恩人の軍人アパンギル
時はさらに遡る。
アイルは海を渡ってきていた。暗殺を生業とする一族のもとに産まれたが、その一族が、滅んだ。仲間を失ったアイルはとりあえず、何度か仕事で来たことがあった国を目指してやってきたのだ。
君は一体何者なのか。オーランドのその問いにアイルは答えなかったが、彼の気にしている貴族ではなかった。もちろん王族でもなかった。しかし、厳密に言うと平民でもなかった。オーランドの『この子は貴族かもしれない』と言う予測は外れたが、『やっかいなモノを抱え込んでしまった』という勘はまさしく当たっていた。アイルは異大陸からやって来た影であった。
大型客船に忍び込んでやすやすと密入国し、港についたアイルは住む場所を探した。別段どこでいいので気の向くままに歩く。
可愛らしい少女が一人で歩いていれば誰かが気に留めそうなものだが、どうしてか人の気を寄せずにスルスルと人混みを歩いていく。
港町の喧騒の中、ふとかぎ慣れた匂いがしたので、アイルはそれに寄せられるようにふらふらと匂いのもとに向かった。それは火薬の匂いだった。銃器もある。それらは馬車の荷台に積まれていた。誘われるように馬車に近寄る。もちろん見張りも立っているのだが、誰にも見咎められずに荷台に潜り込む。そしてしばらくしてから馬車が動き出す。銃がカチャカチャとぶつかる音がする。故郷でよく聞いていた音。その音を子守唄にして、アイルは眠りについた。
この大陸でアイルを初めて認識したのはアパンギルと言う男。アパンギルは中間管理職的な役職に就く軍人だ。
アイルを乗せた馬車が着いた先は軍。そして馬車に乗っていた可愛らしい少女を見つけた軍人が、『迷子がいる!』と叫んで彼女を保護した。叫んだ軍人と言うのがアパンギルだった。
アパンギルは、とても動揺していた。荷台の見張りをしていたのは彼だ。にも関わらず、子供の侵入を許してしまった。まず叱責されることを恐れた。そして、この可愛らしい少女のことも心配した。親がさぞかし心配しているだろうと思った。アパンギルは優しい人間だったのだ。
そんな軍人の気持ちをよそに、アイルは軍を住処にすることにした。アパンギルや、彼に呼ばれて集まってきた同僚たちが、とりあえず腹が減っているだろうとアイルにご飯を食べさせてくれたから。軍人の大きな叫び声にも目を覚まさなかったアイルだったが、湯気の立つスープを持ってこられたら、食べ物の匂いにつられてすぐに目を覚ました。
ここにいればおいしいご飯が食べられる。そう考えてアイルは軍の訓練場に居つくことにしたのだ。アイルの保護者探しが難航して途方に暮れる軍人たちをよそに、アイルは訓練所の端にある物置小屋の中でぬくぬくと眠り、お腹が空いたら食堂でご飯を食べるという日々を送り始めた。アイルは基本無表情ではあるが、無感情ではないのでわずかながら感謝の気持ちを持ち始めた。何かお礼ができればいいと。
アイルは、食事を積極的に運びあれやこれやと世話をしてくれるアパンギルに特に感謝した。彼をはじめ、軍人たちは見ず知らずの無骨な人間であったが、アイルは警戒する必要はなかった。なぜなら、彼女自身が危険な存在だったから。子供とはいえ、一族から暗殺の技術や人を欺く方法を教え込まれていた。そのため、彼女に害意がある者がいたとして、その刃が彼女に触れる前に息の根を止める方法をいくつも身に着けていたので、何も警戒せず、ただ優しくしてくれる人のそばにいるだけでよかった。
軍人たちはいつも忙しそうだ。戦がなくても毎日過酷な訓練をしていた。アイルにとってはかつての日常の風景と変わらなかった。里でも年少の子らがよく似たようなことをしていたものだった。
訓練を眺めることが日課になっていたが、ある時退屈そうに訓練所をうろつくアイルに、暇な軍人が声をかけた。顔に傷のある強面な男だ。
「親はまだ見つからないのか? ここじゃすることがなくて暇だろう」
そう言う軍人に、アイルは首をふる。その強面に臆することは特にない。アイルはやることがなくて暇なのではなく、武器を振れなくて暇なのだ。そのため、稽古をしている軍人たちをじっと見つめていた。
声をかけた軍人がその目線の先に気がつく。
「なんだ。お前も剣を振ってみたいのか?」
こんな小柄な少女が剣に興味があるわけないと、半ば呆れながら軍人は尋ねたが、途端にアイルの目がきらめいたので、おぅ……とよくわからない声を出して一歩退いた。
試しに小さめな模造刀を持たせると、意外なほどなめらかに剣を振り始める。
「こりゃたいしたもんだ。なんなら新人のやつらよりも筋がいいぞ」
「バルト。何をやっているんだ?」
「おう、アパンギル。ちょっとお嬢ちゃんに剣技を……」
強面の男はバルトという名前だった。彼らのやり取りに気が付きそれを止めに駆けつけたアパンギルだが、止める前にアイルの剣さばきに思わず見惚れてしまった。
やがてその様子を目にした他の軍人たちが寄ってきた。彼らは面白がっていろいろな技をアイルに教えるようになった。そのどれも、アイルはすぐに吸収し、披露した。
退屈な軍での訓練に楽しみができた。軍人たちはアイルがこの訓練所に来てから口々にそう言うようになった。
「親が見つかったら寂しくなっちまうな」
強面のバルトまでそう言った。
アイルは親が見つかるまで一時的に軍預かりとなっている。協会や孤児院などのその他然るべきところで預かろうという話も出たのだが、アイルは首をふるし、軍も一応は国の機関であることから国民を保護する妥当性はあるとして、アイルに訓練生の身分を与えての一時預かりとしていた。
アイルも当分ここで遊んでご飯を食べようと思っていたのだが、そうはいかなかった。
アイルは常々、不審な人がいたらその剣で叩きのめしてやれよと言われていた。軍人たちは、可愛らしい容姿の少女が悪人にかどわかされないようにとの思いで助言したのだ。恩人たちの言葉に、アイルは素直にうなずいた。
そしてある日、アイルは一人の男を瀕死の状態にしてしまった。なるほど、その男は不審者に間違いはなかった。見目のいいアイルを誘拐しようとでもしていたのだろう。不埒にも軍の敷地のそばまで来てアイルを誘いだそうとしていた。
アイルは害意がある者に対しての様々な方法を身につけていたので、男は指先一つアイルに触れることはできなかった。
正当防衛。しかし、アイルは失敗を悟った。やりすぎたのだ。ここまで徹底的に人を痛めつけるなど、軍人でもなかなかできない。それを少女が造作もなくやってのけたのだ。軍の皆、アパンギルやバルトまで、目に恐怖を浮かべてアイルを見るようになってしまった。
アイルは暗殺者としては一流だったが、常に使われる側だった。状況判断においてはまだ子供だったのだ。今回はどこまでやるのかという指示がなかった。また、里長からの指示ではないので深く考えていなかったということもある。
やってしまった……。そう思ったアイルは引っ越すことにした。軍部の物置小屋での暮らしを気に入っていたので、多少の名残惜しさを持ちつつ、潔くその場を発つ。
世話をしてくれたお礼と、怖がらせてしまったお詫びの印として、秘薬を置いて行った。常人では決して手に入れられないような秘薬を残して、謎の子供アイルは軍から姿を消した。




