第59話
プラッドは、嵐に連れられて寄ったバーでアヤをつけてきたサリーちゃん一人だけだった
今日は高そうな赤いミルトンコートを羽織っている
「疾風、来い」
腫れぼったい唇がそう呼ぶと、しっぺいは踵を返して軽い足取りでサリーちゃんのもとに駆け寄った
「ハヤテ!?しっぺいがハヤテ!w」
これは滑稽だ
このだるい狼のどこが疾風だっていうんだ
「しっぺいより颯爽としてかっこいいだろ?ほら、ご褒美」
サリーちゃんの手から食べているビスケット…犬用のビスケット!
「あんたがあのビスケット撒いてたの!?」
「『あの』と言われてもね」
しらばっくれやがって
おおかた温室の出入り口を探っていたんだろう
それにしてもしっぺいが私以外の人間の手からものを食べるとは
しかもご機嫌でボリボリと乾いたビスケットを貪っている
ビスケットを平らげたしっぺいの頭をサリーちゃんが撫でると、行儀よくおすわりして尻尾を振っている
随分と愛想がいいじゃないか
私の方がよっぽどいいおやつあげてるのに
「しっぺいの餌付けでもしようっていうの」
温室のことは言うまいと思って咄嗟に口から出たが、どう見ても餌付けは完了している
「こいつはザナドゥの方々で餌付けされてるよ。でも誰かさんがフレオから女王の座を奪い取ったせいで、文字通り嗅ぎ回る奴に敏感になった」
クゥーン、としっぺいは悲しげにひと鳴きする
私のせいで残飯が出なくなったとでも言うのか
しかしこれで野犬騒ぎの原因はわかった
別に申し訳ないとも思わないが
「突如街に現れた流れ者が女王に成り代わって、波風立たないわけがないだろ。みんなその波に乗りたいのさ」
「だからしっぺいへの分け前まで渋るって?」
「こいつはあんたと一緒に現れた。みんなあんたの眷属だと思ってる」
「しっぺいが!?」
しっぺいは首をこっちに向けて眉(らしき部位)を上げた
いやいや、私が知るか
それともそういうことにしておけと言ってるのか
「…しっぺいが何かしたっていうの」
「こいつは利口だからね。あんたに何か報告しに行ってるんじゃないかってね」
「私がザナドゥに対して何かしら企んでるとでも?」
「ルーは選挙に勝って女王になった。つまり選ばれなかった候補がいるってことさ。そいつらがまだ女王の座を狙っているとしたら、次に標的にするのは誰かな?」
「そういう動きがないかしっぺいに探らせてるって?私が?」
探らせたところで口がきけるわけでもないし、熱心にご褒美をせがむだけだ
それともこの世界の住人は、動物と言語的なコミュニケーションを取る方法を弁えているとでもいうのだろうか
「これは?」
とサリーちゃんはしっぺいのマフラーの結び目から折り畳まれた紙切れを引き抜いた
「…なにそれ」
一応しらばっくれてみたが、もちろんなんだか知っている
私が結んでおいた紙だからだ
「えー…『おとなしい狼です。名前はしっぺいです。ご飯はちゃんとあげていますので、無闇に餌を与えないでください。迷子ではありません。独りで温室に帰れます。』」
うろつきまわってまた騒ぎになると面倒なので、名札代わりに持たせておいたのだ
私の署名を入れておかなくてよかった
「『温室』って?」
「温室は温室でしょ。見たことないの?」
「野生の花にしか興味がなくてね」
実際他の場所で温室は見たことがない
それに近いものは、ホームセンターで鉢植えを置いているビニールハウスみたいな一角ぐらいだ
『独りで家に帰れます』では家ってどこなんだと、また混乱を生むと思って正直に温室と書いてしまったのだ
「綺麗な字だこと」
サリーちゃんは紙切れをつまんで、顔から離して眺めた
一応書道は五段だ
だが学校でも社会に出ても、役に立つ機会はただの一度もなかった
こんなものは子供にやらせなくていい習い事リストの筆頭に据えていい
保証する
事あるごとに字が綺麗だと褒められたいなら止めないが
「みんなどこかにあんたの秘密のアジトがあると勘繰ってる。あんたの寝首を掻くチャンスを窺ってるってわけさ」
「それでこうして私を尾けてるの?」
「フン…アタシらは権威になんか興味ない。目障りなだけだ」
それで日がな一日あんな暗いバーに屯してるんじゃ世話ないが、自分から引き籠もってくれているんだから、まあ言わないでおこう
その時、しっぺいが素早く身を翻し、暗い空を睨みだした
サリーちゃんがしっぺいの目線を追う
私も注意を逸らさないようにしつつ、しっぺいの目線の先を追う
私には何も見えないが、しっぺいは口元を引き締めて毛を逆立たせている
ウウウウ…と低く喉を鳴らしている
明らかに警戒しているサインだ
サリーちゃんも目を凝らしたまま動かない
「…あんたはどうしてこう厄介な連中を惹き寄せるのかね」
ややあって、しっぺいの緊張がほどけ二、三度瞬きすると、スゥーッと逆だった毛が元通りに収まっていった
脅威は去ったようだ
「女王の冠を欲しがる人がいるからでしょ」
本当にそうだろうか、とはずっと考えている
彼女らは私が女王でなくても同じように私を尾け回すのではないか
少なくとも、女王の権能そのものよりも私の力が魅力的に映っているのは確かだ
「それがわかっているなら、夜道の独り歩きはやめることだね」
サリーちゃんはしっぺいの目線に腰を落とし、おでこをくっつけ合わせて顔をわしゃわしゃした
「じゃあな疾風、気をつけて帰れ」
くぅんと喉を鳴らして、踵を返したサリーちゃんを見送る
まったく気安い狼だ
「あんたもせいぜい気をつけるんだね」
肩越しに私を振り返ると、サリーちゃんは路地の暗闇に消えていった
嵐の放った草か、ハルかはわからないが、私を追う動きはなくなってはいない
プラッドにしても、やはりただ目障りなだけではないだろう
でなけりゃわざわざこうして私を出待ちしたりしない
もっとも、私を人事不省にしたところでプラッドには何の益もなかった
これ以上何をするつもりで私を尾け回しているんだ?
ザナドゥの誰かと通じているのか
また厄介事に巻き込まれる前に私も帰ろう
「まっすぐお家に帰るんだよ」
としっぺいに別れを告げたが、しっぺいは私に先立って歩き出し、三歩先で振り返って私を待った
「何?一緒に帰るの?」
返事もなくまたてくてくと歩き出し、少し先で私を振り返る
「どういう風の吹き回し?」
私がついていくと、しっぺいも歩き出す
道順はまっすぐルネの家に向かっている
家まで送ろうとしているのか
こんな気を回すような狼だったとは
今日は何も持ってこなかったから、何かご褒美が欲しいのか?
程なく線路を越え、ルネの家の前まで来た
しっぺいがこんなところまでやってくるのは初めてではないだろうか
本狼はともかく、私は見たことがない
「寄ってく?」
しっぺいはアーケードの入口で立ち止まって尻尾を振っている
そこからは入ってこない
「何か持ってきてあげるから、待ってなさい」
ところがしっぺいはくるりと向きを変え、また線路の向こうへ戻っていってしまった
本当に送りに来ただけか
構い慣れたせいで気にも止めていなかったが、私はしっぺいのことを何もわかっていない
私と一緒に現れた、というのは本当なのだろうか
私に何か関係ある狼なのだろうか
気持ちの整理をしたくて出かけたはずが、手柄もなく代わりに荷物を背負い込んで帰ってきてしまった
鉄階段を踏む足が重い
私は、私からルネを遠ざけようとするものに抵抗しているのだと、やっと気づいた




