第11.5話①
これはフレオに決闘を挑まれる前の、私のささやかなサクセスストーリーの間の出来事
食べなくても死なないし、いくら食べても太らない
でも毎日三度は腹が減る
それがいいのか悪いのか、こんな世界であってもお昼となれば何か食べずにはいられないのだ
「天そば」
「つむじ最近そればっかじゃない?」
「うん」
学食のレパートリーは多彩だ
小さい会社が無理して入れてる社食なんかより全然いい
ここのところ色々あって食が細っていたが、そういうときでもつるっと入るそばやうどんなら結構食べられたりする
と思ってここのそばを試してみたのだが、実際つるっと入ってしまって物足りなさを感じるくらいだった
だが何かを思い起こさせる
名前と一緒にそば好きだった自分も忘れてしまったのだろうか
多分違う
ともかく、学食の前の食品サンプルのそばを見ると何か懐かしさを覚えて注文してしまい、おやつの時間には空腹を感じて購買で売ってる月餅を食べてしまう
今日のルネはハンバーグランチを頼んだ
「…あげないよ」
「何を」
「さっきからあたしのハンバーグじっと見てる!」
うん、まあ、肉っ気は欲しい
一応タンパク源も欲しいと思って天そばを頼んでいるわけだが、乗っているのは野菜のかき揚げと海老天だ
タンパク源が蛋白すぎる
油で揚げてあるのになんで天ぷらはこうなんだ
特別ヘルシーだとも思えないが、揚げ物のくせにジャンク感が薄くて上品ぶって見える
残念ながら肉そばはメニューにない
「ちくわ天もらってくる」
トッピングの追加で胃を納得させるしかない
ついでに卵ももらう
立ち喰いのプロに説教されそうな食べ方だが知ったことではない
昼食とはまず自分の腹を納得させなければいけないのだ
「最初からどっしりしたもの頼めばいいのに」
「そうも思うんだけど、そばの丼を見るとついね」
自分でも不思議だ
もしかしたら私の前世はそば屋だったのだろうか
学校の帰り道は大体下りなのでまあ楽だ
間に線路が走っている切り通しを超えて、駅からほど近い商店街の中に入っていく
その時に駅の改札前のコンコースを通ってもいい
右手に改札を見ながら駅の屋根下を通り抜ける
「………」
すると私のお腹がぐぅと鳴るのだ
「何なの?おやつも食べたでしょうに」
「そうなんだよ。でもここを通ると何か…」
箱根そば
そうだ、ここには箱根そばがあった
特別そば好きではないが、改札を出て真正面のここに食べ物があると、否応なく空腹であることを思い出させる
家に帰って夕食を用意するのも、出直して何か食べに行くのも面倒
さりとて帰りに寄れる店はファーストフードやコンビニ、あとはランチ営業で勝負の小さいお店
となるとこのだし香る箱根そばに引き寄せられてしまうのだが、夕食に駅そばか?と思い直して空腹を噛み締めながら家路につく
そして結局冷蔵庫に眠っている冷やご飯とレトルトカレーとかコンビニ弁当で腹を満たすとき、あの温かい箱根そばを啜っていれば少なくともこの満たされない満腹感に苛まれなくて済んだのではないか
そう思ってしまう
そばは救済なのだ
「私にも救える人がいるかもしれない」
「…いいから帰ろうよ」
翌日私は、この街でお店を出すにはどうすればいいか、学生課を手始めに色々な事務局に聞いて回った
もちろんルネにも聞いてはみたが、予想通りあまり役には立たなかった
「店なんか出してどうするの。学校は?」
「人生には学校より大事なものがあるんだよ」
アイちゃんは相変わらずらしい
ちゃんと食べさせてもらっているだろうか
そこはヴェーダ様を信じるしかないが、食べることで癒える傷もあるはずだ
ここの子達だって普通の女の子だ
…いや、病気にならないし死ぬこともないのは普通ではないかもしれない
でも人並みの感情の機微があるし、あてが外れたらがっかりする
血を流さないだけで、程度の差こそあれ傷つくのだ
そういう時に温かい食べ物に出会ったら、心がほぐれるかもしれない
ここ数日天そばを食べ続けて得た結論がこれだ
「でも電車でここに帰って来る子あんまりいないと思うけど」
大体みんな学校まで歩ける範囲に住んでいる
帰宅時にこの駅で降りるというケースは確かに少ない
袋風荘に住んでいた一服寺の子ぐらいしか私は知らない
線路をまたいで通学しているルネでさえ少数派だ
「だから別なところに店を出す」
なんとまあ都合がいいことに、ちょうど一服寺に2坪の小さいテナントが空いたところだった
幸いガスも水道もついている
流しやカウンターまでついた居抜き物件だ
前にここを使っていた子は満足して卒業してしまったのか、それとも私が望んだからぱっと現れたのか
今は深く考えないことにする
テナントはペデストリアンデッキの階下にあり、日当たりが悪く薄暗い
繁華しているエリアから一本入ったような路地で、眼の前には足つぼマッサージ用のボールみたいなオブジェがある
何故だか他に店はない
いつもの制服にエプロン、頭にはカフェ店員みたいにバンダナを巻いて店に立つ
割烹着が欲しいところだったが、あいにく調達する時間がなかった
麺を待ち構える寸胴鍋は煮え立ち、さっきこの上の惣菜屋で仕入れた揚げたての天ぷらはまだジュージュー言っている
人通りは少ない
だがこの厚削りの枯れ節と、どこに需要があったものか肉屋の一角に置かれていた鹿節とで取った濃厚な出汁の香りは、路地の外まで漂い出す
すっかり日も落ち、放課後でごった返すデッキの上からこぼれ落ちた、傷ついた小鳥たちが香りに誘われてやってくるのを待つのみ
「…いらっしゃい」
右から”つむじ庵”と書いた暖簾を最初にくぐったのは一服寺の生徒だ
「…かけ」
スツールに腰掛ける前に壁のメニューを一瞥し、逡巡なく注文する
「かけ一丁」
こちらも余計なことは聞かない
この傷ついた小鳥は温かいかけそばに救いを求めてこの薄暗い路地に迷い込んだのだ
私はそれに素早く応える
学食に分けてもらった麺は十割なんて気取ったものではない
どこまでつなぎかわからない、灰色の細いうどんみたいなものかもしれない
しかしそれで構わない
私はこのそばに救われたのだ
「お待ち」
程よく湯がいた麺になみなみと自慢のつゆを注ぎ、彼女の前に丼を置く
彼女は私がカウンターに用意しておいた割り箸には手を出さず、羽織の合わせからスッと懐紙にくるまれた自分の箸を取り出した
塗りのない、無地の木の地肌の長い箸
男性用の長さだ
揃えた箸を両の親指で挟んで手を合わせると一瞬目を伏せ、熱い丼を両手で持ち上げるとゴクゴクとつゆを飲んだ
「はぁ…」
降ろした丼のつゆは半分ほどになっていた
「あったまるね」
私はニコリとする
彼女は今そばに癒やされているのだ
私の押し付けがましい言葉はいらない
彼女はつゆの減った丼に薬味のネギと揚げ玉をまぶし、七味を二度三度振ると、ようやくそばを啜り始めた
一玉は軽く70gとしている
そばはたらふく食うものではない
腹八分目、いや七分目で十分だ
そばが満たすのは腹ではない、やつれた心なのだ
彼女は3口でそばを啜り倒し、残ったつゆを一気に飲み干した
ゆっくりと丼を下ろす
このタイミングだ
「お疲れですね」
もう夕飯時、一日を終えて疲れているに決まっている
もっと風体から値踏みすればかけられる言葉も他にあったろうが、無難な言葉でいい
話したいのは私ではないのだ
「いや…まだまだだよ」
「無理しちゃいけませんよ」
熱いお茶をサービスする
ここで得たものは外界に持って帰るべきではない
疲れとともにしょっぱいつゆの後味も洗い流して、まだ少し隙間のある腹で家路につく時、やっと救済が完成するのだ
何かデザートを食べるもよし、改めてしっかりと夕食を摂るもよし
ともかくスカスカの空腹を家に持って帰ることはその日の疲れを増幅させる
彼女は番茶を一口ゆっくり飲み下すと、今度は「ふぅ…」と息を吐き出す
ため息ではない
彼女は今満たされたのだ
「ごちそうさま」
まだぱっと見ただけでは額面がよくわからない硬貨を何枚かカウンターに置くと、彼女は再び暖簾をくぐって日常に戻っていく
「またどうぞ」
足早に去っていく背中は答えないが、別に構わない
私は傷ついたときにいつでも戻ってこれる宿り木でありたいのだ