第25話①
しかし何故私はルネに本当のことを言わなかったのだろう
翌日学校に行ってみると、野良犬は私が退治したことになっていた
「居所を突き止めただけだよ」
「でも昨日までいたところに今日は出なかったってよ」
実際にあの狼を目にしたクラスメイト達は口々にそう言った
「ここんとこ毎朝見かけたんだから」
毎朝見ておいてあれを野犬と言ってのけるのもどうか
「まあとにかく、まだいなくなったってわけじゃないから」
と言っても皆あまり真に受けてくれない
そもそも野生動物がいたところで死を克服したこの世界では大した脅威ではないし、学校の周りに現れる変なおじさんぐらいに思っているだけかもしれない
いや、変なおじさんはれっきとした脅威だ
いいとは言われたが、昨日ああいった手前顔を出さないのは不義理というものだろう
ちゃんと食べてはいるという言葉を信じて、軽く学食でカツサンドをテイクアウトにしてもらい、写真を頼りに温室へ向かった
ルネには野犬に話をつけてくると言って学校を出た
一緒に行くと言うのを期待したが、興味なさそうに「じゃあ先帰ってる」とだけ答えた
今日は久方ぶりの晴れ間
雲も目立つが、今のところ雨雲ではなさそうだ
昨日通った温室への小路には迷わずたどり着けた
ほらご覧、どうだ
とドヤ顔をするのは温室に着くまで取っておこう
身をよじりながら肩幅より狭い家と家の隙間を抜けていく
隙間を一つ抜けるたび、昨日撮った写真を逆の順番で参照する
次の入り口もすぐに見つかった
体を横向きにしても鞄を背負ったままでは通れないので、片手にカツサンドの包み、もう片手に鞄を持って進む
開けた空間に出ると、いっぺんに高原の空気に満たされる
ほらご覧
光がたっぷりと差し込む温室は、昨日とは打って変わって幻想的な空間に見える
「わんわん、いる?」
あれからまた養畜部に行って、ラビから犬用のジャーキーをもらってきていた
飼い主のご飯の傍らでよだれを垂らしている犬というのは見るに堪えない
奥の薄暗い空間から白い影がゆっくり近づいてくる
こうしてみてもやはりでかい
でかいハスキーといった風体だが、全体に鋭い
マズルも長いし足もすらりとしている
私のそばまで来ると、スンッと鼻をひと鳴らししておすわりした
おすわりしていても私の胸ぐらいまである
「ほら、お手は?」
と手を出すと、金槌か何か手渡されたような重たいお手が返ってきた
「よーし。はい、おやつ」
飼い犬は人の手から物を食べられるが、野生動物は出来ないとラビが言っていた
狼は私の手からジャーキーを取って、地面に伏せて前足で押さえながら取り掛かり始めた
大型犬はぐるぅぅぅと低く野太い音で喉を鳴らすのでちょっと怖いが、でかい人は声が低いのと一緒だ
特に怒っているわけではない
慣れないと怖いけど
流石に頭を撫でるのはまだ怖い
「ご主人さまはいるの?」
問いかけても夢中でジャーキーをかじっている
カズリやサヴィリと比べてもかなり獣感が強い
もしかすると本当にただの獣なのかもしれない
ふとヴァンパイアを殺す銀の銃弾を思い浮かべた
この世界でも私達を殺すことができる何かがあるかもしれない
それがこういう獣だったら?
そう考えたら、急にこの世界での短い人生が惜しくなった
もうとっくに死んでるのに
「わあ、本当に来られたんだ」
女の子は私の後ろから現れた
外出していたのだ
私がまたここに来れたことに、心底驚いているように見える
「そりゃあ、言ったからには来るよ」
「もしかしたら、あなたは特別なのかもしれないな」
ひとまずは褒め言葉と受け取っておこう
「そうだ、これ。学食のだけど」
持ってきたカツサンドの包みはまだ温かい
「ちょうど今外でご飯食べてきたところだけど…あとでもらうよ」
気持ちなので受け取ってもらえればそれでいい
それにしても普段外を出歩いているのに誰も気付かないのか
「どこでご飯食べてるの」
女の子はちょっと考えて
「外」
と後ろの方を指さした
「外にもレストランとかパン屋とか、色々あるでしょ」
「今日は五目雑炊、鰆の餡かけ、たらの芽の胡麻和え」
随分渋いものを食べてる
「健康そうなメニューだね」
「健康ね…まあそれが第一なんだろうね」
なんだか他人事みたいだ
ただそういったヘルシーメニューが出る店は生憎まだ知らない
どこの店か尋ねようと思ったが、今日はちゃんと用を済ませて帰らないと来た意味がない
「あの…昨日聞きそびれて…。ここに来たのはわんわんのことなんだけど」
女の子は奥歯でジャーキーを噛み砕いている狼の頭をガサガサと撫でた
「ここに一緒にいるけど、飼ってるってわけじゃないよ」
「道に犬のおやつを撒いてたのは?」
「おやつを?…さあねぇ。こいつは落ちてるもの食べたりしないから」
明らかに飼われている
そうでなかったら何か他の野生動物を捕食している
ただ道々のビスケットはなくなっていたので、置いとけば食べはすると思う
「最近ここら辺に野犬が出るって噂になってるんだよ」
「害はないでしょ」
時々こういう人いる
害がないからと不審な現象や見慣れない物でも放置しようとする人
「でも今まで見なかったんだよ?なんで急に今になって」
「質問が多いなぁ。質問をしに来たの?」
それもそうだ
問題が解決すればそれで済む話だ
「飼い犬っぽく見えるように出来ない?」
「飼ってるわけじゃないっていうのに」
「…同居犬に見えるように」
女の子はベッドサイドに置いたカツサンドの包みを開けると、一切れを狼に差し出した
狼さんはジャーキーを半分ぐらいでほったらかし、早速カツサンドに飛びついた
別に誰が食べてもいいけどさ
「首輪か何かする?」
「それ。そういうの」
しかし首輪と聞いた途端、狼はウーと唸りだした
「首輪は嫌なのかい?」
ガオ!ととても犬とは思えぬ返事で答えた
興味があるかどうかは別として、やっぱり人の話は理解できるようだ
そも首輪もなしでどうやって散歩させているのか、という疑問は答えてもらえなそうだし、今までは騒がれてなかったんだから何か解決があるのだろう
今はこの巨体が街を練り歩いてもみんなが不審がらない工夫が必要なだけだ
何しろここまで獣獣したなりだし、人の手が及んでいることを示さないと
「…唐草模様の風呂敷とかないかな?」
「豆助みたいに首に巻くの?」
「!豆助知ってんの!?」
豆助とは、ついこの間放送が終了したテレビ番組に出ていた子犬だ
12年間ずっと唐草模様の風呂敷を首に巻いていた
この世界でとうとう見ていたテレビ番組の話題が通じる人間に出会った
そしてそれは同時に、この子は記憶を持ったままここにやってきたということを意味していた
私やルネのように
となるといきなり根掘り葉掘りするのは憚られる
仲良くなりたいと思う人でなくても、最初のコミュニケーションに失敗してその後顔を合わせづらくなる人が増えるのはごめんだ
ましてや貴重な記憶を持ったままここに来た人間だ
でもどうしても聞いておきたいことがある
「何代目好き?」
「何代目って言われても…どれが何代目か知らないし…」
「そっかー。私はね、9代目が好き」
この世界じゃあるまいし、12年間ずっと子犬でいられるわけではないので、豆助は何度も代替わりしている
9代目は三角形の目とカワウソみたいな口元が愛らしいのだ
「とにかく唐草模様の風呂敷はここにはないよ」
雑貨屋に売ってるだろうか
それなりの大きさじゃないとあの首周りに巻くのは難しい
首
自分の襟元の藤色のタイを見る
この三角タイはかなりでかい
それを襟の背から角が出ないように何度も折り返して巻くので、リボンの部分が水芭蕉のように包まった形になる
中学以来のセーラー服だったので、結び方はルネに何度も教えてもらった
…の割にルネは自分の制服のタイを結んだことはなかったが
サラリーマンのベルトみたいに、服に通しっぱなしなのだ
早速タイをほどいて広げてみる
ただの三角の布だ
大きさも十分
「わんわん、おいで」
ウンともスンとも言わない
「狼さん、ほら」
しゃがんで手を叩くと、ちら、とこちらを見る
「…この子名前ないの?」
「特に呼ぶ必要がなかったから」
犬とはおいで、ごはん、さんぽ、の三語で大体コミュニケーションが取れる
お手、は手を出せばお手を返してくるし、お手と言っただけではお手を返してこないのでなくてもいい言葉だ
名前は何年も呼んでいるとそれが自分のことを指す言葉だと理解するらしいが、ごはんやさんぽのようにすぐには覚えてくれない
「あーもう、しょうがない。ほら、これ」
私は意を決してこの巨大な野犬の首に腕を回し、藤色のタイを巻いた
割と大人しい
というか大型犬は基本的に大人しい
力を振るえば脅威はいつでも排除できると思っているから余裕がある
ちゃんと洗ってある犬とはなんというか、冷えた布団のような匂いがするものだが、この狼は特徴的な匂いは何もしなかった
そもそもこの空間は様々な草花と腐葉土の匂いが充満していて、ものの匂いがはっきりとはわからない
豆助とはちょっと違うが、首の後ろでタイを結んだ
この世界の犬といえど紐を結んだりはしないだろうが、首の後ろなら明らかに誰かが結んでやったものだとわかる
ちょっとウエスタン…というか忍者犬っぽくなってしまったが、これなら野犬には見えまい
藤色のタイが白い体と相まって、なんだか私達の学校の一員のようだ
我ながらナイスアイディア
「どうよ」
狼は首元を見たいのか頭を左右に振るが、見えるわけがない
早速前足でわしわしやって外そうとする
「待って待って!がまん、がまんだよ」
前足を掴んで諦めさせる
前足で掻くのはやめたが、不服そうに首をぶるぶるしている
「ほどけてたら結んでやってよ」
と女の子に頼んではみたが、「そういう問題じゃないと思うんだけど」と全然興味がなさそうだ
「あんたも、ほどけたら自分でこれ持ってきて、あの子に結んでもらうんだよ」
仕方がないので当の狼によく言い聞かせる
とりあえず首は縦に振ったので、女の子よりはあてになりそうだ
「今までは騒がれてなかったんだから、こいつが急にそんな格好したって根本的な解決になってないでしょ」
なんだ、わかってんじゃん
「なら何か思い当たるフシとかないの」
「飼ってるわけじゃないもの」
「頼りになんないなぁ」
私にしたって名前も知らない幼女を頼るしかないわけで、あんまり言えた義理ではないが
「あたしを頼られても何もできないよ」
「まあ、バケツの穴は塞げなかったけど、とにかくこれで漏れた水は受け止められる」
首にタイを巻かれておすわりしている狼はなかなか様になっている
本人…本狼?も満更でもない様子だ
「どうかな。水はとめどなく流れ込んでくる」
約一名お気に召していない人がいるようだが
「でも害はないって言うんでしょ」
「それが必要だから起こるんだよ、世の中の出来事は」
狼が外を歩き回ってみんなが不審がる必要は誰の求めなのだろう
私は野犬の対処を求められてここに来た
持ちつ持たれつというか、私の働きを示すために問題が提供されているという可能性もないではない
こういう世界だ
でもそれがこの狼でなければならない理由は見当もつかなかった
日が伸びてきたこともあってまだまだ外は明るい
「…あんた散歩行く?」
狼は「さんぽ」と聞くやヒョイとおしりを上げて尻尾を振り始めた
やっぱり犬だ
飼い犬だ
「あなたも一緒に行く?」
せっかくだし、世間様がこの狼をどう受け止めているのか見ておいてもらいたい
同居人ならせめてそのくらいは
「今帰ってきたところなんだよ?」
この取り付く島もない感じはルネ以上だ
あまりにもマイペース
まあ無理強いしてもしょうがない
「じゃあ行くか。おいで」
狼は私にほいほいついてきた
温室を出ようとしたが、何かが後ろ髪を引いた
立ち止まって振り返ると、女の子はまだこっちを見ている
「…また来るよ」
それが必要だから起こる
聞きたい話もあるし、この狼に会いにも来たい
でもそれだけではない、この女の子とはまた会わなくてはいけない
それがどうしても必要なことに思えた
「あたしは約束はしないよ」
「毎日は来ないよ」
女の子はため息をついたように見えた
踵を返してベッドの方に消えてしまう
「…行こっか」
狼は首を二度縦に振って、足早に私より先に温室の狭い小路に入っていった