第40話③
駅前の通りをザナドゥに向かって下ると、人通りもまばらになっていく
ザナドゥはザナドゥで盛り上がっているそうなのだが、駅間まで隙間なく繁華しているわけではない
それでも遠くまで連なる提灯が宵闇に道を現し、普段よりは歩いている人も多い
祭りの日ぐらい一駅歩いたっていいじゃない
だがなんで我々まで一駅歩こうとしているのかと言うと、私を追ってくる気配を感じているからだ
私も忍者のように背後の気配を察せるようになったのかって?
もちろんそうではない
息を潜めると、履物が砂を踏む音が近づいてくるのがはっきり聞き取れる
ブランが私を小突いて、カーブミラーに視線を促す
私達の後ろ数mに、高天原の制服が宙に浮いているのが映っている
すごい
生で吸血鬼を見ている
ミラーに見とれていたら水たまりを踏んでしまった
「今は振り返らないでくださいよ」
危ない危ない
気を抜いていると気付いたことに気付かれてしまう
どうしよう
袈裟懸けにしているポシェットの中には、チョコが詰まった巾着袋がしまってある
本当にこんなのが効くのだろうか
効いたとしても倒せるわけではないし、こちらだって血を吸われるわけではない
何も怯える必要はないのだが、実際こうして鏡に映らないのを目の当たりにすると、何かあってもおかしくないと思ってしまうのだ
ブランに促されて更に人通りの少ない住宅地の方へ曲がる
流石にこちらには人影がない
ここまでついてくるとなると最早間違いない
ブランの顔色を窺ってみると、目線で次の路地の先を示した
建物と建物の間の裏路地で、人通りは皆無だ
わざわざこんなところを通るのはここらの住民だけだろう
遠くに祭りのお囃子が、背後にはもう私を追っていることを隠そうともしない足音が聞こえている
ブランの長ドスならひと薙ぎに出来るくらい近づいている
と、ブランが私の背を押し、ブランはくるりとその場で後ろを向いて私に背を預けた
だが肩越しに見えたのは宙を見上げるブランだ
ブランの目線を追うと、頭上に翻る小柄な高天原の制服姿があった
軽く2mは飛び上がっている
なんという跳躍力
小柄な制服姿は月夜を背景に華麗な月面宙返りで私の方に向かってきた
思わず腕で頭をかばう
目をつぶって身を屈めたが、その瞬間何も起こらない
まさかまだ宙に浮いているとか?と思って見上げると、手元のチョコバナナがない
「ふっふっふ…おろかなニンゲンども!チョコバナナはいただいたのぇす!」
と私からもぎ取ったチョコバナナを掲げて小躍りしている
間違いない
これが空飛ぶチョココロネの主だ
背はルーよりは高いが私よりも大分小柄で、まあどう見ても小学生といった風情
暗がりでも髪の毛が跳ねているのが見えたので天パかと思ったが、目を凝らすとどうやら寝癖だ
鏡に映らないから直せないのだ
ふとブランを見ると、まだ手にチョコバナナを持っている
「…なんでブランのは狙わないの?」
「そっ…そいつはこれを食べてからいただくのぇす!」
ブランは手強そうと思ったのか、あるいはブランが何をしてくるか知っていたのか
吸血鬼は夢中でチョコバナナを頬張っている
「つむじサン、こいつです」
「うん、わかる」
当の吸血鬼は急いで飲み込んだチョコバナナにえっほえっほと噎せている
私は咳は反射だから出るのかなぁなどと考えていた
「おいチョコ。お前火付けまでやるようになったんじゃないだろうな?」
「のん!お火を付けるだけじゃなくてお風呂の掃除もチョコがしているのぇす!」
チョコが好きだからチョコとあだ名されているのなら、自分からはそう名乗るまい
本当にチョコというのだろう
「やっぱりこいつじゃあないと思いますが」
「ていうか何?紹介しなさいよ」
ブランも隅に置けないじゃないか
よりによってこんなちっちゃい子を手籠めにしているとは
「はあ…オレの妹」
「妹!?」
この世界には女の子しかいない
ということはつまり、両親というものも存在しない
男性がいないんだからそれは当然だが、両親を代用するような関係性もない
こればかりは今まで見聞きしたこともない
一部のアネモイは妃を娶っているが、やはり夫婦というのとは違う性質のものだ
親がいない、家族がない
親もいなけりゃ子もいない
ということは姉妹もいない
少なくとも今この瞬間までは聞いたことがなかった
「…妹”分”ですよ」
どうやら私の勇み足だったようだ
でも姉妹の概念が通用するのは初めて知った
「いつまでもブランお姉しゃまの好きにはさせないのぇす!チョコはもう一人前になりました!その剣はチョコにこそふっさわしいのぇす!」
見るからに謂れのありそうな長ドスだったが、何やらこの姉妹に因縁浅からぬ代物のようだ
「おまえの背丈じゃ振るえないだろ」
「今に学校の時計台よりでっかくなってやるのぇす!」
この世界は年を取らない
ということは悲しいかな、背も伸びない
検証はしていないが、ルーはずっとちんちくりんのままらしいし、まあこの先も多分そうだと思う
この世界で伸びるものは髪と爪と雑草ぐらいだ
「チョコは同門の妹弟子でした。しかし悪魔に魂を売り渡して眷属になっちまったんですよ」
「カルマしゃまは悪魔ではないのぇす!やさしいし、いっつもチョコをほめてくれるのぇす!カルマしゃまの悪口は許さないのぇす!」
「カルマ様の部下なの?」
今まで全く正体がわからなかったアネモイの最後の一人、丁夜の女王カルマ様
丑三つ時を統べる女王らしく、吸血鬼を従えているとは
「チョコはカルマしゃまのひみつ工作員なのぇす!」
「それ私達に教えちゃっていいの?」
一瞬前まで自信満々だったチョコちゃんは二、三度瞬きして私の言葉をようやく飲み込むと、そのまま固まってみるみる青ざめていった
「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ…」
冷や汗をかいて過呼吸になりそうになっている
「どうどう。ほら、落ち着いて」
巾着袋からチョコレートの粒を取り出して手の上に広げて見せた
「ああ!ああ!」
チョコちゃんはもう私の手の上のチョコレートしか目に入っていない
差し出された手にチョコレートを盛り渡す
盃にした手のひらから一心不乱に粒チョコレートを貪っている様は、さながらヤク中だ
見るに忍びない
「こいつの身体能力はさっき見た通りですが、こうやって欲望に打ち克てないんですよ。そこをカルマに丸め込まれて、このざまです」
「カルマ様のこと知ってるの?」
「いいえ。見たこともありません。でもこいつみたいな意志薄弱な奴を従えて、夜の街に放ってるんです。オレもカーミラに堕したこいつを見たときは失望しましたよ」
以前の勿体つけたはぐらかし方といい、どうやらブランはチョコちゃんを高く買っていたようだ
「カーミラが他にもいるみたいな言い方」
「正確な実態はわかりませんが、うちに匹敵するぐらいいるんじゃないかって話もあります。夜回りもしてるんですが、こいつら人んちに潜んでることが多いもんですんでね」
要するに吸血鬼というのはカルマ様の私兵部隊ということか
「それで。私のあとを尾けて何をしようとしていたのかな?」
目線を落として問いかける
ようやくチョコレートを食らいつくし、手のひらを舐めていたチョコちゃんはハッと我に返った
周りをきょろきょろと見回している
「えへん!カルマ様のご命令はもう達成したのぇす!」
「えっ」
ブランもあたりを見回す
何もいない
何もない
私達しかいない
「くそっ…まさかチョコにはめられるとは…」
「何!?私達囲まれてる!?」
「違いますよ。昼間の火付けと同じ」
「そうなのぇす!真昼の女王をここまでおびき出せば、もう用は済んだも同然なのぇす!」
私達を盛り場から引き剥がす
いや、私だけではない
自警団やあゆ様達、嵐も
祭りの裏に目を光らせている女王達が、まんまと罠にはまっている間に事を起こそうというのだ
でも何が出来る?
チョコちゃんの身のこなしは確かに常人離れしているが、他のカーミラ達がこうだとしても人混みで何かやらかしたら取り押さえられるだろう
写真には写らないがこうして目には見えるのだから
写真には写らない
今度は私が青ざめた
そうだ、なんでそのことをすっかり忘れていたんだ
「ルネが危ない!」
ブランは引き返そうと駆け出した私の腕を掴んだ
「どうしたんです」
「目には見えても写真には撮れない!何かしても証拠が残らない!」
「落ち着いてください。こうしてつむじサン自らをおびき出せるのに、外堀から埋めてく理由がないでしょう」
「最初からルネが目的なのかもしれない!人質に取るとか!」
「あっちだって一人じゃないんですし、それどころか人目もあるんですから、滅多なことは出来やしませんよ」
「だって…!」
ブランは危機感がないのか、ルネに対する脅威は自分の領分だと思っていないのか、時々変に楽天的なところがある
この街の住民特有の感性という気がしなくもないが、もうちょっと現実的な可能性に敏感になって欲しい
「こいつはオレ達の追手を巻いたんですよ」
「えっ」
追手ってチョコちゃんじゃないのか
「靴底を」
後ろに膝を曲げて見てみると、さっき格闘していたカーボン紙がない
まさか
「さっきの水たまり…」
やたらしっかり貼り付いていたのに、あんなので剥がれるのか
しかし何故
「こっちもつい人目につきにくい方を選んじまった。こいつの思惑に手を貸しちまうなんて…」
「ブランお姉しゃま不覚!いいでしゅかつむじしゃん、お姉しゃまはうぬぼれが強い業突く張りなのぇす!確かに腕は立つかもしれましぇんが…達観したフリをしてもだいじなことが見えていないのぇす!」
チョコちゃんは人差し指を突きつけて私に迫ってくる
ぜんぜん脅威を感じないのでじっと見ていられる
「よさないか」
とブランは私を後ろに引いてチョコちゃんとの間に割って入った
それを見たチョコちゃんは喜色満面で言った
「ふっふっふ…ブランお姉しゃまはぜったいそうすると思ったのぇす!」
顔の高さに上げた手で指パッチンをすると、音は出なかった
「あっ」
だがその瞬間、私がど真ん中に乗っていたマンホールの蓋が開いた
下向きに開いた
一瞬ふわっと宙に浮く感覚を覚えた次の瞬間、さっきまで立っていた地面がドアのないエレベーターみたいに眼の前を通り過ぎていった
見上げると私が落ちたマンホールの入口がどんどん小さくなっていく
こちらを覗き込むブランの動揺する顔は、再び閉じた蓋で遮られた
私は一瞬でこう考えていた
この下は下水か?いやマンホールの真下なんだからコンクリートか何か打ってある地面ではないのか?
とすると着地の姿勢を取らないと痛い思いをする
マンホールなのだから近くにはしごか何かあるはずだから、手を伸ばしてみてもよかった
でもでも下水道のはしごって清潔だろうか
こういうところを登り降りする人が素手だったのを見たことがない
衝撃を受け止められるよう身構えると、私を包んだのは柔らかなクッションの感触だった
「…?」
真っ暗ではない
トンネルの中みたいに、一定間隔で薄明かりが灯っている
私が尻もちをついたのは、どうやらベッドのマットレスのようだ
あそこから飛び込んでもいいように設置してあるのか
下水にしては臭いがない
地下街みたいなものなのだろうか
天井は弧を描いていて、支保工のようなものは見当たらない
さっきのマンホールは2階ぐらいの高さだろうか
思った通りはしごが据え付けられていたので昇ってみてもよかったが、下に開くマンホールを支えられる自信もないし、勝手に開け締めされていた
もう少しこの地下道を探ってみよう
出入り口があれ一つということはあるまい
このマットレスを持ち込んだ大きな戸口がどこかにあるはずだ
壁に沿って歩き、とりあえず角があったら曲がってみる
角かと思うと小部屋だったり、物が積み重なった行き止まりだったり、やっぱり下水道という雰囲気ではない
地下壕とか防空壕とか、そういうった雰囲気に近い
「誰かいますか!?」
薄明かりの奥から音が返ってくる
かなりの広さがある様子だ
「参ったな…」
これだけ灯りを配してあるのだから人が行き来する場所なのは間違いない
通路の脇や小部屋に置いてある物も、チョコレートや缶詰、中身はわからないが酒瓶のようなものもある
ただやはり通路として機能している様子だ
人が寝起きしているような形跡は見当たらない
『わたしの城へようこそ、つむじさん』
通路の奥から声が響いてきた
反響していてよく聞き取れないが、どうも生の声という感じではない
「そこに誰かいるの!?」
『わたしはカルマ。手荒なことをしてごめんなさい』
カルマ様だ
本当にカルマ様だろうか
それなりに大きい声に聞こえるが、声に張った感じがない
『当然の疑問でしょうから先に答えておくけど、ここには誰もいないわ』
どうやら何らかの録音だ
音のする方へ向かってみる
『どうしてもあなただけに話しておきたいことがあったの。今のあなたは鵜の目鷹の目で四六時中注目を浴びているわ。わたしはちょっと…人前に出られない都合もあって』
音が近づいてきた
何も言っていないときでもブツブツというノイズのような音が聞こえる
そして時々声がふらつく
グラモフォンのフラッターのように
『あなたがプラッドに襲われたときのことを覚えている?…いいえ、そうだったわね。ごめんなさい。あの時もわたしの子供達にあなたを追わせていたわ。でも多勢に無勢で手が出せなかった。あいつらの横暴を未然に防げなかったことを謝るわ』
この人は謝ってばかりだ
私にそんな負い目を感じるほど、この人は何かの責任を負っているのか?
ゾンダ様のように街を守る使命を帯びているとか
というか”子供達”って、多分チョコちゃん達のことだろうけど、”子供”か
『…あなたは”女王を殺す力”ってあると思う?』
急に物騒な話切り出してくるじゃん
女王だけは死ぬことがあるとか勘弁して欲しい
『あれほど女王の仕事に忠実だったフレオが、その座をあっさり明け渡した。世間では決闘の結果を受け入れただけだと信じられているけど、他の女王はそうは考えなかった。槍で突かれて馬から落ちたわけじゃなかったのだから。ルールに厳格なフレオがそれで負けを受け入れるとは思えない。…つまり、あなたがどうにかしてフレオの気を変えてしまったのだと』
私はしらを切り続けてきたつもりだが、客観的事実だけからそこまで分析されていたとは
フレオから女王の座をもぎ取ったのが私に秘められた何らかの力であるという理解だとすれば、ほとんど真相にたどり着いてしまっている
もちろん女王を殺すわけではないが、人によってはフレオのように過去に押しつぶされてしまうだろう
あゆ様は特殊なだけだ
どちらに転ぶかはわからないが、女王を職務遂行不能な心理状態に追い込むこともあるいは出来るかもしれない
『女王達の間には、常にある種の緊張が存在しているわ。もちろん街のために協調するし、力を合わせもする。でもフレオは頑なだった。他人に借りを作らず、どんな仕事も全部自分でこなした。だからそういう見えないストレスに晒されないでいられたの。それに比べるとあなたは大分社交的。力が及ばないから他の女王に借りを作りもする。だからみんな付け入る隙があると思っているのよ』
音の出どころはオープンリールのテープレコーダーだった
レコーダーとともにテーブルの上に置かれた灰色の重たそうな卓上スピーカーが、声の主の代わりに音を再生している
『もちろんわたしも』
本音を正直に言って裏がないアピールでもしているつもりか
『これからあなたのまわりには、あなたの力を手に入れようとする人達が集まってくるわ。もう既にすぐ近くにいる人も。…でもわたしはあなたの力はいらない。ただお友達になりたいだけ』
お友達になりたい相手を地下壕に落っことして、テープでモノローグを聞かせるのか?
随分勝手な言いようだが、どうしてかこの声の主は嘘をついていないように思えた
チョコちゃんもカルマ様は優しいと言っていた
確かに声の響きは優しいが、テープのせいでへろへろしている
声に含まれる抑揚の変化まではつぶさに捉えることが出来ない
…こんなところで急に心理学者の真似事をしても始まらないか
『わたしがあなたを守る』
意外な宣言を納得するために頭を回転させ始めた
でも答えはこの人が自分から言っている
私と友達になりたいと
一方的だと思う
こっちは顔も見ていないのに、向こうは私をつけ回して見張っていた
でも、私の力に気付いていてなお、その力はいらないと言える人がどれだけいるのだろう
私の力を身を持って知った人は、取り上げることも出来なければ私に代わって使うことも出来ないのを知っている
ましてや女王を殺す力でさえないことも
『その箱を持っていって。出口は灯りで照らすわ』
そう言うとじきにテープは片方のリールに巻き取られ切って、モノローグは終わった
テープレコーダーの前には、文庫本を何冊か重ねたぐらいの小さな箱が置かれていた
箱を手に取った途端、テープレコーダーを照らしていた照明が消えた
振り返ると順々に灯りが消えていき、遠くの方に明るくなっている曲がり角が見える
そこが出口だというわけか
カルマ様はただ私に不信を植え付けただけかもしれない
でも私と友達になりたいという言葉だけは信じてみたい
どちらを信じるかはまだわからないが、私に選ぶチャンスをくれたのは重要なことだ