第35話
エスタブリッシュメント
支配階級と訳されるが、もっぱら反体制の攻撃対象というニュアンスを含んで用いられる
体制を成す側の人間たちだ
現実には地主や雇用主、宗教的指導者などのように、大衆に対して強い影響力を持ち、その特権でもって世の中を動かしているとされる
しかし物事の辻褄が全く釣り合っていないこの世界ではどうなのだろう
女王とまで呼ばれ何者にもまさる権能を誇るアネモイでさえ、影響を受ける人々の利害を思いのままに出来るわけではない
要するに私達の言うことを聞かないのはプラッドだけではないのだ
そういった見えない利害関係を調整しているのこそ、この世界のエスタブリッシュメント達だった
「初めまして女王様。ご挨拶が遅れてしまったわね」
この女性はフレオを女王に推した支持団体『ウニベルシタス』の代表、例の一件でフレオが声をかけてくれていた昔なじみその人だ
先日ゲストハウスで確認させられた賓客リストの中にも名前があった
フレオに数の優位が欲しい話をしたら紹介され、学校のある丘を上った先の集合住宅に招かれたのだ
「ファンシャよ」
「つむじです…」
ほっそりしているが指が長く、とても大きく見える彼女の手を握り返した
淡いグリーンのカジュアルなサマードレスに肩からシアーのカーディガンを羽織っていて、避暑地に遊びに来ているお嬢様みたいな雰囲気だ
ただこの主張の強いウェイビーな黒髪は、バブルを彷彿とさせるもっさり感がある
服に対して重たい
言い方は悪いがお上りさんというか、ちょっと田舎っぽい
私服なのでどこの生徒かはわからないが、この髪を学校で見かけていたら忘れないはずだ
「商工会議所とか、不動産組合とか、そういう組織の一員じゃない一学徒のための団体ですの」
とフレオに水を向けられたファンシャが続ける
「いわゆる校友会ってやつね。数が力よ」
なんだか徒党を組んで学生運動でもしているのかと思ったが、今までそういった物々しい集団の話は聞いていない
「生業のないリリカポリスの住民は、どうやって意見集約すればいいと思う?上司がいるわけでも組合長がいるわけでもない。生徒会は学校の意向を優先するし」
「つまり市民団体?」
「そうよ。ノンポリだからって勝手に事を進められていいわけじゃないでしょう?」
市民団体という言葉にあまりいいイメージがないが、語義だけ見れば文字通り市民の団体だ
集団の利益のために意見を発する
誰に?といえばそれが我々アネモイだ
したいことをすればいいとプエルチェ様は言ったが、そうは問屋が卸さない
その問屋というわけだ
私達が公益を顧みていればそれで充分世の中回るはずだが、残念ながら人間というのは死んでもわがままなのだ
「私達はとりわけ特定の小さい集団の便宜を優先したりはしないけど、大衆が日々暮らしていくのに欠かせない要求を吸い上げて、女王様に陳情するわけ」
「全戸にドラム式洗濯機を配布するとか?」
「いいアイディアだけどうちには置き場がないわね。でもそれを実現したいって思った時、あなたならどうする?」
「まず総会で発議して、通ったら民政局に計画を策定させる。それを元に洗濯機を仕入れて生活課で工事を手配してもらう」
「それっていつまでかかる?」
「それはわからないけど…それで実現可能ならそうするしかなくない?」
「私なら一人あたりの洗濯機の利用時間から拠点の規模や密度を割り出して、最小限の数で全員の要求を満たせるコインランドリーを一月で整備する」
なるほど
要求そのものは満たせないが、根本的な問題は現実的な範囲で解決する
あまり楽しくはないが実現可能性が高い方法を選ぶタイプの人種だ
ただこれは、彼女がコントロールできるリソースが限られていることを示している
その代わり他団体との利害の衝突は少なそうだが
これが私の望んだ力
彼女の言った通り数は力になる
特に今は数が必要だ
「私達も際限なく贅沢ができるわけじゃないってことは覚えておいて。ただそれでもあなた一人が力を振るうよりは大きなことが出来るはずよ」
「肝に銘じます」
「でも今のうちに面通しできてよかったわ」
「それはお互いに、ってこと?」
「もちろん。祇園では色んな人があなたに近づいてくるでしょうから。フレオに引き続いてよろしくお願いしたいわ」
彼女らからしても私は重要なお得意様なのだ
以前ちょっと聞いた話では、嵐は一服寺で唯一のアネモイであるため支持母体は一服寺そのものだという
特定の学校を贔屓できない仕事だが、そこはうまいこと振る舞って一服寺に便宜を働くよう仕向けている
他のアネモイもそれぞれ得意分野がある
ルーは歓楽街の組合、ゾンダ様は夜回りを頼まれている商店会、あゆ様は自分のファンクラブと、意外なことに不動産界隈にも顔が利く
「フレオは公平性を気にしてうちの人間を使わなかったけど、人手が必要なんでしょう?優秀な人間を手配するわ」
「人手っていうか…人目かな」
「みんなあなたを見てるわよ」
「私じゃない。私の周りを見てて欲しい。不審な人が近づいていないか」
「不審な人ならそこにもいるけど」
ファンシャは私の後ろの壁にもたれているブランを肩越しに見やった
「ブラン!ここはいいから、ルネについててよ!」
「そういうわけにいきませんよ。総長の厳命ですんでね」
ファンシャとの会談にルネはついてこようとしなかった
ルネがファンシャを知っていたかどうかはわからないが、ルネがあまり好まないタイプであることはすぐにわかった
誰であれこういう属性の人間、もっと具体的に言うと社交性の高い人間とはウマが合わないのだ
「…こういう感じだから、私のいないところでルネやフレオに何か起きないように目を光らせてて欲しいの」
ファンシャは部屋の中をゆっくり歩き回りながら私の話を聞いている
「そうねえ…勘違いしないで欲しいんだけど、私達は街の治安を乱そうなんてこれっぽっちも考えてないのよ?それでも所詮は寄る辺のない者の烏合の衆だから、邪な人間がいても事を起こすまで気付けないものなのよ。だから私達の会員にあまねく知らせてしまうと、そういう人間の耳にも入ってしまう。つまり、こちらの意図を相手に知らせてしまうことになる」
「ブランを連れてるみたいに?」
「まあそうね。でも自警団の腕っこきに楯突こうという人間はそうはいないから、あなたの身は大丈夫でしょう」
「要するに打つ手なしか」
「まさか!私達を過小評価してもらっては困るわ。ヴェル、入って」
静かに戸が開くと、これまた物静かそうな郁金香の生徒が入ってきた
ふわふわカールの薄い色のセミロング
顔も体も線が細く、伏し目がちで儚げな印象だ
でも私はこの子を見たことがある気がする
「彼女はヴェーダの補佐官の一人よ」
ああ、そうだ!
総会の席で見かけたんだ!
ヴェーダ様の後ろで給仕をしていた子だ
待てよ
ヴェーダ様の部下?
「ヴェーダ様を疑ってる?スパイをさせるってこと?」
ファンシャは一瞬きょとんとすると、高らかに笑い出した
「面白いわね!推理小説の読みすぎじゃない?」
とヴェルの肩を押して一歩前に出させた
「まあでも、人を欺くというのは合ってる」
ヴェルの両肩に手を置いて私の方を向かせる
ヴェルの所作は非常に落ち着いている
まあヴェーダ様の下で働いているんだし、高度なストレスに晒されることもあるだろう
それなりに肝が座っていないと務まるまい
引っ込み思案で挙動不審という雰囲気の子ではない
「あなたのルームメイトにはスキャンダルを起こしてもらう」
「…どういうこと?」
魂胆はわかったが私の直感が拒否している
眼の前のヴェーダ様の部下を訝しく見た
「新人女王の補佐官がよその女王の補佐官と通じてたなんて、色々勘ぐりたくなるでしょ?」
木の枝が絡まっているだけでも下世話に盛り上がる女子達が、女王周辺の火遊びを無視していられるはずがない
スキャンダルなんてフリみたいなものだ
やられたら乗っかるしかないという一種の芸人根性すら感じるほど、リリカポリス女子は噂話の風呂敷を広げたがる
でも
「そんな噂話流したら、余計に人が寄ってくるじゃない!」
「あなたのときはどうだった?」
「ずっと人垣に囲まれてたよ。あれじゃプラッドが隠れてても気付けない」
「本当にそれだけだった?」
ファンシャは文庫本も入らなそうな小さなクラッチバッグから数枚の写真を取り出した
フレオと連れ立っている私、嵐と談笑している私、あゆ様のファンにもみくちゃにされている私(多分)
みんな私の写真だ
記憶にない写真まである
白いワンピースのルネとキオスクに寄っている写真だ
この服はプラッドに襲われた日に着ていたものだったはず
「みんな渦中の人物にカメラを向けるわ。その中に格子柄は映ってる?」
「ない…と思うけど、連中だって人目があれば隠すでしょうよ」
「隠すってことは、人前ではことを起こさないってことよ。あなたのルームメイトに何事もなければいいんでしょう?始末は自警団にお任せするわ」
「一列に並べてくれれば、一斬りで全員の首を花畑まで飛ばしてやりますよ」
この世界でそういうことは出来ないからただの強がりに過ぎないはずだが、ゾンダ様の信頼も厚い剣客のこと、本当にやりかねないという不安はある
「首は何も話さないでしょ。生け捕りにして」
「…承知」
ブランは不服そうだ
やっぱり嵐も人を斬りたくてうずうずしているんだろうか
「…こんなのルネは嫌がるよ」
「他の手は私達の人垣で四六時中取り囲むことだけど、ルームメイトはもっと嫌がるんじゃない?」
好みはしないがスキャンダルよりはまし、と言う気がする
何よりどっちもいらないと言うだろうが
いずれにしろ、四六時中人を動員するというのは彼女からすると現実的な提案ではあるまい
「大体今話したばっかりなのに、いつから彼女を用意してたの」
「私も今思いついたの。ヴェルはうちの役員だからそこにいただけ」
そこにいただけで見知らぬ誰かとゴシップの種になれというのはいささか酷ではないのか
でもヴェルは抗弁する様子もなく、さっきと同じように私の前に立っている
こういう人が一度言ったことは決まり事なのだろう
「わかった…話してみる」
こっちから頼み事をしておいてがっかりされるのもいい気はしないだろうが、大人物のようだしこの場は広い心で酌量して欲しい
「なんであたしが!」
言うと思った、わかってる
「ルネを人質にでもされたら私は手が出せなくなっちゃうよ!私を助けると思って!ね!」
「いいようちから出ないから!」
「出なくてもここが襲われたらどうすんの!」
こうなることはわかっていたが、人の助けを借りた手前ここはどうにか曲げてもらわなければ困る
「大体そん…」
ルネは文句の続きを言いかけて止まった
「誰…?」
ルネが指差す私の後ろを振り返ると、いつの間にかそこにヴェルがいて心臓が止まりそうになった
もう止まってるけど
一緒に連れて帰ったら作為を気取られるからと、私とは時間をずらして家に向かうようにというファンシャのご下命である
「か…彼女がその、今回の企てに協力してくれる、ヴェル」
「初めまして。ヴェルといいます。ご不満はあると思いますが、つむじ様の懸念を取り除くと思って、ご協力願えないでしょうか」
初めて喋った
角のない、いい声をしている
謙遜するとき変に謙り過ぎて却って嫌味になる人がいるが、ヴェルはギリギリのところで配慮があるのを感じる
正直のちょっと持って回ったやつ、みたいな
流石は上位アネモイの部下なだけのことはある
「よ…よろしく…」
さしものルネもこの正直者を悪し様には出来ないようで、ぎこちなく会釈を返した
ルネは服屋の店員相手には話せるコミュ障みたいなところがある
職業意識に支配された社交性は受け入れられるのだ
その割にキャバレーには行きたがらないから、多分他の人も相手してるところを見るのは気分が悪いのだろう
独占欲が強いというか
「作り話で人目を惹くのと、お友達になるのは両立できると思いませんか?」
ヴェルはゆっくりとした動作でキッチンのスツールに腰掛けた
優しげな目はルネを見据えたままだ
「うん…まあ…そうね」
ルネもヴェルに向き直って息を落ち着けた
ルネと話すのに私の顔を窺うような相手だったら、こうすぐには大人しくならなかっただろう
なんてちょろいんだ
これがさっきまでゴシップの種になるのを声を荒らげて嫌がっていた人間か
「よろしくお願いします。ルネさん」
ともあれ、ファンシャの思惑通りことが運べば、ルネの方は最悪の事態には陥らないだろう
フレオはというと、「わたくしにはこれがありますわ」と執務室の傘立てに突っ込んであったフランベルジュを引っこ抜き、ブンと一振りすると耳をつんざくような金切り音とともにミニ黒板が真っ二つになった
自慢げなフレオに新しい黒板の調達を命じて、一応の備えは出来たということにした