前編 「若気の至りで流布した怖い噂」
挿絵の画像を作成する際には、「Gemini AI」と「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
全てのドアに鍵をかけて、締め切った窓にも新聞紙を隙間なく貼り付けて完璧な目張りを施して。
そんな部屋の中でジッと息を殺して潜んでいると、何気ない物音や生活音にも自ずと過剰に反応してしまうんだ。
「うっ!?」
ましてや、それがスマホの通知音なら尚更だったの。
「だ、誰だろう…」
液晶に表示されたホーム画面には、一件のメールを受信した事が通知されていた。
震える手でメールアプリを起動させた私は、思わずホッと胸を撫で下ろしたの。
メールの文面は、私の救い主になってくれるであろう人物の来訪を告げる物だったからだ。
−メールに記載された住所に只今到着致しました。今からインターホンを鳴らしますので、ドアスコープから御確認を御願いします。
しかしメールに従ってドアスコープを覗き込んだ時、私の胸中は期待と不安の入り混じった複雑な感情にかき乱されてしまったんだ。
会社の近所に借りたマンションの玄関先で佇んでいる人影は、事前に交わした打ち合わせメールに記されていた通りの人物像だった。
服装はメールに書かれていた通りだったし、ポニーテールに結い上げた艷やかな黒髪も紫色の瞳が自己主張している端正な美貌も、添付写真と瓜二つ。
だけど口元に浮かぶ不敵な微笑と何を考えているのか伺い知れない怪しい眼差しには、口では言い表せない不気味さが感じられたの。
とはいえ、このまま知らぬ顔の半兵衛をきめこんでいる訳にもいかない。
救いを求めるメールを彼女に送信したのは、他ならぬ私なのだから。
「ど…どうぞ、お入り下さい…」
「貴女が私に連絡を下さった、北王子美波比さんですね?私がサイト管理人の鳳駆露亜こと、畿内大学文学部民俗学専攻の鳳飛鳥です。此の度は御連絡下さり感謝しますよ。」
贔屓のオカルトブログの管理人にして、新進気鋭のオカルト研究者。
そんな怪しさ全開の肩書きを持つ彼女は、第一印象のや肩書きからは想像も出来ない知的で穏やかな笑顔で私に応じてくれたんだ。
−この人に意を決して連絡したのは、正しい選択肢だった。
そんな安堵と期待とが、むくむくと湧き上がってくるのを実感したの。
私こと北王子美波比が幼少期から思春期を過ごした町は歴史の浅いベッドタウン的な新興住宅地で、怪談や都市伝説といったオカルトめいた噂話とは無縁の土地だった。
この事実を「ロマンがなくて詰まらない」と受け取ってしまった少女時代の私は、「なければ作れば良い」の精神で怪談話をでっち上げる事を思い立ってしまったんだ。
幹線道路に繋がる近所の交差点の交通量の多さと、それに伴う交通事故の危険性。
この二点に目をつけた私は、交差点に纏わる架空の死亡事故と、それに起因する幽霊話の捏造を企てたの。
交差点の街灯に花を手向けたり、事故死した少女の幽霊に扮して夜明け前の薄暗い交差点に佇んだり。
季節外れな夏物の白ワンピースに血糊の特殊メイクは、今思えば職質されても文句の言えない風体だったなあ。
だけど幸いにして、全ては私の狙い通りに動いてくれたの。
供花を見た近所の人達が「あの交差点で死亡事故が起きたらしい」と噂したり、扮装した私を見たドライバーや通行人が「事故死した少女の幽霊に遭遇した」と騒ぎ立てたりした事で、件の交差点は地元の心霊スポットとして認知されるようになったんだ。
この結果に満足した私は、足が付かないギリギリのタイミングを見計らって手を引き、普通の学生生活に戻る道を選んだんだ。
だけど、その頃には全てが手遅れだったの。
ニュータウンの交差点で事故死した少女の幽霊譚は、言い出しっぺである私の手を離れて一人歩きし始めていたんだ。
幽霊の扮装を止めてから随分経つにも関わらず、白いワンピースを纏った少女の目撃例は其の後も相次ぎ、遂には風紀指導の先生や地元の民生委員までもが目撃者として名乗り出る有り様だったの。
事の重大さを理解して恐ろしくなった私は、高校進学を口実に地元から引っ越す事を決意したんだ。
それでも結局、逃げきれなかったの。
子供時代にでっち上げた幽霊譚の少女は、私の事を執念深く追ってきたんだ。
今の私には、交差点に面したガラス窓を開ける事など思いもよらないだろう。
何しろマンションの真下の交差点には、あの白ワンピースの少女の幽霊が今も尚佇んでいるのだから。
少女時代の私と瓜二つの顔に、赤い血糊を滴らせて…
恐怖と動揺で何度もつっかえながらも、なんとか私は己の身に降り掛かった異常な出来事の一部始終を打ち明ける事に成功した。
そんな私とは対照的に、若きオカルティストは泰然自若といった有り様だったの。
話の合間に余計な口は一切挟まず、軽く首を振って小さく相槌を打つだけ。
きっと彼女にとって、こうした話はよくある事で今更驚くには値しないのだろう。
やがて軽い溜息を漏らし、満を持したように口を開いたんだ。
「それで部屋から一歩も出られないまま、この一週間を過ごされていたのですか。職場には体調不良を理由に在宅勤務へ切り替えて貰い、食事はネットスーパーや出前で調達して。そんな自宅軟禁みたいな生活では、さぞかし不便だった事でしょう。分かりました。この鳳飛鳥、事態の解決に一肌脱がせて頂きますよ。」
「ほ、本当ですか?!」
その返答は私にとって、正しく天の助けか地の恵みのように感じられたんだ。
正直言って、この人が私の依頼を引き受けてくれるかは半信半疑だったの。
何しろ私のやった事は、根も葉もない噂話を地元に広めるという無責任極まりない物なのだからね。
「今回の一件、むしろ私としては御礼を申し上げたい程ですよ。何しろ民俗学的な視点で見れば、意図的に流布された架空の幽霊譚が都市伝説に昇華されていく過程を観測出来た訳ですからね。そればかりか人為的に育成された怪異と相対する事が出来るのですから、正しく盲亀の浮木と言うべき僥倖ですよ。」
「は、はあ…」
嬉々として語る鳳さんの目には、もう私の事なんか映っていなかったの。
きっと彼女の頭の中は、珍しいオカルト現象に対する純粋な知的好奇心で一杯なのだろうな。
そうして一通りのヒアリングを終えると、鳳さんはショルダーバッグから様々な物を取り出してテキパキと準備を始めたんだ。
「このレジャーシートに大きく描かれた籠目紋は、陰陽道を始めとする神秘主義の世界では魔除けの図形として神聖視されています。出来たら本式に床へ直筆したかったのですが、この物件が賃貸である以上はスタンダード版で妥協するしかありませんね。」
「本式とかスタンダード版とか…魔除けの図形って、そんな色々なバリエーションがあるんですか?」
どうやらオカルトやスピリチュアルの世界にも、旅客機の座席や寿司屋の出前みたいに細かいランクがあるらしい。
私としては、敷金と礼金の心配をしなくて良いスタンダード版は大歓迎なのだけれど。
「念の為、道教の霊符と真言密教の経文のコピーも御貸ししましょう。台湾の名高い道士と高野山の高僧が、北王子さんを必ず守護して下さります。後はこのワンカップの純米酒をお召し上がり下さい。嵐山の神社で供されている御神酒ですので、謂わば飲む魔除けですよ。それでは準備をしてきますので、北王子さんは少しお待ち下さい。」
道教に真言密教、それに神道。
様々な宗派の魔除けグッズを押し付けるように手渡すと、そのまま鳳さんは玄関から出て行ってしまったんだ。
「予想以上の変わり者だなあ、あの人って。悪い人じゃないのは確かだし、こんな事は助けてもらう立場の私が言っちゃいけないけど…」
こうして一人取り残されると、何とも手持ち無沙汰で頼りない。
仕方ないから籠目紋の中心に直立して御神酒を開けてみたけど、端から見ればレジャーシートを広げてカップ酒を飲んでいるだけなんだよね。
これじゃお花見の酔っ払いじゃない。
私ったら、一体何やってんだろ…