第50話②
玄関は私からすると特徴のないものだが、ここにも一線を画するあるものが備わっている
インターホンだ
こういう電子的なもの存在したんだっていうくらい他ではお目にかからない
まあラジオがあるんだからそこまでおかしくはないんだろうけど
部屋は間違えていない
3度深呼吸をして、落ち着いてから呼び鈴を押す
『はいはぁい、待ってー。今開けるー』
ヴェーダ様って家ではこんな可愛い感じなのか?
まさか私のせいでこんなんになってしまったのだろうか
というか声も全然違うような
あっ、ていうかごめんくださいぐらい言わないといけなかった
そう思ってる間にドアが開いた
「おかえりー。お風呂先に浴びちゃっ」
「急に押しかけてすみません!どうしても」
バスタオル一丁のフラウタ様と目が合った
「きゃああああああああ!!!」
「えええええええええっ!?」
フラウタ様は速攻でドアを閉じた
「はぁっ、は…ん…つむじさん!?どうしてつむじさんがここに!?」
「あっ…あの、えっと…ヴェーダ様にお話がありまして…いきなり伺ってすみません…」
「ヴェーダに…?そっか、ごっ、ごめんね、ちょっと待ってて!」
あーびっくりした
なんでフラウタ様がここにいるんだ?
それもあんな格好で
どたどたとフラウタ様が走る音が聞こえて、1分ほどして再び玄関が開いた
「ご…ごめんなさい、びっくりしちゃって…上がって」
フラウタ様はジェラピケみたいな部屋着に着替えていた
みたいなというか、このふわもこ素材に幅広のボーダーは紛れもなくジェラピケだ
タグが見てみたい
「おじゃまします…」
玄関が広い
ここで寝れるぐらい広い
高天原の厚底ローファーと、郁金香の黒いヒール、あとはサンダルが一足
壁一面が上から下まで開く収納になっているようで、他の靴は全部この中だろう
やはりこういう部分もこの世界の一般的な調度品の造作と違って、余計な加飾がない素材を活かしたシンプルなものになっている
でも色味が新しくないというか、最近だったらもっと無機質な黒い木目だと思うが、温かみのある赤茶色だ
フローリングの一枚一枚がでかい
小さい木のタイルを敷き詰めたのではなく、長い木の板を並べた感じ
そして私が通されたLDKは目を疑うような広さだ
キャッチボールが出来るくらいのスペースがある
外から見た棟の幅いっぱいの部屋
天井の中央には慎ましいサーキュレーターがついている
壁際に家具がまばらにあり、立派なスピーカーが床置きされている
これはステレオだ
一般の住宅に複数個のスピーカーが置いてあるところはまだ見たことがなかった
その他ちょっとしたキャビネットや観葉植物が並んでいる
床には大きなラグが敷いてあり、その上に革張りのパーソナルチェアが2脚、同じスタイルの3人がけソファ、ガラステーブル
温かいオレンジ色の照明が何個か灯っており、部屋全体を照らしている
一応居室のように見えるが、これはラウンジだ
昔のドラマに出てくるようなお金持ちの家だ
「つむじさん、ここ」
とフラウタ様がほっぺたを指さした
覗き込んでみても何もない
「違うよ、つむじさんの」
と今度は私のほっぺたを突いた
…あっ
あわてて袖で頬をごしごし擦った
落ちてるかどうかわからないが
「モテモテだねぇ」
とちょっと嫌味げな目を向けられた
キャッツ・ポウめ
もっと移らないリップにしろ
「ヴェーダ今買い物に行ってるの。かけて待ってて」
とソファを促し、湯気の立つカップを出してくれた
さっきの今で湯が沸くとも思えないし、紅茶が入るほどの保温性を持った魔法瓶が存在するか、あるいは電気ポットがあるのだ
生活の質が全く違う
いや、時代が違う
この建物の中はコインランドリーと同じ、この世界に滲み出している未来なんだ
「あ、ありがとうございます…」
私は呆気にとられて、何をしに来たのかすっかり忘れてしまっていた
「でも、ヴェーダに用事なんて珍しいね。それもこんな時間に」
「えっ…ああ、そうでした。これ私が作ったんですけど、お裾分けに」
こんな家を見せられてしまって私の肉じゃがを出すのも恥ずかしいが、それこそ手ぶらで訪ねるような場所ではなかった
「まあ!つむじさんが作ったの!?嬉しい…」
フラウタ様はクリスマスプレゼントをもらった子供みたいに喜んでくれた
ちょっとオーバーだと思うけど、気休めにはなった
私がソファに座ると、フラウタ様は向かいの床に座った
「…本当は競馬場の件で、もう一度ちゃんと謝っておこうと思いまして…」
「ああ…過ぎたことよ。わたしはそんなに目くじら立てるようなことでもない、って言ったんだけど、ヴェーダはカタいから」
そう言ってフラウタ様は自分のカップを一口すすった
カップを上げた皿の中央には、藍色で交差した剣のマークがあった
柄は違うが、ルネの持ってるティーセットと同じマークだ
もしかしてこれも実在するものだったのか
私も一口いただいてみる
間違いなく黄色い箱のティーバッグの紅茶
お茶請けにと出してくれた菓子鉢に盛られているのも、どう見てもアルフォートだ
この家は驚異的だが、それでいてあらゆるものが馴染み深い
「本当にただの賭博場だったらわたしもちょっとどうかなって思ったけど、お馬さんのためだものね」
本当にただの賭博場でした
申し訳ございません
「その辺はヴェーダもちゃんとわかってるから。街の予算から馬場の整備費出すことにしたの、ヴェーダなんだよ」
「ヴェーダ様が!?」
「そういうとこあるんだよ、ヴェーダは。ただの怖い人じゃないよ」
「それならお礼を言わないと」
「顔には出ないけど、喜ぶと思うよ」
私に対してそれはあり得なかった
でもこの様子だとヴェーダ様はフラウタ様には記憶が戻ったことを明かしていないようだ
なんだっけ
なんか忘れてないか?
ああ、そうだ
「あの…どうしてフラウタ様がヴェーダ様のお宅に…?」
「うーん…わたしは、ヴェーダの持ち物なの」
「えっ」
「わたし住むところがなくて。それでヴェーダに拾われて、ヴェーダのお店でお客取ってたの。その時の契約がまだ生きてるわけ」
想像以上に文字通りの”持ち物”だ
キャッツ・ポウは一応自宅があるが、袋風荘を飛び出したアイちゃんは住むところがない
やはりヴェーダ様が引き取ったのだろう
「だからわたしとすると、ヴェーダにお金払わなくちゃいけないんだ」
なんなんだよ今日は
どうしてこんな風俗嬢巡りみたいなことになってるんだ
「でもヴェーダ留守だし…ないしょでいいこと、する?」
ああもう!
フラウタ様まで!
私から何か出てるのか!?
「だだだだだめですよ!そんな!」
「もう。そんなに動揺しなくたっていいでしょう?それともヴェーダが怖い?」
「そりゃ…」
どっちも怖いわこんなの
大体今日のフラウタ様はなんでこんなにグイグイ来るんだ
その時インターホンのチャイムが鳴った
「残念、怖い人が帰ってきちゃった」
と私めがけてウィンクを飛ばし、玄関に行ってしまった
はあ、心臓に悪い
玄関の方から声がする
「お帰りー。お客様来てるよ」
私は即座にソファを立ち、なるべく縮こまってヴェーダ様を迎えた
「お…お邪魔しています…」
ヴェーダ様はいつも通り冷静にしているように見えた
でも一瞬、目元がわずかに絞られたのを見逃さなかった
だめだ、言うこと言わないと追い返される
「あのっ、馬達のこと、ありがとうございました!」
「…それだけ?」
「ええと…」
フラウタ様がいるところであの話はできない
「なら帰って」
「ああっ、いえあの、競馬のこともちゃんと謝っておきたくて…」
「いいから!帰って!」
「ちょっとヴェーダ!せっかくおかずのお裾分けまでもらったのに!」
引き留めるフラウタ様を無視して、玄関の外まで私をグイグイ押し出してしまう
フラウタ様を振り払って私と一緒に玄関の外まで出ると、ピシャリと戸を閉めた
諦めたフラウタ様の気配が部屋に戻っていく
「…何故わざわざここに来たの!?」
「あの…その後お変わりないか、心配で…」
「お変わりないか!?お変わりないかですって!?」
「いえ!すみません!色々変わってしまっただろうことは承知してます!ただほんとに、心配で…」
「…何が起きるかわかっていてあんなことをしたの」
「…はい」
「私にキスしたらフレオのように従順になるとでも思ったの?」
「違います!ただ…その…」
どういう処分を下されるかわからなくて、一か八かでやった…というのは、理由ではあるが動機ではない
正直に言おう
「…ヴェーダ様は私のことがお嫌いだと感じてました。だから少なくとも、より悪いことにはならないんじゃないかと、思い…まして」
「残念ね。おかげであなたのことが好きになれない理由がはっきりわかったわ」
「あのっ、もしかして私のこと昔から知ってらっしゃったりしませんよね!?」
「…知らないわ」
「でも宮比さんのことご存じってことは、私の周りにいた誰か…」
「知らないと言ってるでしょう!」
知ってそうな雰囲気はあるが、私もここまで私のことを嫌ってる人は覚えがない
「…すみませんでした」
「とにかく、この話はしないで。特にフラウタ様の前では」
「わかってます、言いません」
「…フレオは昔のことを全部思い出したの?」
「はい…おそらくは」
「気丈ね。流石だわ」
「アイちゃんは、過去に押しつぶされそうでした…助けてくれて本当にありがとうございます」
今までそのお礼はしていなかった
深々と頭を下げる
「アイゼにもあなたからキスをしたの?」
「…いいえ」
「そう」
「アイちゃんは、好きだった人を死なせてしまったと言ってました。でもその人は、ここには来ていないそうです」
「…そう」
ヴェーダ様は一瞬安堵したように見えた
…この際だ、あれも言っておこう
「それと…ヴェーダ様の唇、最高でした」
「…何を言っているの」
「私は別に女の子が好きなわけじゃないけど、ヴェーダ様とのキス、気持ちよかったです」
おお、見るからに不快そうな顔をしてる
「何が言いたいの」
「思ったことを。普段は内緒にしなくちゃいけないことが多いので」
ヴェーダ様は改めて私に向き直り、人差し指を私の胸に突き立てた
「勘違いしないで!確かに私は忘れていた過去を思い出した!でも胸襟を開いて打ち解ける間柄になったつもりはないわ!」
と言ってから、何かに気づいたようだ
「…まさか相手の記憶まで読めるの?」
「そんな器用なことできませんよ!思い出したことは私には何もわかりませんから!」
そういえば相手に影響はあるが、私にはこの力そのものによるメリットが何もない
なんでこんな力を与えられてしまったんだ
ヴェーダ様も一応納得したようで引き下がった
「あの…時々でいいから、アイちゃんの話聞いてあげてください。ヴェーダ様の変化には、気付いてるみたいですから」
ヴェーダ様はフン、と鼻息を吐いて、私に食ってかかるような姿勢を正した
「それじゃ失礼します。夜分急に押しかけてすみませんでした」
自分勝手な話だが、私の気は済んだ
怒っているなら怒っているで、ちゃんと小言を言われたかっただけなのだ
登るときは荘厳だった階段も、下るときはもう感動はなかった
自分の中で気持ちが消化された気がする
階段を下りきると、街灯の光の中に人影が見えて身構えた
だが
「ブラン…」
迎えに来た…のではないだろう
きっとずっとついてきていたのだ
「夜道の一人歩きはよくありませんぜ」
「人の後を尾けるのもね」
ブランを伴って帰路につく
いつもの足音がしないと思ったら、今日はビーサンを履いている
もうブランが黙ってついてくるのが普通になっていたが、今日のブランは何か思うところがあるようだった
「ヴェーダ様はオレを拾って養ってくれた恩人なんですよ」
「へーえ」
流石にブランが銘酒屋で働いているのは想像できないので、本当にただ養っていただけだろう
それにしてもヴェーダ様はいろんなものを拾って手を差し伸べている
記憶が戻っても相変わらずというか、むしろ余計頑なになった気はするが、以前とは違う側面が色々垣間見えた
仲良くなったとは言えないが、多少身近に感じられるようにはなった
…そういえば、フラウタ様とはお付き合いしてるんだろうか
フラウタ様自ら所有物と言っているし、いつも一緒にいる
アネモイの中でもトップ2が婚姻みたいな状態というのはどうなんだろう
この街の権力構造の向こう脛にならなければいいけど
その後もブランの昔話を聞きながら家に帰ったが、驚いたことにブランは郁金香の生徒だった
あの制服絶対似合わねえ