とても幸福なこと
「よう、お疲れさん。牛乳、冷えてるよ」
手ごろな石垣に腰かけ、子犬を抱いたメルルが紙パックの牛乳を差し出してきた。
あたしは肩で息をしながらそれを受け取ると、ストローを突き刺し一気に飲み干してやった。汗を掻いて火照った身体に、キンキンに冷えたカルシウムをはじめとした栄養素が駆けこんでいくのが良く分かる。爽快だ。よく言う一仕事を終えた時のアルコールってやつもこれぐらいに気分が良いものなのだろうか。飲まないと誓ったつもりだけれど、あたしがもし成人したら一度くらいは試してみてもいいかもしれない。
「終わったみたいだね」
「ええ、ひとまずね」
帰り際、あたしはもう一度振り返る。その視線の先にはあたしが手ずから破壊した、一つの研究施設があった。見るも無残。瓦礫に瓦礫が重なる残骸の山だ。もうこの場所で研究を続けることは出来ないだろう。犠牲になる人が出ることは無くなったのだ。それに、後に関係者が立ち入ったとしても、この廃村は秘匿地域。ニュースなどで公に報道されることは無い。
負担を担った右腕がぎりりと痛む。始まりの刃は強力故に腕にかかる負担も莫大なものだ。一発撃っただけだというのに腕がパンパンに腫れている。一日に撃てる数は今放った規模で精々2発。無理をすればもう一発放つことが出来るかもしれないが、腕が暫く使い物にならなくなるのは確実だし、精度の低い不完全な技になってしまうだろう。
ちなみに昨夜大男と戦った時の始まりの刃は、一発目はブラフ、腕を斬り飛ばした二発目は刃に纏わせただけのコンパクトなもの。それであるならば最低限のリスクで済む。というわけだ。
先ほどは“熱”のこもった一撃だったせいか、腕がいつも以上に痛む。まるで積み上げてきた研究とその成果を、無遠慮に踏み躙ったあたしを苛めるように。
ぎりりと。
強く。
痛む。
「その痛みはさ。勲章ってやつよ」
「は?」
隠し通せる。わけもなく、横目でちらりと覗きながらメルルがそう言った。
「昔、どっかの小説で読んだんだ。傷は男の勲章ってな。つまりそういうことだろ。傷を負ってまで成し遂げたことがある。痛みってのは悪い事ばかりじゃない。それってアンタがやらなきゃいけないと責任を持ってやったことなんだから、勲章の如く誇ればいいってな」
「なんかとっ散らかってるけど。言いたいことは解る。気がする」
メルルの要領を得ない物言いに頭を少し傾げたが、その表情を視て言いたかったことが何だか分かった気がした。
「ていうか、あたしは男じゃなくて女なんだけどね」
「ははっ!いいじゃん、その顔!それでこそ初って感じだ!」
“笑えないんならさ、とりあえず怒ってみろよ”
メルルと出会ったばかりの時、そう言われた。
“悲しむのは良くない。だって下向きの感情だからな。けど怒りは違う”
何に対してもやる気を見せないあたしにそう言った。
“アンタを怒らせるぐらいワケないぜ?顔に唾でもかけてやればいいんだからな”
出会ったばかりの相手に掛ける言葉だろうか?今思い返してもあり得ない。けど、メルルらしいなと笑い飛ばせるぐらいには、あたしも成長できたということだろうか。あの頃のあたしが今のあたしを見たら、どう思うんだろうか。
どうだろう、少し考えて見てみよう。と思ったけど、きっと意味の無いことなんだろう。だって分かるんだ。「もう、分からない」ってことが分かる。
今のあたしと昔のあたしは、“別の考え方を持つ別のあたし”なんだから。
分からないことが嬉しく思えるなんて、きっとそれはとても幸福なことかもしれない。
見上げた空が少し大きく見えた。




