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9.アップルパイで休憩を

 解読をはじめて一週間が経った。

 作業は大変だけれど、楽しいという気持ちが上回っている。許可が出るなら気の向くままに、好きなだけ魔法書に没入したい。


 でもそれはヴィクトル様によって阻止されている。

 夕方決められた時間になれば作業の終了を告げられて、残業も禁止されている。急ぐものじゃないのかと聞いたけれど、「急いでないとは言わない。でも無理をすれば効率が下がって、結局は遠回りになるだけだぞ」と言われてしまった。


 確かに楽しいからと言って食事や睡眠の時間を削っても、あとで体が辛くなってしまう。体調を崩したら、回復するまで休まなければならないし……うん、ヴィクトル様の言う通りだ。

 わたしがこのお屋敷で解読作業を進める事になったのは、わたしの仕事をヴィクトル様が監督しやすいからかもしれない。


 朝昼晩としっかり食べて、お風呂にもゆったりと浸かり、気持ちのいい寝具で眠る日々。

 今までにないくらい、規則正しくて満たされた生活だ。そして一週間も経てば、わたしとヴィクトル様の距離も少しずつ近付いてきたというか……いや、距離とは違う。これは、慣れだ。



「アンジェリカ、この文章を確認してくれるか」


 掛けられた声に古文書から顔を上げる。

 隣に座っていたヴィクトル様が紙を見せようと近付いてくるけれど、距離が近い。解読を始めた頃のわたしはこの距離に驚いて、飛び上がるように椅子をずらしてしまっていた。


 だってお顔が良すぎるのだもの。

 ヴィクトル様は自分の美貌に無頓着なのか何も気にしていないけれど、そのお顔を間近で見る事になるわたしの気持ちも考えて欲しい。

 しかしそれにもこの一週間で慣れてしまった。何度言ってもヴィクトル様は気にしてくれないし、疚しい気持ちなんて欠片もないって分かっているから。


「あ、ここは【悲しみ】です。悪筆ですみません……」

「読めるからいいんだ。ただ時々ちょっと確認したい部分があるだけで」

「もう少し丁寧に書くよう気を付けますね」

「大丈夫。確認だけ許してくれな」


 わたしの解読した文章を、ヴィクトル様が清書して文章を直してくれる。

 清書と校正をしてもらえるだけで、わたしの負担はぐっと減るのだから有難い限りだ。楽しい古代文字に没入だけしていればいいんだもの。


 ヴィクトル様は午後からは書類仕事を持ち帰って、わたしの手伝いと同時進行でこなしているらしい。それに加えて家事もしているのだから、負担は大きいのではないだろうか。

 それを聞いても、いつもと何も変わらない様子で「問題ないよ」と言われてしまうだけなのだ。


 女神の手記だって古文書の解読もゆっくりだけど進んでいる。

 綴られている女神の嘆きは、次第に人々へ希望を託すものへと変わっていった。精霊の記述がちらほら出てきているから、核心に迫るのも近いかもしれない。


 一つの文章を目で追いかけて、知っている単語を抜き出していく。知らないものもあるから、それは光教から借りている資料の中を探さなければならない。

 同じような綴りは意味が似ている事もある。解読はそれの繰り返しだ。


 少し肩が凝ってしまって、わたしは座ったままでぐるぐると肩を回した。動かしてもなかなか解れる感覚がない。

 分からない単語ばかりが続いて、少し疲れてしまったようだ。


「疲れたか?」

「少しだけ。ちょっと集中しすぎたかもしれません」

「よし、じゃあ休憩。天気もいいしガゼボに行ってお茶でも飲もうか」


 ヴィクトル様はペンを置くと、ささっと机の周りを片付ける。

 お仕事の邪魔をしてしまっただろうか。そんな事を思いながらぼんやりとその様子を見ていると、苦笑いをしたヴィクトル様が開いたままの本に栞を挟んでぱたんと静かに閉じてしまう。


「ほら行くぞ」

「は、はい!」


 ちょっと行き詰まっているのは間違いないし、疲れている。ヴィクトル様を付き合わせるのは申し訳ないけれど、少し気分転換もしたかった。


 先に行っているように言われて、わたしは裏庭へ。ヴィクトル様はキッチンへと足を進めた。


***


 裏庭にある、屋根付きのガゼボ。

 小さな椅子とテーブルが誂えられたその場所には、気持ちのいい春風が吹き抜けていく。


 花壇で揺れる色とりどりの春の花。

 白い蝶が蜜を求めて花から花へと遊びながら飛んでいく。


 閑静な住宅街なのもあるし、お屋敷をぐるりと囲う高い生垣のおかげなのもあるかもしれない。静かで、まるで切り取られた空間の中にいるようだった。


 汚れる仕事はしていないのだけど、何となく落ち着かなくて研究所の制服の上に白衣を着ていた。でも今日の陽気だと少し暑くて、白衣を脱いで軽く畳んでから椅子の背に掛けた。


 このまま眠ってしまうんじゃないか。そんな事を思うくらいに気持ちのよい時間だった。

 小さな欠伸を噛み殺し、目尻に浮かんだ涙を指先で拭う。


 そんな中で聞こえた足音に目を向けると、両手でトレイを持ったヴィクトル様がこちらに向かってくるところだった。

 手伝おうと立ち上がるけれど、それよりもヴィクトル様が到着する方が早い。

 せめてもと、トレイの上から茶器やお菓子をテーブルに並べる事を手伝った。


「アップルパイを焼いておいたんだ。軽く温めてあるからうまいぞ」


 編み目に綺麗な焼き色がついているアップルパイだ。

 ヴィクトル様が切り分けて、わたしの前にお皿を置いてくれる。それから温かなコーヒーと同量のミルクをカップに注いでから、それもわたしの前に出してくれた。


 ヴィクトル様の前にもアップルパイとコーヒーが並んだ。


「美味しそうです。いただきます」


 両手を組んで祈りを捧げる。このお屋敷にお邪魔するようになってから、食事前にちゃんと祈る事が増えた。女神様と精霊へ恵みを感謝する……と共に、作って下さったヴィクトル様への感謝も心の中だけで添えていた。


 食事もおやつも、誰かと向かい合って食べるのは美味しい。

 その誰かがわたしに意識を向けていて、わたしも同じようにその人へ向き合って、お喋りをしながらとる食事はいつもより美味しい気がする。


 寮で暮らしている時と同じようで、違う時間。

 ヴィクトル様の作るものが美味しいから、そう思うのかな。


 そう思いながらアップルパイにナイフを入れる。艶々のリンゴとカスタードクリームがとても綺麗。

 視線を感じてそちらを見ると、ヴィクトル様がこちらをじっと見つめていた。その視線は何だかわくわくしているようで、少し子どものようにも見える様子に笑みが零れた。

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