第34話
そのぼろきれは、ここへ来て見かけた人物の中で間違いなく一番小汚い格好をしていた
裾が擦り切れて膝がテカテカになった学ランに縁のほつれた外套を羽織り、頭にはつばにV字の切れ込みが入った学帽を被っている
そして足元は『便所サンダル 木』とググって出てくるような、まさしく木の便所サンダル(これも大分黄昏れている)
着るものが汚れないこの世界でここまでの弊衣破帽を貫けるとは、最早ある種の才能、いや異能と言っていいだろう
長い髪はばさばさのざんばら髪、目はうつろな三白眼
化粧っ気のない顔はただでさえ起伏のない表情を更に読みにくくしている
その枯れすすきのような出で立ちの中で一つだけ、異様な輝きを放つものが外套の裾から見え隠れしている
腰に携えられた黒い漆塗りの長ドスは、握りから鞘まで一点の曇りもなく、柄には螺鈿細工で花札の牡丹と蝶が描かれていた
プラッドではない
それはひと目で分かる
しかしザナドゥの違法建築が作り出す物陰を見れば、どんな輩が出てきても不思議はない
ルネが私の陰になるよう、静かに前に出て制した
「…なんか勘違いされてるようですがね」
ぼろきれはそこから動かなかった
「襲うつもりならわざわざ声なんか掛けませんぜ」
「ブラン!もう少し外聞てものを考えられないのか!」
と嵐が去った方から駆けてきたのはゾンダ様だった
「…お知り合いですか?」
「すみません、少し待てと言ったんですが…」
「でも総長、格子野郎どもの臭いがプンプンしますぜ。何かあってからじゃ遅い」
ぼろきれはようやく警戒を解いたようで、壁から背を離してゆらりと立った
「彼女はブラン。うちでも指折りの腕利きなんですが、この通りの不調法で。不安にさせたことを謝ります」
とゾンダ様が慇懃に頭を下げると、隣のぼろきれ、もとい、ブランも軽く会釈した
「つむじさんが打ち合わせに出ていると聞いて、ブランをゲストハウスに行かせたんです。どこを狙われるかわかりませんから」
するとこの浪人が件の用心棒であるのか
「連中この辺を嗅ぎ回ったようですぜ。姿までは見かけませんでしたがね」
臭いや気配で察するまでもなく、あんな原色バリバリの連中がいたら誰にでもわかる
どっちかというと、気配もなく現れたこいつの方が不審だ
「ブラン、つむじさんを家までお見送りして差し上げろ」
「い、いえ!大丈夫ですって!すぐそこですし…」
「すぐそこならなおのこと。ご配慮は無用です」
私達に配慮してはくれないのか
自分の口から出たこととはいえ、用心棒がついて歩くのは悪目立ちしすぎる
それもこんな…
「並んで歩きやしませんよ。後ろを取られたら一緒に襲われちまいますからね」
ボロを着た浮浪者に後をつけられていたら、耳ざといリリカポリスの女子がなんと噂するか
「せめてその…制服に着替えられない?」
「こいつが制服なんですがね」
と学ランの襟を弾いてみせた
まあ確かに学ランは制服かもしれないが
私はすばやく周りを確認して、両手で大地を押さえるポーズをして声を潜めた
「…目立つ!」
「ご心配なく。宵闇は友人ですよ」
そう言うと、ブランは数歩下がって街灯が照らす光の外に出た
いつの間にか街灯が灯っていたのか
気づかなかった
そして薄暗がりに退いたブランは、闇に溶けたように目立たなくなった
外套や裾のほつれた縁取りが輪郭をおぼろげにし、煤けた布の表面は人影をモルタル壁のしみみたいにしている
「…わかったよ」
「つむじさん、ブランは頼ってもらっていい人間です。保証しますよ」
私はまだ納得してない顔をしていたのだろう
ゾンダ様に念を押されて、私もこれ以上は言うのをやめた
やめたかった
「…ねえ、中に入ってよ」
「ここが出入り口なんでしょう?中に押し入られてからじゃ、出来ることと出来ないことがありますぜ」
ルネの家までついてきたゾンダ様はそのまま見張るようブランに命じてさっさと帰ってしまったのだが、ブランは部屋に入れといっても聞かなかった
「玄関に誰かいたら窓から入られるだけだよ!」
「そっちには仕掛けをしておきましたよ」
窓の外を覗いてみると、これみよがしに鳴子が仕掛けてあった
空き巣は防犯設備のある窓は選ばないとでも言いたげだ
「野宿にはいい夜ですから、お気遣いなく」
と学帽を目深にして、玄関前に広げたビーチチェアに寝っ転がってしまった
「どうしよう…」
ゾンダ様を信じるとして、玄関は考えなくていいが石段と繋がっている西側の窓が却って手薄に見えてしまう
防犯設備があるということは出入りの便がいい窓ということだから、鳴子を避ける自信があればむしろ窓を狙う
私ならそうする
「どうもこうも、誰もいないよりはずっとマシでしょ」
ルネが妙にポジティブなのも納得がいかない
こっちはルネの身が心配で不安なのに
なんだか結構大変なことがあった(らしい)のに、あれから随分と機嫌がいいように見える
私がまだ乗り越えていないものを、先に一人で乗り越えられたみたいで癪だ
しかし今は、とにかく何か一計講じないと
そうだ
「ベッドを部屋の角に寄せよう」
そして角の方を頭にして寝れば、窓の真下を避け背中も取られないで済む
北枕になってしまうがどうせもう死んでるんだ
「ルネもこっちで一緒に寝るんだよ」
暑かろうが仕方がない
「ええっ!?いや…あ、あたしはほら、あ、あ暑がりだから。ハンモックでいいよ」
「何言ってんの、そんなとこ西と北両方の窓から狙われる」
よく風が当たるようにと部屋を斜めに横切って吊り下げられたハンモックは、外から見れば恰好の的だ
ベッドを動かすべく足元に積み上げられていた藤のバスケットをどけてみると、この空間は二方の壁とベッドに囲われて守りが固そうに見える
どうせ汚れないし、ダニなんかもいないはず
「…ここいいな」
クッションや脱ぎ散らかした服などを芋虫のようにまとめ、私の代わりにベッドの上に寝かせた
上から夏掛けをかぶせてしまえば、人か服の塊かわからない
同じような芋虫をハンモックの上にも作る
ただこっちは目方が足りず、とても人が寝てるようには見えない
と言って重たいものを乗せるのも大変なので、フックに引っ掛ける部分を紐で延長して弛ませた
我ながらまぁまぁの出来栄え
これで寝込みを襲われても文字通りワンクッションあるから、いくらか対処する余裕ができる
「守りは身代わりに任せて、私達はこっちで寝よう」
三方を囲まれた隅っこの閉塞感が安らぎを与えてくれる
床にはシーツを敷いて枕代わりの座布団を折り畳んだ
「板の間ひんやりして気持ちいいよ」
時々床で寝ると案外よく寝れたりする
念入りに選んだ寝具も、思ったほどは体に合っていないものだ
ルネは手持ち無沙汰そうに部屋をうろうろして、一向に床に就こうとしない
「せっかく身代わり作ったのに、起きてるとこ見られたら台無しじゃない」
「う、うん…」
ルネは部屋の明かりを消して回ると、渋々私の隣の床に寝転んだ
この窮屈な寝床は存外にいい
窓から見える心配がないというのは、こんなにも心落ち着くものだったのか
「なんかいいことでもあった?」
今日のルネはキルフェボンのタルトみたいな甘いいちごの香りを発散している
自分の隣からスイーツの匂いがプンプン漂ってくるのは、寝る前の空腹には効く
「えっ…べ、別に…」
外は静かだ
ルネは落ち着かない息遣いをしている
「寝なよ」
私は普段と違う寝床で寝るくらいどうということはない
大体ここへ来てからずっとそうだし
こんな暮らしにすっかり順応して、その日暮らしに落ち着きを見出している
ここでは真冬に野宿をしていても、凍えこそすれ死ぬことはない
みんな親切だし、ひもじい思いもすることはないだろう
しかし、プラッドは私達を襲ってくる
ただ物忘れする程度で大して困ることはないが、一緒にいるルネまで巻き込んでしまったのは私の至らなさだ
大体二人がかりでやられてしまうというのは、相当やられてしまっているのではないか
大人数に取り囲まれたということはあり得る
バーのときも4人はいたわけだし
もうちょっとで眠りに落ちれそう、というところで不安の種が芽生えてしまった
「…ブランは何人までいっぺんに相手できるのかな」
「…えぇ?」
何を今更、というトーンのえぇ?だ
「いや…向こうが徒党を組んで襲ってきたりしたらと思って…」
「徒党を組んでたでしょ!あっちは4人もいたのに、つむじは連中を挑発して…」
「えっ…私そんなことしたの?」
「ほんとに何も覚えてないの!?あの時何言ったかも!?」
「…ごめん」
覚えていないことで責められるのも理不尽な気はするが、どうも私の油断が招いたことのようだしここは謝っておく
「…もういい」
ルネは寝返りを打って背中を向けてしまった
さっきまでの甘いスイーツの香りは雲散霧消してしまった
ルネの気分を害してしまったようだ
「ほんとにごめんね」
謝っても詮無いことだが、今の私には解決する力や知恵が足りていない
また取り囲まれたら同じ目に遭うだろう
この世界に来て、初めて本当に欲しいものを見つけた
もっと力が欲しい
何でもいい、ただチヤホヤされるだけではない、人に示すことが出来る力が
…望んで賜ったわけではないアレは置いとくとして
その夜は鳴子が鳴ることもなく、ブランも私達が玄関を開けるまで寝こけていた