第30話
案の定ルネは海が存在していることを知っていた
話さなかった理由も最早聞くまでもない
「じゃあどこなら遊びに行きたいの?」
「何よ、”じゃあ”って」
一言入れるのもすっかり忘れて、私だけ海に行ってしまったことをまだ怒っている
あのときはルーの目のやり場に困るシーンを目撃してしまってそれどころではなかった
大体ルネは自分では人でごった返すところに行きたがらないくせに、私一人でそういう場所へ行くとこうやってへそを曲げるのだ
「ルネもどっか行きたいところあるでしょ、夏休みなんだし」
「夏休みだからって行きたくなる場所はない」
私も子供なら意地を張って行きたいところを聞き出そうとするところだが、生憎もういい大人だ
些細な事でわざわざ喧嘩する稚拙な青春は、遠い昔に置いてきてしまった
「じゃあ家でゴロゴロするか」
ちり紙交換に出す本の山から読み飽きた週刊誌を引っこ抜いてきてベッドで広げた
この世界の週刊誌なんて町内会の会報ぐらいの情報しか載っていないし、表紙以外は全部白黒だ
おまけに時々自分の写真や記事まで載っていたりして、気分がいいことばかりではない
『新女王、補習をご視察』とか、見出しもいちいちイヤミだ
揺れるハンモックの中で、ルネは憮然として『昼顔』を読んでいる
女王襲名からこっち、忙しくて例のワードローブを買い求めるのすらままならなかったが、取り急ぎ寝床だけは調達してきたのだ
もちろん私がハンモックに寝るつもりだったが、季節柄ルネはこの風通しのいい寝床を気に入り、以来私が代わってルネのベッドで寝ている
寝室の角からクローゼットの柱にかけてぶら下げられたハンモックは、ベッドの足の方の上を斜めに横切っている
私は週刊誌をめくりながら足ではルネの尻を押しやり、ハンモックを揺らしていた
開け放った西側の窓から温まったい空気が押し入ってくる
私は活字を追うルネの横顔を眺めているが、ルネは本から目を上げない
「この本じゃなかったなー」
また別な週刊誌を取ってベッドに戻り、今度はハンモックのルネに寄りかかって座る
「暑い」
「なら涼みに行こうよ」
そうは言ったものの、10万人からの人間がひしめいているこの狭い街に、誰も来ない涼しい場所なんてあるものだろうか
この世界で数少ない冷房がある場所の一つは、実はルーのキャバレーだ
もちろんルネが行きたがらないばかりか、私だって昼日中からしけ込んでいられる立場ではない
私は遠い日の夏休みを取り戻そうとでもしているのだろうか
そこへルネを連れていきたいのだろうか
「一人で行けばいいでしょ」
ルネはにべもない
そうだ、やっぱり私はルネを連れてどこかへ行きたいのだ
別にお礼がしたいとか、そういうことではない
私がひととき袋風荘にいたあの頃、夢に出てきた孤独なルネ
就職で一人暮らしを始めた時の開放的な気分なんて最初のひと月くらいのものだった
それから後の誰が訪ねてくるでもない毎日
一人きりのルネを想像するとそれを思い出してしまう
ルネに対する良心の呵責でもなんでもなく、ただ私がその時の寂寞とした気持ちを思い出すのが嫌なのだ
私のわがままと言われようとなんだろうと
「ルネも一緒に行くんだよ!」
ハンモックの反対側を掴んでルネごとベッドにひっくり返すと、夏物のカゴからワンピースとショールを掘り出してルネに叩きつけた
「どこに!」
どこだってよかった
ただルネをここに置いていくことも、私一人で出かけることもしたくはなかった
私が着替え始めると不承不承ルネも支度を始めた
私一人で海に行ったことで口をとがらせているより、私の自己満足に付き合わされている方がまだマシというものだ
そうであって欲しい
未だ渋るルネの手を引いて玄関を出、まず駅前の売店で冷たいラムネを買った
売店がラムネを入れてくれたびん玉編みの袋を下げて歩き出す
いつもは白黒袴の3種類の人間しかいない街だが、夏休みは誰がどこの生徒だかまるでわからない
今度制服姿で会ったとき思い出せる自信もないまま、振られるままに手を振り返す
「愛想がいいことで」
「いいことでしょ」
むくれるルネを連れ立って日陰伝いに街を歩く
この街に私だけが知っていてルネが知らない場所などあるわけがない
私がどこへ向かおうとルネを驚かすことはないだろう
それでもルネが私の後ろを付いてきているならそれでいい
深緑の草木を追い風が煽ると、一瞬不機嫌な青いいちごの香りが漂ってくる
線路沿いを一服寺に向かって歩いていくと、住宅街の中に大きな雑木林がある
ここでは檜が鬱蒼と茂って薄暗い裏山だが、私の記憶では桜が植えられベンチや遊具などが整備された立派な公園だった
今は姿が見当たらない住人によく踏み固められたのであろう、山沿いの裏道を歩いていく
不意にルネが立ち止まって後ろを振り返った
「どうしたの?」
「何かいるような気がする」
何かと言っても、人に危害を加えるような動物はここにはいない
あの狼がそうであったように
クマか何か出そうな茂みではあるが、いたとしても従順で人懐っこいか拳で殴り倒せるかのどちらかだ
人間の脅威にはならない
「風なんじゃない」
「…そうかな」
「そうだよ」
あとから思えば、そんなものがいないのは百も承知のルネが足を止めたということに、もう少し気を払ってもよかった
山沿いの道を真っ直ぐ行くと、一服寺のペデストリアンデッキに出られる
普通ペデストリアンデッキと言ったら階段で上り下りする人工的な地盤だが、ここでは地形のお陰で丘の上と同じ高さにデッキがある
だから道を真っすぐ歩いてくればデッキに出てしまう一方で、一段低くなっている駅の向こう側までは緩やかに下り坂が続いている
「こっち」
ルネの腕を強引に引っ張って裏道を左に逸れ、不満を漏らすルネの背を押しながら裏山を突っ切った
あのまま駅に出ても私にも珍しいものはないし、ルネだって人混みは楽しくあるまい
結構な高低差を駆け上がり、裏山を抜けると瓦屋根の家並みが現れた
この一帯は建築様式がまるで違う
高天原の丘は石畳に白い漆喰壁の家々が立ち並び、南欧のような風情を漂わせる
それに対して一服寺の周辺は閑静で、塀で囲われたお屋敷が軒を連ね、物見遊山でうろつくのが憚られる雰囲気だ
私を女王だと持て囃す声もない
「ここ昔は沢があったんだよ」
ルネの過去には興味が尽きないが、殊更追求しなくてもこうしてぽつりぽつり自分から話すことも増えた
それに急かさなくても時間は無限にある
最近ようやくそれがわかってきた
だが真の悠久はずっと遠くにあって、私はまだその戸口から覗き込んでいるだけに過ぎない
ルネがこの時の淀みにはまってどのくらい経ったのか、その辟易とした口ぶりから十分伝わっている
ここはやっぱり地獄に違いない
それにしては随分と居心地のいい地獄だが、何が一番人を苦しめるか知り尽くした者の設計なのだろう
その何者かがルネの道連れに私を選んだ
だから記憶を持ったままここに引きずり込まれた
そんなふうに考えたら私は急にこの道連れの手を握りたくなり、ラムネを持つ手を変えた
「暑いでしょ」
そういうルネの手はひんやりとして気持ちいい
むくれてはいるが、まんざらでもなさそうなのが漂ってくる甘い香りでわかる
石垣の上に囲いが建てられた街並みは、角の向こうから辻斬りや同心が現れそうな緊張感がある
でもそんなものがいないとわかっていれば、手をつないでそぞろ歩くには悪くない雰囲気だ
私の知っているこのあたりは、家の大小立地に関わらず車が白いベンツだらけという、色々な事情が垣間見える狭い路地だった
ひところは、都内の山の手に家を手に入れ損ねたサラリーマン達が「うちも多摩川を渡ることになった」なんて言って、通勤時間を犠牲に立派な戸建てを求めてこの辺に越してきたのだという
「そうまでして住みたい街かな、ここは」
ルネには何度となく未来の住宅事情を話してやったが、ベッドタウンという概念が理解できないみたいだった
一度その辺を突っ込んで聞いてみたが、以前は丘を埋め尽くすような住宅も、スターハウスを始めとする団地群もなかったようだ
人とともに徐々に増えていった、らしい
ルネは素朴だった自分の街に続々と人が集まってきて、勝手に賑わい出したのが面白くないのだ
だからあんな探偵事務所みたいな、都会のど真ん中にあって社会から取り残された部屋に住んでいる
しかしこうして否応なくここに落ちてきた女の子達にだって、住むところが必要なのだ
求めよさらば与えられん
ほどなく道が二又に分かれた
右は道幅が広いが先の方で下っているのが見える
私達は迷わず左の小路を選んだ
狭い路地にはもったいない立派な築地塀があしらわれ、その向こうには背の高い庭木が覗いて見える
何をどうしたらこうなるのか、ここは本当にお金持ちの街のようだ
「あたしここ知らないな」
驚いたことにこの街にもまだルネの知らない通りがあった
私はルネを出し抜いたことと、ささやかではあるがこの街の未知を共有出来たことに高揚した
私が上機嫌でこの見知らぬ小路を歩き出した途端、またルネが足を止めて後ろを振り返った
「やっぱり誰かいる」
「忍者でもいるっていうの?」
何もない塀に手裏剣を投げつけると、隠れ身の術で塀と同化していた忍者が倒れてくる
そんなごきげんなアトラクションまでは期待しないが、忍者というのは結構な割合でくノ一がいたと言うし、金持ちが金持ちたる秘密を隠すために何者か雇って屋敷の周りを見張らせている可能性は十分ある
逆にそういう連中から見たら、私達の方がコソコソ嗅ぎ回っているように見えるくらいだろう
ルネはとうとう今来た小路を引き返し、二又まで戻って通りを見回し始めた
ところどころに木の電柱が建っているが、人が身を隠せるような物陰はない
「思い過ごしだよ」
ルネも納得はしていないようだが、草を探るのは諦めた
だがまた小路を進み始めると、今度は私にも気配が感じられた
息を潜めると、履物が砂を踏む音が近づいてくるのがはっきり聞き取れる
「つむじ…」
ルネは私の左腕にしがみついて背後を窺っている
私はもうただの転校生ではない
女王だ
私はルネと繋いだ手に力を込め、大股で小路をゆく
背後から聞こえる足音が早くなった
私達に追いつこうとしているのだ
小路の突き当りに少し大きい通りが見える
人通りもあるだろう
そこまで出れば
「こっちは遠回りだよ」
門扉の陰から現れたマリークワントが私達の行く手を遮った
つばの裏地がギンガムチェックのキャスケット
その後ろから同じような格好の3人が並び出た
みんなビビッドでモダンなファッションには不釣り合いなチェック柄をどこかに身に付けている
プラッド
手前の一人は嵐に連れられて寄ったバーでアヤをつけてきたサリーちゃんだ
囲まれたのかと思って後ろを振り返ったが、足音の主はいない
「急ぐなら別な道を行きな」
私が恐れる必要のない相手だとゾンダ様は言った
どけと言うのは簡単だが、それでは相手が私の前に立ち塞がっていることを認めてしまう
「私はここを通る」
キャスケットの眉間に一瞬シワが寄った
まずは一手
すると、フッと鼻で笑って
「いいさ」
だが道を空ける素振りはない
「でも連れは駄目だ」
生意気
それに道理も通らない
もし私一人だったら黙って通したのか?
4人も連れ立ってやることが通せんぼか?
…ははぁ、わかった
私は急にひらめいて、ルネの腰に手を回して抱き寄せた
「私はルネを連れてここを通る」
やっぱりだ
こいつらはカップルが気に入らないのだ
顔にはっきり書いてある
バーのときだってそうだ
嵐と談笑しているところに絡んできた
寂しい連中が徒党を組んで、連れ合いのいない憂さを晴らしているというわけだ
「お偉くなったもんだねえ、転校生様は」
偉そうなのはどっちだ
でも挑発の仕方はこれで合ってることがわかった
「私の女に手を出したらどうなるか…試してみる?」
私は連中をねめつけたままルネの髪に顔を突っ込んで、キルフェボンのタルトみたいな甘いいちごの香りを肺いっぱいに吸い込んだ
サリーちゃんは目をキョロキョロさせている
君らがカップルを憎悪する気持ち、手に取るようにわかるよ
たっぷりとフラストレーションを溜めるがいい
しかし私は次の手を用意していなかった
厳密に言うと次の手は奥の手だが、流石にこんなことで使うわけにはいかない
なんとなれば、カップルの前に立ち塞がっていればいるだけ惨めになると思うのだが、彼女らは一向にどこへも行こうとしない
「見せつけてくれるじゃないさ」
痺れを切らした後ろのプラッドが進み出るのをサリーちゃんが顎で制した
「女王さまは回れ右でお帰りになるとさ」
「何を言っ…」
サリーちゃんが上に向けた手のひらをふっ、と吹くと、キラキラ輝く細かい粒子が舞い上がった
それを予想もしていなかった私は粒子をしたたかに吸い込んでしまった
嗅いだことのある香りが記憶を呼び起こす
嵐に連れられて行ったあのバーの、炒ったナッツの香りだ
「これは…っ」
言い切る前にむせた
ルネも吸い込んでしまったのだろう、ゴホゴホ言っている
「まったく、厄介なのを連れてきてくれてさ」
目の焦点が合わなくなってきた
怪我や病気はしないのにこういう目に遭うことはあるというのか
ずるい、一方的じゃないか
私はルネを抱えて立つのが精一杯だった
立っているつもりだった
私の足は自分の体を支えることもできず、あっけなく膝を屈してしまった
ルネがどうなっているのかもわからない
まぶたが張り付きそうだ
プラッドが二人がかりで私を引きずっていく
何をする気なの
そう声を発したつもりだったが、私の口から出たのは言葉ではなかった
駄目だ、体のどこにも力が入らない
「何をしている!」
プラッド達の後ろに人影が見えた
凛とした声
「クソッ!あいつらまで!」
プラッド達は私達を放り出して、私達が来た道へ逃げて行った
ピィ───ッというけたたましいホイッスルが狭い路地に鳴り響いた
「回り込め!」
人影には仲間がいるようだ
同じ格好の人影がプラッドを追って走り出した
歩み寄ってきた人影のメガネに映り込む自分の顔で私の記憶は途絶えた