないママが珍しいとは思いつつ、汗をかいていた私は取り敢えずシャワーを浴びることにした。
ママがいないから水の音を気にせずシャワーを使える。それだけでも、嬉しかった。
シャワーヘッドから勢いよく流れ出すお湯。汗ばむ体がさっぱりとし、気分も幾分良くなる。
ママがいないと、しがらみから解き放たれたような、心が軽くなるような、そんな気がした。
脱衣所に戻りタオルで体を拭いて、化粧水を手に取る。
目を閉じて、鼻歌交じりに満遍なく顔に浸透させていると唐突に「友梨ぃ」と背後からおどろおどろしい呼び声。
ハッと振り返ると、そこにはげっそりと痩けた頬に窪んだ眼窩、ぼさぼさの髪。さながら悪霊の生き写しのようなママの姿が。
「あ、ママ。ごめんね、シャワーの音、うるさかったよね。服が汚れてる……ママ、どこに行ってたの?」
無表情のママがすうっと、私の顔付近を指差した。意味がわからず狼狽えると「水滴が落ちる。さっさと髪を拭きな」と低い声色で呟いた。
質問に答えることはなく、そのまま背を向けのそりと歩くママ。
この時、私は違和感を覚えた。
そういえばママは……シャワーの音に取り乱したことはない。
水の音が嫌いなママだけど、発狂する時は決まってあの音だ。それは水滴が……。
「お前も、きっと嫌いになるよ」居間に消える前に、ママは不気味に口角を上げて笑った。
嫌いになる、その明確な意図はわからないままに。
深夜。
ぴちょん……。
あの音だ。まどろむ意識の中、長年の習慣で、早くこの音を止めないとと体が動く。
私は真っ暗な家の中を歩き、洗面所、台所、トイレと向かったが、おかしい。どこからも水は漏れていない。
ぴちょん……ぴちょん……。
でも、聞こえる。
私は音の鳴る方へゆっくりと向かう。ママの寝室となっている居間、音はこの中からする。
音が鳴らないように襖を少しだけ、開けた。
薄暗い室内。ぴちょん。ぴちょん。という音。
私は見た。
呆然と立ち尽くすママの後ろ姿、その手には大きな包丁。縁から垂れ下がるロープ。そのロープに括られて、宙にぶら下げられた数匹の小動物を。
畳の上に置かれたタライに、ぴちょん……ぴちょんと血が滴り落ちる、屠殺場の光景。
気配に気がついたママがゆっくりと振り返る。血走る目、返り血を浴びた服。
「友梨ぃ」
「ま、ママ」
続く言葉が見つからない。衝撃的な現場を目の当たりにして、自然と口をついたのは。
「ママが、珍しいね」
その後、ママは駆け付けた駐在さんに連れて行かれ、精神病院に入院する事となった。
入院したママに私は会いに行っていない。
誰もいない家の中、ボロボロに朽ちかけている築八十年は経っているであろう木造家屋。
ギシギシと抜けそうな音を立てる木製の床。天井に拳サイズ程の蜘蛛がピタリと動きを止めているのが恐ろしい。
しかしそれより圧倒的に目を引くのは、ダイニング、キッチン、居間とところ構わず床に赤い染みがこびり付いていることだ。
更に家の中を調べて回ると、書斎だろうか? 三畳程の室内に机と本棚、古い新聞の切り抜きなどが所狭しと乱雑に置かれている。
新聞の記事は古いものだった。ものによっては四十年前のもある。
『N県山中で屠殺殺人 犯人は未だ不明』
『N県の屠殺殺人事件 時効を迎える』
この事件は知っている。時効が成立してから数年後、一応犯人は判明したはずだ。だけど、その時にはもう犯人は亡くなっていたらしいが。
古ぼけた一冊の大学ノートが目に入り、私はおもむろにそれを開いた。
『19●●年▲月■日。ぴちょん。ぴちょん。と滴り落ちる度、妻は絶叫を上げる。喉が裂けて血を吐く程の絶叫だ。娘からもその音を聞かされるというのは、曲がりなりにも母としてどんな心境なのだろう? 壊れた妻にそんな質問を投げ掛けても意味はないので聞かないが。しかし、友梨は不憫だ。友梨は全く悪意無くやっているだけなのに、叱られてしまうのだから』
『19●●年▲月■日。妻はもう元に戻る事はないだろう。心に深く刻まれた傷は、抉られ続けて最早原型を留めてはいない。もうこれ以上は、続ける意味はないのかもしれない』
背中に毛虫が這うかのような悍ましい不快感が掛け巡る。
何なの、この手記は?
震える手からノートが落ちる。
いけない、私はノートを拾おうと身を低くした。
「私も見たいんだぁ。パパとママの全てを」
背後から声。あ。
ぴちょん……。
ぴちょん……。ぴちょん……。
真っ暗な室内。水滴の零れる音だけが空間に響く。
天井から吊り下げられた大きな物体。その前に佇む人影。
何時しか外は大雨になっていた。その人物は夜の闇へと消えていき、その正体が世に判明することはなかった。
ぴちょん。ぴちょん……。ぴちょん……………。ぴちょん…………………………。