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マリブラ! 後編


「地下……施設……」


 広い部屋では子どもたちが楽しそうに笑っている。興味深そうにマックスが抱える新入りの子どもを覗き込もうとしたり、私を物珍しそうに見たり、反応は様々だ。元気いっぱいで、切り刻まれて呻くような様子はない。


「お姉さん誰? お姫様?」


 好奇心旺盛なのか、私のところまで近寄ってきて女の子が尋ねる。腕に包帯を巻いていた。キラキラとした栗色の目は微塵も私を恐れてはいない。


「……伯爵の奥方だ」


 答えられない私に代わってビルが答える。おくがた? と少女は首を傾げ、そう、とビルはただ頷いた。


「綺麗なお顔にドレスなのに、お姫様じゃないの?」


 真っ直ぐに向いた目がにっこりと笑うから私は息を呑んだ。私をお姫様だと言ってくれる人は今まで誰もいなかった。思わず目に浮かんだものがあって、私は驚きから目を擦る。温かなそれを指の腹に感じて、自分で自分に驚いた。


「お姉さん泣いてるのー?」


「なななな泣いてるんですか⁉︎」


 慌てた様子でテレーズが走ってきて私は苦笑する。大丈夫、何でもないの、とテレーズに笑いかけ、少女に恐る恐る視線を向けた。私の足元からじっと見上げてくる少女は私の顔を凝視しているのに恐れている様子はない。きっと何も知らないからなのだ、知られればきっとこんな風には見てくれなくなるのだ、と思うのに、キラキラと輝いた目は私を不思議そうに見ているばかりで全く恐れない。この左右で色が違う目だって、見えているのだろうに。


「ねぇあなた、お名前は?」


「フラヴィよ。ビルがつけてくれたの!」


「そう、ビルが」


 子どもの名前をつけることがあるのかと驚きはしたけれどそれは表情に出さず、私は微笑んだ。ビルの話によればこの子も奴隷だったり見世物小屋にいたりしたのだろう。私の知らない世界だ。私とは違う辛酸を舐めてきたかもしれない子。もしかしたら遥か昔の逸話よりも、おとぎ話のような存在よりも、ずっと現実の方が苦しくて怖いものだと、もう知っているのかもしれない子。


 それなら魔女なんて怖くはないのかもしれない。


 私は屈み込んで少女と視線の高さを合わせた。幼い私に両親がよくしてくれた動作だ。他の大人は皆、高いところから私を見下ろして忌まわしいものを見る目を向けてきたけれど、両親は違った。私はそれを子ども心に解っていて、嬉しかったのを覚えている。だから同じことを、嬉しかったことは他の子にも渡してあげたい。


「フラヴィ、私はジゼル。ドレスは着ているけどお姫様じゃないわ。お姫様じゃなくても私に此処のこと、教えてくれると嬉しいのだけど」


「もちろんよ! あのね、此処には“マックスの患者”がいっぱいいるの! わたしもそう!」


 フラヴィは包帯を巻いた腕を私の前にずいっと差し出してみせた。マクシミリアン先生な、とマックスが奥のベッドへ向かいながら顔だけこちらに向けてフラヴィに言う。はーい、マックス先生、とフラヴィは良いお返事をした。


「ビルや、テレーズ、トマに、イヴォンヌ、他にもいっぱい毎日来て遊んでくれるのよ! ご飯も一日二回! お腹いっぱい食べて良いの! それにね、特別な日にはおやつも出るのよ! この前はえっと、えっと、ハクシャクの結婚式だったからってケーキが出たの! ケーキよ、ケーキ! お姉さん食べたことある?」


 ほっぺたが落ちそうなくらい美味しかったの、とフラヴィは自分の頬を両手で持ち上げるようにしてにっこりと笑う。味を思い出しているのか、幸せそうな笑顔だ。


「伯爵……伯爵も此処にくるの?」


「こないわ。ハクシャクは忙しくて会えないんだって! でもハクシャクのおかげでわたしたち、此処でご飯を食べたり遊んだりできるって、マックスが言ってる! だから会えたらありがとうって言うの!」


 伯爵への好感度が高くて驚いた。姿を見せることはないようだけど、伯爵の意志で子どもたちを保護しているというのが働く皆のおかげで知れ渡っているようでもある。それに、結婚式のケーキ。あんな遅い時間に食べさせたとは思えないから、私たちが到着する前に振る舞ったのだろうか。あの苦行の結婚式の裏でこんなに可愛い笑顔が溢れていたと思えば、悪いものとも思えなかった。


「だってよ、ビル」


「……伝えよう」


 話を聞いていたのか、マックスがそうビルに話しかけた。ビルは落ち着いた様子で返す。


「それからね、怪我が良くなったらお外に出られるのよ! 色んなお仕事を覚えられるように勉強もさせてくれるんですって! ねぇジゼル……」


「奥様、よフラヴィ。ジゼル奥様と」


「ううん、良いの、テレーズ。私も皆と同じ、名前で呼んで欲しいわ」


 フラヴィを(たしな)めようとしたテレーズを制して私は言う。何を窘められようとしたのか解っていないフラヴィはきょとんとし、それからおずおずと窺うように私とテレーズを見た。その目に浮かんだ色に私は気付く。だってそれは。鏡の中で嫌というほどに見た、私と同じ、色。


「もしかしてお姉さん、奥様なの? ご、ごめんなさい、わたし」


「大丈夫、大丈夫よ、フラヴィ。何も心配要らないわ。私のこと、そうね、ジゼルお姉さんって呼んでくれたら嬉しいわ。私、兄弟がいないからそんな風に呼んでもらえたことがないの。ね、奥様よりよっぽど素敵だと思うわ。お願い、フラヴィ」


 何処かの夫人から酷い目に合わされたのだろうか。そう邪推してしまうほどフラヴィは怯えていた。奥方とビルが紹介したのはそういった事情を慮ったのかもしれない。


 私は彼女の会った夫人とは違う。奥様と呼ばれることも未だ慣れないし、魔女とは呼ばれても何かできるわけでもないし、そんなに恐ろしい存在ではない、と思う。騙していることになるのかもしれない。でも、向けてもらった無垢な目を、純真な眼差しを、失いたくなかった。これは私の気持ちだ。私だけの。フラヴィには関係のない、私の傷を埋めるための。


 そう解りながら、私は手を伸ばす。


「ねぇ、呼んで欲しいの。ジゼルお姉さんって」


 もしかしたら、こんな傷の埋め方を教えてはいけないのかもしれない。彼女の傷を違う夫人の姿を見せることで塗り替えようとするなんて。その穴に嵌まらない私の姿を押し込もうとするなんて。


 でも、分からないのだ。私にも、まだ。どうするのが正しいかなんて分からない。できるのはただ、もらったものを見様見真似で返すことだけ。多くの人から蔑んだ目を向けられ俯いた私を、温かく迎え入れてくれた此処の皆のように。


 私も、なれたら。


「い、良いの……?」


 フラヴィの目が不安そうに揺れる。勿論、と私は微笑んで頷いた。フラヴィがそう言ってくれた時のことを意識して。


「ジゼルお姉さん……」


「ええ、フラヴィ。お話の途中だったわね。何を言おうとしていたの? 色んなお仕事を覚えられるように勉強もさせてくれる、の次に」


 見えないながらに伸ばした手をフラヴィが拒まなかったことは分かったから、私は安堵しながら続きを促した。


「ジゼルお姉さんは……字が読める……? 絵本を読んで欲しかったの……」


 窺うように向けられた目は私からちらりと移動する。ちら、ちら、と瞬間的に向けられるその視線の先にいる人物は気まずそうにしていた。お互いに気にしているようであることが感じ取れる。禍根を残したくはない。でもどうすれば良いのか分からない。


「おーおー、そりゃジゼルお姉さんは字が読めるだろうさ」


 私たちの様子を見ていたらしいマックスが話に入ってくる。奥のベッドに処置を終えたばかりの子どもを寝かせてきたらしい。仕切りがされていて、その奥は覗き込むのも許されないようだ。年長の子どもたちが仕切りの周りを囲むようにして立ち、覗き込もうとする幼い子どもたちを別の遊びに誘って上手に追い返している。


「けどジゼルお姉さんは絵本を読んだことがあるか? 兄弟いないんだろ?」


「え、あ、そ、そうね」


 幼い頃に母が読み聞かせをしてくれたことはあるけれど、私が誰かに読み聞かせをしたことは一度もない。ただ読むだけではダメなのだろうと思って私は途端に途方に暮れた。


「なぁビル、この中で一番絵本を読むのが上手いのは誰だ?」


「……テレーズだろうな」


 一斉に全員の視線がテレーズへ向いて、驚いた表情を浮かべたのはテレーズ本人だった。視界の隅でマックスが親指を自分自身の後ろに向けて動かすのが見えて私はマックスを見た。マックスは私を見ている。何かしろ、ということなのだろうけど、一体それが何を示しているのか分からなくて私は取り敢えずで口を開いた。


「テレーズ、お願いしても良い?」


 よし、とばかりにマックスが拳を握ったからこの行動で合っていたようだ。テレーズは驚いた表情のまま私を見た。目がまんまるになっている。


「テレーズがですか?」


 本を読んで欲しいと言われたのはテレーズではないのに、とばかりに彼女は表情を曇らせた。何か言わなければと思うのに、相変わらずどうして良いか分からない。まごつく私に助け舟を出してくれたのは意外な人物だった。


「マックスは勝手に話を盛る、俺は無愛想、彼女は……」


「ジゼルお姉さん」


 マックスが茶化すでもなく、至極大真面目な様子で訂正するから私は違和感を抱くのが一瞬遅れた。


「……“ジゼルお姉さん”は絵本を誰かに読んだことがない。それならテレーズ、適任は君だ」


 ビルがにこりともせずに言い放った。喋っていた口がまた真一文字に結ばれる。静かで、命令ではないのに圧力があって誰かを従わせるに充分な声。若く見えるけれど家令として長くこの家に在るのだろうと感じた。テレーズはそれに怯えるでもなく渋々でもなく、受け入れているように見えた。自分で良いのだろうか、と思っているように見えたから、私は勇気を振り絞って口を開く。


「テレーズは私の先生なの。絵本の読み聞かせのことも教えて欲しいわ」


「先生?」


 同じ疑問を乗せたのはテレーズに、フラヴィだ。ええ、と私は頷く。どう笑ったら私の言うことは受け入れてもらえるだろう。信用してもらえるだろう。テレーズはどう笑っていたっけ。普段、皆と関わる時に。


「私が此処へ来たのはたった二ヶ月前なの。私よりも皆の方が此処のことをよく知ってるのだろうし、テレーズはもっと先輩ね。だから私、テレーズに色々習っているのよ。ね、お願いテレーズ。あなたが普段どうやってるのか私に教えてくれる?」


 う、とテレーズは言葉に詰まった。ごめんね、と私は思う。立場を利用して断りづらくしているのは私だ。でも私のせいで二人に禍根を残して欲しくない。これで上手くいくのかは分からないけど、マックスも、あのビルも恐らくは手を貸してくれたと思うから私は祈る。お願い、と願った。


「当然ジゼルお姉さんも手伝うんだよな? なぁ、テレーズ見せてやれよ。お前の迫力満点の読み聞かせ、オレも好きだし。チビどももそうだろ?」


 今や私たちの周りには絵本を読むのかと興味を持った子どもたちが集まっていた。子どもたちにとって絵本は他の遊びよりも面白いものらしい。読んで欲しい絵本を持ってきた子どももいた。


「……分かりました! 読みます!」


「よっ、それでこそテレーズ! ほらチビども集まって座れ。テレーズが絵本を読むぞー。今日は助手のジゼルお姉さんも一緒だ」


「じょ、助手って、何をすれば……?」


 勢い余って手伝うことに頷いていたけれど、よく考えたら何をすれば良いのか分からなくて私はこっそりとマックスに近づいて小声で尋ねた。マックスはにっかと笑ってテレーズの横に私を座らせる。


「見てろ。チビどもの顔と、テレーズの様子と。余裕が出てきたら参加しろ。別に何も言わなくて良い。皆と同じように感情を動かせ。嬢ちゃんはまず知ることから始めれば良い。知らないことを知るのはな、楽しいぜ。此処の伯爵が教えてくれたことだ」


 離れる間際に私へマックスはそう囁く。それから子どもたちと一緒にテレーズの読み聞かせを聞こうと後ろの方に座った。マックスを慕った子がぴたりとマックスにくっつくようにして座る。それを受け入れ、マックスは指を差しながら絵本を見るように誘導していた。


 テレーズが読み聞かせを始めると、部屋は突然劇場に姿を変えたかのようだった。劇場なんて行ったこともないけれど、そう感じたのだ。子どもたちの目は釘付けになり、テレーズが語る絵本の世界を一様に思い描く。テレーズの語り口は母を思い起こさせた。幼い頃、寝しなに語り聞かせてくれたお伽噺のように、


 誰もが夢中になっていた。その中でビルの様子だけが分からなくて私はそっと彼を窺う。目元が見えないから、というのは大きな理由だと思うけれど彼には表情の動きがないのだ。子どもたちのような、マックスのような、動く感情が見えない。感情を動かせ、とマックスが言ったのは私にそれを気づかせるためだったのでは、と思うほどに。


 絵本は二つ読まれた。恐ろしげな青い髭を持つ裕福な男性に嫁いだ娘の話と、ブーツを身につけた猫の話だ。どれも臨場感に溢れていて怖くて、ハラハラして物語の結末を一緒に辿った。夫の言いつけを破った娘の話は何だか身につまされた気がしたけれど、気づかなかった振りをする。でもだからこそ、その話が子どもたちをこの場所から出さないためのものであることはすぐに解った。


「無意識下に恐怖を植え付けるのは有効だ。言い方は悪いかもしれねぇがな」


 また読んでね、とフラヴィがテレーズに話しかけるのを見ていた私はマックスと一緒に顔を見合わせた。そのままお昼寝の時間だからとマックスに連れ出され、テレーズだけを残してビルも一緒に出る。大部屋を出たところで私が尋ねれば、マックスがそう答えた。


「あいつらはまだ治療中だ。外に出すわけにはいかないんでな。今までいた場所とは違う場所、安心で安全で誰も自分を脅かさない場所、そうあいつらが心の底から信じられるまでは出してやれない。そしてそう信じ始めた頃にあの絵本は効くんだ。言いつけを守れってな」


 絵本では娘を助けに来てくれる人物はいたけれど、あの子たちが此処へ来るまでに助けてもらえたことはどれだけあっただろう。最初に差し伸べられた手が、此処へ来るための手だった子だっているのかもしれない。そう思うと気分が沈んだ。


「恐怖で行動を制限するなんて、って嬢ちゃん思ってるか? けどな、人の行動を制限するのは恐怖だ。痛みとか、苦しみもあるけどそれが帰結するのは恐怖や嫌悪。そういう思いはしたくないから避けるようになる。悪いことばかりでもない。例えば一定の高さから落ちれば痛いし怪我するし下手すりゃ命に関わる。そういうものが危ないもの、怖いものって教えるのはオレたち大人の役目だろ?」


 マックスが子どもの処置を行なった部屋まで戻りながら私に説明してくれる。それの正邪や是非については私には分からない。奴隷や見世物小屋にいた子どもを引き取って育てるのに何が必要なのか、私は知らないからだ。でもビルも否定しないし、マックスもそれを信じている様子なのは解った。


「それにブーツ猫の話も併せてしてる。どんなに劣悪な状況でも猫みたいな機転でひっくり返せることを教えてるし、怖かった気持ちは薄れる。猫が助けてる息子が何もしてないのは気になるが、まぁ猫に夢中になるだろ、あの話は。その上で息子のことに言及できるならそれはそれで優秀だ。目の付け所が違う」


 大物になる、とマックスは自信気に言う。マックス自身がそういう子どもだったのかもしれない。


「なぁ、これもよしみだ。これからもあいつらのとこ、行ってやってくれよ」


「は?」


 私が答えるより前にマックスに異を唱えたのはビルだった。意外で私は目を丸くする。


「駄目だ。彼女は伯爵の奥方だぞ」


「だから何だよ」


「伯爵の許可が出ていない」


「伯爵が次に帰ってくんのはいつだよ」


 ビルとマックスの素早い応酬に私はおろおろとして二人を見守ることしかできなかった。マックスの切り返しに、ビルが詰まる。気紛れな伯爵なのか、ふらりと外出してはしばらく戻らない。いつ帰ってくるのかビルも知らないのだろう。


「あの場所に“ジゼルお姉さん”はいても邪魔にはならない。それとも“ジゼル奥様”は普段の公務が忙しいか?」


 否の答えを知っているのだろうマックスに視線を向けられて、私は否定の意味で首を振る。


「伯爵の指示は何だった?」


「ち、地下室に行かなければ自由に過ごして良いって……」


 じゃあ何の問題もないな、とマックスは両手をパッと広げてにっかと笑う。私は面食らって言葉を失った。ビルも同様に見えた。


「地下室に連れてったのはオレだ。嬢ちゃんが自分で行くのが引っかかるってんなら、毎日お姫様抱っこをして行っても良い。いつか本物のお姫様になっちまうかもなぁ」


 フラヴィが言ったことをなぞっているのだろう、マックスは思い出し笑いをして喉を鳴らした。言い返せないでいるビルが意外で、私はそっと彼を窺う。目元は相変わらず見えないし、唇はいつも通りに真一文字に引き結ばれている。いつも通りといえばいつも通りな気がした。


「伯爵を納得させられないならオレが上手い言い訳を一緒に考えてやるよ。大体マックスのせい、にしておけば何も言わねぇだろ」


 にしし、とマックスは楽しそうに笑う。お前はいつもそうだ、と言いながらビルが息を吐いた。呆れたような物言いにマックスがまた笑う。私はそのやりとりに、二人の過ごしてきた時間の長さを感じた。


 何となく、何となくそうやって二人で支え合いながら何年も一緒にいたような雰囲気を感じたのだ。まぁ本当にそうなのかはあまり人との関わりが多くない私にはちょっと、分からないけれど。


「それに一度だけ現れたお姫様みたいな女の子、しかも伯爵の奥方だ。来なくなったら伯爵の言いつけを破ったんじゃないか、って御伽噺が効きすぎる。震え上がらせるためにあの話を選んだわけじゃない。嬢ちゃんが“ジゼルお姉さん”としてあの場に馴染めば大丈夫だろ。しばらくは類似性を見つけようとするチビどもがいるだろうからな」


 一時的に保護しているだけで永遠に地下に閉じ込めておくつもりがないから、二人は子どもたちの将来に心を配る。子どもたちに与える影響を考慮し、最善を選ぼうと意見を出し合うのだ。対立することはあっても喧嘩に発展することはない。私にはその姿が、ひどく眩しく見えたのだった。


「……ということだ。あなたにも手伝ってもらう」


 渋々、といった様子でビルが私に言った。覚えることは山ほどあるぞ〜とマックスが茶々を入れてくるのをビルは鬱陶しそうにしたけれど、はい、と私は頷く。


「精一杯頑張ります!」


 とは言ったけど。意気込みも充分だったし嘘ではないけど。


「思ったより……い、忙しい……!」


 連日、子どもたちと一緒になって遊び、危険がないか目を見張り、悪いことをすれば心の中でやるぞと覚悟をして叱り、親切にすれば褒めた。喧嘩をすれば仲直りを教え、親切にされればお礼を言う姿を見せ、困っている人には屋敷の者であろうが子どもたちであろうが自分から手を差し伸べた。


 けれどそのどれも、私は自然にできない。子どもたちと一緒になりながら使用人の皆に教えられ、実践し、学んだ。両親から教わったことは沢山あるけれど、人との関わりが少なかった私に友人との、同世代との関わりは教えられることがない。ジゼルお姉さんも“マックスの患者”みたい、とはフラヴィの言だ。否定できなくて私は苦笑してしまった。


「トマもイヴォンヌも、それにテレーズも。屋敷の皆が“地下出身”だなんて知らなかったわ」


 洗濯を手伝いながら私がイヴォンヌに零せば、あははと笑い飛ばされた。除け者にするつもりはなかったんだよ、と言われて私は自分がそう感じていたことに気づいて赤くなる。


「伯爵がね、わたしらを此処に置いてくれるんだ。マックスみたいに外へ飛び出せる人ばかりじゃない。此処で自信をつけて、他所へ行きたいとか、行ってみたいとか思うなら挑戦すれば良い。そうじゃないなら此処で屋敷の維持に手を貸してくれると嬉しいってさ」


「あのヴリュメール伯爵が……?」


 私は驚いて目を丸くした。結婚式の夜に見た姿しか知らないから勿論全部を知っているわけじゃないことは重々承知しているけれど、使用人の皆が話してくれる内容と私が持つ印象とは随分とかけ離れているように思うのだ。本当は優しくて良い人なのかな、と思う反面、でも偽装結婚するような人なのに、という事実が首をもたげる。それに反論する材料がないから私の中で伯爵はよく分からない人のままだ。一応は夫、なのにも関わらず。


「除け者にするつもりはなかった。でも秘密にはしていたんだから、同じことだね。ごめん」


「い、良いの。気にしてないから。毎日沢山の洗濯物があるのは子どもたちの分もあるからなのね。理由が分かって納得したわ」


 私が慌てて胸の前で両手を小さく振ると、手についた泡が左右に飛び散った。あわわ、と肩を跳ねさせる私をイヴォンヌはまた笑い飛ばし、そう言ってくれると助かるよ、と微笑んだ。


「毎日清潔なシーツなんて与えられなかった子どもたちだ。わたしらは与えられた。だから今度は与える番。ジゼル奥様がそれを知りながら手伝ってくれるのは、とっても大切なことだとわたしは思う」


 イヴォンヌの笑顔は木漏れ日のように穏やかで、優しいものだった。誰かを想う優しい気持ち。彼女はそれを此処でもらったのだろう。だから此処で返したいと、渡してあげたいと思う。


「オーブもこれでよく眠れたら良いんだけど」


 困ったように眉を下げて、それでも笑顔は浮かべたままでイヴォンヌが続ける。そうね、と私も目を伏せて頷いた。


 あの日、マックスが処置を施した異国の子ども。患部は濡らさないようにしながら体の隅々まで洗って清潔な服を着せると、益々中性的で綺麗な子どもになった。一切の口を利かないけれど、耳が聞こえないわけではなさそうだ。こちらの言葉も多少は分かっていて、空腹か尋ねれば首を振って返答する。けれど名前を訊いても何も言わないから、マックスが彼の名前をつけるようにと私に言ったのだ。呼ぶ名前がないと困るだろう、と。


 名前なんてつけたことがないから私は一日考えた。その結果、オーブ、と呼ぶことにした。夜明けの意味を持つその言葉は、鋭い目を向ける彼が心穏やかに過ごせるように、希望の光が見えますように、と願ってつけたものだ。気に入ってくれているかは分からないけど、皆が呼べばそれを名前としては受け入れたのか、振り向いてはくれる。それでひとまず良しとした。


 オーブはあまり眠れていないようだ。異国の血が入っていることが分かる肌色をしているから見慣れない私は顔色とか目の下のクマとか、そういったものはよく分からない。けれど何かあっても対応できるようにとついている使用人がそう言うなら、暗闇の中で彼は眠ることなくシーツに包まって警戒しているのだろう。


 あの手この手でオーブが警戒を緩められるよう、せめて夜眠る時間が長くなるように、と私たちは工夫を凝らした。此処へ来たばかりの子はよくそうなるらしい。大抵は他の同世代の子どもがのびのびと振る舞っているのを見て、自分が何処まで許容されるかを試し始め、自由を得ていくのだそうだけど。


「あの様子じゃ清潔なシーツどころか、服も寝床も満足に与えられてなかったのかと思うよ。まったく、子どもの奴隷なんて趣味が悪い。大人になれない子だって中にはいるんだろう。わたしらは運が良かっただけで……あぁ、こんな話、ジゼル奥様にするもんじゃないね。忘れて──」


「──いいえ、忘れないわ。私は奴隷じゃないしあなたたちの体験したことのほんの少しだって想像はできないかもしれないけど、でも、忘れたくないの。私の知らなかったことがこの世界にはあるんだってことを」


 まずは知ること。マックスが指し示してくれた道はつまり、日々私のお世話をしてくれる使用人を知ることにも繋がっている。そう思ったから私はイヴォンヌのお願いを拒んだ。心臓はばくばく鳴っているし、不快な思いをさせていないか心配で顔が引き攣るけれど、きっと許してくれると思う。イヴォンヌを始めとして使用人の皆はあの日から私を“ジゼル奥様”と呼んでくれるようになった。私が自分でフラヴィにジゼルお姉さんと呼んで欲しがったことに端を発しているようだけど、私は何だかくすぐったかったのだ。それが嬉しいというのだと気づいて、心が震えた。もっと嬉しくなったのだ。何となく彼らとの距離が近くなったように思った。


「……これ以上はないって思ってたのに、今のでわたし、もっと救われちゃったみたいだ。オーブもきっと、大丈夫。時間はかかってもジゼル奥様が諦めないならいつかは眠れるようになるし、笑ってくれるようにもなるよ」


 イヴォンヌは困ったようにしつつも笑った。ほんの少し頬が染まっているように見えたのは私の気のせいかもしれない。


「ジゼル奥様、こんなところに! そろそろ子どもたちのところへ行く時間です! あと、トマがまたお花をポプリにするなら丁度良い花があるって言ってました!」


 テレーズが私を見つけて声をかけながら走ってくる。イヴォンヌと私は揃ってテレーズを見遣り、それからまた二人で顔を見合わせて微笑んだ。また。また少し、距離が近づいた気がして私は嬉しくなる。皆は優しいから言わないけれど、これが迷惑でなければ良いと願った。


「そうだ、ポプリ」


 私はハッとして口に出す。到着したテレーズもイヴォンヌも私の唐突な発言に驚いた表情を浮かべた。私はテレーズを向いて先日二人で作って余ったポプリを子どもたちに持って行ってみようと提案する。


「好き嫌いはあるかもしれないけど、気に入ってくれたらオーブもきっと眠れると思うの」


「わぁ、素敵ですね! ぜひやってみましょう! テレーズが持ってきますね! ジゼル奥様は入口で待っていてください!」


 言うや否やテレーズは元来た道を振り返って走っていく。元気いっぱいな様子に私は呆気に取られていたけれど、イヴォンヌが苦笑した声で我に返った。


「あの行動力は本当に凄いよ。それじゃジゼル奥様、手を洗ってから向かってくださいね」


「ええ。ありがとう、イヴォンヌ」


「お礼を言うのはわたしの方なんだけどね」


 イヴォンヌはいつものように笑った。快活で、裏表がなくて、飾らなくて。そんな彼女の腕には縫合の痕がある。彼女もまた、マックスの患者、なのかもしれない。マックスとは同世代だからもしかしたら違うのかもしれないけど、地下にいた子どものひとりなのは間違いがない。地下で元気に過ごしている子どもたちの様子を見ていたら、イヴォンヌのように過去のことを距離を取って眺めることができるようになる子もいるだろうと思えた。


 トマやテレーズだって同様だ。優しくて、温かい。ソルシエールの娘としてではなく、私を見てくれる。皆の優しさのおかげで私は今こうしているのだろう。


 手についた泡を落としてから洗濯場を後にして、施設へ続く階段へ向かった。テレーズはまだ流石に戻ってきていないらしい。でも丁度、階段を降りて行こうとするビルと鉢合わせて少し気まずい思いをした。


「あ、えっと……」


 こんにちは、くらい言えれば良いのだけどどうにもビルを前にすると萎縮してしまう。初対面の時は丁寧な口調で話しかけてきたビルだけど、子どもたちの前では誰であろうと対等に接するようにしているのか、私にも(かしこ)まらなくなった。もじもじする私に、ビルは少し首を傾げる。


「今日も?」


 面倒そうな雰囲気を感じて私は肩を縮める。不可抗力とはいえ伯爵の言いつけを破る私をビルは快く思っていないだろう。ビルも伯爵から命じられたのに遂行できていないことになる。それを謝りたいと思う一方で、だけどオーブのことが気になるから謝れてはいない。ならもう来ないでくださいなんて言われたら私は従ってしまいそうだ。


「そう。あの、オーブがもし眠れたらと思って、ポプリを……」


 ポプリ、とビルは繰り返す。前に作ったの、と言えばもしかしてとビルは薄い唇を開いた。


「庭の区画で育てている植物で?」


 思った以上に関心があるような声だったから私は面食らった。少し遅れて、違うわ、と否定すればビルもハッとした様子で口を噤んだ。前のめり気味だったことに自分でも気づいたのだろう。私は引き攣る頬を何とか上げてビルに笑んでみせた。


「心配しなくても、毒草なんて育てないって言ったでしょう。誰かを害するつもりは、あ、ありませんから」


「……」


 ビルはまた真一文字に口を結んで黙ってしまった。ぷるぷると引き攣る頬をいつまで上げていれば良いのか分からなくなった頃、ビルは僅かに私から視線を逸らした、ように見えた。何せ目元が見えない。顔の向きが変わったからそう感じただけだ。


「そういう意図はない……悪かった」


 もごもごと、早口にそう言ってビルは階段を降りていく。その姿が階下に消えていくのと入れ違うようにしてテレーズがまた駆けてくる。腕いっぱいにポプリの入った籠を持っていて、私の顔を見ると不思議そうに首を傾げた。


「ジゼル奥様? どうかしました?」


「……ううん、何でもないの。でも、伯爵はどうして私に庭をひと区画、使っても良いって赦してくれたのかと今更ながらに思って」


 旦那様がですか、とテレーズはきょとんとし、奥様に園芸のご趣味があるからじゃないですか、とにっこり笑った。裏表のない笑顔は私を安心させてくれる。


「テレーズはあまり旦那様から奥様になる方のことを聞きませんでしたけど、園芸がご趣味だというのは聞いてました。先に送ってくださった荷物の中身もそうでしたね。後は自分で知るように、と言ってました! テレーズ、誰かと仲良くなるのが上手だからって」


 そうね、と私は微笑んだ。テレーズは本当に人と仲良くなることが上手で、距離の取り方が上手で、この二ヶ月テレーズの振る舞いを見て私は人との付き合い方を学んだのだ。勿論テレーズのように天真爛漫には振る舞えないから彼女のように好かれることはない。偽装結婚とはいえ立場上は妻である私を皆が邪険にはできないことも解っていた。でも、此処の皆は“私”を見てくれると思う。


「庭仕事もお手伝いするようにって言われてました。ジゼル奥様は手際が良いのでテレーズが手伝えることはありませんけど……」


「そんなことないわ。私のことを気にかけてくれるの、う、嬉しいし。いつも傍にいてくれるの、安心するわ」


「テレーズお役に立ててますか! やったー!」


 ころころと表情が変わるテレーズに私は驚き、それから笑った。胸に芽吹いた不安の種からそっと目を逸らす。もし、と思ったのだ。伯爵が偽装結婚とはいえソルシエールに申し込む理由が解らなかった。傾いた我が家に手を貸す理由が解らなかった。ずっと判らなかったのだ。私で良い理由が。それがもし、もしも。


 ソルシエールの娘であることが、気を引いたのだとしたら。


 魔女の万能薬を、期待したのだとしたら。


 その基となる薬草を育てさせるために、ひと区画を解放したのだとしたら。


 テレーズはきっと何も知らない。隠し事には向かないし、私の心を開くのには打ってつけだと思ったのかもしれない。他の皆もどれだけ知らされているかは判らない。でも、ビルは。


 ビルは家令だ。伯爵と関わる機会は多いだろうし、極秘に命じられている可能性もある。偽装結婚であることを告げたのも彼だ。勘違いするな、という念押しだったのかもしれない。暇を持て余せば趣味の園芸をするはずだと踏んで、促したのだとしたら。


「一応他の子も欲しがるかもしれないから沢山持ってきたんですけど、足りますかね」


 テレーズの声に私は思考を切り替え疑惑を追いやった。考えたところで無駄だ。確かめようとも思わない。そんなことをしたって、惨めになるだけなのだから。


「好き嫌いが分かれるんじゃないかと思うけど、テレーズは皆が欲しがってくれると思う?」


「はい! だってジゼル奥様とテレーズとで作ったんですから!」


 自信満々に頷くテレーズに驚きながら、私は胸に温かいものが広がるのを感じた。前向きなことを信じて疑わないテレーズには何度も助けられている。そうであれば良い、と願うようになるほどには。


 テレーズの予想通りポプリは大人気で、何よりも“外”を感じられることが子どもたちには人気のようだった。元気いっぱいの子どもたちがいると花瓶を用意しても倒してしまうことがあり、飾るのをやめたそうだ。地下で過ごす子どもたちにとって季節や外を感じられるものは此処を訪れる人たちの服装や纏って連れてきた空気の匂いくらい、らしい。


 子どもたちは銘々にポプリを手に香りを胸いっぱいに吸い込んでは嬉しそうに笑う。それを見て私はまた目に滲みそうになる感覚を覚えるのだ。悲しいものではない、じんわりと温かいそれを。


「オーブもどうかしら」


 私は自らオーブにポプリを差し出した。警戒しながらも皆が喜んでいる姿を見て関心を持ったのか、私の手からオーブがポプリを持っていく。眉根を寄せながらも、くん、とひとつ鼻を動かして香りを嗅いだオーブの目が驚きに見開かれた。


 くん、くん、と何度か香りを嗅いで、オーブの表情は驚愕に固まっているように見えた。何か気になる匂いなのだろうかと私が思っているうちに、オーブの大きな目から透明な雫がぽろぽろと零れていくのを見る。仰天したのは今度は私だった。


「お、オーブ……?」


 狼狽える私をオーブの目が捉え、一瞬だけ私と見つめ合う。そのすぐ後に腕が伸びてオーブが私に抱きついてきたから、ひゃあ、という声が出た。部屋中の視線がこちらを向くのを感じる。見られ慣れていない私はそれに驚いて肩を震わせた。でも胸元でもっと体を震わせる幼い体があるから、途方に暮れてしまう。どうすれば良いのだろう。


 助けを求めて視線を向ければテレーズは驚いて目を丸くしているだけだった。ビルは表情が相変わらず見えない。マックスが身振りで抱き締めるよう教えてくれたから、私はそろそろとオーブに手を伸ばす。振り払われるかも、と思った懸念はけれど、徒労に終わった。ぎゅ、とオーブの腕の力が強くなり、私の胸は詰まる。


 ソルシエールの娘だから、と蔑んだ目で見られたことに傷ついていた頃、幼い私は今のオーブのように母に泣きついたことがあった。あの時、母はどうしてくれたっけ。私はどうして、安心して泣き止んだのだっけ。


 遠い記憶を引っ張り出して私はおずおずとオーブの頭を撫でる。ぐす、と鼻を鳴らす音がすぐ近くでして、愛おしさが胸に溢れた。堪えていた何かが溢れてしまったのだろうと思う。それが良い方向に転がれば良いのだけど、と私は願った。


 びええ、と別のところから泣き声がして私は視線を向ける。マックスの近くにいた少女が泣いている。それにつられるようにしてあちこちで泣き声があがり、あーよしよし、とマックスたちが宥めにかかった。泣き声の大合唱はしばらく続き、それに紛れながらオーブは一頻り泣き、そのうちに泣き疲れたのか脱力する。泣き疲れて眠りに落ちる子どもは多く、ビルやテレーズがひとりずつ寝台に運んであげていた。


「嬢ちゃんに、母親の姿を見たんだろ。正直言うとオレもちょっと羨ましかった」


「羨ましい……?」


 オーブを寝台に運ぶのを手伝ってくれたマックスがそう言う。そう、とマックスは目を伏せて、けれど口角は上げて答えた。


「チビども皆、幼いのに親元から離された。色んな事情があるだろうさ。貧しさに売られた者、拐われた者、中には捨てられた者だっている。

 助けてくれって思ってた。伯爵が拾い上げてくれて命は助かった。衣食住与えられて、不便さはあっても前の比じゃない。でも、望んで手に入らないものがある……愛情だ。それも一番の、自分だけを愛してくれる真っ直ぐで大きな愛情」


 マックスの言葉が聞こえたのか視界の隅でテレーズの表情が曇るのが見えた。


「子どもでもな、解ってるんだ。此処では自分と同じような他の子どもがいて、自分だけが我儘を言うなんてできない。自分だけが欲しいものを望むなんてできない。充分に面倒見てもらってるし、優しくされてる。これ以上甘えたこと言えねぇってな。

 誰かにぶつけて受け止めてもらいたい衝動を抱えながら、ぶつけられないことは解ってる。でも、目の前で見ちまった。溢れ出た衝動を受け止めてもらうのを。寂しくて、羨ましくて、オレでさえ情緒がぐちゃぐちゃになったんだ。チビどもが泣き喚くの仕方ないさ」


「わ、私、何か悪いことを……」


 自分がしてもらったように。私もそうしようと思っただけなのだけど、思いがけず子どもたちを揺さぶってしまう行為だったと知って青褪める。いや、とマックスは私を見て困ったように笑った。


「こいつを嬢ちゃんに特別扱いさせたのはオレだ。ただでさえ特殊な出会い方をしたのに、名前をつけさせた。こいつが心を開くなら嬢ちゃんだと思ったからだ。こうなることくらい読めてなきゃいけなかった。オレの落ち度だ」


 悪いな、ビル、とマックスはビルへ視線を向ける。別に、とビルは仏頂面のままぼそりと答えた。


「俺たちだって人間だ。平等に接しようと思ってもそうもいかないことはある。此処を出ても平等には扱われない。此処へ来る前がそうだったように。外は変わらない。理想郷はない。此処はただの避難先だ。それに彼女は分け隔てなく接している。オーブの頑なな警戒心が変わらないなら同じ接し方では効果はないだろう。多少、特別扱いは必要になる。めくじら立てるほどのことじゃない」


 そっか、とマックスは息を零す。私はビルの言葉が意外で驚いていた。私を庇い、大したことではないと言ってくれているように聞こえたのだ。大したことなのは子どもたちの様子から明らかなのに。上で話したことを気にして言ってくれたとは思えないけれど、でも、そうなのだろうか。


「じゃあちょっと嬢ちゃん、手伝ってくれるか。チビどもが目を覚ました時に気が紛れるもの、あった方が良いだろうからな」


「私で良いの?」


 やらかしたらしいことに落ち込んでいたら、はははとマックスに笑い飛ばされた。


「嬢ちゃんがチビどもにあげたポプリと喧嘩しない香りの花をビルやテレーズが選べると思うか?」


「え」


「テレーズは何でも良い匂いって言うだろうし、ビルは違いが分からないだろ」


「流石にそんなことは……」


「あるんだなーこれが! ってことで、行こうぜ」


 半ば強引に手を引かれ、驚いているうちに外へ連れ出されていた。行ってらっしゃい、とテレーズは手を振り、ビルはじっと私たちを見ているように感じた。陽の高い夏空の下へ出ると目が眩む。私より数歩先で、オーブと同じ色の肌をしたマックスが佇んでいた。


「オレの勘違いなら良いんだけどな、嬢ちゃん、何か悩んでるか?」


 え、と驚いた声を出す私に、顔に出てる、とマックスは言う。咄嗟に両手で頬を覆うようにした私に、マックスは笑った。


「嬢ちゃんは案外分かりやすいからな。しかも誰かに相談できる類の人間じゃない。ひとりで悩んで眠れなくなる。だから眠りに就きやすい香りの花を知っているし、乾燥ポプリの作り方も知ってる。違うか?」


「……」


 図星すぎて答えられない私を見てマックスはまた笑った。


「別に誰かに話すのが全部じゃねぇけど、ひとりじゃ何とかできないことだってある。特に誰かに関することな。そういう時の解決法はな、直接言うことだ」


「直接」


 そんな恐ろしいこと、と思う私にマックスはにっかと笑顔を浮かべる。太陽の下で見るとまた眩しい笑顔で、私は目を細めた。この人も地下で過ごしていた時期があることを思い出し、だからこそこんなに明るく笑えるのだろうかと考えた。植物には太陽の光が必要だ。地面の底で栄養を蓄えて、いざ外へ出て、芽吹いた後には太陽の下ですくすくと育って。そして今度は彼が、太陽のような笑顔を浮かべて地下へ戻る。太陽を思い出して、子どもたちはまた外への憧憬を募らせていくのだろう。


 マックスだってつらい目に遭ってきたのだろうに、どうしてそんな風に笑えるのだろう。助けてくれと思っていたことを吐露したのは数分前なのに、それを乗り越えたようで引き摺っているのだろうに、どうして。


「……どうして、そんな風に笑えるんですか」


「お、なんだ、オレに関することか?」


 違うけど、でも、と言い淀んだらマックスは、ははぁとしたり顔を私に向ける。練習か、良いぞ、と自分で解釈してうんうん頷いていた。


「それがオレの、財産だから、だろうなぁ」


 分かるようで分からない言葉に、私は首を傾げてマックスを見る。マックスは首の後ろを片手でさすり、うーんと言葉を探しているようだった。


「オレが此処に来た時、誰も彼も大人しくてさ。笑い声なんてなかった。来たばかりのやつが多かったのもあるんだろうけどな。丁度先代の伯爵が奴隷の子どもを買って保護しだしてすぐだ。伯爵自身、右も左も分からないまま、でも手をこまねいているより始めちまえって気概で勢いだけで手ぇ出したばかりだった。オレは見世物小屋から買われたからさ、驚く顔、もらう拍手、そういうのが欲しかった。そうすりゃ団長は笑顔になって殴られなかったし、飯にもありつけた。此処にきても誰かを笑わせようと思うのは、自然なことだったってわけ」


 そういう生活をしていたから、とマックスは言う。そんな生活から抜け出したのにも関わらず、と私は思った。それを見抜いたようにマックスはニヤリと笑う。


「過去は変えられない。忘れたいほどのやつも、なかったことにしたいほどのやつも、きっといるだろうさ。でもオレはそうじゃない。あれに比べたらと思えば何でもできた。あれがあったら先代の伯爵の目に留まったし、今のオレがいる。でもそれはオレが過去に耐えられるだけのすげーやつだから、ってことかもしれない。誰も彼も同じじゃない。乗り越え方はそいつ次第だ」


 な、とマックスは笑う。何の同意を求められたのか分からなくて私は目を丸くした。訊いてみないと分からないものだろ、とマックスが言うから私は頷く。


「嬢ちゃんもな、同じだよ。嬢ちゃんにしかない過去があって、嬢ちゃんなりの乗り越え方がある。けどこれの凄いところはな、人と話してそいつなりの乗り越え方を訊いたら、試して良いってとこだ。嬢ちゃんもやってみると良いぜ。オレなりの乗り越え方」


「マックスの……? でも私、誰かを笑わせるなんて……」


 そんな高度なことは、と遠慮したら大丈夫、とマックスが安請け合いした。何を根拠に、と唇を尖らせる私に、マックスは自分の口角を両手の人差し指で上げた。笑うだけで良い、と続けて。


「相手を笑わせる前に自分が笑わねぇと。嬢ちゃんに足りないのはな、笑顔だ。チビどもと関わってる時は笑ってるだろ。あれはな、チビどもがまず笑ってるからだ。チビどもから学ぶことも多い」


「笑う……それなら、頑張れるかも」


 私がそう言って微笑めば、おう、とマックスも満面の笑みで応えてくれた。此処へきてテレーズを参考に、テレーズ自身の力もあって笑うことは増えた。両親が見たら驚くだろう。そう思うほどには。


 二人でトマの世話する花壇へ向かって少し進んだところで、背後から静止の声が聞こえてきて私たちは振り返った。目に飛び込んできた光景に私は目を見開く。


「オーブ!」


 オーブが全速力で駆けながらこちらへ向かってきて、その後ろをビルが追いかけている。先日見たような光景に目を瞬いているうちにオーブが私の懐に飛び込んできた。また両目からぼろぼろと涙を零して泣いている。


「おーおー、こりゃどういうことだビル。お前また脱走を許したのか?」


「オーブが速すぎる」


 やや遅れて到着したビルをマックスが呆れたように詰り、ビルは反論した。私は二人を見てからオーブに視線を移す。私をぎゅうと抱き締めるオーブは片手を握り締めている。その手にポプリが握られていることは飛び込んでくる直前に見て知っていた。


 マックスは私に母親の姿を見たと言っていた。オーブももし、そうなら。ポプリの香りが母親を想起させるものだったなら。離れたくなかったと、オーブが思っていたなら。私に、母親の姿を重ねているなら。


 その蓋を開けたのは私だ。


「オーブ、よしよし。大丈夫。何処にも行かないわ。ちょっとお花をトマからもらってこようって思って出ただけよ。すぐに戻るわ」


 マックスに言われたことを意識して、私は笑って言う。そうすると何だか優しくて明るい声が出た気がした。オーブが体を震わせ、ぐす、と鼻を鳴らす。う、と声が聞こえて私はオーブの頭を撫でた。よしよし、何処にも行かないわ、ともう一度言えば、うぅと嗚咽が漏れる。


「う、うぅ……ひっく……」


 喉が引き攣れるような泣き声だった。大丈夫、と私は繰り返す。相変わらず骨と皮だけのようなのに物凄い力で、何処にそんな力があるのだろうと思うほどだ。それだけオーブの母を求める気持ちが強いのだと思って胸が痛んだ。


「まるで聖母サマってやつだな、こりゃ」


 マックスが目を(すが)めて言葉を零す。それから、ハァ⁉︎ と大声を出すから私は飛び上がった。


「おいおい傷口開いてんじゃねぇか! 全速力で走りやがって! すぐに塞ぐぞ!」


 私も身を捩ってマックスが見ている先を視界に収め、オーブの右足から血がドクドクと流れ出て服の裾まで濡らしていることを知って驚いた。離れたがらないオーブをマックスが無理矢理に私から剥がす。怪力のマックスには造作もないことなのだろう。でも私から離れる時のオーブの表情を見て私は思わずマックスを止めた。


「悠長なこと言ってる時間は──」


「オーブ」


 私はマックスを無視し、少し屈んでオーブの顔を両手で包む。ひっく、としゃくりあげるオーブは私を真っ直ぐに見た。私の左右で色の違う目を、此処では誰も気味悪がらない。だから私は此処では前髪を耳にかけている。頬の傷はとっくに塞がっていた。まだ少し怖いけれど、もう隠さなくても良いんじゃないかと私自身が思うからだ。


「オーブ、あなたの脚、治療しなくちゃ。マックスはお医者様よ。お医者様の言うことはちゃんと聞いて。治療を受けたら、また会えるわ。大丈夫。約束するから」


 ね、と私は笑いかけた。オーブは話さないけれど言葉は理解している。私を信じてほしい。そう願いながら微笑みかけたら、オーブがこくりと頷いて抵抗をやめた。よしよし、と今度はマックスがオーブを褒め、抱き上げた。


「嬢ちゃん、悪いけど其処の役立たず頼むわ。木陰で休ませときゃそのうち回復する。あぁ、そうそう、休ませる時は膝を貸してやってくれ。地面は固いからな」


 マックスに視線だけで示された方を見て私はまた仰天した。ビルが青褪めて(うずくま)っている。そういえば血が苦手だと聞いた気がする。オーブの脚から流れる血を見てこうなってしまったのかもしれない。


「膝は、別に良い……」


「嬢ちゃんも言ってたろ、医者の言うことは聞いとけ。じゃ、嬢ちゃん頼んだぜ!」


 言うや否やマックスはオーブを抱き上げたまま地下へ戻る。またあの場所で縫合するのだろう。高い陽射しの下で取り残された私は、けれどビルをこのままにしておくわけにもいかずに勇気を振り絞って近づいた。


「ビル、嫌かもしれないけど、つ、掴まって」


 手を差し出して私は声をかけた。立ち上がるのも難しそうに見えたのだ。支えてすぐ近くの木陰まで連れて行こうと思った。ビルは弱々しく拒もうとしたけれど、夏の昼間に長居はしない方が良い。風はあるから木陰に行けば涼しいし、休むのに適しているはずだ。


「ビル。それとも、他の人を呼んできた方が良い? トマなら花壇にいるだろうし……」


 筋肉質なトマなら普段から重たい肥料袋を運んでいるし、男性ひとりくらい支えられるだろうと思って提案した。ビルは喉の奥で、ぐ、と苦しそうな声を出す。血が苦手というのは他の人は知らないことなのだろうか。知られることを嫌がっているなら、取れる選択肢は少ない。


「……すまない」


「こ、こちらこそ、その、ごめんなさい」


 何に謝っているのか分からなかったけど口を衝いて出た言葉は戻らない。ビルが私の差し出した手を掴んでくれたから、まずは立ち上がるのを支えて手伝う。よろよろと、ふらふらともしながらビルは何とか歩けそうなところまでは立ち上がり、ゆっくりと足を出した。億劫そうな足取りは重く、のろのろとしたものではあったけれど木陰には辿り着く。


「は、吐きそうとか、そういうのはあるの……?」


 尋ねてもビルは答えない。青褪めた顔は一層顔色を悪くし、答えようにも答えられないように見えた。私はマックスに言われた通りに膝を貸そうとその場に座り込んだ。また蹲ったビルの肩を揺らし、横になるように促す。


「横になった方が良いわ。少し休めば回復するなら、早い方が良いでしょう?」


 ビルは何か言いたげに口を開いたけれど、結局声は出てこなかった。呻き声みたいなものが出ただけで、相当に具合が悪いのだろうと思う。蹲ってそのまま倒れ込みそうなところに私が座ったからビルは抵抗虚しく私の膝に頭を乗せた。


「……そんなに簡単に……男に膝を貸すもんじゃない……」


「え、そ、そうなの? でもマックスが言ったことなのよ。お医者様が」


「適当に決まってる……」


 弱々しい声なのにマックスの指示への不満は漏らすのだから私は困ってしまった。でももう膝は貸してしまったし、地面が固いのは本当だ。畑とは違うからふかふかの土ではない。こんなところで横になっても休まるものも休まらないだろうというのは納得なのだ。


「此処はお互い、観念してこのまま休むというのはどう?」


 ビルは動きたくても動けないのだろうし、私も膝にビルの頭が乗っていて動けない。だからもうこのままでいるしかない、ということを提案したら予想外にビルが息を吐いた。零すように。


「あぁ、仕方ない……」


 ビルはそのまま黙った。一瞬、息を零すビルの唇が笑ったように見えた私は言葉を失い、ビルの顔を凝視した。口はまた真一文字に引き結ばれてしまったから笑ったのかどうなのか分からない。眠っているわけではないだろうけれど、具合が悪い人に話させることはない。マックスが言うには直接訊け、ということだけど。


 訊いたら、ビルは答えるだろうか。伯爵から言うなと言われていれば言わないだろう。でも、それを確かめて私はどうするつもりでいるのか。期待しているのだろうか。伯爵も、皆と同じように“私”を見てくれるんじゃないかと? あの晩以来、顔も合わせない夫が? 偽装結婚の相手の何を見ると言うのだろうか。


「浮かない顔だな」


 悶々と考えていたら顔に出ていたのか、ビルに指摘されて私はハッとした。マックスにも先ほど言われたばかりだと言うのに。また両手で両頬を隠すように覆って、あの、と私は口を開いたけれど言葉は続かない。何を言い訳しようとしたのかも分からなかった。


「此処は、あなたには合わないか……?」


 まだ調子は良くなっていないのだろう。声は苦しそうだった。それでも心配するような問いに私は返す言葉を思いつけなかった。だってそんなの、気にされるなんて考えてもいなかった。


「テレーズとは、いや、それ以外の皆とも上手くやっているように見えたが……無理を……?」


「い、いえ、その、皆良くしてくれるわ。優しくて、良いところだと思う。本当よ。だって私、こんな風に顔を出すなんて思ってもみなかったの。この見た目から気味悪がられていたのに、此処では誰もそんな素振りを見せないんだもの」


 言葉にして、自分でも驚いた。あぁ、そうだ。思ってもみなかった。こんな日々があるなんて、思い描くことさえなかったのに。


「あなたの見た目など気にならないほどのものを見てきた者ばかりだからな」


 ビルは何でもないことのように言った。何でもないことなのかもしれない、と思いそうになるほど平然と。


「あなたが誰かを傷つけようとは思っていないことくらい、見てれば判る。あなたも傷つけられてきた側の人間だ」


「……」


 人間だ、とビルは強調するように言った。さっき施設でマックスが謝罪した時も、人間だから平等に扱えないことはあると答えていた。私にはそれが、ビルの優しさに感じられたのだ。およそ人として扱われなかった子どもを集めたこの場所で、この場所出身のマックスやテレーズにもその言葉は響いたと思うから。そしてそれは、私にも。


「……ソルシエールは多くの人を傷つけてきたわ」


「過去の大戦でだろう。そんなのはこの伯爵家も同じだ。虐げられた人が憤るのは解る。責任を求めたい気持ちも解る。だからといってそれを理由に誰かを虐げて良いことにはならない。充分に償いはした。それなのに未だに、その家に生まれただけの人間が傷つくなんて」


「あなたはそんな風に考えるのね」


 ビルがこんなに話すことに驚いて、そんな風に考えていると知れたことが何だかくすぐったくて、他に何と言って良いかも分からないから私はそう返す。ビルは一瞬口を噤んだけれど、また薄く開いた。


「先代の伯爵は、罪滅ぼしと考えていたようだ。人として扱われない子どもを保護し、助けることを。そうすることで彼の無意識下に植えられた罪の呵責は弱まったんだろう」


 此処の使用人は若い人が多い。誰も彼も地下出身だと言うから、もしかしたらビルもそうなのかもしれない。


「マックスも、イヴォンヌも、テレーズも、此処へ来て助かったって言っているのを聞いたわ。だからもらったものを今度は返すんだって。先代の伯爵が行ったことで救けられたと思う人がいる。罪滅ぼしがきっかけとしても、それで笑顔があるなら素晴らしいことだと思うのだけど」


「皆があなたに、そう話した?」


 意外そうに問われ、そうよ、と私は答える。そうか、とビルは独り言のように零し、頬を緩めた、ように見えた。


「……これは詮索とは違うのだけど、伯爵はどうして私を結婚相手に選んだのか、ビル、聞いてる?」


「……」


 ビルは答えない。訊かなければ良かっただろうか、と思いつつも口に出した言葉は戻らない。


「私なりに考えていた理由はあるけど、でも今の話を聞いたらもしかしてって思ったの。もしかしてヴリュメール伯爵は私のことも子どもたちのように、思ってくれたのかしら。人として扱われないと思って、保護、してくれたのかしら」


 傷つけられてきた側の人間だ、とビルが言ったこと。ヴリュメール伯爵家がもう充分に償ったと思っていること。それはソルシエールも同じだと受け取れるような発言があったこと。それはビルだけの考えかもしれないけれど、伯爵から聞いたことかもしれない。憐れみでも良い。情けをかけられたのでも良い。魔女の万能薬を求められていたとするより、ずっと、そっちの方が。


「此処へ来て色々なことを学んだわ。優しくしてもらうことを知った。向けられる笑顔が嬉しいものだって、このくすぐったさが嬉しいって呼ぶものだって、実感した。たった二ヶ月だけど、此処にきて私きっと、変わった。両親が見たら驚くと思うの。まだまだ教えてもらうことは沢山あるけど、私も此処で、皆みたいに役に立てると嬉しい」


 皆と同じように、人として。人として求められること、できること、それらに応えていって。皆と一緒に笑えたら。


 マックスが教えてくれた、笑うこと。それを思い出して私はまた頬を意識して上げる。勇気を振り絞ってはったりを効かせるための笑顔ではなくて、喜びが伝わるように。


 ビルが微かに息を呑む音がしたような気がした。一息吐いて、ビルが言葉を続ける。


「それは、伯爵にしか分からない。俺が何か言えることじゃない」


 そうね、と私は苦笑した。でも、とビルは小さな声で伯爵は臆病な人だと言った。あの夜に見た姿しか知らないから私こそ何とも言えないけれど、意外な気がした。冷たくて、美しくて、何者も寄せ付けない雰囲気は臆病とは無縁に感じたのだ。


「留守が多いのは子どもたちと向き合う勇気がないからだ。先代のように子どもたちのためになっているか分からないからだ。先代はがむしゃらだった。罪悪感に突き動かされるようにして、それでも一生懸命だった。子どもたちのためになると信じて行動した。今の伯爵にはそれがない。先代の行動をなぞるだけで、志はない。

 あなたとも、向き合えないだけだ。逃げて、不在にしている。先代の功績で素晴らしいものに見えているだけだ。皆、誤解している。持ち上げるほどの人物じゃない」


 自分の主人に対してそんなことを言って大丈夫なのかと思ったけれど、それがビルの本音なのかもしれない。伯爵に助けられたと思っている人には言えないことだろう。私に言うのは、伯爵の意図はそうではないという返答なのかもしれない。思えば伯爵がいる夜は誰もが静かだった。早朝に出かけた後からは使用人の皆は打って変わって明るくなったから、ビルと同じように思っているのだろうか。


 ちょっと複雑な思いはしたけれど、そうなの、と私は尋ねる。そうだ、とビルは答えた。憎悪さえ滲んでいるような声に複雑さは増したけれど、肯定も否定もするには私は伯爵のことを何も知らない。伯爵と関わる勇気がないのは、私も同じだ。


「こんなことを言ったらあなたは私のことも伯爵と同じように思うかもしれないけど、私も、あの人と向き合う勇気はないわ。誰かと向き合うなんて、怖いもの。皆が優しくしてくれるから、少しずつ関われるようにはなったけど、自分の考えていることを言う時はドキドキするし、緊張するし、怖い。私と伯爵、向き合う勇気を持つのはどっちが先かしら」


「……あなただろう。あなたは、強い人だ。たった二ヶ月で変わったなら」


 そんなに時間はかからない、とビルは言う。それは子どもたちの経過を皆で共有する時の感覚に何だか近い気がしたけれど、構わなかった。ビルが私のことを見ていてくれた証拠なのだと思うから。子どもたちに与える影響面で私のことを注視するのは当然だろうけど、私の普段の動向から“できること”を、肯定的な部分を口にしてくれたことが嬉しかったから。


「偽装結婚した相手でも気になる?」


「そりゃ、気になるわ。どうして私の両親を助けてくれたのかとか、訊いてみたいことはあるもの。マックスがね、心配事は直接訊いてみるのも手だって言ってたから──」


 ビルの目元はよく見えない。見えないのに、物凄く視線を感じた気がして私は口を閉じた。なに、と訊いてみたいのに緊張が強くなって声が出ない。あの、と私は思わずビルから目を逸らして言葉を続けた。


「やってみたの。ビルとこんなにお話できると思ってなかった。その、嬉しかった、から。伯爵とも話せるようになるかも、とか」


 思って、と言葉が尻すぼみになっていく。伯爵と話してどうするつもりなのか自分でも分からない。でも両親のことへのお礼は言いたい。こういうのはきっと、直接言った方が良いものだとも思う。


「……俺と……?」


 ビルが呟き、私はまたビルへ視線を戻す。私からビルの目は見えないけれど、ビルは私と目が合ったと思ったのかもしれない。ぐっと顔を向こうへ向けてしまった。くるくるの髪の毛から覗く耳や首が赤くなっているように見えたけれど、血の気が戻ったのだろうか。木陰で風が吹けば涼しいとはいえ気温は高いし、私が風よけになっていてビルは別に涼しくないのかもしれない。あの、大丈夫……? と問い掛ければ、大丈夫だと返された。そのまま私の膝から転がり落ちて起き上がるから、私は座ったまま視線を上げる。


「顔を洗ってくる。あなたは子どもたちのところへ戻ってあげてください。テレーズひとりできっと手一杯だ。オーブも目が覚めたらまたあなたを探す。いてあげてほしい」


 私が頷くのを見届けてからビルは踵を返した。風が吹いてビルの髪を揺らす。そういえば彼はどうして目元を隠すように髪の毛を伸ばすのだろう。私とは違う理由だろうけれど。


 ビルの背中を少しだけ見送って、私はまた地下へ戻っていった。



* * *



「旦那様ですか? あぁ、確かに笑わなくてちょっと取っ付きにくいですよね。でも優しい人ですよ、テレーズ、知ってます!」


「先代が見てた子たちも放り出さずに面倒見たんだ。悪い人じゃないさ。え? 結婚式の夜? あぁ、あれは旦那様の指示だよ。厳かなものなのだから笑い声をあげるなってね。結婚式なんて見るのも聞くのも初めてだけど、子どもたちはケーキが食べられて喜んでたし、きっとそういうもんなんだろうね」


「先代が愛でた庭を何とか維持できないかって打診されて引き受けたんですよぉ。あの時のホッとした顔、本当に心底心配だったんでしょうねぇ。まぁ維持できてるかというと自信はないけど、おれはおれにできることをすれば良いって言ってくれるんでねぇ」


「伯爵ぅ? あぁ、あいつはあいつで思うところあるだろうけど……なんだ、嬢ちゃん、あいつが気になるか」


 マックスにニヤリと笑われ、私は素直に頷いた。あれから一週間が経とうとしている。私は毎日のように誰彼構わず伯爵の印象を尋ねた。最初に詮索するなと言われたけれど、もうそんなものはあってないようなものだ。ビルが切り出したのだから。


「誰に訊いても良い人だって、優しい人だって返ってくるの。でもそうじゃないことを言う人もいるし、私も一度だけお会いしたきりだけどその時の印象とは結びつかなくて……」


 洗濯物を干す仕事をマックスと一緒に手伝いながら、私はマックスから見た伯爵の印象を訊いていた。真っ白なシーツを干しながら、ふぅんとマックスはまたニヤリと笑いながら相槌を返す。


「そうじゃないこと言うやつって、ビルだろ」


「え、あ、そ、その」


「隠さなくて良い。オレとあいつの仲だ。あいつが伯爵に抱いている気持ちも知ってるさ」


 一応はビルのことを伏せておいたけれどマックスにはお見通しのようだ。とはいえ勝手にそうと言うのも憚られるし、違うと否定するのも嘘を吐いていることになる。肯定も否定もしないまま私は俯いた。


「あぁ、知ろうとしてるのか。おーおー、えらいえらい。嬢ちゃんは素直だな」


「あの、子どもたちのことを知ろうとしたら使用人の皆のことも知ることに繋がって、それを見越してそう言ったのでしょう?」


 さぁなぁ、とマックスは笑ってはぐらかした。ぱん、とシーツをひとつ振って皺を伸ばして、隣のシーツと同様に干していく。マックスが認めなくても構わない。私はそう思ったし、マックスに感謝するだけだ。でもまたこうして頼ってしまうのは申し訳ないと思う。


「そうか、嬢ちゃん、其処まで来たか。許可もらってねぇからオレから言えることは全然ねぇが、まぁ、そうだな。知ることができたなら次は想像だ。それを元に想像する。相手の置かれた状況、環境、そういったものから想像するんだ。そいつが、どう思うかってな。オレからやれる情報は二つ。ひとつ、ビルが此処に来たのはオレたちとは違う理由だ。ひとつ、想像してみろ。自分の親が自分以外の子どもを可愛がる姿を。嬢ちゃんにはそれで十分だろ」


 想像、と私は繰り返す。想像は子どもたちのことを知るにも必要になるものだとマックスは笑い、一足先に子どもたちの様子を見に行くと地下へ向かった。オーブはあれから私にべったりになり、離れたがらない。此処へ来た子どもにはあることだとマックスは教えてくれた。満足すれば離れていく。けれど四六時中一緒にはいられないことも理解する必要があるからいつも通り私は外の仕事もしつつ子どもたち会いにくれば良いと言われた。私もこの仕事を終えたら行こう。残りのシーツを干すのを手伝いながらマックスが言ったことを反芻して考えた。


 ビルが此処へ来たのはマックスたちとは違う理由。ということは、彼は地下出身ではない、ということなのだろう。使用人を雇う時に必ずしも奴隷の子どもである必要はない。この家が特殊なだけできっと他の屋敷では子どもの奴隷を使用人にしたり、見世物小屋から買った子どもを医者にしたりはしないのだろう。それが仕事だからビルも子どもたちの面倒を見ているだけで、別にビル自身は何かをしてもらったとか返したいとかは思っていないのかもしれない。


 もうひとつの情報は、伯爵のことだと思った。自分の親が、自分以外の子どもを可愛がる姿。私には兄弟がいないから、両親は私だけを可愛がってくれた。ソルシエールに生まれても私は両親に恵まれていた。愛され、慈しまれ、大切にされた。世間の人には冷たく当たられても家にいれば安心だった。両親が守ってくれていたからだ。だからのんびりと薬草を育てることができた。黒い噂のある人に嫁ぐとしても、そうすることで両親が助かるなら構わなかった。これまで守ってきてくれたことに対する恩返しには全然足りないけれど。


 でももし、両親のその愛情が他の子どもに注がれていたら。両親が保護してきた別の子を、私と同じように愛したら。もしも、“私以上に愛したら”。


「……」


 私は両手で口を覆った。怖い、と思う。想像するだけで怖い。私の両親なのに、と思うだろう。私の両親なのに、子どもの私よりも子どもらしい他の子がいたら。私よりも愛してしまうかもしれない。私よりも両親を喜ばせてあげられるかもしれない。そうしたら私は、要らなくなるかもしれない。


 ──伯爵は臆病な人だ。


 ビルから聞いた言葉が蘇る。そんなの、仕方がないと思った。臆病になっても、仕様がないと。だってこれは、怖いことなのだから。連れてくる子ども、連れてくる子ども、皆が自分の親が助けたいと思った子なのだ。それは紛れもなく、愛、なのだろうから。


 親の愛情が変わることはないのかもしれない。でも、関われる時間は間違いなく、減ってしまうから。一緒にいられたはずの時間が他の子に向くならそれは、寂しいと思うだろう。特に伯爵は先代の遅くにできた子だ。先代と過ごせた時間は限られていた。


 私は洗ったばかりのシーツに顔を押し付けた。目から涙が溢れて止まらない。想像だけでこんなに胸が締め付けられるほど苦しいのに、実際に体験していた伯爵は。それに気づいていたマックスは。お互いに複雑な感情を抱えながら、その間に入っていたビルは。


「……洗ったばかりのシーツに顔を押し付けるな」


「ビル」


 呆れたような声がかけられて私は思わず顔を上げた。ビルは私が泣いているとは思わなかったのか、ギョッとした様子で薄く唇を開く。な、と動揺した声が漏れるのを私の耳は拾った。


「何かあったのか……」


 一応はそう訊いてくれるビルに私は首を振る。何でもないの、と遅れて答えれば、何でもないわけないだろう、と返された。


「……想像したの」


 だから私は正直に話す。でもビルの顔は見ていられなかったから、再びシーツに顔を押し付けて。どうせまた洗うのだから何度涙を拭いたって同じだ。ひんやりとした表面が少しだけ温かく濡れる。


「伯爵のことを想像してみたのよ。同じような他の子がいるのに自分だけ我儘言えないって、マックスは言ったけど、でも、伯爵だってそうだわ。言いたくても、言えなかったと思うの。言ってるならきっともっと、違ったと思うわ」


 少なくともマックスは想像してみろなんて言わなかっただろう。ビルも、臆病だとは思わなかったかもしれない。


「ねぇ、ビル。伯爵のことをあなた、臆病だって言ったわね。そんな甘えたこと、と言われるのかもしれない。でも私、仕方ないと思うの。臆病になっても仕様がないと思うのよ。伯爵だっていきなり大人だったわけじゃないわ。あの人だって子どもだった時期があるんだもの。あなたやマックスがいくつくらいの時に此処へきたのかは知らないけど、伯爵と同じ歳の頃でしょう? 伯爵だってきっと、我儘言えなかったわ。私は両親を独り占めしたけど、伯爵はきっと、できなかったもの。もし先代が平等に子どもたちに接しようとしたなら、自分の子どもにだって特別扱いはしなかったかもしれない。でもそれを、寂しいなんて、言えるわけがなくて、赦されるわけがなかったら」


 私はシーツを強く握りしめる。折角伸ばした皺も意味がない。


「誰かにぶつけて受け止めてもらいたい衝動を出せなかったのは、伯爵もきっと、同じなのよ」


「……だから、伯爵を悪く言うのはやめろと?」


「あなたが言ってくれたように、あの人も人間だって思っても良いんじゃないかって思っただけ」


 ビルは答えない。私は居た堪れなくなって、シーツを剥がすともう一度洗ってくるとビルに背を向けた。


「伯爵に、伝えておく。あなたがそう、想ってくれたこと」


 いるのか、と思ったけれど私はただ頷くだけにした。泣き顔を見られるのは少し恥ずかしかった。


 その後イヴォンヌに洗濯をもう一度頼み、顔を洗って子どもたちのところへ向かった。マックスは私が泣いたことには気づいていたようだけど何も言わなかった。ビルも私がきたのをちらりと確認したくらいで話しかけてくることはない。


 今日はトマがポプリ作りに必要な乾燥済みの花を持ってきてくれていたから、全員でポプリ作りだ。私は今日もべったりのオーブと一緒に過ごし、オーブが安心するよう努めた。安心すれば自然と離れる。その時は私の方が寂しくなっているとマックスに言われたけれど、今のところはまだ全然離れる気配がないからまだまだ安心していない、ということなのだろうと思う。


「またくるわ、オーブ。明日、また」


 帰る時に毎日恒例になっているオーブが私に抱きついて離れない時間も、ゆっくり頭を撫でて優しく言い聞かせる。初めのうちは私たちのそのやり取りを見て真似したがった子もいたけれど、日が経てば満足したのか数は減った。オーブだけがずっとこうだ。根気強く関われとマックスには言われているから、私は決めた時間がくるまでオーブの好きにさせる。


「さぁ、オーブ。時間だから私、帰らなくちゃ。また明日くるわ」


 いつもはそう言っても離れないオーブが、今日は寂しそうな表情は浮かべたままにそれでも物分かり良く離れた。少し意外に感じたし予想外のことに驚いたけれど、私は微笑んでまた明日ね、と部屋を後にした。


「動き出したな。まだ何度かべったりも繰り返すだろうけどな、嬢ちゃんが約束通りにきてくれるからあいつも約束を信じられるようになってきたってことだ。そうすると次にくるのは、自分も約束を守ろうっていう気持ちだ。日々成長してるんだな、あいつも。もうべったりしてこなくなっても寂しくなるなよ、嬢ちゃん」


 マックスやビルと部屋を出て少し進んだところでマックスが私に話しかけた。私は自分の両手を見る。先ほどまでオーブの頭を撫でていた両手だ。まだその感触が残っている。


「……自信ないわ。これが寂しいってことなの?」


 オーブが素直に離れたことを意外に思った。驚きに塗りつぶされてしまったけれど、その中には寂しさも紛れているのだと気づいて私はマックスを見上げる。マックスは優しい目を私に向けた。


「あいつ、可愛いもんな。嬢ちゃんには元から懐いてる方だったし今じゃべったりだ。でもな嬢ちゃん、あいつにはあいつの人生がある。可愛いから、ずっと可愛がりたいからで手元には置いておけねぇ。解るな?」


 自分の気持ちだけでそうはできないことは解るから、私は頷いた。


「まぁオーブの方も嬢ちゃんを気に入ったまま、っつう可能性はあるわけだが。これから成長して立派な青年になっても嬢ちゃんを好きなままってことも有り得る」


「え?」


 きょとんとする私に、母親を重ねてるから有り得ないって思うか、とマックスは口角を上げて問うた。私は意味がよく分からなくて首を傾げた。


「母親を重ねてても嬢ちゃんとオーブなら精々が姉弟って歳の差だろ。憧れのお姉さんってのは男の心の中に残り続けるもんなんだよ、嬢ちゃん。オレが親しみやすいマックス先生で、おしゃまな少女の初恋を奪ってるのと同じでな」


「え? え?」


 意味が分からなくて困惑する私にマックスはにっかと笑った。説明する気はなさそうだ。その目が一瞬だけ私から離れて後ろを歩くビルに向けられたような気がしたけれど、また怒られない境界線を探っているのだろうと思う。


「成就するしないは関係ない。大事なのは、誰かを好きになることができる自分に気づくことだ。そういう意味でチビどもに憧れを向けられて初恋を奪っていくのは悪いことじゃねぇからな。此処で誰かを好きになれるなら、外に出たって誰かを好きになれる。別に此処で好きになれる人がいなくたって外は広い。いずれ出会うだろうさ。大切なのは誰かを好きになる土壌を育てておくってことだからな。固い土に種を植えようと思っても難しいの、嬢ちゃんなら分かるだろ?」


「ま、まずは土を掘り返してふかふかにしておく、ってこと?」


 そーいうこと、とマックスは笑って答えた。この答えが合っているのか、合っていたとして何を指しているのか私にはよく分からなかったけれど、大切なことだとマックスが言うならそうなのだろうと思った。マックスも私の先生だ。テレーズが行動で教えてくれる先生なら、マックスは理屈を教えてくれる先生だ。


「もう植える種は決まってんだ。耕すのにどれだけの時間がかかっても良い。芽吹きさえすりゃ育てるだけだ。その育つ花の名前も決まってんだからな」


 でもまぁ、とマックスは悪巧みを考えている時の顔で笑った。ニヤリと笑った目はまた、ビルに一瞬向いた。


「何が芽吹くかは種次第だからな。どの芽が先に出るかは早い者勝ちだ」


 種の? と私は益々首を傾げたけれど、マックスは楽しそうに笑うだけだった。


「それじゃオレ、街の方に買い出しに行ってくるわ」


 階段を登って外へ出るとマックスはそう言って手をひらひらと振ると、ふらりと街の方へ歩き出した。ビルと一緒に取り残された私はさっきのこともあって少し気まずい。お庭の様子でも見るから此処で、と言おうとして振り返った私はビルがじっとこちらを向いていることに気がついて目を丸くした。


「……さっきの」


 ビルが口を開く。さっきの、とはいつのことを指しているのか分からず私は返事をし損ねた。


「伯爵に伝えたら、今夜、あなたに会いたいと言っていた。向き合う勇気を少し、出したのだと思う。その、会ってもらえるだろうか」


 シーツを干していた時の、私も思い起こしていたことを指していると気づく。伯爵に伝えておくとビルが言ったことを思い出し、私はまた目を丸くした。口を開くけれど言葉も声も出てこない。ぱくぱくと口を開け閉めする私をビルはどう思うだろう。


「今回のことだけじゃない。どうして伯爵があなたを選んだのか、知りたがっていることも前に伝えた。伯爵も、覚悟を決めたのだと思う」


 いつになく真に迫った様子のビルに押され、私は分かったと頷いていた。私の覚悟は全然決まっていない。想像しただけで会うなんてこと、考えてもいなかった。会いたいと言ってくることも予想していなかった。でももし、ビルがそんなに真剣に尋ねるのが伯爵のためなら、伯爵とビルの間で何かがあったなら、私の準備ができていないからと断って良いとは思えなかったのだ。伯爵の出した勇気とやらも無碍にしてしまうことになる気がした。


 良かった、とビルがほっとしたように肩の力を抜くのを見て、ビルも緊張したりしたのだろうかと思う。私が承諾するか分からなかったのかもしれない。もしくは、伯爵の勇気が無駄にならなくて良かったと、ビルも思ったのかもしれない。


「それじゃ今夜。伯爵に伝えておく」


 ビルはそう言うと自分の仕事のために私をその場に残して行ってしまった。私はビルの背中を見送り、混乱した頭で今起きたことを整理する。何度考えても今夜伯爵と会うことの了承をした事実は変わらず、時間までに覚悟を決めなければならないことを示していた。


「て、テレーズ……!」


 私は頼りのテレーズを探して泣きついた。わぁ、とテレーズは嬉しそうに笑うとすぐにお風呂にしましょうと私を浴室に連れて行き、頭の天辺から足の爪先まで綺麗に洗ってくれる。ポプリ作りには多いからと余った花をいくつか湯船に浮かべてリラックスする香りに包まれるも、私は混乱したままされるがままになっていた。


「ど、どうしてお風呂に入れたの……?」


 髪の毛の水分をタオルで取ってくれるテレーズに、やっと我に返った私は尋ねる。温かいお湯は体を解してくれたけれど混乱を取り除いてはくれなかった。夕食前の私が着るドレスを選びながらテレーズはきょとんとして私を向く。


「え? 旦那様がジゼル奥様にお逢いになりたいって言ったんですよね? それってつまり、そういうことだとテレーズは思います! ドレスアップしましょうね、ジゼル奥様!」


 そういうこと? そういうことってなに? まさか、まさか初夜? 初夜がくるの? 急に? ど、どうしよう、どうしたら良いんだろう。結局二ヶ月此処にいても妻としての役割を求められなかったし偽装結婚だと聞いていたからそんなこと起こるはずがないとたかを括っていた。話すだけじゃなくていきなり初夜がきてしまったらどうしたら良いんだろう。


「あ、あの、でもテレーズ、私、どうしたら……」


 泣きそうになりながら尋ねたら、お任せ下さい! とテレーズの力強い返答があった。けれどそれは私を着飾るための自信に漲っているようだ。


「もしかしたら夕食からご一緒されるかもしれませんから! テレーズに任せてください!」


「あ、え、そういうことじゃ……」


 テレーズには聞き入れてもらえず、私はテレーズの手で舞踏会にでも出るのかという勢いでおめかしされた。夕食には当然伯爵はおらず、場違いで居た堪れなくなる。張り切って準備した人みたいに見えないだろうか。恥ずかしい。一応は皆、気を遣ってお綺麗ですねと褒めてくれたけれど。テレーズが張り切ってくれたのと私もテレーズに責任をちょっと持ってもらったけれど。ビルが何も言わず無言でこちらを向いていたのが心苦しかった。どうしよう、張り切ってましたよと報告されたら。違うのに。これじゃ伯爵と会うのに浮かれているみたいに見えるんじゃないだろうか。違うの。


「旦那様、夕食にはいらっしゃいませんでしたね……テレーズ、残念です」


 しょんぼりとしてテレーズは私のドレスを脱がし、ナイトドレスに替えてくれる。元々そういうのじゃないのよ、と言いたかったけれどテレーズのあまりのしょんぼり具合に私は何も言えず、残念ねと同調することしかできなかった。


「でもこれなら! ジゼル奥様の可憐さを引き立てるドレスですから! 奥様、旦那様のこと、よろしくお願いしますね」


「え、ちょっとテレーズ……」


 テレーズはドレスの良さを力説し、勝手に私に伯爵を託し、灯りを絞ると退室してしまった。残された私はひとりどうしたら良いか分からずにうろうろする。こんな薄暗い部屋でこんな格好で出迎えたらそれこそ初夜を意識していると思われないだろうか。そもそも、はしたなくないだろうか。話をするだけのつもりでいるかもしれないのに。


 でも私がひとりで着られるようなドレスはない。テレーズの手が必要だ。せめてとガウンを羽織ってみたけれど暑い。夏の夜とはいえこんなものを羽織っていたらすぐに汗ばんでしまう。


「うぅ……」


 私はバルコニーの窓を開けた。夜風が首筋や素足をくすぐっていって涼しい。空には綺麗な満月がぷかりと浮かんでいて、バルコニーを丁度照らしていた。トマが手入れする庭に面した部屋なのは、伯爵なりの心遣いなのだろうか。それともたまたま空いていた客間が此処だった、というだけかもしれないけれど。


 こんこん、と扉がノックされたのはその時だった。私は飛び上がる。テレーズならノックの後にすぐ名乗る。けれど今回はそれがない。とするならテレーズではないのだ。今夜此処を訪れる予定があるのは伯爵だけだ。遂にきてしまった。


 私は後ずさる。そんなことをしてもどうにもならないのは分かっているのに、扉から距離を取りたくて仕方がなかった。バルコニーの手すりに腰が当たって、行き止まったことを知る。咄嗟に階下を振り向いて、此処が三階であることに絶望した。行き場所がない。逃げ場所がない。


 でも下の部屋が同じようにバルコニーになっていることを私は思い出した。庭から部屋を見た時に同じような部屋が並んでいるのだなと見ていたのだ。バルコニーの柵をぎりぎりまで掴んで足を下ろせば、下の部屋に移動できるのでは。誰の部屋だったか覚えていないけれど、同じ間取りの客間なら使用人は使っていないだろう。


 私の覚悟は全然決まっていなかったのだ。伯爵は決まっても、私は、全然。だから私が取った行動は、逃げることだった。


 ノックは続く。控えめに、けれどいつまでも私が開けないことを疑問に思ったのか何度も。承諾したくせに土壇場になって逃げだす私を伯爵はどう思うだろうか。ビルは、がっかりするだろうか。折角勇気を出したのにと悲しむだろうか。


 私はバルコニーを乗り越え、柵の向こうに足をかけながら降りるのを躊躇した。折角出した勇気を私が無碍にして良いのか。私が出した勇気を此処の人たちは受け止めてくれた。同じようになりたいと思ったのに、勇気を出した伯爵を受け止めず、私は逃げ出すのか。受け止めてもらえて私は変われたのに、変わろうとしているかもしれない伯爵を、私は拒むのだろうか。


 戻ろう、と手すりに力を込めたのと、ドアが遠慮がちに開いたのは同時だった。廊下の灯りが薄暗い部屋に差し込んで、長い影が伸びた。覗き込んできたのは結婚式に見た以来の冷たい美しさをたたえた──。


「伯爵……?」


 痺れを切らして扉を開けたのだろう。伯爵は開いた窓の向こう、あまつさえバルコニーの柵の向こう側に足を下ろした私を見てどう思ったのだろうか。一瞬、立ち尽くしたように見えた。それから次いで、口が開く。焦ったように目も見開かれていた。


「ジゼル……!」


 慌てた様子で駆け込んでくるのを私は目を丸くしたまま見つめていた。競走馬のような伯爵の長い脚は広い部屋を突っ切ってバルコニーへ辿り着き、手すりについている私の腕を掴む。


「何をしてるんだ!」


 伯爵がこんな風に焦るところも、大声を出すところも想像もしていなかった。驚いているうちに片腕をひょいと伸ばし、伯爵は私の腰に触れる。そのまま抱え込まれて私は柵を越えてバルコニーへ戻った。数歩下がる伯爵に引っ張られて部屋の方へ戻り、けれど辿り着く前にそのままその場に腰を下ろした。バルコニーの固い床に腰が抜けたように座り込む伯爵が掴んだ腕と抱えた腰を離さないから私も彼の上に倒れ込む。彼の膝の間に私の両膝が入り、そのままぎゅうと体の骨が折れそうなほど強く抱きしめられた。彼のシャツに顔を押し付け、私は息ができなくなる。


「はくしゃ……ウィリアム様……?」


「はぁ……」


 震えた息が上から降ってきて私は視線を上げようとした。けれど伯爵の力が強くて上げられない。その腕も震えていることに気がついて私は内心で首を傾げた。


「教えてくれ、何をしてた……」


 声も震えている。あの、と私は口を開く。逃げようとしてなんて言ったらどう思われるか分からない。咄嗟に嘘を吐くことにした。


「う、運動、を……?」


「あなたは夜な夜なバルコニーの向こう側で運動をするのか?」


「わ、我が家に代々伝わる運動で……」


「あなたの実家にバルコニーはなかったと記憶しているが」


 言い当てられて私は言葉に詰まった。確かに私の生家にバルコニーはない。でも。


「どうして知ってるの……?」


 今度は伯爵が言葉に詰まった。はぁ、とまた息を吐いてから彼は息を吸う。腕の力が緩まないから彼の胸に顔を押し付けている私のくっつけた耳に彼の速い鼓動が聞こえてきた。


「ヴリュメールと同じく悪く言われている家が気になって見に行ったことがある」


「え、知りませんでした」


「様子を窺いに行っただけだ。あなたのご両親にも報せなかった」


 お忍びでくるような場所でもないのだけど、大したおもてなしもできないからこられても困っただろう。


「どうして自分が選ばれたのか、知りたがっていたな」


 問われて私は頷いた。ビルから聞いたのだろう。でも伯爵はその後言い淀むように言葉を切り、言いづらそうに声を出した。


「理由はない、と言ったら、あなたはどう思う」


「理由はない……? ソルシエールの薬が欲しかったのでもなく……?」


 そうだ、と伯爵は肯定した。そういうこともあるのか、と私は思う。だって会ったこともないのに変だと思ったのだ。ガタガタに傾いた我が家に財産もない。私自身が魅力的なわけでもない。気味悪がられ、忌避されてきた。私を欲しがるわけがないのだ。だから可能性があるとしたらソルシエールの、魔女の薬が欲しかったのかと思ったのに、それも違うと伯爵は言う。


「別に誰でも良かった。誰を迎えても偽装結婚なのだからと。地下に行かせるつもりもなかったから愛情深くなくても良かった。でも、そうだな、指示に従順に従ってくれそうな女性であればとは、思った」


 借金を抱えていて、肩代わりするから娘を妻にと望めば恩からそうそう反抗的な態度には出まいと思って我が家に白羽の矢が立っただけなのだと知って私は思わず笑ってしまった。不愉快だったか、と伯爵には言われたけれど、いいえ、と首を振って否定する。


「凄い偶然と思っただけです。偶然我が家が選ばれて、偶然オーブとマックスに出会って、偶然地下に行ってしまって。ウィリアム様の指示、破ってしまいました。でも不可抗力なんです。だからビルのこと、叱らないであげてください」


 やや間があって、あぁ、と伯爵は頷いた。


「ビル、ウィリアム様のこと一生懸命に考えているんです。マックスも、テレーズも、イヴォンヌも、トマも。此処の皆が皆、あなたのことを優しいって言っていました。私はまだ、ウィリアム様のことを全然知りませんけど、でも皆のことはこの二ヶ月で少し知りました。その皆が優しいって言うなら、そうなんだろうって思います」


「……そうは言わない者もいたはずだが」


 ビルの名前は出ないけれど、マックスも知っていたことだ。伯爵自身が知っていてもおかしくはない。はい、と私は頷いた。


「でもその人から聞いたから、勇気を出してくださったんでしょう? その人、言ってました。向き合う勇気を少し出したんだろうって。覚悟を決めたんだろうって。だから私に会いたいと仰ってるって」


「きてみたらあなたは運動とやらをしていて肝が冷えた」


 すみません、と私は苦笑した。伯爵は息を吸って、思い切ったように言う。


「あなたの言葉が、嬉しかった。だから会って直接言わなくてはと思った」


「──」


 嬉しかった、と言われて私は驚く。言葉が出てこなかった。


「誰にも言えなかったことを受け止めてもらったように感じた。誰にも言えなかったのに、だ。弱くて、臆病な自分が、赦された気がした。仕方ないと、仕様がないと、誰かに言って欲しかったんだ。肯定して欲しかった」


 そうすればまた進める気がした、と伯爵は続ける。


「他の誰かじゃ駄目だった。それは憐憫であり、慰めであり、赦しではなかった。でもあなたは、辿り着いてくれた。同じ気持ちになり、泣いてくれた」


「わ、私ひとりじゃできませんでした。マックスが教えてくれたんです。想像してみろって。あなたの境遇を想像してみると良いって。だからこれは、マックスの思いやりでもあるんです。マックスも気づいていたんです。あなたの気持ちに。だけどやっぱり、あなたが言ったように彼らじゃ届かなかったんでしょう。だから私に、託してくれたんです」


 恐らくは、テレーズも。イヴォンヌやトマも。気づいていた。同じ環境で育ってきた子どもたちだから、けれど違う条件にいる子どもだったから、言えなかった。それが益々伯爵を傷つけると解っていたから。ビルは伯爵へ複雑な感情を向けていたから、掬い上げることができなかった。皆が皆、傷ついていることに気づきながら何もできずにいたのだ。


「私も、あなたに直接お礼が言いたかったんです。目的は別にあったとしても、私の両親を助けてくれたのはあなたです。それからこれもビルから聞いてるかもしれませんけど、庭のひと区画、私に解放してくださってありがとうございます。テレーズを私の侍女にしてくれたことも。テレーズのおかげで私、此処にいられると思ってます。時々ちょっと予想外の方に張り切っちゃうことがありますけど」


 言ってから私は自分の格好を思い出した。ガウンを羽織ってはいるけれどこの下はナイトドレスだ。初夜を意識してますと言わんばかりの。ひっ、と息を呑んで固まった私をどう思ったのか、伯爵は困惑した声でまだ気づかないのかと言った。聞き間違えたかと思って私は首を傾げる。腕の力を緩めて伯爵は私を離した。私はさりげなくガウンの前を合わせながら伯爵と正面から向かい合う。


「別に声は意識して変えてないんだが」


「?」


 見覚えがないかと問われて私は首を傾げる。自分の格好が気になって正直言って伯爵が何を言っているのかよく分からない。首を傾げていたら、はぁ、と伯爵は息を吐いて前髪をわしゃわしゃと崩した。結婚式の夜のように後ろになでつけていた伯爵の髪が解ける。月の光を浴びながら目の前でくるくるの髪の毛がぴょこん、と出てきたのを見て、あ、と私は声をあげた。


「ビル……? え、でも、え……?」


 目の前の伯爵がビルの面影を宿して私は混乱した。


「ふ、双子、ですか……?」


「違う」


 固めていたせいか髪の毛は元通りにはならず、ビルにも伯爵にも見える人が目の前に現れていた。私がなんとか絞り出した答えをにべもなく否定し、その人は呆れたように息を吐く。声は確かに、ビルのような、伯爵のような、わ、分からない。


「ヴリュメール伯爵の名前は?」


「ウィ、ウィリアム様……」


「ウィリアムの愛称は?」


「ウィル、ビル……え、ビル……?」


 え、と混乱する私にそういうことだと目の前の人は言った。何がそういうことなのか私は全く分からず、え、え、と混乱した声を出すことしかできない。


「あなたが普段話していたビルは俺だし、俺は伯爵でもある」


「な、なん……?」


 なんで、と訊きたかったのに言葉が途中で途切れた。騙していたわけではない、と彼は言う。でも黙ってはいたと。


「伯爵として在るには、勇気がなかった。子どもたちの前に伯爵として現れることもできなかった。ビルとして皆と同じに紛れている方が気が楽だった。皆とはそう過ごしてきたせいだろうな。でも、先代が亡くなって伯爵の地位を継いでからはそうもいかない。伯爵としての仕事をしなくてはならない時はウィリアムに戻る」


 あなたの前にも出る勇気がなかった、と彼は言う。その頬が緊張しているように見えて、私は気づく。あぁ、怖いんだ、と思った。伯爵として在ることも、臆病と称する自分を誰かの前に晒すことも、更にそれを、自分で言葉にすることも。どう思うだろう、と私も思った。自分の弱い部分を誰かに見せることに、不安が伴わないわけがない。それならどうして彼は、私に見せてくれたのだろう。


 私に受け止めて欲しいと、願っているのだとしたら。


「今は、どちらですか?」


 意識して頬を上げ、微笑んで私は尋ねた。彼の表情が泣きそうに歪んだように見えた。分からない、とか細い声が答える。


「ウィリアムとして訪れたつもりだ。でも、ビルとしてあなたと接していた部分が、出てくる」


「それはいけないことですか?」


「……分からない。明かしたことがない」


 彼は目を伏せた。長い睫毛が落とす影が月明かりに伸びる。不安に彩られた表情が幼い子どものように見えた。子どもの頃の自分を置き去りにしたまま大人になってしまったように見えた。


「どうして私に明かしてくださったんでしょうか」


 更に彼の目が伏せられ、言いづらそうに口を引き結んだ。真一文字のそれはビルがする仕草そのもので、本当にビルなんだなぁと私は思う。あの隠された目元ではいつも、こんな風な表情を浮かべていたのかもしれない。自信のなさが目を隠していたのだろうか。私が、そうだったように。


「……マックスに、焚き付けられた。あなたを望む者が今後出るかもしれない。その時あなたは、その人物に心を動かされるかもしれない。これは、偽装結婚だから。自由にして良いと言ったのは、俺だ」


「私を? ソルシエールの私をですか?」


 有り得ないと思って確認したら、彼は私を見た。真っ直ぐに向けられた視線は信じて疑っていない様子で、有り得ないと思った私の確信を揺らがそうとしているようだ。


「此処ではあなたがソルシエールであることを気にする人間はひとりもいない。あなただけだ」


 それに、と彼は言葉を続けながらまた目を伏せた。続けた言葉は歯切れ悪く、言い淀んでいる。


「偽装結婚とはいえあなたはもう、ヴリュメールの人間だ。ソルシエールより悪名高いヴリュメールになった。でもそれは本当に形式上のことだ。あなたの心までヴリュメールのものになったわけではない。いつかあなたに、種が芽吹いた時、育つその花が例えば今面倒を見ている子どもたちの中から、ということは有り得る話だ。俺はそれが、我慢ならない」


 我慢ならないとはどういうことか。私がその意味を理解するより先に彼は目を上げてまた私を真っ直ぐに見た。今夜会ってくれないかとビルに告げられた時の真剣な色が見えて私は息を呑む。


「笑ってくれて構わない。俺はあなたを、手放したくない。元々この手にあるわけじゃないのに何を言っているのかとは思うが、有り体に言えばあなたが欲しい。誰にも渡したくない。あなたが、好きだ」


 私はまた目を見開いた。言われた言葉の意味がすぐには理解できなかった。


「あなたに想いを伝えるのに何もかもを隠したままではいけないと思った。だから話した……これはビルでもあり、ウィリアムでもある俺の、気持ちだ。あなたの変わっていく姿、子どもたちと関わる時の柔らかさ、ビルに向けた笑顔、ウィリアムに向けた優しさ、そういうものを俺はずっと見ていた。それらが心に届く度、あなたの温かさに心が(ほど)けた。あなたに惹かれた。あなたは強い人だ。もう色の違う目を隠さないし、いずれはソルシエールの血を引くことも乗り越えるだろう。俺も、あなたのようになりたい。あなたと、歩きたい」


「わた、し……」


 真っ直ぐに向けられたその想いに私から零れたのは言葉より先に涙だった。慌てて俯いて拭って、私はまた顔を上げる。涙を零した私をどう思ったのか、彼は不安そうだ。だから私は微笑んでみせる。


「私、私も、此処の皆のようになりたいって思いました。その私を見てあなたが同じように思ってくれたなら、嬉しいです。

 私、伯爵のことも、ビルのことも、最初は怖かったんです。だってあなた、全然笑わないし、ぶっきらぼうだし、仏頂面だし。でも、怖がっていただけだったんですね。私と同じ。でも、ねぇ、ビル。覚えてるかしら。木陰で休んで一緒に話した時のこと。あなたと初めて真面に話せたと思った時。あの時、あなた、私のことを見ていてくれるのが分かる話ぶりだったわ。私の“できること”を、肯定的な部分を口にしてくれたこと、嬉しかったのよ」


 私は彼の手を取った。大きな手だった。子どもたちの面倒を見て、オーブの脱走を二回も許して、その度に心配して追いかけて。誰かを思いやれる、優しい手。マックスたちと同じように育まれた誰かを想う気持ち。


「気づいていないだけであなたももう、できるのよ。あなたも強い人。弱い部分を抱えながら、それから逃げながら、でも向き合う勇気を持てる人。ありがとう、ビル。そしておかえりなさい、ウィリアム様」


「──っ」


 彼の目が見開かれる。私はまた微笑んでおかえりなさい、と口にした。


「好きな時に好きなようにビルでもウィリアム様でもなれば良いんです。あなたがあなたであることは変わりません。私がジゼル奥様だったりジゼルお姉さんだったりするのと同じようなものです。

 ご挨拶が遅くなりましたね。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」


「……あぁ」


 短い返答は相変わらずだった。けれど伸びてきた腕に包まれて、私もおずおずと彼の背に腕を回す。オーブにしたように、流石に頭に手は届かないからその背をさすった。驚いたように震えた背中から力が抜けていくのを感じて私は目を閉じる。


 どうか、不安に揺れる夜がこの人から減りますように。どうか、私に降りかかった偶然が繋いだ道が、幸福へ続いていますように。


「……あなたからは花の匂いがするんだな」


「え、そ、それはあの、お風呂にポプリ作りに使わなかった花を浮かべたせい……」


 は、と思い出して私は体温が上がるのを感じた。こんな大胆な。はしたない。初夜。色んな気持ちと単語が頭の中でぐるぐると回ってどうすれば良いか分からない。すん、と首元の匂いを嗅がれてひゃあ、と変な声が出た。


「あぁ、よく眠れそうだ。何もしない。このまま、あなたを抱きしめて寝ても……?」


「う、うぅ……? あの、ええと、はい……?」


 くす、と笑う音が零れる。そのまま抱き上げられて部屋に戻る間も頭の中がぐるぐるしていて自分がなんと答えたのか分からなかった。


「起きたら、どうか真っ先に思い浮かんだ方の名前で呼んでほしい。ジゼル、あなたが呼んだ名前で一日過ごそう」


 それにもなんと答えたか分からないまま、ベッドに下ろされて優しく包まれる。心臓が胸を突き破って出てきそうだったけれど、安心したような寝息が聞こえてきてからは私もそれにつられて微睡んだ。起きた後のことは明日の私に任せよう。


 そう思って私も同じ寝息に呼吸を合わせ、同じ夢に溶けていったのだった。






えらい時間が空いてしまいましたが、後編書き上がりました!

3万字超えそうとか言ってたのが昨日の日付こえるくらいだったんですが、書き上げてみたら3万字はとっくに軽々飛び越えてましたね! 後編ってなんだっけ⁉︎ ボリュームの差エグいな!

それでも最後まで読んでくださったあなた様! ありがとうございます! 嬉しい!


こちらは『恋愛共通プロット企画』参加作品で、遥彼方様のプロットから膨らませたお話です!

この企画、つまりは同じプロットでどんな話ができるのか? が楽しめるので是非にね! 他の方の作品もね! 読んでいただきたく! 私も読みたい! 引っ張られると思ってまだ読んでないんですよ! 

同じプロットで設定も始まりも終わりも大体決まってるのに違うお話になる(はずな)の、そこにオリジナリティが現れるのが面白いと思うんですよね! 書いていてどうしてそういう行動を取るのかとか、どんな性格なのかとか、考えていって自分なりの解釈で整合性を取っていく過程が個人的には堪らなく楽しかったです!

まぁ詰め込みすぎてえらい長くなってしまったんですが…プロットがはちゃめちゃに面白いので楽しんでいただけるかと思います! そうじゃなかったらそれは偏に作者の力量不足なのでね! お許しください!

でもめちゃくちゃに楽しかったです! 一ヶ月近くかかって大遅刻申し訳ないです! でもありがとうございました!!


2022/07/18の夜:誤字ら召喚してたのでこっそり修正しときました!いやーね!お洗濯を選択させてましたよ!

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[良い点] 完結おめでとうございます!! すごーく面白かったです!! ジゼルもビルも、お互いに不器用で抱えているものがあって、でもそれを自分なりに乗り越えようとしていて、読みながらめちゃ応援してまし…
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