第56話①
鈍色の空が手が届きそうなほど低く下がってきて、気圧の変化でそわそわする
「早く帰りたいって言うから何かと思えば」
家に帰り着くなり、ルネは屋外に並べていた鉢植えをせっせと部屋の中に移し替えている
「だって台風が来るんだよ」
天気予報で台風が来ると言うたび、やれ瓦が飛ぶだのやれ大水が出るだのと大騒ぎする年寄りみたいだ
「こんな高緯度に来る台風なんて、もう残りカスみたいなもんでしょ」
「高緯度?そんなの関係ないよ、つむじ台風見たことないの?」
「そりゃあるけど…」
正直この街が災害に強いとは思えない
まあ多分そういった艱難辛苦が襲ってくることはないのだろうが、雨漏りして惨めな思いをするぐらいのことは、街のあちこちで起きそうな雰囲気はある
「つむじサン、今日ばかりはオレもこちらに避難させてもらいますぜ」
「おーおー、こりゃあ槍が降るわけだ」
雨風を凌げる寝床が出来たのに、それでもブランが警戒するほどとは
ここの台風はよっぽどなのか
「槍なんか降らないよ。鉢がひっくり返ったら後が大変でしょ」
まあ、ごもっとも
そういえば大風が吹いたことはまだなかったな
面倒はない方がいい
ルネを手伝って夥しい数の鉢植えを部屋の中に移動させる
文字通り足の踏み場もない様相だ
「ああ、ちょっと。寝床にまで並べるの?」
「他に置くとこないでしょ」
寝床とはまあ、寝る床のことだ
私達はまだ部屋の隅っこの床に潜むように寝ている
ベッドの上に鉢植えを並べるわけにもいかないし、仕方ないか
「ブランはどこに寝るの?」
「テーブルの上でも椅子の上でも構いませんがね」
「とんでもない!テーブルなら上にも下にも鉢が置ける。ブランはハンモックで寝てよ」
「結構な寝床で助かりますな」
「私達は?」
「ベッドとソファで」
家主がそこで寝ろというのだから従うしかないが、部屋の中の平らな部分は最早全部埋め尽くされ、それでもまだ避難し切れていない鉢が戸外に並んでいる
「………」
ルネは眉根にしわを寄せて、抱えた鉢とソファを見比べている
「雑誌か何か敷けば平らになる」
「ちょっとちょっと!ソファの上も!?」
「他にどうしろって言うの」
鉢をぶら下げる籠とか、プランターを重ねて置けるラックかなんか買っておくべきだった
みるみるソファの上も埋まっていく
「同じ高さの鉢を一カ所に集めて、縁の部分に重ねて置けば2段に出来るでしょ。こうやって
○○
○○
この真ん中に」
「…おお。つむじ頭いいね」
しかしそれもそうは続かない
ルネの鉢植えは大きさもまちまちだ
全部同じ寸法なら、シャンパンタワーみたいに積み上げられたかもしれないが
「背の高い奴はオレの寝床に避難させた方がいいんじゃないですかね」
「そうか、その手があった」
ブランの寝床は思いのほか立派なものになった
屋根も壁も床も断熱材を入れ、閉め切りたくないというブランを尊重しつつ、こんなときのために閉じられるよう戸もつけたのだ
とはいえ人一人寝るのがやっとの小屋だ
背の高い大きな鉢を移すと、すぐにいっぱいになってしまった
「これだけ頑丈そうに作ったのに、まだ不安になるぐらいの風が吹くの?」
「オレは大丈夫ですよ。でも部屋の中で何かあったら、駆けつけるのが遅れますからね」
なるほどご立派
よく出来た部下だ
そうこうしていると、風が窓を叩き始めた
「雨戸閉めるよ」
ルネは閂を持って外に出てきた
雨戸と言ってもルーバー状になっている作り付けの鎧戸で、外から閂をかけられるように金具が付けてあるだけだ
こんなのがすぐ出てくるってことは、この時期は毎度のことなのだろう
ガタガタと風が雨戸を揺らす中、まだ午後2時だというのに灯りを付けても薄暗い部屋に3人で籠もっている
居場所はベッドとハンモックの上しかない
床一面鉢植えで、森の穴蔵にでも潜り込んだかのようだ
本を読むには少々暗い
なんにもできない
することがない
することがないと余計なことを色々考えてしまうが、まとまることはない
「あっ、晩ご飯どうしよう」
何も買い出しをしていない
「冷蔵庫にあるものとか、缶詰でいいでしょ」
「急にそんな避難生活みたいにならなくてもさぁ…」
「大体こんな日に開いてるお店ないって」
「そんなことないと思うよ」
台風だからって万全の体制で家にいられる人間ばかりではない
仕事の都合で帰れない、帰る途中だけど峠を越すまで凌ぎたい
そんな人間であふれかえるファミレスやファストフードはざらにある
まずは手近な階下のアブちゃんの店を訪ねてみる
ここまでは屋根下から出ずに行ける
銘酒屋が近いこともあって、いつもは午前様向けのモーニングで食っている店だが、やっぱり今日は店を開けていた
「やってるー?」
と戸を開けたが、聞くまでもなかった
こんな時間に満席だ
「ほらね」
普段こういう店に来ないルネは納得がいってない様子だ
「いらっしゃい。ちょっと待ってもらうんだけど、いい?」
「ああ、テイクアウトで何かもらおうと思って」
「パンはないんだけど、パスタとご飯ものは出来るよ」
とアブちゃんはメニューを開いて寄越した
モーニングの店だからトーストやサンドイッチみたいな軽食がメインだが、ハヤシライスやグラタンもある
あともちろんリリカポリタンも
だが何故か席のみんなはメニューにないものを食べている
「洋食プレートの材料がなくってさ。揚げ物はコロッケになっちゃうんだけど」
台風にコロッケを食べる風習が、こんな地獄の果てにも伝わっているのか
しかしコロッケには苦い思い出がある
「私はミートソースドリアにする」
「あたしも同じの」
「オレは小倉ホイップパンケーキ、あんこマシマシで」
「夕飯にパンケーキ!?しかも小倉!?」
「甘いものはいつ食べてもいいんですよ」
「えーと…ミートソースドリア2つに小倉ホイップあんこ増し増しね。どうする?出来たら上に持ってこうか?」
「他に買い物あるから、あとで取りに寄るよ」
「ええっ!?」
「オッケー。15分ぐらいかかるけど大丈夫?」
「うん、大丈夫。じゃよろしくー」
会計を済ませて店を出る
こういうときアーケードの下は助かる
商店街の外の街路樹はかなり盛り上がっている
「ちょっと、つむじ!まだ何か買い物する気なの!?」
「おやつと飲み物と…あ、トランプでも買ってくる?」
「そんなふらふらしてないでさっさと帰ろうよ…」
「こういう日は案外繁盛してる店も多いみたいですぜ。銘酒屋もいつも混み合いますよ」
台風の日は人肌が恋しいか
ザナドゥなんかも楽しくやっていそうだ
「うちはケーキでも買って、ささやかにパーティーしますかね」
「電車乗ってくの!?」
ここでケーキ屋というと、大体は華々しい一服寺にある店を指す
「近所にあるならそこでいいけど」
「…ないけど」
ここは相変わらず住民の暗黙の要求には応えてくれる都合のいい街だ
運休することもなく、電車はちゃんと動いていた
それはそうだ
こんな日にバイクや徒歩で街の間を行き来したい人間はいない
そしてそれを裏付けるように、滑り込んできた電車にはまあまあの客が乗り込んだ
「おっ、つむじ様。こんな日も仕事?」
「住民の安全を守るために夜通し議論するよ」
「まーた台風ぐらいで舞い上がっちゃって」
「ちゃんと議論するよ!あそこの側溝水あふれそうだねーとか」
「それだったら、駅のデッキに出てる椅子とテーブル引っ込めるように言ってよ。なんにもしてないから飛んじゃうよあれ」
「一服寺のことなら嵐に言ってよ。大体どこが置いてるのあのテーブル」
「商店会だって聞いたよ」
行政というのは具体的な指示をされないと動かない
お役所に文句言う人の多くは、問題意識を共有できない類いの人種だ
感情論でものを言い、窓口をたらい回しにされ、解決の糸口すら掴めずつばを吐きながら役所を後にする
役人が働きたくないからたらい回しにされるのではない
役所には感情課なんてものがないからだ
お役所の攻略法は小学校で教えるべきだと思う
一方で、具体的に言われたからには何か対応しなければならないのが役人だ
隣の駅のテーブルなんて些末なことではあるかもしれないが、こう面と向かって言われては立場上無視できない
「だからさっさと帰ろうって言ったのに」
「民草のために働けることを感謝しなさい」
もっともこんな日に商店会が事務所を開けてるとは思えないが
電車を下りると雨が吹き付けてきた
一服寺地方・雨
ほんのちょっとしか離れていない場所で天気が違うことはままある
まあ今日の場合は単に時間の問題だ
今頃家の方も降り始めているだろう
風もかなり強まってきている
電車を降りた客達は、襟を立てて足早に去って行った
「みんなどこに行くんだろう」
「家でしょ」
みんなが家路を急ぐときにケーキ買いにわざわざ隣町まで来るなんて、本当に私が舞い上がってるみたいじゃないか
だからと言ってここまで来て手ぶらで帰れるか?
ノーだ
「私達も家に帰る途中だ。家に帰る途中に、ケーキ屋に寄るだけだ」
「こんな回り道で家に帰ったことないわ」
わざわざ学校から遠く離れたところに居を構えてる人の言うことか
大体学校帰りにチーズケーキをホールで買って、一人で食べてたことがあるじゃないか
駅舎の外はびしゃびしゃの土砂降りというほどではないが、台風の前触れといった感じの大粒の雨が断続的にばらばらと落ちてきている
傘を広げたら早速持って行かれそうになる
「かっぱ着てくればよかったな」
「持ってないよ」
「このぐらいならまだ傘差さなくてもいけますよ。早めに用事を済まして帰りましょう」
そういうブランの外套も盛大に風に煽られている
「私はチーズケーキだと思うんだよ」
「何の話?」
「こういう天気の時に食べるケーキ」
「オレはオペラだと思いますね」
「何なんだよもう…」
「ルネは何にする?」
まあ見当はついてるが
「「ショートケーキ」」
ルネはなんで?みたいな顔をしている
「そのぐらいわかるよ」
ルネは別に普段いちごを好んで食べているわけではない
でも飴ならいちごみるく、ジャムもいちごジャム、水着はアポロチョコ色だ
そしていつもいちごの香りを発散させているいちご星人だ
いちごの乗っていないケーキを選ぶはずがなかった
…あのときは何でチーズケーキを食べていたんだろうな
ペデストリアンデッキの上にあるケーキ屋も、まあまあ繁盛している様子だった
少なくとも店内の席は埋まっている
「おっかしいよ、こんな天気の日に」
ルネはまだ納得していないようだが、全員が共有可能なイベントというのは、なんであれ人の神経を昂ぶらせる
私だってこんな名前を付けられたのだ
台風が来てちょっとくらい舞い上がってみてもバチは当たるまい
ショーケースの前にはテイクアウトを注文する客が一人待っている
彼女は何かのパイをホールで頼んで、箱で持って帰った
「おっ、オペラ最後の一個だってよ。よかったね」
「残り物には福ですな」
「つむじは?一個でいいの?」
「2つも食べられないよ」
もちろんそんなことはない
女子にはケーキ袋という内臓があるのだ
ケーキはいくらでも入る
だが最近、私の中にある懸念が渦巻いている
この世界では何をいくら食べても太らない
…と思っていた
いや、今でも思っているが
もしかしたら、万が一、天文学的に低い確率でだが、下着がきつくなっているのではないか?と感じることが極めて希にある
衣類が汚れたり傷んだりしないのだから、下着の方は伸びも縮みもしないはずだ
いや、そうでもないのかな?
とブランのぼろを見て納得する
うん、そうだ
極めてゆっくりとだが、傷んだりするのかもしれない
ということはつまり体の方も…
いやいや
まあ、これについてはあとで話そう
そんな私の不安はお構いなしで、ルネはショートケーキを2個頼んだ
この世界にもカロリーとかそういう概念が働いてるんだろうか
店員はオーダー表とショーケースの中を交互に見て手を止めた
「すみません、チーズケーキ少々お時間頂いてもよろしいでしょうか」
「えっ、これは?」
ショーケースの中にはまだ3切れ残っている
「すみません、先にご注文のお客様がいらっしゃいまして…」
店内で注文した客の分か
「どのくらいかかる?」
「10分ほどでご用意できます」
また微妙な時間だ
空模様を窺うと、もう耐えられない、といった雰囲気が漂っている
店内には私達の後からも次々と客が入ってきて、列をなし始めた
これは役人の職責を果たせという天啓か
気は進まないが仕方ない
「じゃあその間に私は商店会にテーブルの話を…」
「あっ、ルネさん」
この鈴を転がしたような声は
「ヴェル!ヴェルまでケーキ買いに来たの?」
そう言うルネではあったが、一瞬表情が明るくなったのを見逃さなかった
「つむじ様、用心棒の方も。ごきげんよう」
「ごきげんよう。やっぱりこういうときは家に籠もってケーキ食べるよね」
「いえ…ウニヴェルシタスの方で、おもてなしにお出しするお茶請けがなかったもので…。手近なこちらに寄らせていただきました」
「こんな日でも来客があるの?」
「先方のご都合が合いませんで…こちらとしても、こんな日にお呼び立てするのは心苦しいですけれど」
息のあるうちは、昼でも夜でも嵐でも仕事をさせられるのが役人だ
公僕に休日などない
校友会といえどそれは変わらないということか
ヴェルの言葉を信じるなら、だが