第47話
大姫祇園が無事幕を下ろすとともに夏の熱気が遠のき始め、すぐに夜風に涼しさを感じるようになった
お彼岸過ぎるとちゃんと秋が来るなんて、なんて行儀がいいんだ
花火の最中屋根の上でサボっていたことを嵐にグチグチ言われたが、私は私で愛想を振りまいていたのだと言って誤魔化した
ブランは酔いつぶれて護衛を果たせなかったことを自戒して自警団をやめると騒いだが、ゾンダ様に慰留させられていた
私はというと、あれから星のことを知ろうと時折図書館に出向いている
図書館には様々な年代の本がある
ここで本を読むときはまず、奥付の日付を確認する
初版が大正時代のものから新しくは令和のものまで、近現代に出版された本はほとんどどんな時代のものも取り揃えられている
しかしどの本を手に取っても、同じくたびれ具合なのだ
昭和45年の本も、平成30年の本も、同じように日に焼けて、角が折れている
そして図書カードには大体ルネの名前がある
全ての本を虱潰しなんて到底出来ないが、少なくとも文学の棚はほとんどルネに征服された後だ
いつからこの世界にいるのか未だにわからないが、言葉使いに時代がかったところがないのは、こういう場所で新しい語彙を摂取しているからなのだろう
ここでいろんな本を読んでいて初めて知ったが、ボルツマン脳、という考え方があるらしい
この宇宙に星ができて生命が誕生して本を書くような知性が生まれるよりも、今日に至るまでのあらゆる記憶を持った脳みそだけが組み上がる確率の方が高いというのだ
我々の文明はその脳が見ている夢だとでもいうのか
だが事実、本当なら経ているはずのあるべきプロセスがここにはない
卵が孵るところは誰も見たことがないのに鶏肉が売られている、といったようなものだ
ここにある本には書き手がいて、何を書架に並べるか学校が選定し、本屋に発注してはじめて所蔵されるべきだが、この世界にそれら全部が揃っているわけではない
だってはらぺこあおむしの絵本がある
流石にこの世界にエリック・カールはいまい
要するにここにある本は、執筆も流通も経ずにいきなりここに整列しているということだ
本だけではない
この世界のあらゆるものは、ある瞬間から突然存在し始める
もっともこの世界はそれよりずっと単純な理屈で出来ている気がするが
私は星座早見盤を借りてきて、それを片手に夜空を眺めてみた
確かに夏の星空に違いないのだが、どうもどの星も位置が低いように見える
開けたところから見ても、水平線付近にあるはずの星が見つけられない
星座盤には北緯35度付近用と書いてあるので、それより高緯度の星空を見ているようだ
実はずっと、太陽も高さが違うような気がしていた
学校の教育準備室からでっかい分度器を持ち出し、中心からおもりのついた糸を垂らして北極星の高さを測ってみると、42度だった
函館ぐらいの緯度だ
それなら確かに星が低く見えるだろう
ただなんで函館なのかは皆目見当がつかない
扇風機だけで夏を凌げているのも、あるいはこの街が北緯42度にあるからかも知れない
でも街の作りは明らかに私が住んでいた街だ
いずれにしても私の住んでいた部屋から見る夜空より、ずっとたくさん星が見える
水平線の下に隠れた7度分など物の数にならない
この街の緯度がわかったので、今度は惑星の位置から年代を割り出してみようと試みた
ただいつ見ても月が同じ欠け方をしている世界だ
ちゃんと惑星が回っているかどうか怪しいものだ
それに図書館で見つかったのは、1850年から1950年までの天体の位置が書かれた天文暦だけだった
本の中身は縦軸が日時、横軸に惑星の位置が何度何分でびっしり書いてある
ちんぷんかんぷんだ
そもそも年代がこの範囲に収まっていなければ意味がない
不毛なことか
「星占いでも始めようっていうんですかい」
私が夜な夜な外を出歩くので、ブランはその度に付き合わされる
責任を感じて意固地になってるので、いっそこうして連れ回されていた方が気も晴れるだろう
「占い信じるほど物わかりよくないから」
朝テレビで今日最高の運勢は双子座!と言われても、電車に乗る頃には忘れてしまう
この世界でも占いに一喜一憂している子達がいるのは知っているが、所詮はものの捉え方の一つに過ぎない
みんながみんな占いを真に受けたら世の中が整然と働くのではと思うこともあるが、そうなるとただの宗教だ
今日はこの街で一番見晴らしがいい時計台に昇ってみた
時計の針は12時を指したまま止まっている
時計台の中には時計を動作させる機構や、定時に鳴るはずだった鐘もちゃんとある
本当にただ止まっているだけだ
「なんで誰も直さないの」
この世界で壊れたものが壊れたままになっているとしたら、直すことが望まれていないからだ
「いちいち鐘が鳴るの恩着せがましいと思わない?」
とルネは言う
そのおせっかいが役に立つ人間の方が、この街では少数派だというわけだ
時計の6時のところに人の背丈の半分ぐらいの戸口があり、ここをくぐると文字盤の前に造り付けられたテラスに出る
テラスと言っても清掃用の通路みたいなものだ
街のどこからでもこの時計台が見える、ということはここから街のどこでも一望できるということだ
もっとも今は夕食も済んだ午後9時
街の灯りよりも星の方が眩しいくらいだ
「星を見るのに高いところ上る必要ある?」
「遮るものがない方がいいでしょ」
高緯度の空とわかると、以前は見えていた低い星が見えないのは結構フラストレーションが溜まる
遠くに見える虹色の霞は夜も変わらずそこにある
ただ昼間と違って、地面とはかなりはっきり区別できる
自ら光っているのか星明かりに照らされているのか、表面がぼうっと薄明るく、地球を外から見たときの薄い大気層のようだ
その向こうに水平線ギリギリの星が瞬いている
「…つむじ、口開きっぱなし」
「ああ、うん」
壁だの天井だのを見つめていると色々ものを考えてしまうが、星空は何も考えなくても見ていられる
いや、いられた
フラウタ様に連れ出されて見たあの星空
今も同じものを見ているはずなのに、焦点の合わない眼鏡みたいに、何故かおぼろげで遠くに見える
第一印象というのは強烈なものだ
あのとき見た星空を求めても、もうそこにはない
私がもっと子供だったら、手の届かない星空を追い求めて無駄に望遠鏡を買ったり街明かりのない場所を探したりしていたかも知れない
でももうわかっている
あの夜が特別だっただけなのだ
星空を見ることで満たされることはない
あの夜のフラウタ様は、締めの速射連発が終わっても満足そうに空を眺めていた
私はそんなフラウタ様の香りに包まれながら、その横顔を見つめていた
「また一緒に見ようね」
来年の花火のことだと思う
でももし星のことだったら、今度一緒に星空を眺めたとき、あの人が見ている星が何なのか知っていたい
アンタレスが沈む
オリオンを殺した毒蠍の心臓
薄いもやになった虹色の霧で赤い光が散乱してぼうっと輝く