17 どうして。なんで? と問いかけて
前半、時間軸がやや前後します。後半、戻ります。
――話を、飛行船パーティーの頃まで戻そう。
あの日、アイスハート子爵令嬢から、私は忠告か脅しか、どちらともつかない事を言われた。
それを受けて、私は恋人関係を解消するのかどうかを考えなくてはならないと、改めて、反省と決意をしたのだ。
(そもそもの部分から考えないと)
なぜ私は、ロックウェル令息からの求婚を断ろうとし続けたのか。結局は、そこを突き詰めなければ、後悔のない答えは出せない。そう思った。
身分が釣り合わない? それは当然だ。
だがその相手を選んだのは明らかに向こうだ。
それに、身分を理由に出すのであれば、あそこまで先方から願われてなお拒絶するというのもまた、自分の立場を考えていない行動と言えなくもない……かもしれない。それでもなお、身分をわきまえて行動しろという意見も出そうな気もしないではないが、横においておく。
貴族の娘としての行動を考えるのならば、これはまたとない機会でもある。
実際、遅ればせながら――本当に遅すぎる報告だったが――両親に状況を連絡したところ、両親は驚いてひっくり返ったし、やはり「恐れ多すぎるのでは」という意見が出た。しかし、男爵としての父の意見は「ありがたい機会だ」というものだった。
父親として、娘が嫁いだ後に幸せになれるのか? という不安はあるだろう。だが貴族家の当主としては、掴める機会を掴まず捨てるという選択肢は、簡単には生まれなかったようだ。
末端であろうとも、我が家も、貴族家には変わりなかった。
そうなのだ。これは望んだって手に入らないだろう良縁だ。
自分に足りないものがあるというのなら、どうしようもない部分は仕方ないとしても、自分の努力でどうにか出来る範囲は、「なら努力をしてくれ」で結論が出ててしまうような事だ。
(父が貴族の当主としては、そう判断する事を私は分かっていた。だから今まで、理由をつけて連絡していなかったんだろう)
それを理解した上で、「ではどうしてそんな結論を父に出してほしくなかった?」と私は考えた。
貴族は個人の感情より、家の発展、ひいては領地の発展を考えるものだ。ロックウェル令息との結婚は、このうえなく男爵家に利をもたらすものの筈。それを自ら捨てようと行動をし続けていた私は、貴族の娘として、この上なく馬鹿だ。
自分の行動を振り返って、私の行動の根幹は、ただの「いや」という否定の感情に根付いていると気が付いた。
貴族の誇りもなにもない、個人の「好き嫌い」。その延長にある感情で、私はロックウェル令息と結婚するという未来を忌避した。
ロックウェル令息個人の事は……今更取り繕う必要も感じないけれど、嫌いではない。恋愛感情で好きなのかは、まだ分からないが、人としては好きな部類に入っている。
では、私の「いや」は、結婚相手個人の人格や容姿が由来のものではない。
(一体なんだろう。私は何がいやだった?)
そうして考えるうちに、思考は段々と「なんで留学生の方々の事を疎ましく思っていたのだったか」という事に移り変わっていった。ロックウェル令息との結婚という事実への抵抗感の元が、その感情であるように思ったからだ。
どうして。
どうして。
どうして。
なんで。なんで。なんで?
誰に話すでもなく、一人で考えた。
チェルニクス魔法学校が騒がしかったから?
――そもそも普段から実家は騒がしかった。その中で魔法学校に入学するための勉強をしていたのだから、うるさくたって私の生活への支障は対してなかった筈。
恋愛に浮かれている人たちがうざったかったから?
――これからもしれない。少なくとも、うるさいから、という理由よりも、こちらの感情の方がしっくりきた。
ならどうしてうざったく感じたのか。
恋に浮かれる人々の何がいやだったのか。
なんでテーアがそれでワイワイと楽しくはしゃいでいるのも、いやだったのか。
どうして。なんで。そうして考えて……一つの思いが、私の胸に浮かんできた。
(――私は人生をかけてここに来たのに。そんな事に浮かれてはしゃいでいられるなんて、嗚呼、妬ましい)
私にとって、チェルニクス魔法学校への入学は悲願だった。
それが人生の終わりではないけれど、この場所に来る事に、私は、これまでの人生のかなりの割合を費やしたといってもいい。
親に繰り返した説得から始まり、一度しかない機会を手にする為に、必死に勉強をした。そうしてやっとつかんだ入学で、やっとつかんだ学校生活だった。この場所での時間はとてつもなく貴重なものだ。
ところが、来てみたら、どうだろう。
チェルニクス魔法学校に入学するのも卒業するのも当たり前。
親に言われたから仕方なく入学しただけ。
授業のレベルが低い。家で学んだ方がマシ。
そんな学生を私は何人も見た。
実家から、いくらでもお金が出て、潤沢な環境で学んでいる学生が何人もいる。
こなくたって学べるけど、言われて来てるだけの人もいる。
あまりに、私とは違う姿だった。
周りの人なんてどうでもいい?
そんな事はない!
私は……私は誰よりも、周りの人を、見ていた。
私とあまりに違う「普通」の具合を見るたびに、私の努力なんて価値がないような気がした。
頑張っても頑張っても、私の成績は精々中の上。同じように田舎から出てきたテーアは、ケロッと、上位と言える成績を取っているのに。
私は頑張っている筈なのに。でも成果には出ない。
私にはここで頑張るしかないのに。ここを辞めたって許されるような人が沢山いる。
誰かに蔑まれた訳でも、ののしられた訳でもない。
それなのに、どうしてだろう。恵まれている人を見るたびに……全然違う世界からやってきて、勉強よりも恋に動いている留学生を見るたびに……、まるで私の努力が――違う、私自身が、馬鹿にされて、嗤われているような気がした。
これは、嫉妬だ。
(留学生の方々への奥底での嫌悪感の理由は分かった。……でも不思議。それが分かってもまだ、私はロックウェル令息と結婚しますと言い切りたくない)
私の心のなかに、まだなにか、別のいやがある。
それはなんだろうか。
何が嫌なのだろうか。
そんな事を悶々と考えていたら、テーアに「アーヴェ、そろそろ部屋暗くしてよぉ~。眠れないよぉ~~」と文句を言われた。私は蝋燭の火を消して、眠りについた。
その夜夢を見た。幼いころの夢だった。実家で、兄さんや姉さんや、テーアとテーアの妹ちゃん、それから年の近い領民の子供たち。皆で遊んだ夢だった。身分の差はあったけれど、あの頃の私たちにとってはそれは小さな問題で、楽しく遊ぶ事が第一だった。
土の上を走る。畑にもならない、放牧にも使えない。どうしようもない土地は、それでもあの頃の私たちにとっては、無限に広がる遊び場だった。ある段差は偉大な王の演説の場所になった。ある岩は天上まで伸びる伝説の塔だった。楽しい、幸福な思い出。大好きな時間。
――目を覚ます。そして、眠い頭で、全てを理解した。
「わたし、ふるさとがすき」
寝起きにそう呟いた私を、テーアは怪訝そうな目で見てきたが、気にならなかった。頭はまだぼんやりとしている気がするのに、唐突に目の前が開けたような気がした。矛盾している? よくある話だ。私はたいして頭がよくないから、いつも矛盾する事を言うしやるし考える。でもそれが私だ。簡単に変えられる事でもない。
簡単な話だった。
私は、故郷が好きだ。
都と違って何もない。道はどこもかしこもガタガタで馬車になんて乗ったらお尻が痛くなる。整備されていない草がいたるところに生えていて、虫はやたらといる。どうにも裕福になりきる事はないけれど、毎年毎年、毎日毎日、そこで必死に生きている人々がいる。
あの土地が好きだ。あそこで暮らしている人々が好きだ。家族の事も好きだ。
だから私は、あの人たちに役に立てるような自分になりたかった。
▲
握られた手が熱い。意図したものではなく、これが、ロックウェル令息の普通だ。
普通は人の数だけある。私とロックウェル令息の常識が全然違うように。
「未来を垣間見た時、僕は、相手が、誰か、サッパリ分からなかった。分かったのは、相手の女性が持っている手紙が、チィニー語だったという事だけだ。だから、僕はチィニーに留学を望んだ。チィニーに行けば、あの時共にいてくれた人に会えるかもしれないと思ったんだ」
手が痛い。でもそれは骨がきしむようなものではない。まだ耐える事が出来る程度の痛みだ。
震えている。私の手ではなく、私を掴んでいる手が。
「チィニーに来た後、顔も声も名前も分からない相手を探すのがどれだけ困難な事か、痛感した。色々なご令嬢と顔を合わせたが、しっくりくる方は誰もいなかった。人によっては、相手の属性まで未来を垣間見た時に知った人もいたらしい。でも僕は、属性も分からなかったから、なんの手がかりもないも同然だった。……魔力測定の前日、僕は少し体調を崩してしまったんだ。だから、周囲から認識されにくくなる魔法を自分に使って、談話室に行こうと、普段はあまり通らない廊下を取った。その時、周りも十分に騒がしいのに、楽し気な貴女の声が聞こえてきたんだ。貴女は、テスタ嬢相手に、『明日が楽しみだね、私は何属性かな?』と、無限にある未来の可能性に夢を膨らませていた」
そんな会話もあったかもしれない。自分が何を語ったかすら、正確に思い出せないけど。
「その横顔が、僕が夢見た、女性と一緒だと思った。証拠を……と言われても、出せるものは何もない。僕がたった一度見ただけの未来の、可能性の、ひと時の光景しか、僕にはない。――でも貴女だったんだ。アーヴェ嬢」
勢い余った様子で、ロックウェル令息の腰が浮く。上からこちらを見下ろす彼は、僅かに逆光になっていて、顔には影が落ちていた。端正な顔が、歪んでいた。皮膚の色が、燃えるように色づき始めていた。まるで、泣き出す直前の子供のように。
「一目惚れだったんだ。垣間見た未来で見た、貴女の、笑った顔に、僕は、恋に落ちた」
まさに絞り出すような声だった。それを象徴するかのように、ポタリ、机に、汗が落ちる。私はつい、その落ちた雫を目で追って……それが涙なんてものではないと気が付いて、慌ててロックウェル令息を見上げた。
はぁ、はぁ、と荒くなっている呼吸は、彼が必死になって訴えかけていたから――だけではない。少し頬が赤くなったと思っていた顔は、あっという間に、チェルニクスの談話室で見たように、真っ赤に染まっていく。
明らかに、体調を崩されている!
「アーヴェ嬢、僕は、ぼ、くは……」
「ロックウェル令息! 顔が――!」
「フレドリック様!」
部屋の隅に控えていた使用人の方々が、ロックウェル令息の異変に気が付いて、慌てた様子でこちらに駆け寄り始めた。一人の使用人が廊下に向かって、医師と、アイスハート子爵令嬢を呼びに行くように指示を出していた。桶を持ってこいと叫ぶ声も聞こえた。
「……ぁ、……はぁ……はぁ」
ロックウェル令息の目が、明らかに虚ろになっていく。ロックウェル令息が手につけているのと似た手袋を付けた男性使用人が、彼の体に触れ、椅子に凭れさせようとした。けれどロックウェル令息がいまだに私の手を握っているせいで、それがうまくいかないようだ。私は立ち上がって――大変非常識ではあるが――机を乗り越えて、ロックウェル令息のすぐ横に移動した。そうすれば体勢を変えやすくなったようで、ロックウェル令息はなんとか椅子に座る事が出来た。
メイドの方が大きい桶を持ってきた。杖を取り出して、彼女は魔法で桶に水をためていく。それを見ながら思った。
アイスハート子爵令嬢は、いつ来るか分からない。もし隣室とかに控えていたならば、もう駆けつけてもおかしくない。そうでないという事は、下手をすれば、この屋敷内にはおらず、アイスハート子爵家が借りている御家にいるかもしれない。彼女がやってくるのを待っていたら、大変な事になるかもしれない。
「わ、私、凍らせて良いですか?」
「お願いしてもよろしいでしょうか?」
「はい!」
男性の使用人が、ロックウェル令息の首元を緩め、清潔そうな白い布を桶に浸して冷たくし、ロックウェル令息の顔や首元に当てる。水が足りなくならないようにと、メイドの方は水をため続ける。私は掴まれていない方の手の手を桶の水の中に突っ込んで、冷やし続けた。
私の、まだあまり進歩していない低い技術の凍らせる魔法が、この場合はよい方向にいった。
欲しいのは完全な氷ではなく、水をキツイ程に冷やせる程度の氷だったので、桶の水そのものを凍らせる事が出来ない私の魔法は、丁度よかったのだ。
時折人が入れ替わりながら、作業が続く。私の代わりに氷魔法が得意だという方もやってきて、私が桶の水を冷やすのは一旦終わった。まだアイスハート子爵令嬢はこない。
男性の使用人がロックウェル令息の顔などを必死に拭う。一応令嬢である私にたいして断りを入れた後、ついにロックウェル令息の上の服が脱がされたが、顔や首だけでなく、体全体が皮膚越しに真っ赤に燃えているようになっていた。絶えず、汗が流れ続ける。まだアイスハート子爵令嬢はこない。
(何か、他に何か出来ないの……?)
そう思いながら、先ほどまで水に突っ込んで魔法を使っていた自分の片手を見た時、ひんやりとした冷気が鼻先や頬をかすめた。
「あ……」
片手を自分の首元に当てると、ひどく手が冷たくなっている事に気が付く。
(魔法をたくさん使ったから、手も冷えてるのか……。……まって、これは使えるのでは?)
冷たくした布で体をふいたりするよりも、直接的に熱が下げられるのではないか。そう思った私は、ロックウェル令息の背中などを必死に拭いている使用人の方の横から、赤い首に向かって手を伸ばした。
「すみませんっ、失礼いたします、ロックウェル令息!」
「っ! カレンダ様、お待ちください。直接触れてはいけな――」
「あっっっっつっっっっ!」
触れた瞬間、接触した面からジュッなんて音が聞こえてきた気がした。冷えていた筈の手が、あっという間に暖かくなっていくのを感じる。触れた部分の熱が、手に移っていくのだ。
使用人の方が触れてはならない、と言った意味がよく分かる。
――でも、触れないという熱さではない。
一度首元から離して、今度は自分の手の周りだけを意図的に凍らせる。指先に霜のようなものがおりて、白くなっていく。
そのまま、また、首元に触れた。
「っ」
冷え切った手が、あっという間に熱くなる。あまりの温度差に、手が痛んだ気がした。
でも多分、布で拭うのに追加でこうした方が、効果がある気がする。
「――触れる事が、出来るのですか……」
使用人の方が何か言っていたが、魔法に必死だった私の耳には届かなかった。
指先が、冷えては熱され、冷えては熱され。
たいして魔力量のない私は、あっという間に魔力が底をつきかけて、目の前が霞んできた。
「カレンダ様! それ以上は」
「い、いえ、もうちょっと……」
フレドリック様の首はまだ熱い。でも、最初と比べると、随分と温度が下がった……ような、気がする。手袋越しに掴まれたままの手も、熱を殆ど感じなくなってきたような気がする。
「あと、少しだけ……」
手が震えて、うまく伸ばせたか分からない。それでもなんとか最後にもう一回、と伸ばした掌は届いた。太い首にそっと手を添えて、目を閉じて祈る。
(どうか――落ち着かれますように――)
それが、意識が落ちる前の、私が覚えている最後の記憶である。