第17話
アネモイの官邸は、あゆ様の天国の劇場が入っているあの建物の中にあった
ガラス張りのエントランスは劇場の入待ちする人間が屯する十分なスペースがある
でもそこから想像するほど中は広くない
劇場とは別な入口から毛足の短い絨毯敷きの廊下を進むと、会社の事務室が並んでいるみたいな空間に出る
近代的だが特に豪華さのない白いパネル壁で、ドアもこの世界の他の建物と比べたらやる気あんのかと言いたくなるくらいただのドアだ
まあ私としては慣れ親しんだ景観がこの世界に滲み出しているみたいで、多少落ち着く部分もある
執務室内は小会議室といった風情で、戸棚や机が備え付けられている
向こうの世界とこっちの世界が中庸に主張しつつ融合したようで、窓は木枠でビロードのカーテン、机もチッペンデール様式のライティングデスクだ
それらが無地のパネル壁と相まって、中途半端なお役所みたいにも見える
コピー機やホワイトボードがあっても違和感はないだろう
部屋の奥の壁には内扉があり、その奥には秘密のシャワールームでもあるのかと思って開けてみたら、なんだかやけに生活感のある小部屋が現れた
「ちょっと!勝手に入らないでくださらない!?」
なんとそこはフレオの寝室だった
ここで寝起きして、毎朝電車で通学していたのだ
「ここに住んでんだ」
「やりかけの仕事を持って帰ったりするぐらいなら、ここで寝た方がいいでしょう」
フレオはなんとも仕事バカ、女王バカであった
執務室からしか入れない小部屋には、この世界の彼女の全てが残されていた
「私はルネの部屋に帰るから、ここ使っててよ」
「もちろん、お言葉に甘えますわ」
と言うと、抱えていた買い物の一部を自分のクローゼットに仕舞った
はなから他に引っ越すつもりはないようだ
入り口脇の傘立てには例の変な目がついた杖が立てかけてあった
フレオの説明によるとこの杖はウアスというファラオの副葬品で、力の象徴であるとともに死後の世界で幸福をもたらすお守りでもあるらしい
「なんでそんなもの持ち歩いてたの」
「太陽神の絵を見ると必ず持ってますの」
と本棚から図鑑を取り出して”ラー”のページを開いた
エジプトの壁画でよく見かける平べったい人が、鳥の被り物をして杖を持っている絵だ
「頭の上のこれの方がよっぽど特徴的じゃない?」
図鑑の太陽神は、大きな赤い卵を飲み込んだ蛇みたいなものを頭の上に乗せている
「それは太陽そのものだから、わたくしが身に着ける必要ありませんわ」
エジプト神話では神が太陽を運ぶから昼夜があるのだという
ラーの杖を選んだのは真昼の女王の矜持か、かつて浴びていた眩しい光への郷愁か
今となってはどちらだかわからない、とフレオは言った
「ちょっと!本読んでないで手伝ってよ!」
大荷物を抱えたルネがドアを通れずに立ち往生していた
フレオ一人で使っていたこの部屋には机も椅子も一組しかないので、古道具屋で2人分の机と椅子を調達した
会議に使うべく学校の備品室からくすねてきた小型の黒板は、今日の晩ご飯の買い物や小テストの日付などですぐ埋まってしまった
しかしこれで一応の体裁は整い、アネモイとして執務が可能になった
幸い女王の行いに通じた有能な補佐官もいることだし
私が払った代償はアイちゃんにもあゆ様にも許してしまった唇だけ
安売りしているわけではないが些細なものだ
それに比べたらフレオには大変な思いをさせてしまった
一時はキッチンドランカーのようになっていたフレオも、今は立ち直って気丈に振る舞っているように見える
お互いジュットで決着をつけていれば何もかもみんな違っていただろう
私が反則を使ったことに、フレオはその後も異議を唱えることはなかった