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リリカポリス  作者: 玄鉄絢
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第44話

真夏に憂鬱な気分で目を覚ますのは大変具合が悪い

この世界では病気にならないが、だからと言っていつでも明朗快活なわけではないのだ

気が重い

プラッドやカーミラに悩まされたというのもあるが、花火のために生贄にされるというのもあまり穏やかではない

今日は陽が落ちるまでは特に用事はない

まあちょっと早めに支度をして家を出なければならないが、大体半日は暇だ


まだ朝の7時前だというのに、昨日の日中より人が出ている

大気中の酸素よりソースの方が濃いんじゃないかと思うくらいソースの匂いが漂っている

この世界は服は汚れないのに匂いは結構残るのが考えものだ

匂いというのは何かとデリカシーを要するものだから、人のせいに出来るように他の匂いが一定程度残るのを許容されているのかもしれない

ルネからも熱したザラメの匂いが香ってくる

昨日は盆踊りのあとヴェルと長々語らっていたらしいが、座ってたベンチの隣がわたあめの屋台だったらしい

「今朝はご飯がいいな」

「そうね」

昨日一昨日と貰い物のお好み焼きや焼きそばで腹を満たしてきて、プレーンな白米が恋しくなってきた

「時間あるし炊くか」

この世界に来て最も役に立った技能、それは鍋でご飯を炊くことだ

私のいた会社は、主に保存食や災害備蓄用の食品卸会社だった

なので備蓄米の営業では、電気がなくても炊けるというのをやって見せる必要があった

普通はごはんの備蓄と言ったらお湯で戻すだけのアルファ化米がせいぜいなのだが、日持ちやコスパを気にしてただの米がいいという客先も少なくなかった

特に都市ガスの普及率が低い地域では、災害時でもガスで湯を沸かすことのハードルが低い

なのでカセットコンロと鍋を持っていって、備蓄米を炊いて見せる

備蓄米と言っても納入するのは新米だ

しかも炊きたてを試食させるのだから、まずいはずがない

でも実際眼の前でやって見せて、それを食べて普通に美味しかったら納得してしまうものだ

まあ時々念入りな人が古くなったのを炊いてみせろと言う事もあるので、期限が近い商品も持っていっている

確かにちょっと味は落ちるかもしれないが、美味しくするのは簡単だ

美味しく炊けばいいだけだ

それが出来れば苦労はしない、と思うかもしれない

だが先人が苦労してくれているから今日の我々があるのだ

会社には、精米日からどのくらい時間を経過したかに合わせた最適な水分量や調理時間のデータベースが備わっていた

だが災害時に完璧な水加減で炊くのは難しい

量も一定ではないし、火も何がどれくらい使えるかわからない

でも営業の場ではそんなものお構いなしだ

「このときに少量のお酒やみりんなどを足していただくと、時間が経ったお米でも風味豊かにお召し上がりいただけます」などと言って災害時に調達できそうもないものでも容赦なく加える

美味しくなるのは事実だから問題ない

当然このときの水加減に計量カップは使えない

そんなものが災害時に都合よく出てくるとは限らない

でも何故か人は、ペットボトル何本で水を計ることに何の疑問も持たない

災害時に手に入るペットボトルの水が全部同じ容量というわけでもないのにだ

弊社で取り扱っている保存水は600ml、つまり3合の炊飯に最適だ

なので営業では必ず3合炊く

もちろん、弊社の保存水はペットボトル1本で3合にぴったりですと言って炊く

米の方は計量カップですりきり3合きっちり計るのだが、どういうわけかこれに文句を言う人はいなかった

古米の場合はこれにもう少し水を加えるが、ペットボトルに刻んである溝でおおよそわかるようにしてある

空になったボトルに少し注ぎ分けるわけだ

私はこの営業で失敗したことは一度もなかった

肝心なのは結構な調理時間をいかに潰させるかだ

最低でも30分は水に浸さないと美味しく炊けない

その間に、温めなくても食べられるレトルト食品や、お年寄りでも食べやすい高カロリーの保存食などをおすすめしておく

このときに鉄板な営業トークが私の曽祖父の被災体験だ

私の故郷根府川は、関東大震災で甚大な被害を受けた

その時、命からがら生き残った曽祖父が味噌に頼って生き延びたと言えば客はしょっぱいおかずを欲しがり、まだ青いみかんを絞って喉を潤したと言えばフルーツの缶詰を欲しがる

まあ実際にはそんな余裕のある状況ではなかったはずだが、当時まだ生まれていなかった祖母から聞かされた伝聞なので、真偽は確かめようがない


「ルネは自分でご飯炊いたことなかったの?」

「学食で食べれるし」

ルネはパン派というよりただのものぐさだ

この世界だと食べ物が劣化しないのはありがたいが、電子レンジがないのでたくさん炊いておいて温め直すというわけにいかない

それでもよく鍋を持っていたものだと感心している

缶詰を湯煎するのにしか使われていなかった鍋は、3合炊きには少し小さい

残してもしょうがないので、炊くのはいつも1合だけだ

でも今日は2合炊いておく

おかずはフランクフルトをトースターで温め直す

トントン、と玄関をノックする音

「うまそうな匂いがしますね」

もちろんブランが嗅ぎつけるであろうことはわかっていた

ちゃんと3人前用意してある

「もうじきご飯炊けるよ」

「そいつぁありがたいですな」

たまには中で一緒に食べればいいと思うのだが、ブランは頑なに玄関前で食事を摂る

納豆も3個1パックでちょうどいい

悪くならないのだからいくつ買い置きしてもいいのだが、冷蔵庫は無限ではない

常温でも腐らないのでは?と思うのだが、真夏にそれはやはりちょっと気になってしまう


いつも街が慌ただしい時間は私達も学校なり何なりで出かけているので、こうして街の音を聞きながら朝食を摂っていると学校をズル休みしてるような気分が味わえる

こういうときテレビでもあれば、普段見ない教育番組とか見たりするのに

「どっか行く?」

「えっ」

ルネは訝しい顔で私を見る

「いや、夕方までさ」

ルネは何か言おうとしたが言葉を飲み込んだ

「…大人しくしてようよ」

「…そっか」

私が無闇に動き回ると方々に迷惑がかかる

「じゃあ家でゴロゴロするか」

「だめ」

「ええ?」

出かけるのもだめ、ゴロゴロもだめ

何だっていうんだ

ルネはクローゼットの奥を引っ掻き回しはじめた

「…あった」

C式箱のように蓋ができる籐のバスケットが出てきた

なんだか随分年季が入って見える

バスケットを開けると、かせ巻の毛糸2つと編みかけらしい何かが入っている

「そんな趣味があったとは」

「毛糸玉作るから、手伝ってよ」

かせを解き、ぐるぐるの毛糸の輪っかを腕にかけてルネが巻き取るのにあわせて右から左から毛糸を送っていく

「何編んでんの」

「マフラー」

多分編み物の”あ”的なやつ

袖も襟もないし、同じ編み方を反復して体に叩き込むのに最適だ

私はやったことないけど

でもそれも30cmぐらいで諦めた形跡がある

誰の?と聞きたい気持ちを必死でこらえた

「いつから編んでるの」

これがギリギリ

「忘れた」

この世界でも忘れっぽい人は忘れっぽい

でも頭につっかえてるだけで、全然記憶にない、知らないというのとは明らかに違う

私の名前は思い出せないというより、知らないという感覚だ

故郷のことや昔のクラスメイトのことは思い出せるのに、名前はどこにも糸口がない

辞書の索引を見ても、何の行を探せばいいのかも思いつかない言葉を探している気分だ

自分の家を思い出しても表札がない

いつ編んでいたか忘れたというのに、ルネはすいすいと手際よく毛糸を巻き取って玉を大きくしてゆく

手慣れた感じだ

私もいつかこの世界で体験した出来事を忘れてしまうのだろうか

「それ字とか編み込めないの?」

バスケットの中のマフラーの幼生を見て言う

「出来るよ。大変だけど」

「私の名前入れて編んでよ」

「つむじの?」

「うん」

「自分の名前が入ったマフラー巻くの?」

私に編んでくれるつもりはあるようだ

「まあ…人のと間違えないし」

「ふぅん…」

その間も毛糸はみるみる玉になっていく

「やってみるよ」

「ありがとう」

他の誰かに贈るつもりで忘れてしまった腹巻きも、名前が入っていれば忘れはしないだろう

完成すればだが

玉が2本めのかせの半分に達した頃、またドアをノックする音が聞こえた

「随分ごゆっくりね。支度を始めるわよ」

尋ねてきたのはファンシャだった

今日もカジュアルなワンピースだ

「まだお昼前だよ?」

昼食を何にしようかと考えてすらいないのに

「髪のセット、ドレスの着付け。学芸会の仮装じゃないんだから、他にも準備は色々あるわよ」

晩餐会はこの日が落ちるまで続くというのに、今からうんざりする

「早めに様子見に来ておいてよかったわ。あなた達は手ぶらでいいから、早く行きましょ」

「やれやれ…覚悟を決めて行くか」

ルネは毛糸玉をバスケットに戻し、クローゼットのすぐ出せるところにしまった

続ける気はあるようでよかった

ルネのやりかけの青春の断片を見ていると、完遂させなければいけない気がしてくる

「ヴェルは一緒じゃないの?」

「今日は当然ヴェーダ様のお世話よ。とっくに会場行ってるわ」

戸締まりをして、ブランの髪がまだなんとか威厳を保っているのを確認して家をあとにする

晴れの席ってのはどうしてこう思い切りが必要なんだ

一生に一度くらいは準備万端と行きたい

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