浦沼の廃寺
長月が神無月へと変わるのは、あと幾日か。
蟋蟀のころころと鳴く声、吹き抜ける冷風のどちらもが、秋の深まりを告げていた。
幼子の背丈なら悠に追い越す高さの芒……それらが一面に波打ち広がる平原を抜けると、その廃寺はひっそりと姿を現した。
碌に手入れもされず、野晒しな門は見事に傾き、瓦は地面に悉く割れ落ちていた。
それは、かつてこの寺を信仰し、参拝した者達がもうこの世には居ないことを意味する。
近くには崩れた石垣跡、その広さから元は立派な居城が聳えていたのであろう……だが、今では見る影もない。
この辺りも随分と激しい戦で焼け野原になった場所。
それから幾年もかけて、植物が芽吹き、朽ち果てるを繰り返し、新たな景色を作り出していた。
寺を背にし、目の前に広がる沼を眺めながら男は静かに佇んでいた。
まるでそこから『何か』が現れてくれるのを願うかのように、暗い沼の底を眼鏡の奥の瞳でじいっと見つめる。
ふっ……
その時、彼のよく知る気配は音もなく背後に現れた。
そして振り向きもせず、彼女に声を掛ける。
「遅かったな、芹」
「えぇ、少し寄り道をしましたからねぇ……あのぅ……一つ謝らなければいけないことがあるわ、草兵衛様」
「……何だ?」
申し訳無さそうな声を上げる彼女の方を彼はゆっくりと振り返る。
「あの子……幹を見失ったわ」
「何?」
「真実を伝えれば、あの子は自ら里を出る……そこまでは良かったんだけどぉ……私が攫うよりも追っ手が掛かるのが思いの外早くって……遠目に伺っていたら、霞消の術で……逃げられちゃった」
「……そうか」
肩をすくめ小さくなっている妻を責めることなく、夫がその身体を抱き寄せる。
己の腕に頭を靠れ掛け、目を閉じる彼女の髪を優しくそっと撫でた。
「幹兵衛はとても賢い子だ……放っておいてもいずれはここへと至るだろう」
「でも……あの身体は……あとどれくらい保つかしら……心配よぉ。何処かで倒れてはいないかしら?」
「万に一つ倒れたとして、罪悪の念で奮起し、立ち上がるだろう。まぁ……睦月まではなんとしても保たせなければな……たとえ、どんな手を使ってでも……」
「えぇ……そうねぇ……」
そう言いながら二人は並んで歩き、崩れかけた門を潜り、寺の中へとゆっくりと進む。
真っ直ぐに伸びる敷石の先には古ぼけた本堂。
草履を脱がずに段を上がり、建て付けの悪くなった木戸を開いた。
がらがらっ……
本堂内、中央奥に祀られていたはずのご本尊は……もう何処にも無かった。
その両隣にあるはずの脇侍も灯籠も瓔珞も仏器も華瓶も……何もかも……戦は全てを奪っていく。
ご本尊代わりに其処へ座す者に向けて、二人は静かに声を掛けた。
「只今、戻った」
「戻りましたよぉ……美都利」
「遅かったな……」
名を呼ばれた者ではなく、堂内にいた者の一人、片隅に座る大男が口を開いた。
顔の割には嗄れた声の主に、芹が言葉を返す。
「ごめんなさいねぇ、嶽山殿。少々、予定が狂いましてね……」
「いやいや……儂は構わぬ。ほれ、我等の目的は各々で異なるのだから……無事ならば良い」
大男としては、ただの問い掛けだったのだろう。
彼女を責めることもなく、一旦緩めた太い腕を組み直し、ぎょろりとしたその目をまた瞑った。
それとは対照的に、嶽山と離れて座っていた細身の男が苛立った声を上げながら立ち上がる。
「おい、草兵衛、芹! 待たせるなら相応の態度ってのがあんだろうが! ……元はお前らの里の者が割り入って来ねば、こんなことにはなっておらんというのに……あぁ、本当に忌々しい!」
「……それは八郷城の若君のことか? 是空」
草兵衛に名を呼ばれた忍びは、舌打ちしてから言葉を吐き出す。
「それもそうだが、それだけではない! お前らの里は一体どうなっておるのだ⁉︎ 浅緋の里を焼き討ちに行った我が同胞達はまた皆、殺されたぞ‼︎」
「ほう? どのように?」
「遠目からの確認だったが……皆、里外の木々に串刺しにされておった……あれは……殺してから捨てたに違いない。これは、我等に向けた見せしめだ!」
「……ふむ、なるほど……恐らくは火を着ける為の油……その匂いに気付かれたな。戌ノ組……いや、里長の仕業だな」
「お前ら浅緋の者が中に手引きせねば里内には入れぬし、そもそも里の位置すら定かではない……」
「……最初から言っているだろう? お前ら風魔に手を貸すつもりは無い。ただ目的の為だけに今は行動を共にしているだけだ。……死にたくなければ、口を慎め」
「っ……」
草兵衛の静かな言葉と鋭い眼光に、男は口を噤む他なかった。
◇
風魔一族。
元は荒くれていた里の忍び集団。
能力を買われて相模国の北条家に付き従ってはいるが、風魔はけして主君に忠実な犬ではない。
主が手を焼く程に聞き分けの悪い者もいる。
褒美をちらつかせて、好戦的な輩達に先陣を切らせたのは主君による適材適所。
そして今、その少数精鋭を纏めているのが、この是空だ。
武蔵国を盗る上で、最も障壁となるのは武士では無い……暗躍する浅緋の忍び衆だ。
『武蔵国には鬼神の如き忍びがいる』
どこからともなく風聞は広まり、それは相模国にも届いていた。
半信半疑ながらも探りに武蔵へ乗り込んだ風魔の者達は、鉢合わせた汎の忍刀の錆と消えた。
各國において、史実に記されることのない忍び集団は古い昔から数多に存在してきた。
だが、一族が諸共滅べば、後には何も残らない。
風魔とて、今は重用されているがこの先に一族が末永く繁栄する保証なぞどこにも無い。
戦国の世はいつだって生きるか、死ぬか。
その二つに一つ……ただ、それだけ。
それにしても……どれほどの屈辱だったであろう。
己が一族こそ最強最上と信じて疑わなかった……それが目の前で一瞬にして斬り殺されていく。
手も足も出ず、是空は仲間を失った。
そして幾年……浅緋の者を排除する為に駆け回る中で、何の巡り合わせか……草兵衛達と出逢った。
◇
俯く男の背後に、音もなく近づいた彼女は彼の肩にそっと手を回す。
ぱしっ!
「止めろ」
是空に己の口唇を重ねようとした女の顔を乱暴に鷲掴み、ぐいと後方へと押し返す。
「おや、つれない男だのぅ」
「……悪戯に口内へ毒を入れられては敵わん」
「ははっ、学習しておるなぁ……そもそも、お前如きがこの二人に口答えしてよいものか、なぁ?」
是空の首に手を回し、彼の膝に乗ったまま後ろを振り返る女に、芹が言葉を返す。
「こらこら……あまり是空を苛めては駄目よぉ、美都利」
「はぁい、分かったわ。母上様」
「ほれ、その辺にしておいてやれ。是空が困っておるぞ?」
ひょいっ!
嗜めるように言いながら、嶽山が美都利の両腕を掴み、軽々と中空に彼女を高く持ち上げる。
まるで翁が孫を掲げてあやすような光景を見て、芹がくすくすと笑った。
「美都利は是空がお気に入りなのよぉ。好きな子ほど揶揄いたくなるでしょぉ? それと同じよ、嶽山殿。ちょっと大目にみてやって頂戴」
「ふむ……此奴は……まぁ、ちと幼いからなぁ……ほれ、ほれ」
すとん……こんこん!
「え? あ、う、ちょっと……もう! わ、分かったわよ! 謝ればいいんでしょ?」
静かに床に降ろされた美都利は、その薄い背中を彼の太い肘で小突かれた。
憮然とした顔で渋々ながら、是空に向けて頭を下げる。
彼の言うことは割と素直に聞くようだ。
「……」
下を向いた拍子に揺れる、彼女の結われた長い黒髪……それをじろりと見つめたまま、是空は何も発しなかった。
ただ青年の口元は、小さな苦虫を噛み潰した様に極僅かだが、ひくりと歪んだ。
「……己の扱いが……不服か?」
「い、いや……」
心の内を草兵衛に見透かされ、彼は言葉を濁した。
こちらを向きもしない、その背から放たれた透き通るような声音が、かえって得体の知れない恐ろしさを是空の内に湧き上がらせたようだ。
忍びの者が『恐れを抱く』……これも、また風魔一族である彼にとっては相当な屈辱であろう……まるで、生き恥を晒すのと同義。
大男は腕を組み、顔だけを彼の方に向けて溜息混じりに言葉を漏らした。
「ほれ。お前のせいでは無い……相手が悪い……ただ、それだけだ」
「……」
嶽山が言わんとすることが身に染みているからこそ、是空は益々、居心地が悪かった。
………………
ぱんっ!
堂内に漂う重苦しい空気を祓うかの様に、芹は手を叩き、美都利に向け明るい声で問い掛けた。
「そぉいえば、八郷の若君に差し向けたのはどれだったかねぇ?」
「あぁ、それなら『八』よ。八郷の八と同じにしたの、わかりやすいでしょ? ……まぁ、どんな顔だったかも覚えちゃいないんだけどね……数も数え十五を超えたところで飽きて、名付けは止めたわ。面白いのもいないからねぇ……どれもこれも大して役に立たない木偶の坊だらけ。使い捨てる者に名前なんていらないわ……ねえ? 貴方もそう思わない?」
そう言いながら、くるっと華奢な身体を翻し、奥に佇む者に向けて彼女は声を掛けた。
「……」
その時……
ひゅっ! ぼっ! ぼっ! ぼっ! ほっ!
壁際に等間隔で並んだ燭台上の蝋燭に次々と火が灯る!
からん、ころん、からん、ころん、からん……
それと同時に、乾いた木札の音が鳴り響く!
「敵襲か⁉︎ お、おい! 草兵衛! 話が違うでは無いか⁉︎」
かちゃり……
「慌てるなよ、是空。……しかし……予想より、遥かに早いな……一体、何をしたのだ?」
草兵衛は眼鏡を押し上げながら、東を……浅緋の里の方角をそっと仰いだ。
長月:9月
神無月:10月




