第33話①
「やぁやぁ。プラッドと一悶着あったって?」
ノーメイクのキャッツ・ポウは今日も真面目に補習に現れた
私は件の一悶着のせいで一日休んでしまったというのに、この落ちこぼれは皆勤賞なのだ
こんなどうしようもない夏は人生で初めてだ
「一方的にやられた。…らしい」
「あいつらすぐ手が出るし、執念深いし、嫌い」
とにかくまず人にアヤつけないと話が始まらない人種ってことだ
恐らくこの先も違う生き方を学ぶことはないだろう
そもそも連中の利益とは何なのだろう
「さあね。色街でもいろんな噂話は聞くけど、あいつらが何のためにコソコソしてるのかは全然わかんないよ」
「はいみんなご苦労さま。今日もやるよ」
ルーを従えて先生が入ってきた
小さなルー
先生とはどこまでの関係なのか
だめだ、補習に集中しないと
本人らを目の前にして卑猥な想像をするのは私が耐えられない
この日は歴史の授業だった
私にとっては未知の歴史のはずだった
だがその内容はルール占領によるポアンカレ政権の失墜、ヤング案からの世界恐慌、フランスの2月6日事件…
第二次世界大戦が始まるまでのヨーロッパ史だ
現実の歴史はこの世界にとっては神話みたいなもののはずだ
ニコライ二世の遺産とか、確かにちょっと作り話じみてはいる
みんなが一体どういう気持ちでこれらを解釈しているのか定かではないが、落ちこぼれ達は真剣に話を聞いている
いや、真剣には言いすぎた
ルー以外はみんな半目だ
それよりも、これがテストに出たはずなのに間違えて補習させられている私の面目とは
きっとこの世界に転がり込んだショックで忘れていたのだ
そうに違いない
でなきゃ困る
その後も、駆け足でヨーロッパ史をおさらいしていった
驚いたことに、歴史は大戦を終えてドイツの東西分裂まで及んだ
私の記憶が書き換えられているのでなければ、かつて私が学んだ通りの史実だ
ここの住人が概ね従っている時代性より多少未来の話になる
今ここにはないが、多分教科書にはもっと先のことも書いてあるのだろう
多分、って?
補習を受けているような人間が律儀に予習をするとでも?
それに先生お手製のガリ版には、なんとキューバ危機やベルリンの壁崩壊まで書かれた年表が付いていたからだ
しかしそれではたと気が付いた
これは先生が人に話して聞かせたい歴史なのだ
小学校のころ、野球好きの男子がお気に入りの球団の活躍を年表にまとめて、友達に配っていたのを思い出した
良く出来てはいたが、彼の熱意をみんなが理解できたわけではなかった
いわゆる歴女というと推しの武将を熱く語ったりとかするものだが、この先生は歴史そのものに取り憑かれているのだ
誰も記憶していない異世界の歴史を語って聞かせることが、先生がやり遂げたい夢だったのだ
しかしこういうことなら、もっと記憶を残している人がいてもいいはずだ
ただそれをこの世界の出来事と思ってはいないだけで、オズの魔法使いや赤毛のアンみたいな、昔読んだ物語の記憶だと思っているのだとしたら
無論私がそうでないという確証はどこにもない
ここを死後の世界だと思っている私の方がおかしくて、スマホやアウトレットモールがある未来文明を描いた物語を、前世の記憶だと信じ込んでいるパラノイアかも知れない
もちろんそうではないと確信をもって言える
だが認知のおかしい連中はいつもそう言うのだ
ルネだってそんな私の話を親身になって聞いてくれているが、本当はただ面白がっているだけかも知れない
いかんいかん、こんなこと考えていると本当にパラノイアになってしまう
「…かくして、民主化によって劣位に立たされることを恐れた東ドイツは強硬に社会主義に依存し、これが改革を進めていたソビエトと袂を分かつ引き金となってしまいます」
そろそろベルリンの壁が崩壊しそうだ
少なくともハルコ先生は1990年以降の教育を受け、ここにいないみんなはその歴史の授業を受け入れている
それでいて昭和初期みたいな文化水準に甘んじていたり、かと思うと高度成長期の団地や先進的なコインランドリーがあったり、ジェネレーションギャップのパッチワークみたいになっているのがこの世界だ
まぶたがくっつきそうなときに見てる夢の世界によく似ている
「じゃあ今日はここまで。明日は小テストするからしっかり復習してくるように」
ハルコ先生がカランカランと一等賞の鐘を鳴らすと、みんなパチっと目を覚ましてそそくさと帰り支度を始めた
目をこすりながら伸びをしているキャッツ・ポウに聞いてみる
「今の授業わかった?」
「ホーネッカーがゴルバチョフをがっかりさせて失脚、書紀の誤った認識から直ちに出国を認めると報じられると、国境に民衆が殺到して収集がつかなくなり壁が崩壊」
「…今そこまでやったっけ」
「これは授業でやった。歴史は結構得意だったんだけど、まあ、その日はご贔屓様が熱心で。テストだけパッとしなかったの」
それは聞き捨てならない
「因みにそのご贔屓様、誰だか聞いてもいい?」
「それは駄目だよ。お客の秘密は絶対厳守」と、お口にチャックのジェスチャーをしてみせた
キャッツ・ポウはある意味品行方正だが、要はそれが学業に向けられていないだけだ
こういう生真面目さを持たなくても生きていける世界だと思っていたが、最近その勘違いに気付かされることが多い
「あーあ、仙人になりたい」
伸ばした肩がポキポキいう
本当に年を取らないしずっと健康なのだろうか
それも不安になってきた
「つむじは絶対霞だけじゃ満足しないと思うけど」
「それはそう」
そういうときはこっそり下界に降りて羽目を外せばいいのだ
ヴィーガンのチートデーみたいに
「じゃあねつむじ仙人。明日も修行サボんなよ」
「うむ。そちも励めよ」
「何が『そちも励めよ』だよ」
「うわ!」
廊下でキャッツ・ポウを見送ると、背後からの私を真似する声に驚いて飛び退いた
「ルネ…なんで学校に」
律儀に制服まで着て、用もない学校に来るなんて
「お祭りの準備に来てくれって。フレオは他の用件で先に出かけたから呼びに来た」
「わざわざ迎えに来たってことは、この足で?」
「そうだよ。ほら急いで」
大姫祇園が近づいて、街中がにわかに慌ただしくなり始めた
嵐と行った海ではみんなはバカンス気分だったのに、その時既に街はお祭りに向けて動き出していたらしい
大姫祇園は街を挙げての大イベントで、電車も夜通し往復し、三日三晩騒ぎ続けるという
街を挙げてということはこの世界全部がということだ
裏方はたまったものではない
「花火大会の会場は以前は持ち回りでした。商業施設の多い一服寺と娯楽施設の多いザナドゥとで利害が一致しなくて」
彼女は学校の枠を越えた行政組織、文化局催事課の主任で、大姫祇園を始め催し物の調整を行っている郁金香の生徒だ
我々アネモイの部下でもある
私とフレオの決闘も、彼女ら催事課が委細を手配した
官邸に集まるまでもなく、彼女は校門で私達を待っていた
「ですが双方の溝は埋まらず、とうとう2会場で同時に開催することになってしまいました。すると当然客足も分散して、屋台の売上も全く奮わなくなりました。来場客の間からも不満があがって、事態を重く見た関係者全員で議論が尽くされたんです。その結果現在の形式に落ち着きました」
現在の形式とは、一服寺とザナドゥの中間にある高天原を打ち上げ会場とし、その駅前に双方の屋台を展開するというものだった
要するにルネの家のド真ん前が一番の盛り場になる
また高天原はこの一帯で最も高いところに位置し、ここから打ち上げれば、まともに陽も差し込まない銘酒屋以外のリリカポリスほぼ全域で花火を見ることが出来た
かくして双方妥協に至ったというのだが、立地を考えたらここが真っ先に候補になって然るべきだ
なぜわざわざここを素通りして他の街に行ったのか?
「もちろん高天原でも開催したことがありました。でも反対があったんですよ」
他でもないこの高天原から
そもそも持ち回りならここを素通りしていくのはおかしい話だ
花火がいつから始まったのかはわからないが、その当初から反対意見が根強くあったのだという
華々しい両端の街に比べて生活色の強いこの街は、お祭り好きのパリピよりもリンネルとか読んでそうな暮らし系女子が多いのかも知れない
静けさを好み喧騒から離れてマイペースに暮らす…
いたわ、すぐそばに
私は後ろを振り返った
「…え?…あたしじゃないよ!」
まあ確かにルネはプロテストに熱を上げるタイプではない
どちらかといえばそういう連中を皮肉屋の目線で冷ややかに見ている方だ
でもそれ以上に騒々しいのを嫌っている
「花火は好きだよ。屋台の鈴カステラも」
「反対が多かったのは花火のすぐ下です。うるさい、見づらい、灰が降ってくる等々、理由は様々でしたが、尤もな反対意見ばかりです。でも一番は、普段はここに来ない人達が街を歩き回ることだったんです」
と両手で地面を指さした
花火見物の特等席を探して住宅の屋根に登ったり、友達の寮に集まって夜通し騒いだり、リリカポリス中のパリピが我が物顔で閑静な住宅街を闊歩した
にも関わらず、両隣の街を退けてここが打ち上げ会場になって数年経つという
「この街の子がよく我慢してるね」
「もちろん見返りはあります」




