第37話①
また部屋の隅の床で目を覚ます
一応ブランも朝食に誘うのだが「これが気に入ってるんで」とキャンプ用のストーブでトーストを焼いて食べている
玄関で火を炊かれては火事が心配だが、幸いまだここへ来てから一度も火事の話は耳にしていない
現代日本の出火率というのは人口1万人あたり3件らしいので、それに照らすとこの街でも2週間に1件は火事の話を聞いているはずだ
マッチを擦れば火が付くし、トーストだって焼けるのだから木や紙に火を点けても燃えるはずだが、どうにかして家は燃えないことになっているのだろう
今日もルネは早々と出掛けていく
しかもあろうことか、水着を持って
「プール混んでるんじゃないの」
「水にはなるべく入るな、って言われてる。カメラ持って入れないから」
なるほどそれは理屈だ
しかしわざわざ写真を撮られるために人混みに出向かされ、プールサイドでたゆたう水を指を加えて見てろというのも酷な話だ
ルネにブランをつけさせて私がパパラッチに追われた方がよかったのではないか
「つむじの方こそ滅多なことしないでよ」
「何もしないよ。忙しいんだから」
ありがたいことに女王の仕事は尽きない
電車で官邸に向かう
ブランは先頭車両の端に立てと言うが、ドアが閉まったら乗り込んでこれないんだし座る
「こっちだって駅に着くまで降りられないんですぜ?」
とは言うものの夏休みの朝っぱら、車内には私達を含めて5人しかいない
「2対3だよ?」
「どんな相手でも数の有利は侮っちゃいけませんよ」
そうは言っても用心するような長旅ではない
降りたとき囲まれる可能性の方が圧倒的に高かろう
事を起こされる間もなく、すぐに駅についた
執務室の机には、屋台の出店申請書類が積まれていた
10万人規模の街が総出で祭りをやるとき、一体どれほどの店が軒を連ねるのか?
浅草の酉の市は千軒近い店が立つというが、逆に規模の割に屋台が少ない祭りもある
今私のところに来ている書類は20件ほどだ
他のアネモイのところにも同様の申請がもっとたくさん行っているのかもしれないし、私のところにもこれからまだ追加で来るのかもしれない
一服寺とザナドゥで利権の奪い合いがあったというのに、たったこれだけということはあるまい
少ないながら出展内容は様々
鈴カステラ、焼きそば、りんご飴といった定番から、はしまき?ぽっぽ焼き?とかいう聞いたことのないものもあった
おっ、たません
たません好き
名古屋に引っ越してしまった友人を訪ねたら、学園祭でたませんを焼いていた
他にもイカ焼きにフラッペとか、私のところには食べ物の屋台しか来ていないらしい
適当にサインしてしまってもよかったが、もしかしたら他のアネモイへの申請と被っていてあとから問題になったりしないか気になった
「それは新規出店の申請ですわ」
書類から顔を上げると、段ボールいっぱいの赤白提灯を抱えたフレオが戸口のところにいた
「うッ」
ガチッ、と背中のフランベルジュが戸口につっかえた
「やっぱりそれ邪魔だよ」
段ボールを受け取ってやったが、フレオはまだフランベルジュと戸口で知恵の輪をしている
「だからって丸腰というわけにはいきませんでしょ」
「ファンシャに何か頼めばいいのに」
「もう女王じゃありませんし、余計な借りを作りたくありませんわ」
フレオは背中から降ろしたフランベルジュを無造作に部屋の隅に立てかけた
傘立てに入れると引っ張り出すのが大変だというのでこの始末だ
「その書類、出店の要件は満たしてるからあとは女王の承認があればいいって、昨日催事課が置いていきましたわ」
「要するに営業免許の許諾みたいなもんか」
ならサインしても特に問題はあるまい
過去の祭りに出店したことのある店は、もう免許を持っているから女王にお伺いを立てる必要はないということだ
「でもなんで食べ物の屋台ばっかりなんだろ」
「金魚すくいや射的みたいな射幸性のあるものは博戯監査室の管轄なので、承認の工程が違いますわ。仕切りもヴェーダ様とルーですの」
博戯というのは賭博の”博”
自分で勝敗を決するゲームの結果で金品をやり取りするもののことだ
賭博の”賭”の方は流石にこの世界といえど憚られるのか、公共の往来で見かけたことはない
だがザナドゥの奥底にはどんな賭場があるのか
まあ少なくとも金魚やぬいぐるみを賭けて争うようなゲームはすまい
ルーのことだからちゃんと隅っこの方まで目を光らせている…と思いたい
出店申請に無造作にサインを書きなぐる
つ、む、じ
…はぁ
この世界で私を証明する唯一の言葉
何度書いても綺麗に書けない字だけで構成されている
この名前を与えてくれた人は今ヴェーダ様の部下とプールで肌を灼いている
「ため息をつくと幸せが一つ逃げていくらしいですわよ」
「…えっ?私?溜息ついてた?」
「書類一枚ごとに」
「…はぁ」
ああ、ほんとだ
情けないな
「気分がすぐれないならお帰りいただいても構いませんわよ。わたくしがサインしておきますから」
「いいよ、このぐらい。あと何枚でもない」
今までもフレオやルネに代わりにサインをさせたことはあるが、今日は気分じゃない
何の屋台だったか覚束ないまま全部の書類にサインを書き終え、処理済みのトレーに入れる
「あとは何かあるかな」
「提灯の字、描きます?」
どこから出したのか、フレオは硯で墨を磨っていた
「この世界墨汁とかないの?」
呉竹とか不易とか、墨を磨った液体が容器に入ってるやつ
「探せばあるんでしょうけれど、こういうものは様式でしょう?精神統一にもなりますわよ」
使い込まれた感じの毛筆を取り出すと、今磨った墨をつけて『ザナドゥ演奏家組合協賛』とでこぼこの提灯に記した
なかなか達者な筆使いだ
「もしかして私そこの世話になってる?」
「これはわたくしの縁ですわ。提灯一口いくらで協賛金を積んで、催事の資金にしますの」
この世界も結構世知辛い
私達には毎月一律で学札が支給され、贅沢はできないがひもじくはない程度の生活は出来る
それとは別に、アネモイには歳費のような形で返礼金というものが配布される
日頃の働きに対する見返りだ
私のような末席でも支給の学札に比べたらかなり大きいお金になる
歴史を顧みてもわかるように、役人の給料をケチるということは買収を容易にすることを意味する
権力を持った人間には、十分すぎる対価を支払っておく方が国は健全でいられるものだ
それでも、ルネやフレオに手当を支払うと大して残らない
政治家が税金泥棒のように言われるが実情はこういうことだ
ただまあ、支持団体からの献金という形で懐を潤すことも出来る
当然その借りは便宜でもって返すことになるわけだが、そこは私の身の振り方次第だ
ファンシャにもいずれ借りを返す必要があるだろう
「お金いるなら言ってよ」
「無心するほど飢えてはいませんわ。でも施していただけるなら、提灯一口買っていただけます?」
「いいよ。でも女王が一個きりってのもみっともないし、10個もらおう」
「それは豪気ですわね。あとでまた提灯もらって来ますわ」
と次の提灯に取り掛かり、機械のようにさっきと全く同じ綴りを繰り返した
「今日のところは他の仕事は来てないようでしてよ」
帰れと言われているように聞こえる
まあここは実質フレオの家みたいなものなので、プライベートが欲しい気持ちもわからなくはない
さりとて午前でうちに帰ったところで、また暑い中ゴロゴロするしかない
忙しいと言った手前、家でごろついてばかりいるのもバツが悪い
「やることを探さなくても、女王は女王にしか出来ない用事で必ず駆り出されますわ。休めるときに休んだ方がよろしくてよ。夏休みなんですから」
なんか話が違う
もっと忙しくしてなきゃいけないはずではなかったのか
小テストもパスしてお陰様で補習からも解放され、今は自由の身だ
…いや、そういえば私は囮役なのだった
まあそれもゾンダ様が気を使ってくれた建前であって、ファンシャが言ったようにブランがついて歩いていたらプラッドは寄ってこないだろう
本当に囮に使うつもりならブランは完全に姿をくらませるし
「プラッドをおびき寄せに行ってくるよ」
「滅多なことはやめてくださいまし。今度何かあったらアネモイの資質を問われますわよ」
いっそクビになった方が楽かもしれない
女王なんて気苦労ばかりだ
戸口の前は律儀にブランが見張っていた
もちろん窓の方には鳴子を仕掛けて
「こんなとこでも窓より廊下の方が心配?」
「だって二階ですぜ」
「忍者みたいにすばしっこい相手かもよ」
「忍者なら天井裏から来ますよ」
今度フランベルジュで天井を突いてみるのもいいかもしれない
まだ陽は高い
帰りは一駅歩く
家までのんびり歩いて15分といったところ
三軒茶屋からここまで続いているはずの街道は、立派な片側2車線などではないが広々として気持ちがいい
車が行き交わないからといって閑散としているわけでもなく、時折馬車やスクーターとすれ違う
バスの一つもあっていい規模の街だが、全く走っていない
たまーに三輪トラックが荷物を運んでいたりするが、なぜだか四輪車というのは見たことがない
この世界の住人は車に親でも殺されたのか…いや、自分自身がか
そう思ってみると、ここには死因になっていそうなものが存在していない気がする
でも電車は?
進学のためこの街に越してきて7年、片手で数えられる程度だが人身事故はあった
ただ踏切事故もあるので、一概に世を儚んで飛び込んだとも言えない
年寄りも多いし
刃物で刺されて死んだ、という人は少なからずあるだろうが、刃物は存在している
ただ怪我は出来ないからそれで死ぬことはない
同じようにそれで死なないというだけで酒も薬もある
やっぱり関係ないか
その気になれば凧糸やビニール袋でも人は死ぬ
この世界の理や規則性を見出そうと何度も試みたが、一貫した結論が出たことはなかった
本当に誰かの気まぐれで作った箱庭みたいだ
何もかもでたらめに出来ているのに、破れないルールが色々あるところも作為を感じる