先手必勝
「うげぇぶっ!?な、なにぃ゛いッ!?」
「ちずるっ!?」
視界が暗転し、ふわりと体が宙に浮きあがる。
顔をすっぽりと呑み込んでしまったのは、異常発達した蔓のような植物。顔中に溶解液の様な高い粘性の液が纏わりつく。
「おげぇっ、おぇえぇぇっ」
強烈な酸臭に嘔吐しながらも体を振り脱出を試みる。
しかし、ひ弱な千寿流の力では振りほどくことは出来ず、意識が薄れていく。
「この!ばけものぉ!ちずるを はなせ~!」
(うぐぇ、気持ち悪い。シャルちゃん、ごめん。なんか、痺れて感覚が…無くなってきちゃった)
異形の驚異に嬲られるだけの千寿流が、最後に思い浮かべたのは泣きそうな顔のシャル。
手がだらんと垂れ下がる。動かそうと思っても身体はもう動かない。薄れゆく視界に死を感じた。だから、諦めがついた。
ただ、こんな森の中にシャルを一人取り残して逝ってしまうことだけが心残りだった。
さらに狭まる世界。ブラックアウトの寸前、だれかの声が聴こえた。
「ん、うぅ…」
目を覚ます。また気を失っていたみたい。今日はとことんツイてないな。
いや、それともこんな事態に遭って生きてるからむしろ幸運か。
「ようやく目を覚ましたのかい。全く弱っちい癖に“港区”に入るなんてね」
「みなとく…?」
「昔の名残だよ。気にしなくていい。もうこの世界には常識なんてものは通用しないんだから。」
港区ってのはおそらくこの森全体の事を指してるんだろう。ところどころに石柱の残骸の様なものが並んでいる。英雄変革が起きる前は栄えていたのだろうか。
辺りを小さな薪の炎が照らしだす。火に照らされて出来た長い長い影の先は全てを呑み込むような黒。外は真っ暗だった。
確かに今となっては来た道も良く分からないし、あんな怖い化け物もいるって分かってたのなら絶対に入らない。
「その、あたしは植物の魔獣にやられて…あのあと」
「近衛千寿流さん、だろ?」
歳は千寿流よりも上、15、6だろうか。黒のマッシュショートに丸眼鏡を掛けたオッドアイの少年は、眼鏡を中指で掛け直しながら千寿流の名を口にする。
「え、ど、どうしてあたしの名前…」
「それは…そう、この子に聞いたんだ」
少年はそう言いながら布団をかけて小さな寝息を立てているシャルを指さした。どうやら疲れて寝てしまっているようだった。
「彼女に感謝しなよ。顔面汁塗れになりながら僕に助けを求めてきた時は何事かと思ったけど、間に合ってよかった」
「あ…」
少年の服装は薄手のシャンブレーシャツ。樹にかけてあるのは革製の暗い紺色のロングコート。
なるほどなと千寿流は手で相槌を打った後、しゅんと申し訳なさそうに縮こまるのだった。
「いいよ、人助けだ。人助けってのは見返りでやるもんじゃない。他でもない僕が満足してるんだから、君が委縮することは無い」
「えっと…その…ありがとう。お礼言えてなかったです。あたし、もうダメかもって。だからその、ありがとうございました」
千寿流は萎縮がどういう意味なのか分からなかったし、彼の無表情な眼差しからは真意が読み取れなかった。
だから素直に、今思っている気持ちを繰り返し伝えた。
「君を助けることが出来たのは偶然だ。僕が偶々ここにいた事、彼女の救援、君が死に物狂いで抵抗した事、どれが欠けても成立しない。それにこの時間帯ならここに辿り着くことすら無理だっただろう」
少年は立ち上がり先の視えない漆黒の闇を見据える。
手には銀色の拳銃。実銃か玩具かは分からなかったが、きっとそれで助けてくれたのだろう。
「だから、僕は満足してる。見返りはいらないけど。この幸福感は貰っておこうかな。案外人助けも悪くないもんだ」
そう言いながら振り返り、無表情を貫いていた少年はにやりと小さく微笑んだ。
今日は嫌な事があったけど、良い事もあった。
嫌な事はもちろん嫌だけど、こんなに良い事が起きるのなら嫌な事も嫌いじゃないかもしれない。
そんなことを考えながら寝袋に包まると、数分も立たないまま深い眠りへと誘われるのだった。
「富士野星一朗ちゃん!えっと星ちゃんだね!」
「おい、僕が何か気に障るようなことをしたのか?」
夜が明けてお互いの自己紹介をした千寿流たち。
千寿流は男性女性、大人子供問わず名前に“ちゃん付け”する癖がある。
もちろん本人に悪気は全く無いが、それでこうやって嫌がられることも少なくないので、悪癖といったほうが正しいか。
「だって、星一朗ちゃんなんでしょ?だから星ちゃんで良いよね!?」
「………」
こういう時の千寿流はなぜか頑固でなかなか譲らない。好意を持つ相手、友だちはちゃん付け!という方程式が頭の中で出来上がっているからだ。
もちろん、徹底的に無視をしたりすれば観念するだろうが、星一朗にそこまで意固地になって意地の悪い態度をとる気は無かった。
「まあいい。日が明けたとはいえ、この森道には昨日みたいな突然変異の魔獣も生息してる。ここでじっとしているわけにはいかないよ」
「う、あたしたちはクラマちゃんを探したいだけなのに…こんなことになるなんて」
肩を落とす千寿流。その横できゃっきゃと蝶々と戯れるシャル。クラマを見つけてあげたいのは本心だが、あの時は軽い気持ちで言っただけだ。
こんな命懸けの話になるなんて思ってもみなかった。
少なくとも今、魔獣に襲われた現実を前にして自分一人でなんとかなるとは思えなかった。
「仕方ない、途中までだ。危険な区域から出るそこまでは付き合ってあげるよ。出てくる魔獣は僕の愛銃『ロキ』で全部蜂の巣にしてやるさ」
「えひひ」
顔を綻ばせる千寿流。驚きつつもどこかその言葉を期待していた。
「あ、その、気になってたんだけど。その銃って本物なんですか?」
「…どうだろうね。まあ、最近の玩具はリアル志向だから、見分けがつかないかもしれないね。知りたいかい?」
(ん、それって本物じゃないってことかな?)
「ふたりとも はやくいこ!」
そう言いながら千寿流の腕をつかんで引っ張るシャル。
質問はうやむやになってしまったが、特に気にすることもない。
腰を上げズボンの埃を払い、樹に掛けてあるコートを羽織る。
「そうだね。じゃあ、そろそろ行くよ。近衛さん、ロキについては歩きながら教えてあげるよ」
星一朗は歩き始める。千寿流はその頼もしい背中に、内心浮ついた気持ちでついていくことにした。
夜が明け、随分と見通しが良くなったが、見渡す先は木々ばかりで、自分がどちらから歩いてきたのか方向感覚が狂わされる。
「元いた場所から離れた。僕もこの方向が絶対に正しいと断言できない。遭難してくたばりたくないなら僕から離れないように」
「う、うん!」
そうだ、この森はただの森じゃない。魔獣が住み着いているかもしれないんだ。
奴らは獣じゃなく異形だ、常識なんて通用しない。例えばそこにある何の変哲もない草が突然異常発達して首元に巻き付いてくる。なんてこともあり得るかもしれない。
ここは危険な場所。あたしたちは今そんな場所にいる。それを自覚しなきゃ駄目だ。
改めて気を入れ直すことにした千寿流は、手を握り、辺りを警戒しながら歩くことにした。
「待って。口、閉じててね」
1時間は歩き続けただろうか、がさりと小さな音を立て、星一朗が一歩下がり手で二人を制止する。
「うわあ!? きゅうに…むぐぐぐ!?」
「シャルちゃん、しーっ!」
とっさにシャルの口に手を当てて黙らせる。
「良い反射だよ近衛さん。普段は馬鹿みたいな能天気顔なのに、こういう場面で咄嗟に反応出来るならきっと長生きできるね」
小声で言う。果たして褒められているのか、馬鹿にされているのか分からなかったが、褒められて嬉しい千寿流は手を当て顔を綻ばせた。
(しかし、あれは何だ…魔獣ではないみたいだけど…人、女の人間か?しかし、何でこんなところに)
目を細め先を凝視する星一朗。その先には女性らしきシルエットが一つ。なにやら屈みこんで何かを探すようなしぐさを取っている。
「ね、ねぇ星ちゃん。あの人何か怪しくない?だってこんな森に一人でいるなんて。女の人かな?」
星一朗の小脇から顔を覗かせそう呟く。
「眼が良いね、近衛さん。で、その女。良いヤツか悪いヤツか、どっちだと思う?」
顔を前方に向けたまま星一朗は言う。何であたしに聞くのと表情で返す千寿流。もちろんその表情は見えなかったが、少しの沈黙を答えと察した星一朗は続けて言う。
「本当なら君は昨日死んでいた。死の運命から逃れる幸運の持ち主という事だ。だから僕は君に賭けてみたいのさ」
「え、その、わ、分かんないよ。だってここからじゃ、しゃがんで何か拾ってることしか分からないし」
「そうか……なら、先手必勝だっ!」
言い終わるや否や白銀の銃口を人影に向け、流れるように引き金を引く。
玩具と思われていたその拳銃からは、閃光にも似た光の粒子が発射されるのだった。




