第1話
薄れていく意識の中で、これまでの平坦な人生が記憶の底から蘇ってきた
妬けるようなスポットライトを浴びて暗がりのみんなに手を振ることも、深い闇の底で糸が垂れてくるのを待ち望むこともなくあの日まで過ごしてきた
子供の頃は普通の女の子と同じようにプリキュアになりたかった
少し分別がついてプリキュアが恥ずかしくなってくるとパティシエやアイドルに、時にはお嫁さんになると言って父を嘆かせた
やがて進路という具体性を帯びた言葉で、なりたいもの何にでもなれるわけではないことを知り、諦めることを学んでいった
中学高校と進むうちに、道を分かってしまう友もいれば私が振り落とされてしまうこともあった
それでも程々に恋をし、ガリ勉に見えない程度の落第をし、無意味な親への抵抗を試みもした
あるかなしかの受験戦争をやりすごし、同窓会で自慢するほどではない月並みな大学を経て、ようやく小さな木の幹に身を寄せることが出来た
都心の裏通りにあって一日中玄関に日が当たらない会社だが、それほど太くはないものの官公庁にパイプがある食品卸で、ちょっとやそっとでは潰れないと言われていた
今日も多摩川を越えてうちに帰る
私は進学を機に家を出て、この古びたニュータウンに居を構えた
昔は第四の山の手なんて言って持て囃したらしいが、元々は細々とした集落があっただけのただの山林だ
それでも都内の住宅事情が逼迫を極めると、最早東京ではない野山を切り拓かなければ、労働者に雨風と輩を凌ぐ住居を与えられなくなったのだ
木々を失って砂煙が舞う団地に、鉄道が都心から人を運んでくる
住宅街が造成され、商店が軒を連ね、ほどなくここは人がうねる街になった
それから六十余年
当時の野心は失われてしまったかもしれないが、今でもこの街は都心にたくさんの人間を送り出し、その帰りを待っている
谷あいを走る緩行線が私の最寄り駅に滑り込む
私の他に4~5人の客を吐き出すと、8両編成の電車はここよりきらびやかな隣の急行停車駅に向かって消えていった
ここは掘割の底にある地味な駅で、改札を出るとコンビニに箱根そば
あとは二階建てのこぢんまりしたテナントビルがくっついた素朴なつくりだ
テナントの前には小さなロータリーがあり、前乗りのバスが窮屈そうに旋回していく
線路と二股に分かれるよう伸びる駅前の通りは、隣町に向かっていきなりの急坂になっている
この街はとにかく全てが坂だ
最近は特に年寄りの姿が目立つようになったが、この坂を上り下りできなくなったら彼らはどうして生きていくのだろう
夜の11時を回っているが、ありがたいことに通りを挟んだスーパーは0時まで営業してくれている
信号待ちの間に道の向こうから店の中を覗き込むと、惣菜や弁当が狩り尽くされているのが見えてしまった
そんなにきつい仕事ではない
サービス残業や不愉快な接待もないではないが、基本的には事務一般
みんなと同じように何のためかわからない書類を右から左してお給料をもらっている
ブランド物のショッパーをトロフィーのように溜め込み、流行りのスイーツを食べるくらいの余裕もある
でもそれだけ
私の人生には映る人の目を輝かすような何かはないのだ
贅沢な不満かも知れない
バンドをやると言って家を飛び出した兄を見たときのような、期待と不安がないまぜになった、心をくすぐる感覚を誰かに抱かせてみたかった
夢破れた兄は根府川で家業のみかん園を継いだが、それでも農業を改革するのだとか言って意気軒昂だ
ようやく信号が変わった
この坂を登れば何者かになれるかもしれない、そんな気持ちがこの街を選んだのだと思う
こんな時間に車椅子を押している人がいる
こんな坂だらけの街で車椅子生活は不可能だ
しかし耄碌した年寄りというのは時間も場所も気にせずに、桜が見たいとか防虫剤が切れたとか言い出すのだ
その度に家族は疲れた体に鞭打って、まだ開いているドラッグストアまで連れて行かされる
ご苦労様です
それは私も
坂と同じ角度に傾いたアーケードの、不規則に明滅する蛍光灯が横断歩道の私を吸い寄せる
その日はいつになく疲れていて、音もなく後ろ向きに近づいてくるトラックには気が付かなかった
輪留めもブレーキもない車が破壊力のあるスピードに乗るには十分すぎる坂だ
恐らく人生で一番私が注目を浴びるシーンだっただろう
しかし夜も更けた駅前には誰の叫び声もなく、ただ静かに眩しい霧が私の意識を覆っていった