第11.5話②
レジ係のルネが硬貨を拾い上げて言う
「これお金足りないよ」
「なんで帰る前に言わないの!?」
「だって救済の邪魔しちゃ駄目だって言うから」
くそう
私は施しがしたいのではない
傷ついた小鳥に救いの手を差し伸べたいのだ
そばはそのためのツールであって、そこは実費を頂かなければ私が窮してしまう
「あっ、またお客さん」
暖簾の向こうに人の足を認めたルネは慌てて丼を下げ、カウンターを拭く
「次から前払いで」
短くそう伝えると、私はまた百戦錬磨のそば屋の店主に戻る
次に暖簾をくぐったのは、高天原と郁金香の二人組みだ
片方は手に棒結びされたロープを持っている
荷物を縛るにしては太く、船を係留するもやいには細い気がする
長さも太さも、人一人を引っ張り上げるにはちょうどよさそう、といった風情だ
私は瞬間、神経が張り詰めた
「何にしましょう」
どうしたの?大丈夫?という質問はよくない
回答の幅が広すぎる
こっちはいいかもしれないが、相手はあらゆる事情を説明しなければいけない立場に立たされる
こういう時はまず決まった答えの中から選択させるのがいい
質問が何であれ人間は自分の選択を受け入れる
巧みに質問を用意して、考えを改めるよう誘導するのだ
「じゃあ…天ぷらそば」
「私はきつね」
「天ぷらときつね」
客に背を向けてそばをゆがく
「お代お先にお願いします」
ルネはさっき言ったことを忘れてはいなかった
だけど今
何もこの客相手に言うことはないだろ
「あっ、はぁい」
二人はそれぞれお札と硬貨を出した
ルネは釣り銭箱からお釣りを返す
特に変わった様子はない
いや、こういう時に変わった様子を取る人間は、一線を越える前に人に気付かれるものだ
だがこの客のように落ち着き払っていつも通り振る舞う巧妙な相手は、私のように救済を行う意志がなければ見逃してしまうだろう
麺が茹で上がった
丼につゆを注ぎ、天ぷらとお揚げを乗せて供する
「すっかり日が伸びましたねえ」
この世界に昼夜の伸び縮みがあるかどうかは賭けだった
まだ季節が遷ろうほどこの世界に長くない
「ほんとねえ。おかげで大変でさ」
「そうそう。何もこんな時間までさ…」
郁金香の子が事情を話しかけた
が
「やめなって、人前で…」
「ええ…?でもさぁ…」
人に言えない秘密も赤の他人には言えたりする
それで肩の荷が下りることだってある
「構いませんよ。内緒にしますから」
「いいじゃん、もう。今更だし」
時すでに遅しなのか
私の救済は間に合わなかったのか
「何か…込み入ったお話で?」
「いや、うちの部長がね、熱心なんだけどさ。ご熱心なんだけど。ちょっとこう、加減がわかんないっていうかさ」
「耐えられないんならそこから飛び降りろっていうんだよ」
「だからほら、それじゃ人聞きが悪いって」
人聞きもくそもあるか
飛び降りろなんてパワハラというかいじめじゃないか
「別にそれはいいんだけどさ…」
「よくないよ!」
「「えっ?」」
「ああ、いえ…どうぞ続けて」
それはよくないんだけど続けてもらわないと事情がわからない
「まあ…冬場は暗くなったら上がりだったんだけど、もう今日ぐらいになると6時でもまだやる気でね。部員はみんなヘトヘトなのに、まだ今日のメニューこなしきってないぞ!って」
「それで部員みんなもうついてけないってなって、部長を吊るしてやるって盛り上がっちゃってさ」
なんと自分ではなくて誰かを吊るすためのロープだったのか!
最後の晩餐に私の店を選んだのではなかった
しかしいくら相手が悪くても、これは踏みとどまらせないといけない
「それはおだやかじゃありませんねえ」
つとめておだやかに言う
「おだやかじゃないのは部長なんだよ。数こなしゃいいってもんじゃないのに、結果が出なくてもひたすら同じこと繰り返させるんだから」
反復練習の成果は目に見えにくい
万が一指導者がそれをわかっていないと、きつい・勝てない・こんな部やめてやるの3K運動部の出来上がりだ
顧問が専門家じゃない、部員の熱意だけで切り盛りしてるような、こういうなんにもならない部活はままある
それで他の先生に相談しに行っても、顧問にやる気がなければひとつも改善しない
まあそこまでワーストケースが重なった例はあまり見たことはないが、一人でしゃかりきになってる部長が部員に見放されて、廃部になったラクロス部を知っている
なまじ道具に金がかかる部活だっただけに、傍から見てもその結末は悲惨だった
「なんとか楽しく出来ないもんですかねえ」
人ごとではあるが、他の部活動してる子達を見る限りでは、ここでは楽しくやるのが第一義だ
大体学校混成の部のようだし、どことの競争ということもあるまい
「楽しいよ。楽しくやってる」
高天原の子がつゆの中でかき揚げを一口大にしながら答える
「でも部長はそれが楽しくないんだなぁ」
郁金香の子はおあげを残したまま麺を啜りきってしまった
ここはひたすら牧歌的な学園生活を送るばかりだと思っていたが、こんなでたらめな世界でも人と人との軋轢はなくすことが出来ない
ただそれでも、この世界においては”卒業”までの時間が長くなるだけの話かもしれない
我儘な人が我儘の限りを尽くして満足するまで、従順で殊勝な人の番が回ってくるまで待てばいいだけかもしれない
でもそれはやっぱり不幸だ
それこそ私の我儘かもしれないが、できることなら何もかもが丸く収まって、みんな笑って和気藹々な世界の空気を吸っていたい
だからこの場で彼女たちに我慢しろというのは間違っている
「吊るすっていうのはおだやかじゃあありませんけどね、吊るして落とす、なんてのは効くかもしれませんよ」
「吊るして落とす…?」
伸び縮みするロープが手に入るかどうかわからないが、世の中には木のツタを結んで飛び降りなければ大人になれない部族だってあるのだ
この世界なら大事には至らないだろう
私は長めのそばを一本取り、先に割り箸を結んでびよんびよんさせてみた
「ほほぅ…」
高天原の子がこれはしたりとそばの先の割り箸を眺めている
その時そばが千切れて割り箸が落ちた
まあ茹でていないそばだ
こんなものだろう
「いいねえ」
郁金香の子は落っこちた割り箸を見て悦に入っている
そばによる実演ではロープは足に結ぶのだということが全く伝わっていない
彼女らが何か勘違いしてしまったのではと、慌てて補足する
「これは地面につかない長さのロープを足に結んで飛び降りるもので…」
「なるほど、手を離せば顔面から落っこちるわけか!」
「いや、手は離さなくて…」
「これ最高だよ大将!早速こいつで…」
『何が最高だってぇ!?』
暖簾の向こうにいてもわかるほどの巨躯が二人の席の後ろに立っていた
でかい
パワーパフガールズの秘書の人みたいに顔が見えない
硬直した二人は顔面蒼白で滝の汗をかいている
「お前らレストは十分済んだみたいだな!ウェイトも増やしてくるとはいい根性だ!ひ弱なワンゲルどもに目にもの見せてやるぞ!帰ってリードクライム100本!」
「100本なんて休まずやっても日が変わっちゃうだろ!?」
「甘ったれんな!リードがお前の寝床だ!寝ながら登れ!」
「ちょっ…待っ…」
顔の見えない巨女は後ろから二人の襟首を掴むと、子猫でも運ぶみたいにゆうゆうと連れ去ってしまった
「…まいどー」
あの部長なら多分ノーロープバンジーで顔から落ちても無事だろう
どうやってあれを吊るし上げるつもりだったのか、後学のために聞いておけばよかったろうか
ともあれ楽しそうな部活でよかった
「先にお金もらっといてよかったね」
「まあ…そうだね」
お金は大事だ
どうやら山岳部だったらしい二人組が☓帰った◯連行されたあとは、ぱったりと客足が途絶えてしまった
8時は回った頃だろう
もう天ぷらもすっかり冷めてしまった
冷蔵庫の野菜はいつまでも悪くならないのに、温かい食べ物は冷める
冷めないと飲み食いできない人種がいるからだ
だから寸胴鍋はずっと火を炊いていなければいけないし、つゆも煮立たない程度に温め続けておかないとすぐに提供できない
「そろそろお店閉めない?」
ルネは手持ち無沙汰過ぎて割り箸でエッフェル塔を作っている
東京タワーで言う大展望台の下にもう一つ展望台があるのがエッフェル塔、大展望台から下が全部足になってるのが東京タワーだ
瓜二つのように見えて結構違う
道具もない中器用なことだが、このまま割り箸を無駄に消費されては赤字になってしまう
ガス代もタダではない
「仕方ない、今日のところは…」
麺は大分余っているが、どうせ悪くはならないのだ
明日また出せばいい
鍋の火を落とそうとした瞬間、暖簾をくぐる新たな人影が現れた
「やってる?」
暖簾をくぐるときの由緒正しいお作法だ
普通このくらいの時間になると制服姿も見なくなるのだが、彼女は高天原の制服を着ている
このリリカポリスには夜学というものがあった
ここは特殊な自己実現の場
昼間は何某かの生業に従事しつつも、学生生活にも参加したいという二律背反した欲求に応えるものだ
…というより、そうしないと日中授業に出ている間街が止まってしまう
「いらっしゃい。お席へどうぞ」
お冷だけはいつでもキンキンに冷えたのをお出し出来る
どうやら魔法瓶に入った氷は溶けないことになっているらしい
「あー…じゃあコロッケそば」
「あ゙!?」
コロッケそばとはそばの上にコロッケを乗せ、つゆに浸して食べる無粋な食べ物だ
いや、無作法な食べ方である
タネが形を持っている天ぷらと違い、コロッケの中身はマッシュポテトと挽き肉だ
パン粉の衣も含めて大変汁気を吸いやすい
汁気を吸ったコロッケはどうなるか?
衣は結合を失い、中身の芋と挽き肉がまろび出て、ボロボロに砕けてコロッケだったものがつゆと混じり合う
箸先を揃えて折り目正しく食べるそばの美しさを大きく害する邪悪
食に対する悪意
許しがたい暴虐
「 出 て け ー ! 」
「ええっ!?」
「急にどうしたのつむじ!?」
「うちにはコロッケそばなんて汚らわしい食べ物はなぁい!!」
「なんなんだよ!そば屋だと思って入ってみれば…」
「その通りうちはそば屋だ!帰宅時の空腹に救済を与える神聖なそば屋だ!ただ空きっ腹を満たしたいだけなら上の定食屋でコロッケ丼でも頼んでろ!!」
「なんて店だよ!二度と来ないよ!」
私の剣幕に押されて無作法な闖入者は街の暗がりに消えていった
「せっかく来てくれたお客さんだったのに」
「コロッケそばだけは許せない。あとサンドイッチを分解して食べるのとか、ごはんと納豆をかき混ぜて食べるのとか」
「許せないもの多いね」
「大体メニューに書いてないんだよ!?自分勝手過ぎる!」
「まあまあ、とにかく今日は閉店にしよ」
ルネに丸め込まれて今日は渋々暖簾を下げることにした