第50話①
宮比さん
どんな人だったっけ
美人で利口で気立ても良くて、男遊びが過ぎる女の子
小学校からずっと同じ学校で、昔は時々一緒に遊んだこともある
だがどうしても顔が思い出せない
私の名前のように、記憶にもやがかかっている
とびきり美人だったのは覚えている
だから類型的な美人の顔を思い出してみるが、どれもこれではない、というのだけはわかる
もうそんな戻れない昔のことを思い出したってしょうがないが、ヴェーダ様が突然宮比さんの名前を出したのには驚いた
宮比さんを知っているということは、ヴェーダ様も私と同じ年代を生きた人ということだ
生活圏も近いはず
もしかしたら私のことも知っているのかも知れない
あれからお見かけしていないが、ヴェルは何も言っていない様子だし、公務も欠かしていない
「つむじ、あれからずっと難しい顔してる」
「え…うん」
今日の夕食は私が肉じゃがを作った
豚肉を買ってきたら「牛じゃないの!?」とルネにひどくびっくりされて、盲目的に豚の肉じゃがを食べてきたことに気づかされた
西の方は豚が好まれなかったため牛を使うことが多いと聞いたことがあるが、そもそも近現代の日本の肉食の歴史の中では、豚というのは比較的新しい文化だ
ルネが関西人とは思えないし、ここの時代性的に牛がポピュラーなんだろう
「どっちでもいいじゃあないですか。こいつぁうまいですよ」
とブランは肉なら何でもいい派だ
油のこってり乗ったところをよそって持って行った
自分の小鉢の中のとろけた豚バラ肉を眺める
「…やっぱりヴェーダ様に会ってくる」
「やめときなよ…特に問題起きてなさそうなんだし、藪蛇かも知れないじゃない」
「そういうわけにいかないよ、私には責任がある」
ルネもフレオも、あの力を使ったことにいい顔はしなかった
結果的に街の予算が付いたので、あそこで完敗していても退役馬達の面倒は見てもらえただろう
かつてヴェーダ様は、目の前で誰かが倒れていたら躊躇わず手を差し伸べると言った
そして逃げ出したアイちゃんを拾って助けてくれた
そう考えると、あの場でヴェーダ様に力を使ったのは正しい選択ではなかったのかも知れない
でも同時に、記憶が戻っても全く意味をなさなかったらどうなっていたかと考えていた
ただヴェーダ様の場合は間違いなく私に何か因縁があるようだ
それを問い質しておきたいし、記憶が戻った人間としてパイプを持っておきたいという部分もある
「ちょっと行ってくるよ」
まだ宵の口だ
銘酒屋はこれからが本番だろう、色んな意味で
私はタッパーに肉じゃがを詰めてサンダルを突っかけた
「…!どこに行かれるんです!?」
「ヴェーダ様のとこ。すぐそこだから、ブランはいいよ」
ブランは茶碗を持ったまま立ち上がったが、ついては来なかった
最近は以前ほど厳重に立ち回らなくなった
それでもまだルネの家の玄関前で寝起きしているし、それで十分過ぎる
色街は相変わらずの人いきれだ
ピンク色の熱気というか
こんな場所が駅前の、それも普通に人が住んでるところのそばにあるなんて不思議な感覚だ
一番奥のあの店の戸を開けた
「…いらっしゃいませ」
バーテンは一瞬驚いたような間があったが、顔色ひとつ変えずに今日もグラスを磨いている
「ヴェーダ様いるかな」
「ヴェーダ様は店には出ないよ」
と階段の上から声がかかった
スケスケのネグリジェ姿のキャッツ・ポウだった
「珍しいじゃない、つむじが店に来るなんて。遊んでく?」
「何言ってんの…クラスメイトとそんなこと出来ないでしょ」
「そんなことないよ。クラスにお得意様何人もいるよ」
マジかよ
「学校で顔合わせたときどうしてんの」
「ちょっと目を合わせて、『昨夜は楽しかったね』ってテレパシー送っとくの。そうするとその日の夜も来てくれる。学校で特に何か話さなくても、店で一緒のベッドに居る時間の方が長いからさ」
「そんな秘密交際みたいなことしてんだ…」
「だってワクワクするでしょ。あの子今私のこと考えてるのかなぁって思いながら授業受けるの」
「楽しそうで何より」
「ね、いつかつむじとも遊びたいな。本気だよ」
「私に触れるとヤケドするぜ」
「いいよ、一緒に火遊びしよ」
と、しなを作って私にもたれかかってきた
吐息が耳にかかる
商売用の色気がヤバい
知らない間柄でもないし、いつか本当にそうなってしまっても…
いやいやダメダメ
私の唇は安売りしちゃいけない
何よりこのキャッツ・ポウでなくなってしまうのは嫌だ
「だめ、また今度」
「ちぇっ、残念」
と私のほっぺたにチュッとお見舞いされた
「やめてって!」
ほっぺたでも何か起きたら大変だ
私の方からしたら間違いなく何かあってしまう気がする
「ヴェーダ様は向こうの段々住宅にいるよ」
「あそこか…」
中古でも億は下らない、斜面に張り付いた階段状のマンションだ
流石上位のアネモイは違う
「ああ、それから…」
「?」
「アイ、今丁度休んでるよ」
アイちゃんか
今となってはお店にいるときに押しかけるのも悪い気がする
でもここまで来たのに顔も見せないのは他人行儀過ぎるか
それに今日はちょっと話を聞いておきたい気分だ
二階の端にある一番広い部屋に案内された
これは多分VIPルームだ
「アイちゃん出世したな…」
「一番人気だからね。悔しい」
キャッツ・ポウが軽く引き戸をノックして私が来たことを伝えた
「どうぞ」
キャッツ・ポウに促されて部屋に入ると、薄い長襦袢を羽織っただけのアイちゃんの肌は色っぽく上気して、おくれ毛が張り付いている
さっきまで誰としていたんだろう
「つむちゃん…」
「…久しぶり」
後ろ手に戸を閉めると、キャッツ・ポウの足音が遠のいていくのが聞こえた
「えと…」
死なない世界で元気?ってのもなんだし、それにこの世界に一人ぼっちのアイちゃんは元気ではない
言葉が見つからない
こういうところで二人共だんまりってどういうんだろう
「ちゅーしていい?」
「えっ」
「…もう一度したら、また忘れるかも」
「…ごめん、二度しても変わらない…」
「そっか」
でもアイちゃんは私に顔を近づけてきた
…この感触だ
はっきり起きているときに感じたことはなかった
アイちゃんの唇はちょっと厚ぼったくて、ゼラチンのような弾力
私とキスをしても何も起こらない人、という意味では安心できる
アイちゃんはクスクスと笑った
甘い鼻息がかかる
久しぶりにアイちゃんの笑顔を見た
あの頃の屈託のない微笑みではないが、でも嬉しそうな顔だ
「ねぇ、この唇で他の人にキスしたらどうなっちゃう?」
一瞬血の気が引いたが、よく考えるとビゼ様はなんともない
「喜ぶんじゃない?」
「だといいな」
アイちゃんはまた悲しそうな笑顔に戻ってしまった
そうだ、アイちゃんには話しておくべきだ
「あのさ…ヴェーダ様のことなんだけど…」
「キスしちゃったんでしょ」
「…知ってるの?」
「ちょっと様子がおかしかったから」
やっぱり何もないわけではなかった
ううむ、どうしたものか
顔を出すべきではないのか
「最近つむちゃん変わったね」
「…そうかな」
「女王様になったよ」
女王様だもの
でもいい意味でじゃなさそうだ
「私も変わったよ。私の恋は叶わなかったけど、私のことが一番好きっていう女の子が毎日来るの。ここで寝てるだけの私をだよ。だからいつも一つだけ嘘をつくの。私も大好きだよ、って」
「アイちゃん…」
「私嘘つきになっちゃった」
アイちゃんは悲しそうな顔で笑う
「つむちゃんはずっと正直でいて」
やっぱり会わない方がよかった
アイちゃんは私には救えない
いや、この世界の他の誰にも
私は誰も救えない
あゆ様もフレオも、私では救いにならない
そしてもちろんヴェーダ様も
会ったってしょうがない
でも確かめなくちゃいけない
ヴェーダ様がまだヴェーダ様でいられているのか
ヴェーダ様が違う人間になっていたとしても、もちろん私にはどうすることも出来ない
それでも、だ
紹介された住所は、線路の南側だがザナドゥに大分近い
カルマ様の地下壕の出口から、丘一つ越えたところといった感じだ
というかその丘の斜面に建っている
ブランにはすぐそこと言って出てきてしまったが、うちから学校ぐらいの距離がある
この世界でも全く変わらず壮観な階段マンション
よく作ったなといつも思うのだが、残念なのはせっかくのバルコニーが西寄りなことだ
地形に合わせて階数が異なる棟が並んでおり、棟と棟の間に階段がある
流石に敷地に入るのは初めてだ
すごい
別に新しいわけではない
なのにこの未来の住宅って雰囲気は何なのだろう
これは億ションなのも納得の異形だ
部屋が奥行きの半分ぐらいで積み重なっていて、下の階の屋上にあたる部分が上の階のバルコニーになっている
バルコニーというか庭だ
普通にでっかい木とか植わってる
ああー、いやいやいや…植栽のライトアップ!へぇー!
私の中の渡辺篤史がうずく
ヴェーダ様のお宅はこの最上階だそうだ