汎
里長、汎の過去のお話です。
筑貢の忍び里は、武蔵国の西方、秩父の山中のさらに奥地にひっそりと長らく存在した。
浅緋の里の忍びとなった汎が、生まれ里の者達を皆殺しにして、滅ぼすまでは……。
◇◇◇◇
ばきっ! ぐしゃ! どさぁっ‼︎
一方的に殴られ、蹴飛ばされ、小さな痩せた少年は地面へと転がる。
「おら、さっさと立てよ!」
「本当、お前は弱いな。この愚図が!」
「ほれほれ、今日はこれ飲んでみろよ」
そう言うと、地面に押さえつけられた少年の口に、無理矢理どろどろとした草と蟲を合わせ潰した泥状の半固体を押し込む。
「ぐっ! げほっごほっがはっ……おえぇぇっ!」
少年は咽せ込み、激しく吐き出した。
「はは、こいつ今日も吐いてやがるぜ、相変わらず汚ぇな」
「もう、そのままくたばっちまえよ」
「「「ははははは‼︎」」」
取り囲んだ少年達の高笑いが辺りに響くが、遠くからちらりと見遣る大人達は、何も言わない。
いつもの光景だ。
数人で寄ってたかって少年を囲み、袋叩きにするのが、もう当たり前の日常だった。
まるで地獄絵図だ。
身体も小さく、非力な少年は毎日、里の者に虐められていた。
親はとうにいない……既に勝手に死んでおり、彼は独りとなった。
いや……あれらを親と呼んでいいものだろうか。
母である女は、勝手にどこかから攫われてきては、無理矢理孕まされ、産まされた己の子を、いつも睨むように見ていた。
まるでこの世で最も穢らわしいものを見るような目。
ある日、些細な事で女は夫の機嫌を損ね、頭を殴り潰され、殺された。
その一部始終を少年は見ていた。
女の顔面は原形を留めず、真っ赤に染まり、一応は人の形をしたものが、少年の目の前の地面にごろりと転がった。
……だが、彼はそれに対して、何も思わなかった。
父だった男は、里の中でも強い忍びだったらしいが……己の力を過信して、戦場で呆気なく死んだ。
独りになった少年は、里長の屋敷に引き取られ、下男として雑用をする日々……だが、ろくに食べ物も与えられず、ますます痩せ細っていった。
里の者は彼を見かけては、暇潰しとばかりに難癖をつけて蹴り飛ばしたり、毒薬を試したりしてきた。
畜生以下の扱いである。
里の女達もまた、少年と似たような境遇だった。
男共の気分で殴られ、犯され、自害する者は後を絶たなかった。
すると、また何処かから新しい女を攫ってくる、その繰り返し。
忍びの里によって、その一族の伝承する忍術や秘術は異なる。
筑貢の里は、山の恵みを活かし、毒薬の扱いに長けた忍び衆であり、暗殺を最も得意とした。
毎日毎日、虐め抜かれた少年は、いつしか考える事をやめ、心はだいぶ前から死んでいた。
自害することも、逃げ出して殺されることもなく、絡繰人形のように、ただ無感情に日々を繰り返し、動いていた。
◇◇◇◇
あの日もいつも通り、少年は数名に捕まった。
「弱いことは罪だ。だから、お前に今から罰を与える」
「俺も新しい調合したんだ!」
同時に、別々の何が入っているかもわからない毒物を口から身体に、無理矢理流し込まれた。
どくんっ!
「がっ! はっ! うぅっ‼︎」
呻き声をあげ、喉を掻きむしり、激しく少年がのたうち回る‼︎
「げっ、やっちまった! おい、どうする?」
「おいおい、何ふざけてんだよ……おい……死んだのか?」
少年はぴくりとも動かなくなった。
だが、虫の息ではあったが、かろうじてまだ命はあった。
目を閉じていた彼の耳に、周囲の音が流れてくる。
「目障りだ。捨ててこい」
薄れゆく意識の中だが、聞き覚えのあるその声が……はっきりと彼の耳に届いた。
それは、彼を引き取ってくれた恩人、筑貢の里長の声だった……。
◇◇◇◇
どさっ!
少年の身体は態々、隣の山に運ばれ捨てられた。
時期的に、熊が出る頃合いだったが、餌にされなかったのは運が良かったのだろう。
がさがさっ!
「……おや、人が落ちているな」
そう呟いた忍び装束の少年は、腰に下げた竹筒の栓を開け、逆さにし、倒れていた痩せっぽちな少年の顔に水を掛けた。
ばちゃ、ばちゃん!
「……うっ?」
何が何だか分からないという顔の少年が、水の刺激で、むくりと起き出した。
虐めの一環で、日々毒を喰らわされ続けていた少年の身体には、自然と毒の耐性が付いていた。
そして二つの毒を同時に摂取した作用から、彼の身体は一時的に仮死状態になっていたのだ。
「こんにちは」
水を掛けた少年は、にこりと笑い、背負っていた籠をどさっと下ろすと、自身もその場に腰を下ろした。
草の上に置いた拍子に、茸が数個ぽとぽとと籠から転げ落ちる。
ぼろぼろの少年の目の前にも……。
「随分と……山盛り……だな……」
ぼんやりと、地面に這いつくばる少年がぽそっと溢す。
「あぁ、うちの里に山が無いからな……毎年、秋はここまで採りに来るんだ。なあ……お前、名は?」
落ちた茸をひょいと拾い、また籠に戻しながら、明るく少年は問い掛けた。
「な、名? 名は……誰かに呼ばれたこと、あったのか……俺は……凡て……言われたことはあったかも……」
「凡……う〜ん、これかな?」
かりかりと、地面に枝で文字を書く。
だが、聞かれた少年はそれを見ずして、首を横に振る。
「すまん……俺は……字が、まるで読めん」
里で朝から晩まで毎日こき使われ、まともに鍛錬も学も修めてはいない。
「そっか……なぁ……なんでお前はこの山にいたのだ? 仲間は? 誰かにやられたのか?」
「……俺は……己の里に……捨てられた」
そう言って、少年はまた地面に顔を伏せた。
「捨てられた、か。なら……私が、拾っても構わんだろう? ……もし、お前が浅緋の忍びになるなら……水を被ったから……これに『氵』をつけて……『汎』……うん、いいなぁ。よし! お前は今日から汎だ!」
先程の文字の横に『氵』を書き足し、その枝を少年の方にびしっと差し向ける。
「……はぁ?」
がばっと、『汎』と名付けられた少年が起き上がる!
その瞬間……
すっ!
「「松若様!」」
突然、二人の忍びが音もなく、少年達の背後に現れた。
年配者、年は五十路をとうに超えている様相。
この年齢まで生き延びている忍びは珍しい。
そして……二人とも顔がまるで同じ、声もそっくりだ。
双子の忍びとはさらに珍しい。
一見しただけでは、見分けが全くつかない。
「じい、ばあ! 今しがた此奴を拾ったぞ。名前も付けた!」
「なっ⁉︎ 拾った⁉︎」
その言葉に驚き、汎と名付けられた少年は松若と呼ばれる少年の顔をまじまじと見る。
「何でもかんでも拾うのは、ちょっとどうかと思いますよ?」
じろりと冷たい視線を汎へ向ける忍び。
「いくら子供といえど、この者は……恐らく、忍びの里の者でしょう? こんなぼろぼろで……ほっといても勝手に朽ち果てるでしょうが……それならば殺してやるのが、せめてもの情けというもの……」
「駄目だ! 私は此奴が気に入ったのだ! 里に連れ帰るのだ!」
「「若〜〜!」」
松若は頑として聞き入れない。
二人の忍びは顔を見合わせて、溜息を吐いた。
きっと、いつものことなのだろう。
「お前は私のものだ。それとも……お前を捨てた里へと戻りたいのか?」
「さ、里へ? ……い、嫌だーー‼︎」
汎は青ざめた顔で、ぶんぶんと首を横に振る。
その様子を見て、松若はにやっと笑う。
「ならば一緒に帰るぞ。我らの里へ!」
そう言って、汎の手を取ったのだった。
◇◇◇◇
「……と、まぁ、俺は茸と共に茉莉に拾われて、めでたく浅緋の忍びとなったわけだ。……細かく言っちまうなら、俺は抜け忍じゃねぇなぁ……捨てられてたわけだし……だがそんな話、向こうにとっちゃお構いなしだった……」
胡座をかいたまま、背中を丸めて火の点っていない囲炉裏を見つめている父上。
彼の言葉を、私と胡桃はただ黙って聞いていた。
「俺が生きてると知るや、ぼこぼこと刺客を送ってきやがってな……まぁ皆、潰してやったがな」
ははっと小さな笑いが漏れたが、その目は何も映っていない、穴倉の様相。
だが……話を聞くに、疑問が湧いた。
筑貢の里の忍衆は父上に対して殺されて当然の所業……では里の女、子供衆はどうした?
そして緑丸とは?
それに……信じ難いが……父上が出来損ないだと⁉︎
では、今の化け物じみた力は一体どうやって手に入れたのだ?
「二人とも、なにやら聞きたいことが色々とありそうな顔だな……ふむ、少しなら答えてやるぞ!」
父上が私達の顔を交互に見遣る。
「「……」」
私は胡桃にそっと目配せし、先を促した。
「汎様……何故、私にそのお話を?」
胡桃が口を開いた、素朴な疑問。
「ん? あぁそうだな……二年……俺が不在の間、和迦の補佐をしてくれていた褒美だな」
そう言って、にやりと笑う。
「褒美でしたら……ずっと不在でも良かったんですけどね……和迦と二人きりでいられるし……」
「おいこら、何か言ったか?」
すました胡桃の呟きに、父上が噛み付く。
それでも掴みかかりにいかないのは、それ相応に胡桃の実力を認めている証なのだろう。
だから私を彼に任せた。
奥州の出稼ぎ……その合間で、どうせ私の縁談を画策して飛び回っていたのだろう?
それと、筑貢の情報収集……。
あの日、大人しく旅立ったのはそういう思惑もあったはず……食えない御方だ。
………………
「では、私からも一つ……毒と毒の掛け合わせで仮死状態になったとのお話で……その他の異変は何が起こりましたか?」
私の問いで、父上の表情が二段階に変化した。
無表情から、一瞬驚き、そして喜びへ。
「へぇ、察しがいいな。流石、俺の子! ……そうだ、俺の非力な身体は……二つの混じり合った毒の作用で強靭な肉体へと変化したのだ。何を飲まされたかすら、不明だがな」
そして、浅緋の里の鍛錬により、化け物じみた忍び『汎』が誕生した……か。
頭にふっと蘇芳丸の無邪気な顔が浮かんだ。
コンコンッ!
その時、気配無く扉が叩かれる。
「なんだ、じい。もうそんな時間か? よし、話はここまでだ。俺は少し出かけるので、後を宜しくな」
そう言って父上が立ち上がった。
私と胡桃は揃って頭を下げ、最後に一言。
「此度は良きお話を聞けました……母上は……父上のことを好いていたのですね……では、お気をつけて」
「!!」
頭を深く下げ、上げた一瞬、はっとした父上の顔が目の端に入ったが……彼は何も言わずにそっと部屋から出て行った。
「和迦……まだ聞き逃したことだらけだというのに、随分と嬉しそうですね?」
胡桃が私の顔を見て、彼もまた嬉しそうに返してきた。
「あぁ、幹兵衛に……助かる希望がある……解毒にばかり目を向けて薬を色々と探していたが…… 毒を持って、毒を制すのだ‼︎」
私は勢いよく立ち上がった。




