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リリカポリス  作者: 玄鉄絢
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第24話①

小学校のとき、食べきれなかったパンを机にしまったまま二週間放置してしまったことがあった

掃除の時間にその変わり果てた姿が見つかったときには、危うくあだ名がカビパンになるところだった

幸いその場は他の子の机からもっとすごいカビパンが出てきて、それを皮切りに我も我もと机の中の遺物を発掘しだして大騒ぎ、しまいには先生まで駆けつけて机やロッカーの一斉点検が始まったおかげで難を逃れた

だからこの季節は緊張感で頭が痛くなる

本当に頭痛になる

冷蔵庫の中身には一瞬だって気が抜けない

仕舞ったばかりの春物が不安で、着ないのに何度も出してしまう

でもお風呂は大丈夫というのが私のささやかなる信仰

しかしそれもとうとう宗旨変えのときが来たようだ


「カビなんて見たこともないよ」

さようならカビの神様

私がいるのは多分天国です

「何もカビないし、腐らないし、ラムネもいつまで経っても気が抜けない。いい加減わかってるでしょ」

「でもさ、焼き魚定食には納豆ついてるし、チーズケーキだってあるよね」

ルーの店にはワインだってあった

「発酵と腐敗は違う」

野菜や果物を腐らせてしまった奴はみんなそう言って叱られるのだ

だがここでは確かに腐敗は起こらない

発酵食品はいつまでも発酵と腐敗の狭間に踏みとどまり続ける

しかしパンが膨れるのだから紛れもなく発酵は起きている

例によって都合のいい匙加減だ

「じゃあ何で湿気だけはどうにもなんないんだろう」

「植物には雨が必要」

人間が食べなくても死なないんだから、多分花だって水がなくても枯れはしないんじゃないか

まあしおれはするかもしれないが


梅雨

今日もしとしとジメジメと弱い雨が降り続く

みんな思い思いの傘で学校にやってくる

汚れはしないが濡れはする

だからみんな思い切ってピッチピッチチャップチャップランランランできる

雨に濡れながらはしゃぐ女学生の姿に、自分にもそんな時代があったのだと遠い昔に思いを馳せてしまう

そして何故かルネも上機嫌だ

「雨に濡れた花は綺麗でしょ」

しゃがみこんで道端のカタバミを愛でながら、柄にもないことを言い出す

「大丈夫?低気圧で頭おかしくなってない?」

「何なのそれ。あたしいつも花に声かけてるでしょ」

そうだっけ

少なくとも声には出してなかったと思う

「遅いですわ!」

校門の脇には大輪のひまわり模様の傘を差したフレオが立っていた

「おはよう」

「ですから、お早くありませんわ!」

朝からご立腹だ

フレオは官邸の執務室から通わなければいけないので、揉みつ揉まれつ電車通学だ

晴れていればタービュランスに乗って来ることもある

「痴漢にでも遭った?」

「痴女でしょ」

「ちっがいますわ!」

フレオは傘と反対の手に持っている用箋挟を私に突きつけた

「今日は立ち番だと申し上げたはずでしょう!」

「えっ」

ああ

そういえば

そんなことを言い付かったような気もする

校門の脇に立って遅刻に目を光らせるあれをやれというのだ

しかし生徒の自主性を重んじる私の母校ではそんなものなかった

だからここへ来て初めて校門指導の立ち番というものを目の当たりにした

普段は週番の仕事だ

でも時々女王が打って出て、より一層の綱紀粛正を図る

たのしい強化月間というわけだ

「女王が顔出しゃ遅刻がなくなるって言うのかねえ」

「遅刻者の顔は、覚えられますでしょ」

女王の覚えめでたくありたいがために、わざと遅刻するものが出たりはしないだろうか


そうこうしている間にも、私のかわいい生徒達は続々と校門をくぐってゆく

「つむじ様おはようございます」

「はい、おはよう」

挨拶していく生徒に笑顔で手を振り返す

こういうのもまんざら悪くない

やんごとない人間の醍醐味を感じる

「そろそろ時間ですわね」

の割にはみんな悠長だ

そろそろと言うなら、今坂の下の角から現れた一団などは絶対遅刻だ

フレオは用箋挟を小脇に挟んで右手首内側の時計を見ている

フレオは左利きだ

決闘のときは利き腕でない右手で槍を構えて挑んできた

ハンデのつもりだったのか、右手で構える作法に頑なだったのか、私にはわからない

フレオが時計を見ていると、小走りで入ってくる生徒が増え始めた

さっき坂の下の角から顔を出した一団も走り出した

残念ながらここには時間のわかるものはフレオの腕時計しかない

腕時計はまだ誰でも気安く買えるような代物ではないし、校舎の真ん中に立つ時計塔は12時を指したまま止まっている

恐らくみんなもフレオを見て時間の見当をつけているのだろう

「…2、1…はいそこまで!」

坂の下の角の一団はあと一歩及ばなかった

「右から順に、クラスと名前」

用箋挟に綴じたリストの空白を遅刻者に埋めさせていく

フレオが用箋挟を持っている間私が傘をさしてやっている

ぞろぞろと遅刻者が列をなし始めた

牧歌的な世界とは言えこんなに遅刻者がいるなんて、たるみ過ぎてやしないか

「ああっ…もう!たまに真面目に登校してみれば…」

しんがりは息を切らしてヨタヨタと坂を登ってきたキャッツ・ポウだ

「クラスと名前、ここに」

「ご愁傷さま」

「聞いてよつむじぃ…遅番でろくに寝てないんだって」

遅刻の言い訳を聞く愉悦

キャッツ・ポウは文句言いながらも律儀に名前を書いている

「ちょっと!源氏名ではなく本名をお書きなさい!」

「本名なんて忘れちゃったよ…」


私も本名なんか思い出せないが別に困っていない

どうせ不毛な人生だった

20何年か積み重ねてきたはずの取るに足らない私の物語は、とっくに最終回を迎えたのだ

でもこうして新しい人生をやり直すのもそんなに悪くない

世の中は都合のいい方に理不尽だし、私は今や特権階級だ

もちろんその代わりに負うべき責任も大きいが、望むところだ

ただ結局こういう雑務に付き合わされているのが気に食わないが


ここは閉じておく門扉はないが、私達もいつまでもここで見張っている訳にはいかない

見える範囲に遅刻者がいなくなったら引き上げだ

あとは授業での出欠に任せる

「遅刻って何かペナルティがあるの?」

「補習に呼ばれたり、反省文書かされたり」

「わぁ、楽しそう」

「本当にそれが楽しいという人がいるんだと思いますわ」

「冗談でしょ」

フレオは自分を指さした

「わたくしは満足に学校に通えませんでしたから」

確かに学校行ってなかったらサボりの味は楽しめない

でも落ちこぼれが楽しそうと思ったことは…

「フレオも居残りなんかしたことあるんだ」

「いいえ」

と肩をすくめる

「わたくし、品行方正がモットーですの」

よい子はワルな行いに憧れてしまうものなのだろうか

げんにフレオは、あれ以来キャバレー通いが続いている

でも仕事をサボったりはしない

フレオが働いてくれないと、私は何をしたらいいかまださっぱりわからないからだ

「…ごめんね、今度お休みあげるから」

「今度という日は来ませんわ」


フレオは失ったものを理解している

だからここで精一杯生きようとしている

アイちゃんは失ったものを受け止めきれなかった

でも死ねないから生きている

人それぞれの事情がある

私には失ったものなんかない

何もない人生だった

でもここで精一杯生きているわけでも、死ねないことに耐えているわけでもない

生きていた頃と同じように、ただ漫然と過ごしている

漫然と過ごしていたら財を築いてしまい、いつの間にか女王に奉られていた

悪くはない

むしろツキが回りすぎているくらいだ

だがこれでいいのだろうかと、ふと考えてしまう

これだけでいいのかと

私はただその日暮らしをしているに過ぎない

それを支えてくれているルネやフレオには感謝してもしきれない

しかしそれすらも、向こうから転がり込んできたツキに思えてならない

別に傲慢で言っているのではない

私は何もしていない

私は赤ちゃんのように、与えられたツキを与えられるままに享受して、今のこの地位を恣にしている

教室には私の席がある

もしルネが泊めてくれなくても、袋風荘たいふうそうには私の部屋があったはずだ

食べるものにも着るものにも困らない

『あなたがやりたいことをすればいいの』

私が何かをするまでもない、この世界は何もしない私を是が非でも生かすだろう

私が何かを成すまで、ずっと

何のためにこんなことを

ここは私に反省を促す地獄なのか

そしてその反省を次の人生に活かせとでもいうのか

次の人生?

日本人の死生観として、輪廻転生があると当たり前に思い込んでしまっている

地獄がこの有様だというのに

授業も上の空だ

大人になるわけでもないのに、こんなこと何の役にも立ちはしない

きっと酔い覚ましみたいなものなのだろう

青春という強い酒で酔っ払うために、しらふに戻る時間なのだ

その日は窓の外に降りそぼつ雨を飽くことなく眺めた

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