第56話②
ヴェルはルネを私から引き離したいときに現れる
もちろんヴェル自身にその意図があるわけではない
ルネとヴェルを追うカメラが減り、私達への脅威も薄らいでいる中、最早ヴェルにはルネに連れ添わなくてはいけない立場上の理由はない
表向きは
もう考えすぎでもなんでもない
それよりも何故、ルネが一緒にいてはまずいのか?だ
まあ内緒話なんてのは大勢に聞かせたくないものだが、ルネには言い触らすような友達もいなければ、そういう社交性もない
何の得もなく私を自分の家に住まわせているルネが目障り
私の自意識過剰かもしれないが、それしか思いつかない
私にはこの世界にはなんにもない、とは言えなくなってきている
おかげさまで色々得るものがあった
向こうもそれがわかっている
ブランは圧倒することができるから脅威だと見なされていない
ブランが言っていたように、嵐やゾンダ様の相互監視が働いているから私達に直接手を出してこないのであって、誰かが抜け駆けすれば情勢が動く可能性がある
一方でルネを押さえられている、という事実は、私にとってはひときわ踏み込んだ脅威になっているが、同時にルネは保護され続けるだろう
後顧の憂いという意味では、私の懸念材料は一つ減る
向こうにとっても競争相手をリードする切り札になる
もちろん私の出方次第ではそのまま人質になりかねないが、私からの譲歩を引き出す前にルネを傷つけても何の得もないはずだ
どれも根拠薄弱な思い過ごしかもしれない
本当にそうならいい
ただ一つ、私の勘が間違いないと言っているのは、ヴェルがハルの眷属だという可能性だ
ケーキの順番待ちをルネに任せて、私とブランは店を出た
振り返ると目を細めて談笑する二人が見える
そしてやはりというか、さっき私達が店に入るまではペデストリアンデッキに広げられていたテーブルと椅子は、すっかり片付けられていた
ブランも様子がおかしいことにはすぐ気付いた
「風に飛ばされましたかな」
「ならいいんだけど」
よくはないが、別にそこらに散らかってるわけじゃない
それでも一応、建物の谷間の裏路地にある商店会の事務所に向かう
これはそこへ来いというメッセージだ
まだ日が沈んだわけでもないのに暗い
街灯が点く時間じゃないし、空は厚い暗雲が覆っている
風が巻き上がってスカートの裾と一つ結びの髪を煽る
同じ高さのアパルトマンの並びに横風が吹き付けると、ボオオオッという野太いハーモニカのような不気味な音が響き渡った
雨は横殴りらしく、建物に挟まれたこの狭い路地にまでは吹き付けてこない
「!つむじサン!」
ブランは私の肩を掴んで引き止めると、素早く前に回り出た
左手は刀に手をかけている
稲光が空を照らすと、壁に付けられたロートアイアンの看板の上に腰掛けて、足をぶらぶらさせる人影…いや、はためくマントの影が浮かび上がった
フードを被っているし、人相は見えない
でも誰だかはわかる
「おのれカルマ!」
「待ってブラン!」
刀を抜こうとするブランの手を精一杯の力で引き止める
枯れ木のような細い手足なのに、鉄骨のようにびくともしない
ブランは踏みとどまった
カルマ様ではない
カルマ様だったら絶対にブランがいる前で姿を現さない、という確信めいたものがある
「…ごめんブラン、黙ってたことがある」
「…何です」
「祇園で屋台に火を点けた犯人を知ってる」
「…!」
それは目の前にいるマントの主に違いない
「ハル!あなたでしょう!?」
私の呼びかけに、人影はゆっくりと、私でも曲げられそうなロートアイアンの上にまっすぐ立った
「こんばんは。こんな日にお出かけなんて、つむじ様もいいご趣味でいらっしゃる」
「…まだ日没前だよ。吸血鬼が出るには早いんじゃない?」
「私、早起きなんです」
ハルはくるっと前のめりに回転しながら飛び降り、音もなく着地した
顔はまだフードで見えないが、盆踊りの最中に見かけたあのお団子頭の子と背格好はよく似ている
「なんでこんな回りくどいことをするの」
「回りくどい?ちょっと待ってくださいよ。何かわけがあってつむじ様をここに誘い込んだとでも思ってます?」
ただの偶然だとでも言うのか
「…じゃあ、なんでそこで待ってたの」
「待ってるのはあなたじゃありません」
私は今来た道を振り返った
「…ケーキ?」
ショーウィンドウが並ぶ一服寺の駅前を歩いたら、鏡に映らないハルは一目で気付かれるだろう
「ええ。こんな日は静かな部屋でゆっくりケーキを食べたいでしょう?」
ブランの小さいため息が聞こえた
「つむじサン、お友達で?」
「まさか」
むしろ敵という形容が一番近い相手だ
向こうは違うかもしれないが
「言っておくけど、オペラの最後の一個は私がもらったよ」
「別に私達チョコレートしか食べないわけじゃありませんよ。こんな日はチーズケーキって気分じゃないですか?」
さっきの3個はハルが注文したのか!
ブランの視線が冷たい
その時、吹き荒んでいた風が止み、雲の切れ間から透き通った夕暮れ空が顔を出した
一瞬、空を見上げたハルの顔の下半分が見えた
「今なら濡れずに帰れそう。それじゃごきげんよう、つむじ様」
「待って、ハル!カルマ様は…」
フードの陰の下で、ハルの瞳にわずかに光が反射して見えた
肩越しにこっちを見ている
「あの方はお寝坊さんですから。お会いになりたいのなら夜明け前に」
そう言うとハルは身を翻し、軽々と二階の屋根に飛び乗って消えた
「えっ、ちょっ…」
「つむじサンが宵っ張りなら、今頃丁夜の女王だったかも知れませんな」
ハルは確かに同類かもしれない
だったらヴェルをルネに張り付かせるのはきっと気に入らないはずだ
テーブルの事を確認しようにも、商店会の事務所はやっぱり閉まっていた
ただハルが私に用があったわけじゃないのは間違いなさそうだし、私はもっと別のことに巻き込まれたのではないか
「あっ、つむじ!用事済んだの!?」
路地の遠くからルネが呼ぶ
「…ブラン。ハルのこと、ルネには黙ってて」
「あまりいい手だとは思えませんがね」
ヴェルはカルマ様の差し金に違いない
でもああやって私以外の誰かと談笑しているルネを見ると、それが友達を演じている偽物だとはとても言えなかった
「本降りになるよ。さっさと帰ろ」
「ヴェルは?」
「先に帰ったよ。さっきのチーズケーキ、ヴェルが予約してたんだって」
「趣味がいい人はこんな日にチーズケーキ食べるんだよ」
「そんなこと心にも思ってないくせに。ヴェルのこと、嫌いでしょ」
びくっとして、ついブランの顔を窺ってしまった
知らない、というジェスチャーをしている
「初めてうちに連れてきたときから気に食わなかったんでしょ」
努めて友好的に接していたつもりだったが、そういうムーブをしてしまっていたのか
「そのぐらいわかるよ」
最寄り駅に戻ってアーケードの下に入る頃には、すっかり土砂降りになっていた
アブちゃんの店で受け取った夕食は少しぬるくなっていたが、まだ全然出来たての風情だ
屋根の隙間から鉄階段に雨が吹き付けている
片手にケーキ、片手に夕食を抱えて玄関にたどり着くと、戸の隙間に挟まっている封筒に目が行った
「手紙…?」
ルネが封筒を見回して差出人を確かめる
が
「つむじにだって」
「誰から?」
私は両手が塞がっていて見れない
「書いてない」
封筒は紫色の蝋で封緘してあって、蝶の模様のシーリングスタンプが押してある
「蝶はカルマのトーテムです。女王の象徴を部下が使うことは許されませんから、本人からのもので間違いないですよ」
やっぱりさっきハルが現れたのは偶然ではないのか
それとも私達が家に籠もっていたら、翌朝見つかるはずのものだったのか
足の踏み場どころか物の置き場も満足でなくなった台所で、果物ナイフを使って封を切る
中身は白い厚手の二つ折りの和紙
手で漉いたように縁が毛羽立っている
和紙を開くと押し花が挟まっていた
両手を合わせて広げたような形の、小さくて白い花
茎や葉っぱはクレソンに似ていて、花よりずっと大きい
ルネは押し花を一瞥して言った
「ハコベだよ。春の七草」
なるほど、普段食べる部分しか見ないが、こんな花が咲くのか
でもカルマ様はなんでこんなものを?
よく出来たから送ってみた、的なやつだろうか
そんな手紙を送り合うほど親しい仲ではないはずだが
押し花をまじまじと観察していると、ルネは呆れたようにため息をついた
「何?」
「そんな不思議そうに眺め回して…わかんない?」
もう一度押し花を見る
「わかんない」
皆目見当もつかない
「ハコベの花言葉は『ランデブー』。会いに来てってことでしょ」
「そんなのわかるわけないじゃん!」
私にはわかりっこない
でもこの家にはわかりそうな人物がいる
普段あれだけ鉢を並べているのだ、そう看板を出しているに等しい
もっとも、ヴェルを張り付かせていれば知れる話だろう
…いいや、そういう問題ではない
一言会いに来てって書けばいいのに!
「こういうのも信書と言うんですかね」
「ルネがいなかったら私にはただの押し花にしか見えないよ」
私は花言葉に詳しいなんて喧伝した覚えはない
そこへわざわざこんな符丁めいた手段で意図を伝えるのだから、私が他人の知恵を借りる可能性を見込んでいてもらわなければ困る
常識的に考える人なら、私以外の誰かが手紙の意図を知ることは想定しているはずだ
少なくとも、ルネに知られたくないなら押し花にメッセージを込めたりはしないだろう
信書と見なせるかは微妙なところだが、私宛の手紙なら官邸に置いておいた方が簡単で確実だ
「総長や嵐様に気取られたくない、というのはもちろんあるでしょうな」
ルネは改めて押し花を眺めながら言った
「こういう人を値踏みするようなメッセージは、相手を理解してないってことだよ」
「いや…ルネがいればこの意図が読み取れるってわかってるんだよ」
「となると当然、他の女王には秘密で、ってニュアンスを含むでしょうな」
そうだ
私からルネを取り上げようとはしていない
さっきハルが現れたのは本当に偶然なのか、それともカルマ様の命によるものなのか、ちゃんと確かめておく必要がある
友達になりたいと甘言を弄しながら、その実私の能力を欲しがっていたとしても、カルマ様が得られるものは何もない
しかし私とカルマ様の接近は、嵐やゾンダ様には脅威と映るかもしれない
二人との間に不用意な緊張を持ち込むだけだ
会うなら細心の注意を払う必要がある
「…本当に嵐もゾンダ様も、もう私を追跡してないんだろうか」
「折に触れて様子を窺ってはいるでしょうが、尾行のような形で直接足取りを追っている形跡はありませんよ」
「冒険してみるか…」
「カルマと接触するおつもりで?波風が立ちますぜ」
「もちろんバレないようにやる。…どうしたらいいと思う?」
鉢植えに占領されてリアクションを取る余地もない床で、ルネは器用にずっこけた
「ちょっとは考えてから言ってよ!」
「でも居場所も何もわからないしなぁ…」
「この間の山荘はどうでしょうね。細胞の一部に接触できれば、上に情報が伝わるとは思いますが」
「そうすると、戸を叩いてすぐお出ましってわけにはいかないだろうね」
外はいよいよ本番という風が吹き荒れて、時折雨戸を叩く雨粒の音が聞こえる
「…まずは腹ごしらえしよう」
「まさか今夜行くつもり?」
「うーん…やっぱいい女はちょっと人を待たせないとダメだと思わない?」
「おーおー、悪い女だ」
「つむじサン、いつか刺されますぜ」
「そこはブランが守ってよ」
「悪い女ですな」
各々狭いスペースで夕食を摂り、ケーキと紅茶で談笑しながら台風の夜は更けた
私はどうしてカルマ様に近づこうとしているのか
誰も知らない素顔を私だけ知っていたい?
違う
友達になりたいが姿は現わせない、ということは、カルマ様は私に何か秘密を共有させようとしているのだ
それを強制するような人間は嫌いだが、私に”女王を殺す力”があるのを知ってなお、私に選択の余地を与えたのは何故か、会って確かめたい
こうしてまんまと策にはまる私を見たかったのか、それとも